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神も仏も名無しさん
仏教の教えや輪廻転生に詳しいやつ教えてくれ
【テーラワーダ仏教】ブッダの教えと冥想の実践14

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仏教の教えや輪廻転生に詳しいやつ教えてくれ
175 :神も仏も名無しさん[]:2018/12/06(木) 00:48:25.31 ID:LEQXS5IL
世尊よ。生と死の繰り返し(輪廻)は、如来蔵によるものです。如来蔵が、[生 と死の繰り返しの]本初であり、不可知とされるからです。
世尊よ。『如来蔵』が 生と死の繰り返しであると説明するのは、適切です。
世尊よ。生と死の繰り返しとは、 感覚器官と、続いて起こるべき、まだ経験されない感覚(器官)の消滅です。
これが生と死の繰り返しと呼ばれます。

世尊よ。生と死という、これら二つの事象は、如来蔵に他なりません。
世俗的な 世界では、慣習として、『生がある』、『死がある』と言います。
『死』は諸感覚器官 が消滅することです。『生』は新たな諸感覚器官が生起することです。
如来蔵(それ自体)には、生も死もありません。如来蔵は、他によるあり方(有為相) から離れています。如来蔵は常住で不変です。
したがって、如来蔵はよりどころで あり、支えとなり、基礎をなすものです。
世尊よ。如来蔵は、はかりしれないブッ ダの法から、離れたものではなく、断絶することなく、切り離されることなく、異 なるものでもありません。
世尊よ。他による事象(有為法)はブッダの法とは断絶し、 離れていて、異なるものですが、
それらの事象のよりどころであり、支えであり、 基礎をなすもの[もまた]、如来蔵です。

(勝鬘経)
仏教の教えや輪廻転生に詳しいやつ教えてくれ
176 :神も仏も名無しさん[]:2018/12/06(木) 00:53:31.82 ID:LEQXS5IL
世尊よ。如来蔵は法の蔵であり、法身の蔵であり、世俗を超越する蔵であり、本来的に清浄な蔵です。
この本来的に清浄な如来蔵は、外部から心に付着する煩悩(客塵煩悩)と、他の現在に勢力ある煩悩(上煩悩)に汚されることのない、如来のはかりしれない境地です。
なぜでしょうか。
善い心は、瞬間的に存在し、煩悩に汚されません。悪い心もまた、瞬間的に存在し、煩悩に汚されません。煩悩は心に影響を及ぼしません。また、心は煩悩に影響を及ぼすことがありません。
では、本来的に他から影響を受けない心は、どのようにして汚されるのでしょうか。
世尊よ。煩悩は存在し、汚された心も存在します。
本来的に清浄である心に煩悩が存在するという事実は、理解し難いものです。
真理の眼と真理の智慧を持ち、法の源泉であり、法を熟知し、真実の法のよりどころであるブッダのみが、この真理を理解することができるのです。」

勝鬘夫人が[本来的に清浄な心にある煩悩を]理解することの難しさを説明すると、ブッダは大きな喜びとともに、彼女を賞賛しました。
【テーラワーダ仏教】ブッダの教えと冥想の実践14
913 :神も仏も名無しさん[]:2018/12/06(木) 01:04:07.29 ID:LEQXS5IL
>>912
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仏教の教えや輪廻転生に詳しいやつ教えてくれ
177 :神も仏も名無しさん[]:2018/12/06(木) 01:43:02.32 ID:LEQXS5IL
善意菩薩(ぜんいぼさつ)が言います、
「「輪廻転生」と「涅槃」、この2つこそが最も根本的な対立です。
そこを突きつめて研究した結果、私は「「生」と「死」は、実は同じものであり、かつ、存在するのでも存在しないのでもない」ということを知りました。
言い換えれば「生死の区別は存在しない」ということです。
「生死が存在しない」以上、「煩悩の束縛」も「解脱」も有り得ません。
つまり、「輪廻転生」を脱した時、「涅槃」の境地もまた消滅するのです。
これを不二法門に入るといいます」

(維摩経)
仏教の教えや輪廻転生に詳しいやつ教えてくれ
182 :神も仏も名無しさん[]:2018/12/06(木) 20:58:47.82 ID:LEQXS5IL
>>179
生死即涅槃というありがたい教えです

龍樹も中論25章において

19 輪廻は涅槃といかなる違いもなく、涅槃は輪廻といかなる違いもない。

20 涅槃の完全なるものとは輪廻の完全なるものと同じだ。両者の間には極微細な違いさえない。

と述べています
仏教の教えや輪廻転生に詳しいやつ教えてくれ
189 :神も仏も名無しさん[]:2018/12/06(木) 22:49:46.58 ID:LEQXS5IL
中論第25章 ニルヴァーナの考察

【反対者いわく】
一 もしもこの一切のものが空(J註:=無)であるならば、【何ものかが】生起することも無く、また消滅することも無い【筈である】。何ものを断ずるが故に、また何ものを滅するが故に、ニルヴァーナ(涅槃)が得られると考えるのか。

【中観派が答えていわく】
二 もしもこの一切のものが不空(J註:無or有)であるならば、【何ものかが】生起することも無いし、また消滅することもない【筈である】。何ものを断ずるが故に、また何ものを滅するが故に、ニルヴァーナが得られると考えるのか。

三 捨てられることなく、【あらたに】得ることもなく、不断、不常、不滅、不生である。―――これがニルヴァーナであると説かれる。

四 まず、ニルヴァーナは有(存在するもの)ではない。
  【もしそうではなくて、ニルヴァーナが有であるならば、ニルヴァーナは】老いて死するという特質を持っているということになってしまうだろう。何となれば、老いて死するという特質を離れては、有(存在するもの)は存在しないからである。

五 また、もしもニルヴァーナが有(存在するもの)であるならば、ニルヴァーナはつくられたもの(有為)となるであろう。何となれば無為である有は決してどこにも存在しないからである。

六 また、もしもニルヴァーナが有(存在するもの)であるならば、ニルヴァーナはどうして【他のものに】依らずに存するであろうかしからばニルヴァーナは(他のものに)依って存することとなる】。
  何となればいかなる有も【他のものに】依らないでは存在しないからである。
仏教の教えや輪廻転生に詳しいやつ教えてくれ
190 :神も仏も名無しさん[]:2018/12/06(木) 22:51:53.24 ID:LEQXS5IL
七 もしもニルヴァーナが有(存在するもの)でないならば、どうして非有(無)がニルヴァーナであろうか。有が存在しないところには、非有(無)は存在しない。

八 またもしもニルヴァーナが無であるならば、どうしてそのニルヴァーナは【他のものに】依らないでありえようか。
  何となれば、【他のものに】依らないで存在する無は存在しないからである。

九 もしも【五蘊、個人存在を構成する五種の要素を】取って、あるいは【因縁に】縁って生死往来する状態が、縁らず取らざるときは、これがニルヴァーナであると説かれる。

一〇 師(ブッダ)は生存(J註:原語で有の意もあるとの事)と非生存(J註:原語で無の意も)とを捨て去ることを説いた。それ故に「ニルヴァーナは有に非ず、無に非ず」というのが正しい。

一一 もしもニルヴァーナが有と無との両者(有にしてかつ無)であるならば、それでは解脱は無でもあり、また有である【ということになるであろう】。しかしそれは正しくない。

一二 もしもニルヴァーナが有と無との両者(有にしてかつ無)であるならば、それではニルヴァーナは【他のものに】依存しないで成立しているのではない【ということになるであろう】。
   何となれば【有と無との】両者は【他のものに】依存して成立しているからである。
仏教の教えや輪廻転生に詳しいやつ教えてくれ
191 :神も仏も名無しさん[]:2018/12/06(木) 22:52:39.58 ID:LEQXS5IL
一三 ニルヴァーナがどうして有と無の両者でありえようか。
ニルヴァーナはつくられたのではないもの(無為)であるが、有と無はつくられたもの(有為)であるからである。

一四 ニルヴァーナのうちに、どうして有と無の両者がありえようか。この両者は同一のところには存在しえない。それは光明と暗黒とが同一のところに存在しえないようなものである。

一五 <ニルヴァーナは無でもなく、有でもない>という想定は、無と有が成立してこそ成立しうるのである。

一六 <ニルヴァーナは無でもなく、有でもない>ということが成立するならば、<無でもなく、有でもない>ということが何によって表示されるのか。
仏教の教えや輪廻転生に詳しいやつ教えてくれ
192 :神も仏も名無しさん[]:2018/12/06(木) 22:53:20.88 ID:LEQXS5IL
一七 <尊師(ブッダ)は死滅したあとでも存在している>と解することはできない。尊師は死後に<存在しない>とも<存在しかつ存在しない>とも、また両者でもない(<存在しかつ存在しない>のでもない)と解することも出来ない。

一八 (一)<尊師はいま現に存在しつつある>と解することもできない。(二)<尊師はいま現に存在しているのではない>とか(三)<尊師はいま現に存在しつつありかつ存在している>という両者であるとか、(四)またその両者でもない、と解することもできない。

一九 輪廻はニルヴァーナに対していかなる区別もなく、ニルヴァーナは輪廻に対していかなる区別もない。

二〇 ニルヴァーナの究極なるものはすなわち輪廻の究極である。両者のあいだには最も微細なる区別もない。

二一 如来(ブッダ)は死後に存在するかどうか。世界は有限なものであるかどうか、など、世界は常恒なるものであるかどうか、などというもろもろの見解は、ニルヴァーナと【死後の】のちの世界と、【生まれる前の】未来の世界とに依存して述べられている。

二二 一切のものは空なのであるから、何ものが無限なのであろうか。何ものが有限なのであろうか。何ものが無限にして有限なのであろうか。何ものが無限でもなく有限でもないのであろうか。

二三 何が同一なのであるか。何ものが別異なのであろうか。何が常恒であるのか。何ものが無常なのであるか。また何ものが無常にしてしかも常恒なのであるか。また何がその両者(無常と常恒)ではないのか。

二四 【ニルヴァーナとは】一切を認め知ること(有所得)が滅し、戯論が滅して、めでたい【境地】である。いかなる教えも、どこおいてでも、誰のためにも、ブッダは説かなかったのである。


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