- 【仏教】 悟りを開いた人のスレ336【天空寺】
469 :犬山脱糞糞塗れ糞邪鬼クチャイキチャナイ脱糞イヌヤマ[]:2018/11/10(土) 00:00:34.96 ID:ESpBGcpH - 倒れないバイク ー ホンダ - 1:43
https://www.youtube.com/watch?v=BzHkwaRqlqU 白隠の動中の工夫・坐禅(実技編) - 11:40 https://www.youtube.com/watch?v=Mhk521CALOk 白隠禅師軟酥の法 - 7:10 https://www.youtube.com/watch?v=VvMigRjmR5Q nanso ouran no hou - 10:59 https://www.youtube.com/watch?v=uMoVfPqYBbA 軟酥の法 - 8:55 https://www.youtube.com/watch?v=GotqWQ1SBkE 軟酥鴨卵の法 睡眠誘導 - 12:49 https://www.youtube.com/watch?v=rDsIet1_aK4 十牛図【朗読】 松原哲明 「新解釈 十牛図」より抜粋 第一「尋牛」この私はなにものか - 5:34 https://www.youtube.com/watch?v=egp2t4wPpyY エハン塾 禅の話:「十牛図」 - 1:20:17 https://www.youtube.com/watch?v=6lsdLu8f4f4 【鈴木大拙】禅の教え?A ZEN LIFE - 52:23 https://www.youtube.com/watch?v=gxVKyKjRuuA 鈴木大拙:中村汀女:出演 来栖琴子:司会「婦人ニュース」 年のはじめにv - 12:26 https://www.youtube.com/watch?v=LXK1yvKdp9s 鈴木大拙:出演 「ここに鐘は鳴る」 - 30:07 https://www.youtube.com/watch?v=_gOaSn1Ql1M 遠藤周作 「あなたはあなたを知っているか」 - 40:19 https://www.youtube.com/watch?v=MBSnJasEitU 「命の世界」 正眼寺 山川宗玄 老師 - 1:05:24 https://www.youtube.com/watch?v=a6Y1hBGMhDs 中村元「ブッダの一生」その1 - 40:57 https://www.youtube.com/watch?v=NU7qs38Jhpk 中村元「ブッダの一生」その2 - 39:37 https://www.youtube.com/watch?v=pcZF3GNQ2yU 中村元「ブッダの一生」その3 - 39:40 https://www.youtube.com/watch?v=CPDKcJBoakk 中村元「ブッダの一生」その4 - 39:30 https://www.youtube.com/watch?v=7Vu0euBmpDQ 真理の言葉・法句経【中村元】 - 38:13 https://www.youtube.com/watch?v=KoJ_SzUWSvk 般若心経 現代語訳 - 10:57 https://www.youtube.com/watch?v=HKmBxu_C1aY 朗読「生きて死ぬ智慧」柳澤 桂子 著 - 8:28 https://www.youtube.com/watch?v=kH8xM_O3fGg
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- 坐禅と見性第129章猛烈な秋雨前線と台風がお迎え
674 :アハさんパシル語 ◆T5xSZn0J5U []:2018/11/10(土) 17:53:39.14 ID:ESpBGcpH - >>673 A ちゃん
> 私の椅子禅は我流でも、楽第な椅子禅で数を数えるのも面倒で、眼を瞑って鼻先を見つめて、ただ息の出入るを眺めると 頭禅禅使わないし何の努力も要らない。 妄想も師匠から習つた雀ちゅんちゅんでまあよいか。 > > 観音 雲厳の無住大師が道吾山の修一大師にたずねた。 雲厳「大悲菩薩は多くの手や眼をもって働くのですか」 > 道吾「あたかも人が夜中に、手をうしろにして枕を探すようなものです」 雲厳「わかりました、わかりました」 > 道吾「あなたはどのように分ったのですか」 雲厳「遍身が手眼です」 道吾「よく言いましたね。でも八、九分どおりです」 > 雲厳「私はこの通りですが、貴方はいかがですか」 雲厳「通身が手眼です」 > ???何か真っ暗で枕探しさつぱりと良くわからないけど。通信だし兎に書く何か書けたし個の用に位置の仕事で一の如し鴨
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675 :アハさんパシル語 ◆T5xSZn0J5U []:2018/11/10(土) 17:54:27.16 ID:ESpBGcpH - 碧巌録(へきがんろく) 第八十九則 雲巖、道吾に手眼を問う
垂示に云く、通身是れ眼なるも見到らず、通身是れ耳なるも聞き及ばず、通身是れ口なるもい著せず、通身是れ心なるも鑑み出せず。 通身はち且て止き、忽若眼無くんば作麼生か見ん、耳無くんば作麼生か聞かん、口無くんば作麼生かわん、心無くんば作麼生か鑑みん。 若し箇裏に向いて一線の道を撥轉き得ば、便ち古佛と同參なり。 參は則ち且く止く、且道、箇の什麼なる人にか參ぜん。 擧す。 雲巖、道吾に問う、大悲菩薩は許多の手眼を用いて、什麼をか作す。 吾云く、人の夜半に背手して枕子を摸るが如し。 巖云く、我會せり。 吾云く、汝作麼生か會す。 巖云く、身是れ手眼なり。 吾云く、道うことはち太だ道うも、只だ八成を道い得たるのみ。 巖云く、師兄は作麼生。 吾云く、通身是れ手眼なり。 身是、通身是。 拈來猶較十万里。 展翅鵬騰六合雲、 搏風鼓蕩四溟水。 是何埃兮忽生、 那箇毫釐兮未止。 君不見、 網珠埀範影重重、 棒頭手眼從何起。 咄。 身是か、通身是か。 拈げ來たれば猶お十万里を較つ。 翅を展げて鵬騰す六合の雲、 風を搏って鼓蕩す四溟の水。 是れ何の埃ぞ忽ちに生ず、 那箇の毫釐ぞ未だ止まざる。 君見ずや、 網珠、範を埀れて影重重たるを、 棒頭の手眼何よりか起る。 咄。
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676 :アハさんパシル語 ◆T5xSZn0J5U []:2018/11/10(土) 18:19:30.66 ID:ESpBGcpH - 何ぞや: 碧巌録第八十九則 雲巖 (うんがん)、道吾 (どうご) に手眼 (しゅげん) を問う
始めに 我々は日頃自分に愛が有るから愛が存在していて、恋をしてみたり嫉妬してみたりしていると思っていますが、本来は愛が初めからあるから我々は愛を経験出来て愛を語れるのです。 自分に愛があるからとか、自分が誰かを愛しているから愛が自分に有るのではありません。 愛は人類が生まれる前から『在る』のです。 雲巖 (うんがん): 782-841 道吾 (どうご): 769-835 大悲菩薩: 千手 (せんじゅ) 観音菩薩 什麼 (いんも): なに 作麼生 (そもさん): いかに 会す: 分かる 雲巖 (うんがん)、道吾 (どうご) に問う、『大悲菩薩は沢山の手眼 (しゅげん) を用いて什麼 (なに) をか作 (な) す』。 道吾云く、『人の夜半に後ろ手で枕子 (ちんす/まくら) を摸 (さぐ) るが如し』。 雲巖云く、『我、会せり』。 道吾云く、『汝、作麼生 (いかに) か会す』。 雲巖云く、『?身 (へんしん) 是れ手眼なり』。 道吾云く、『道 (い) う事は即ちはなはだ道 (い) うも、ただ八成 (はちじょう/八割) を道 (い) 得たるのみ』。 雲巖云く、『師兄 (すひん) は作麼生 (いかん)』。 道吾云く、『通身 (つうしん) 是れ手眼』。 雲巖が、千手観音菩薩にはあのような沢山の手や眼がありますが、どのように使うのでしょうかと聞きます。 道吾和尚の答えは、夜中に後ろ手で枕を探すようなものだと答えます。 雲巖が即座に分かりましたと言うので和尚が何が分かったのかと聞い返しますと、雲巖が身体のどこもが手や眼であると言う事ですねと答えます。 そうすると道吾和尚はなかなか良い返事じゃがまだ八割だと答えます。 それでは和尚様は如何にと雲巖が問い直し、最後に和尚が身体そのままが手や眼じゃと答えます。
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677 :アハさんパシル語 ◆T5xSZn0J5U []:2018/11/10(土) 18:20:49.05 ID:ESpBGcpH - 『?身 (へんしん)』、つまり『身体の何処もが』と『通身 (つうしん)』、『身体そのまま』と言う言葉の違いは何でしょうか。
この則の垂示 (すいじ: 則の前文で概要を説く) に 『通身是れ眼なるも見到らず、通身是れ耳なるも聞き及ばず、通身是れ口なるも説 (い) いおおせず、通身是れ心なるも鑑(かんが) みつくせず』とあり、身体全てを眼、耳、口、また心などにしても真理に近ずけないとあります。 曹山 (そうざん) 和尚と僧のやり取りが書いてあります。 曹山が僧に向かって『仏と真法身はなお虚空の如し。 物に応じて形を現す事は水中の月の如しとあるが、それは如何に』と聞きますと、僧が『ロバが井戸を覗き見るが如し』と答えます。 和尚は、『道 (い) う事は即ちはなはだ道 (い) うも、ただ八成 (はちじょう/八割) を道 (い) 得たるのみ』と答えを出しています。 僧がそれでは和尚は如何にと聞きますと、曹山和尚は『井戸、ロバを覗 (み) るが如し』と答えます。 では、この『井戸』いったい何でしょうか。 『井戸』と『通身』、自己が無ければ (眼、耳、口、心無しの本来の姿) いったい我々は何なのでしょう。 夜中に無意識中に枕を探し当てるような千手と千眼は何処から起こっているのでしょうか。 我々の眼や耳、ましてや心は全て繋がっております。 貴方様は一人ではないです。 見ている方が却って見られています。 相即 (そうそく) の立場です。 この立場、私個人的には『愛』が一番早く悟らせると思っています。 『井戸』が何であるかは、愛を追求すると分かって来ます。
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679 :アハさんパシル語 ◆T5xSZn0J5U []:2018/11/10(土) 20:23:01.66 ID:ESpBGcpH - 逍遥六第52則「曹山法師」
曹山というのは曹山本ほん寂じゃく、以前に出てきた洞山とうざんの法を嗣いだ方です。 挙こす。 曹山、徳尚座しょうざに問う、仏の真法身しんぽっしんは猶なお虚空の若ごとし。物に応じて形を現ずることは水中の月の如し。作麼生そもさんか箇の応底の道理を説かん。 徳云く、驢ろの井を?みるが如し。 山曰く、道いうことは即ち太?はなはだ道う、只八成はちじょうを道い得たりと。 徳云く、和尚又また如何。 山云く、井の驢ろを?みるが如し。 曹山が徳尚座(=徳上座)に問いかけます。 「仏の真法身しんぽっしんは猶なお虚空の若ごとし。物に応じて形を現ずることは水中の月の如し」 (仏の法身は虚空のように形がなく遍満している。 物に応じて過不足なく形を現す様子は、まるでどんな形の水にも円満な月が姿を映すようだ) 内容は悟りの風光を説いたもので、世界の事物ひとつひとつがそのままの形で過不足なく仏の現れである、という内容です。 つまり世界の存在はそのままで真実だ、という意味でしょう。 この教えをどのように説くべきか、というのが曹山の問いかけですが、踏み込んで自己の問題としての問いかけと理解してもいいと思います。 「自己の真実は周りの世界とどう関係するのか」ということですね。 徳尚座の答えは、 「驢ろの井を?みるが如し」 (ロバが井戸を覗いているようなものだ)。 思慮分別を交えることなしに無心でそのままの姿が映る、ですね。 これを聞いて曹山は、「道いうことは即ち太?はなはだ道う、只八成はちじょうを道い得たりと」。 「八成」 「まずまず言い得たが、八割の出来だな」ということです。 それならあなたはどのように言うか、と問われて曹山は、「井の驢ろを?みるが如し」 (井戸がロバを覗いているようなものだ)。 徳尚座の言葉の後には、「落花らっか意有って流水に随したがう」とあります。 また一方の曹山の語には、 「流水無心にして落花を送る」と付されています。 たとえ落ちる花の側に思うところや思慮分別の類があろうとなかろうと、水の側はただそれを受け止めて流すだけですね。 「私」という計らいを離れた時に世界が「私の真実」を表す。
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680 :アハさんパシル語 ◆T5xSZn0J5U []:2018/11/10(土) 20:40:47.15 ID:ESpBGcpH - 従容録 第52則?曹山法身
? 示衆: 諸の有智(うち)の者は譬喩を以て解することを得。 若(も)し、比することを得ず、類(るい)して斉(ひとし)うし難き処に到らば如何ぞ他に説向(せっこう)せん。 ? 注: 有智の者:頭がよい人。 諸の有智の者は譬喩を以て解することを得:頭がよい人達には譬喩を以て理解させることができる。 若し、比することを得ず、類して斉うし難き処:もし、比較することもできず、 似たようなものもない難しいところ。 若し、比することを得ず、類して斉うし難き処に到らば如何ぞ他に説向せん: もし、比較することもできず、似たようなものもない難しいところに到ったならば どのように説いたらよいだろうか。 ? ? 示衆の現代語訳 ? 頭がよい人達には譬喩を以て理解させることができる。 もし、比較することもできず、 似たようなものもない難しいところに到ったならばどのように説いたらよいだろうか。
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- 坐禅と見性第129章猛烈な秋雨前線と台風がお迎え
681 :アハさんパシル語 ◆T5xSZn0J5U []:2018/11/10(土) 20:46:15.91 ID:ESpBGcpH - 曹山徳尚座に問う、「仏の真法身は猶お虚空の如し。物に応じて形を現ずること水中の月の如し。作麼生か固の応ずる底の道理を説かん?」。
徳云く、「驢の井を覩るが如し」。 山云く、「道うことは即ちはなはだ道う、只だ八成を道い得たり」。 徳云く、「和尚又如何?」。 山云く、「井の驢を覩るが如し」。 曹山(そうざん):曹山本寂(840〜901)。洞山良价の法嗣。 中国の曹洞宗は、洞山良价と彼の弟子である曹山本寂を祖とし、はじめ「洞曹宗」を名乗ったが、 語呂合わせの都合で「曹洞宗」となったという説がある。 法系:六祖慧能→青原行思→石頭希遷 →薬山惟儼→雲巌曇晟→洞山良价→曹山本寂 尚座:上座。 仏の真法身:法身。ここでは「本来の自己」のこと。 仏の真法身は猶お虚空の如し、物に応じて形を現ずることは水中の月の如し: 北涼の曇無讖(ドンムシン、385〜433)訳「金光明経」四天王品に出ている言葉。 真の法身仏はあたかも大空のように宇宙に充満している。それが物に応じ自由に応現するさまはさながら水に映る月のようだという意味。 驢の井を覩るが如し:驢馬が井戸の中の水鏡を見ているようなものだ。 井の驢を覩るが如し:井戸が水鏡に驢馬を映して見ているようなものだ。 ? 本則の現代語訳: 曹山が徳上座に聞いた、 「「金光明経」には真の自己はあたかも大空のように宇宙に充満している。 それが物に応じ応現するさまはあたかも水に映る月のようだと説いている。 真の自己が物に応じ応現する道理はどのようなものだろうか?」。 徳上座は云った、「驢馬が井戸の中の水鏡を見ているようなものです」。 曹山は云った、「うまく言うことは言っているが、80%くらいのできだ」。 徳上座は云った、「和尚さんならどう言いますか?」。 曹山は云った、「井戸が水鏡に驢馬を映して見ているようなものだ」。
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- 坐禅と見性第129章猛烈な秋雨前線と台風がお迎え
682 :アハさんパシル語 ◆T5xSZn0J5U []:2018/11/10(土) 20:54:06.42 ID:ESpBGcpH - 頌
? 驢井を覩、井驢を覩る。 智容れて外(ほか)無く、浄涵(かん)して余りあり。 肘後(ちゅうご)誰か印を分たん。 家中書を蓄えず、機糸掛けじ梭頭(さとう)の事。 文彩縦横意自ら殊なり。 注 ? 驢井を覩、井驢を覩る:驢馬が井戸を無心に見、井戸が驢馬を無心に映して見る。 驢馬も井戸もともに無心だ。 智:無分別智。 智容れて外(ほか)無く:無分別智だけが働いている。 浄涵して余りあり:その知恵を水にたとえると、浄水漫々で宇宙に満ちている。 智容れて外(ほか)無く、浄涵して余りあり:無分別智だけが働き、その知恵を水にたとえると、清浄な水が漫々として宇宙に満ちているようだ。 印:仏の心印。 肘後の符:お守り札のようなもの。 肘後(ちゅうご)誰か印を分たん:「史記」には趙(古代中国の戦国七雄の一つ、紀元前228年に亡ぶ)の世家について次のような故事が出ている。 趙簡子が皆に告げて言った、「私は肘後の宝符を常山の上に隠しておいた。 先にその宝符を取ってきた者に褒美をあげよう」。 そこで皆は常山の上に行って宝符を探し求めたが、見付からない。 ただ一人ムジュツがそれを見つけましたと言って、帰ってきた。 趙簡子が「一体何をみつけたのだ?」と聞くと、ムジュツは「常山の上から下を臨むと代州を取ることができると見て来ました」と言った。 それを聞いて、趙簡子は太子伯魯を廃してムジュツを太子にしたという。 自分の法嗣として誰に仏の心印を分かち与えたら良いだろうか? 家中書を蓄えず:「驢、井を覩、井、驢を覩る」と言った無心三昧の境地は書物を 読んで得られるようなものではなく、修行によって自得するしかない。 機糸:機(はた)を織る糸。 機糸掛けじ梭頭(さとう)の事:本来の面目のはた織り機のような働きには迷悟凡聖 のような分別意識の糸は一すじも掛けていない。 文彩縦横:立派な模様。 文彩縦横意自ら殊なり:匠も模様も立派で時々刻々と変化している。
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- 坐禅と見性第129章猛烈な秋雨前線と台風がお迎え
683 :アハさんパシル語 ◆T5xSZn0J5U []:2018/11/10(土) 21:19:42.11 ID:ESpBGcpH - 頌の現代語訳:
? 驢馬が井戸を無心に見、井戸が驢馬を無心に映して見る。 そのように徳上座も曹山もともに無心だ。 無分別智だけが働き、その知恵を水にたとえると、清浄な水が漫々として宇宙に満ちているようだ。 古代中国の趙の国では趙簡子は太子伯魯を廃して知恵のあるムジュツを太子にしたという。 自分の太子に当たる法嗣として、誰に仏の心印を分かち与えたら良いだろうか? 「驢、井を覩、井、驢を覩る」と言った無心三昧の境地は 書物を読んで得られるようなものではなく、修行によって自得するしかない。 本来の面目のはた織り機のような働きには迷悟凡聖のような 分別意識の糸は一すじも掛けていない。 はた織り機で織られた布の意匠や模様は立派で時々刻々と変化している。
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- 【仏教】 悟りを開いた人のスレ336【天空寺】
587 :犬山脱糞糞塗れ糞邪鬼クチャイキチャナイ脱糞イヌヤマ[]:2018/11/10(土) 23:57:40.98 ID:ESpBGcpH - 不生不死、
不生にて整います。 と、古佛が言ったそうな。 生まれず、 であるから、従いまして、死が無いのだ、と受け取っていたが、、、 存在は、 生まれないのだ。 と言う事だった。
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- 坐禅と見性第129章猛烈な秋雨前線と台風がお迎え
684 :アハさんパシル語 ◆T5xSZn0J5U []:2018/11/10(土) 23:57:59.21 ID:ESpBGcpH - 不生不死、
不生にて整います。 と、古佛が言ったそうな。 生まれず、 であるから、従いまして、死が無いのだ、と受け取っていたが、、、 存在は、 生まれないのだ。 と言う事だった。
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