- --佛教論議の伽藍スレ-- 第二巻
15 :宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk []:2018/08/03(金) 19:20:26.17 ID:VUnhdSoJ - 2.仏教の一切法ではアートマンが説かれることはないものとされていますが、
大乗の仏性や如来蔵思想へと発展する起因ともなったといえる『パーリ増支部1-6』の “自性清浄心” (心性本浄説) は「無為法」であって一切法には抵触しない。 つまり、“自性清浄心”はアートマンと同義か、もしくは非常に近い意味合いのものとしてみることはできるのでしょうか? また同じく、その他でも仏典中で説かれている修行者が“求めるべき真実の自己”についての教えについては如何でしょうか? 事例として、 『婦女を尋ね求めることより、自己を尋ね求めよ。』(Vin.Maha^vagga.T,13.p.23)。 『煩悩の汚れを滅ぼした真人(阿羅漢)、すなわち、修行を完成した尊敬すべき人は「わたしが語る」と言ってもよい。』(SN.T,3-5) 『自己こそ自己の主である。』(Dhp.160,380)。 『真実であるか虚偽であるかを、汝の自己が知っているのだ。証人よ(sakkhi)。実に尊い自己を汝は軽視している。』(AN.T,p.149 G) 3.先生の見解では、仏教の目指す究極の境地であるニルヴァーナ(涅槃)と、 ヒンドゥーにおける輪廻からの解脱や梵我一如の境地は、結局のところは同一のゴールだということになりますか? それとも、意味合い的には近いものがあってもこれらは別々のまったく異なる境地ですか? 以上.
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