- 外道の独り言 10
168 :神も仏も名無しさん[sage]:2018/06/14(木) 00:32:49.23 ID:Ph5NOJ4N - >>161
いや、そういう話ではなく在家から出世間を歩もうと決意した仏弟子、あるいはバラモン教などの外教の僧侶で教えを伺いに来た者に対してまで、 道義上の方便として迷いの生存から解脱せよとまでいう必要があったのかということです。 スッタニパータ第五のブッダに質問する学生さん達は真剣ですよ、真剣に真理を知り彼岸に至りたいと思い質問しているのに ブッダともあろう人がここは対機説法で方便として迷いの生存から解脱せよというとは、まあ可能性としてはないとは言い切れませんが。 まて「二度と母胎に宿ることはない」は修行者に対して語られる場合もあるし、感興のことばのように自分自身の独り言として語る場合もあるようです。 そして ダンマパダ 153 わたくしは幾多の生涯にわたって生死の流れを無益に経めぐって来た、──家屋の作者(ツクリテ)をさがしもとめて──。あの生涯、この生涯とくりかえすのは苦しいことである。 154 家屋の作者よ! 汝の正体は見られてしまった。汝はもはや家屋を作ることはないであろう。汝の梁はすべて折れ、家の屋根は壊れてしまった。心は形成作用を離れて、妄執を滅ぼし尽くした。 この偈が >これはブッダが菩提樹の下で悟りをひらき、輪廻から解放された安堵と喜びを表現した言葉である。 >家屋とは「人間の個体」のことである(と中村氏は注を付している)。 というのはどういうことでしょう? ブッダは悟りを開いたことで輪廻(当時そういう名称はないにしても生存を繰り返すこと)から解脱できたことを喜んだという考察が最も素直だと思います。 悟ろうとした発心の原点は輪廻転生からの解脱であると考えてもいいでしょう。 釈迦の弟子に対して一切行苦である人生の輪廻からの解脱の方法として説いたのが四諦八正道であり、無常苦無我の三相の観察であるのだと思います。 これらは目的ではなく手段であると思います。
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170 :神も仏も名無しさん[sage]:2018/06/14(木) 00:39:28.90 ID:Ph5NOJ4N - 釈迦生存時の二諦といえば、四諦の内の苦体と集諦が俗諦、滅諦と道諦が真諦といわれてはいます。
道諦は解脱の前の修行法で彼岸に渡ったら捨てる筏とも言われてまして道半ばですから 本当に真諦に入れて良いのかという個人的疑問はありますがw 在家出家両者に同じ場所でそれぞれの道の教えを説いているのは、例えばスッタニパータの第二 14、ダミンカなどが知られていますね。
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176 :神も仏も名無しさん[sage]:2018/06/14(木) 00:57:50.95 ID:Ph5NOJ4N - >>163
主体となる因について具体的には説かれていませんが、縁については「煩悩から生じるもの」「執著」などが明記はされてますね。 業相続とか心相続となったのは部派仏教以降でしょうか? ただし業にしても心(エネルギー)にしてもアートマンとは違って永久不変ではありません。 心はテーラワーダでは勝義体ではありますが、テーラワーダの勝義は有部の5位と同じようなもので悟りの世界そのものというわけではありません (勝義の中に心や心所と並んで涅槃があります) 業も心も縁起により刻々と変化を続けるのでそこのところで縁起を受けないアートマンとの違いはあります。 ブッダは死ぬときに残っているのは業だけであるとも説いています、これもアートマンとは違い善悪で分別され色がついているものです。 また業や心が万物(一切法)の基盤であるというわけではなく、それでしたら中期大乗以降の空の方がよほど基盤基体になっているといえるでしょう。
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178 :神も仏も名無しさん[sage]:2018/06/14(木) 01:01:23.05 ID:Ph5NOJ4N - >>173
ダンマパダ126それこそ修行僧ではなく在家向きの説法でしょうね。 話を戻して、 153 わたくしは幾多の生涯にわたって生死の流れを無益に経めぐって来た、──家屋の作者(ツクリテ)をさがしもとめて──。あの生涯、この生涯とくりかえすのは苦しいことである。 154 家屋の作者よ! 汝の正体は見られてしまった。汝はもはや家屋を作ることはないであろう。汝の梁はすべて折れ、家の屋根は壊れてしまった。心は形成作用を離れて、妄執を滅ぼし尽くした。 この偈についてはどうですか? 誰も聞いてなかったのだから後世の捏造ですか?w
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179 :神も仏も名無しさん[sage]:2018/06/14(木) 01:07:20.46 ID:Ph5NOJ4N - >>171
行き過ぎた本覚思想とは逆に如来蔵思想は修行へのモチベーションになるので良いと思います。 道元も仏性の存在を信じて(確信して)の只管打坐だったのだと思います。 私は覚者でもなんでもない凡夫なので断定・確定はできませんが
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181 :神も仏も名無しさん[sage]:2018/06/14(木) 01:32:03.55 ID:Ph5NOJ4N - >>180
ではその偈はバラモン出身の弟子についた方便で 「菩提樹の下で悟りをひらき、輪廻から解放された安堵と喜びを表現した」というのは本心ではなかったということですか? そして翻訳し註釈をいれた中村元先生もそこまではみぬけなかった、と?
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182 :神も仏も名無しさん[sage]:2018/06/14(木) 01:34:42.35 ID:Ph5NOJ4N - 【テーラーガーター】
わたしの汚れは消滅し、わたしはもはや迷いの生存を受けることがない。わたしは、尊敬されるべき人(アルハット)、布施 を受けるべき人、三種の明知のある人、不死を見る人である。(ラーフラ)。 わたしは、迷妄をすべて捨て去った。生存に対する妄執をうち破り、生まれをくり返す迷いの生存は滅びてしまった。いまや 迷いの生存をふたたびくり返すことはない。(ナディ・カッサパ) 人は輪廻に踏みこんで、順次に母胎を受け、またのちの世界に近づく。智慧の少ない人は、信じこんで、母胎を受け、また のちの世界に近づく。(ラッタパーラ長老) 〔過去の〕無数の劫において、かれらは自分の身体なるものを得ていた。それらのうちで、これは最後のものである。これ は最後の<諸要素集合の身体>である、生と死をくり返す輪廻、再び迷いの生存に入ることは、もはや存在しな い。(クマーラカッサパ) 以前に、他の幾多の生涯においてわたしの作った悪業は、いまこの世においてその報いを受けねばならぬ。しかし〔のち に〕他の〔生存をひき起こすべき〕根拠(素因)はもはや存在しない。(サミティグッタ) わたしは、尊敬さるべき人、供養を受けるべき人、三つの明知を得て、不死の境地を見るものである。〔悪魔〕ナムチの軍 勢に打ち克って、汚れなき者として住している。(ヴァッダ) 苦しみは終わった。諸要素の集合よりなるこの身体―生まれることと死との輪廻にかかわる―は最後のものである。いま や迷いの生存を再びくり返すことはない。(ヴァッダ) 愚昧なる凡夫は、長い時期にわたって輪廻しつつ、もろもろの生存領域をへめぐってきた。――〔四つの〕尊い真理を見る ことなしに。(ヴァッジタ) そのわたしが、怠らずに修養に努めたときに輪廻は断たれ、すべての生存領域は根絶された。いまやわたしはさらに迷い の生存をくり返すことはない。(ヴァッジタ) わたしは過去世の状態を知った。見通す眼(天眼)は浄められた。三つの明知は体得された。ブッダの教えはなしとげられ た。(チューラパンタカ周利槃特)
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184 :神も仏も名無しさん[sage]:2018/06/14(木) 01:35:53.32 ID:Ph5NOJ4N - 【テーリーガーター】
前世において、わたしは、母子や父兄や祖母として生まれました。わたしは〔事物の真相を〕ありのままに知ることなく、〔さ とりの境地を〕見出さないで、輪廻しました。(マハーパジャーパティー尼) 〔しかるに〕わたしは、かの尊師にお目にかかりました。これは、〔わたしの〕最後の身であります。わたしは、生まれをくり返 す輪廻を滅ぼしつくしました。いまは、もはやふたたび迷いの生存をつづけることはありません。(マハーパジャーパティー 尼) わたしは、夜の初更に、前世のことを想いおこしました。夜の中更に、天眼を浄めました。夜の後更に、〔無明の〕暗黒の塊 りを破り砕きました。(ウッダラー尼) くり返し、一つの生存から他の生存へと、〔生まれかわりつつ〕己が身を尊重し、生死のうちをへめぐりながら、己が身を超 えることができない。(シースーパチャーラー尼) 修行尼として完全な戒律を身に受け具えて、わたしの前世を想い起こしました。すぐれた眼(天眼)は浄められました。そ れは汚れなく、みごとに修められたのです。(サクラー尼)
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186 :神も仏も名無しさん[sage]:2018/06/14(木) 01:40:45.84 ID:Ph5NOJ4N - >>183
なるほど、ではやはり輪廻転生からの解脱を目標に掲げながら一方では無我を説くというのは矛盾であり、それに気づかなかったブッダが間違えていたということですかね。 >>182>>185で輪廻転生から解脱した境地を偈にした阿羅漢も何か勘違いしているのでしょう。
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- 外道の独り言 10
188 :神も仏も名無しさん[sage]:2018/06/14(木) 01:48:19.91 ID:Ph5NOJ4N - >>187
153 わたくしは幾多の生涯にわたって生死の流れを無益に経めぐって来た、──家屋の作者(ツクリテ)をさがしもとめて──。あの生涯、この生涯とくりかえすのは苦しいことである。 この偈は釈迦が思い悩んでからの無明からの迷妄の時代を比喩として読んだもので 154 家屋の作者よ! 汝の正体は見られてしまった。汝はもはや家屋を作ることはないであろう。汝の梁はすべて折れ、家の屋根は壊れてしまった。心は形成作用を離れて、妄執を滅ぼし尽くした。 無明が晴れたら(妄執を滅したら)実は輪廻などは幻に過ぎなかった と解釈していらっしゃるということですね?
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- 外道の独り言 10
190 :神も仏も名無しさん[]:2018/06/14(木) 01:51:05.02 ID:Ph5NOJ4N - >>189
テーラーガーダー、テーリーガーダーの偈はいかがですか? この偈を読んだ阿羅漢達は何か思い違いをしていたということでしょうか?
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- 外道の独り言 10
211 :神も仏も名無しさん[sage]:2018/06/14(木) 13:20:34.80 ID:Ph5NOJ4N - >>183
あなたと同じような見解・主張でブログを書いたらそれに対するコメントが459もついている、 そんなヤフーブログを発見しました。 コメントまでは未読ですが、この問題はかつて2chでも散々議論されてきているとのことで、 容易には皆を納得させる結論はでないようですw あとでブログコメントも読んでみて更に色々な見識を知り自分なりの見解を深めたいと思います。 もっとも、深めたところでどうするというのもありますがw >>191 ありがとうございます。 中村説とは異なるあなたの説も素晴らしく、中村説同様に仮説として大いにありです。 性急に結論を出すことなくこちらも暇をみては更に考えてみたいと思いますが、 最終的は何を信じるかに落ち着くのかもしれませんw >>193 ありがとうございます。 やはり「因果論の中では究極には自由意志はない」という結論になりますね、 その自立論証派や帰謬論証派の教説に沿っても。 しかしリンク先を軽く読んでみましたが、 山火事の世俗諦での認識問題は難しくて書いてあることがよく分からなかったというか、 正直どっちでもいいじゃんと思ってしまいましたw >>194 小部経典8 テーラーガーダー http://aranavihaara.web.fc2.com/arana-khuddaka-8.html?printstate=true このおそらくは全員が阿羅漢に達した長老の偈の全文が載っているサイトですが、 「輪廻」だけで検索を入れて30ヒットしました。 〔心身を構成する〕五つの範疇(五蘊:物質的形態・感受作用・表象作用・形成作用・識別作用)は遍く知られ、 根元から断たれたものとして安立“あんりゅう”している。生の輪廻は滅尽し、今や、さらなる〔迷いの〕生存は存在しない。 (サーミダッタ長老) これだけだと五蘊が輪廻の主体というか五蘊相続説を臭わせているように感じ取られます。 覚者(ブッダ)によって知らされた法(教え)において、歓喜多き比丘は、寂静の境処に到達するであろう ――形成〔作用〕(行:生の輪廻を施設し造作する働き)の寂止という、安楽〔の境地〕に。 (チューラ・ヴァッチャ長老) このフレーズも結構多用されており、輪廻は形成させるものであることがはっきりしました。
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212 :神も仏も名無しさん[sage]:2018/06/14(木) 13:22:31.24 ID:Ph5NOJ4N - >>211自己レス
>あなたと同じような見解・主張でブログを書いたらそれに対するコメントが459もついている、 <そんなヤフーブログを発見しました。 肝心なリンクを貼り忘れていました。 業の輪廻について https://blogs.yahoo.co.jp/dyhkr486/62739670.html
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213 :神も仏も名無しさん[sage]:2018/06/14(木) 13:23:50.81 ID:Ph5NOJ4N - 死後・輪廻はあるか
−−「無記」「十二縁起」「無我」の再考−− 森 章司 http://www.sakya-muni.jp/pdf/bunsho12.pdf より抜粋 要するに原始仏教の縁起説は、「無明」があるが故に愛 ・取という煩悩が起こり、これが再生(有)のもととなって、 生老病死を断ちきることができない、ということを説いたものということができる。 したがって三世両重ではないとしても輪廻を前提に解釈されていることは明らかである。 確かに十二縁起説は新しいかも知れないが、より古いとみられる愛から始まる五支縁起にしても、その本意は変わらない。 愛・取という煩悩があることによって、輪廻転生しなければならない生存の原理(有)が生じ、 だから来世においても生・老死という苦しみを解決できないということを示すからである。 このことは他の主要な原始仏教の教えを見ても了解されうる。四諦のうちの苦諦は「生まれも苦であり、 老いも苦であり、病も苦であり、死も苦であり、愁・悲・苦・憂・悩も苦であり、怨憎会も苦であり、愛別離も苦であり、 求不得も苦であり、要をとってこれを言えば 五取蘊は苦である」と、いわゆる四苦八苦によって解説される。 この中に「生」すなわち「生れる」ことが入っているのは、輪廻転生の「生」がイメージされているのは容易に想像することができる。 現在すでにこの世に生まれてきているわれわれにとっては、もし再び生まれ変わることがないとするなら、 すなわち輪廻が前提となっていないとするなら、「生れる」は「苦しみ」とはならないはずである。 それは集諦が「再生をもたらし、喜・貪をともない、ここかしこにおいて歓喜するところの渇愛 、 いわゆる欲愛・有 愛・無有愛である」とされることからも明らかである。 すなわち渇愛は「再生」をもたらすから苦しみの原因なのであって、「生」が苦しみであるのも、 渇愛があるかぎりさらに輪廻転生して生老病死を続けなければならないということが念頭に置かれているからである。
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214 :神も仏も名無しさん[sage]:2018/06/14(木) 13:24:51.81 ID:Ph5NOJ4N - >>213の続き
また「無常・苦・無我」説は拙著の『原始仏教から阿毘達磨への仏教教理の研究』(第4章)で詳述した如く、 五取蘊すなわち凡夫は無常・苦すなわち生老病死して、無我なるが故にそれを如何ともなしがたいが、 無常・苦・無我なることを如実知見することができれば、「色において厭い離れ、受において厭い離れ、想において厭い離れ、 行において厭い離れ、識において厭い離れ、厭い離れて貪欲を離れ、貪欲を離れるが故に解脱し、解脱するにおいて解脱したとの智が生じ、 生已につき、梵行已に立ち、所作已に弁じ、更に後有を受けずと知る」とされる。 すなわち如実知見すれば離貪し、解脱して、解脱した者は「生が尽きて」「後有を受けない」が、如実知見しえない者は、 解脱できず、解脱できない者は「生は尽きず」「後有」が継続して、生死輪廻しなければならないという教えなのである。 このように「四諦」説や「無常・苦・無我」説などの原始仏教の教えは、すべて衆生は生老病死の「輪廻」の苦しみを繰り返すから、 ここから解脱しなければならないという教えであって、縁起説とて例外ではないということである。 とするならばむしろ輪廻は縁起説や四諦説や無常・苦・無我説の基礎になっているのであって、輪廻はこれらと一枚のものであり、 先に紹介した仏教学者が言うように決してレヴェルが異なる低俗な<方便としてのという意味かな?>教えではないということになる。
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215 :神も仏も名無しさん[sage]:2018/06/14(木) 13:34:37.33 ID:Ph5NOJ4N - あ、スッタニパータの第五でブッダに教えを請いに来たバラモンの学生に対して、
方や「信仰を捨てよ」といい、方やバラモン教で未完成ながらもその存在が信じられてきた輪廻からの解脱を説く しかも輪廻など存在しないからそんな輪廻信仰を捨てよ、というような形で解脱を説いていたわけではない、 これも腑に落ちない話です。 「アジタ・ケーサカンバリンのように輪廻はないと説くと業報もなくなり道徳不要論に陥る」のを避けたからだと、恐らく人は説くでしょうが。
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218 :神も仏も名無しさん[sage]:2018/06/14(木) 14:23:48.58 ID:Ph5NOJ4N - 1072 師は答えた、
「ウパシーヴァよ。あらゆる欲望に対する貪りを離れ、無所有にもとづいて、その他のものを捨て、最上の〈想いからの解脱〉において解脱した人、ーかれは退きあともどりすることなく、そこに安住するであろう。」 かw
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222 :神も仏も名無しさん[sage]:2018/06/14(木) 17:54:50.19 ID:Ph5NOJ4N - >>183
何故か対談中は忘れていましたが、 業は身口意の三業などで理解できるとおり基本的には結果を伴う行為のことであり、 その行為の結果は自業自得として本人に帰属するので、「個識別性」はあるのが当然ですね。 田中2さんの体験や記憶が鈴木さんに乗り移ったりしないのと同じです。 記憶も体験も行為もその結果も我(アートマン)ではありませんね。 「穀物も財も、銀も金も、またいかなる所有物があっても、 奴僕も、雇人も、使い走りの者も、またかれに従属して生活する者どもでも、 どれもすべて連れて行くことはできない。 すべてを捨てて行くのである。 人が身体でなし、またことばや心でなすところのもの(=業)、それこそ、かれ自身のものである。 人はそれを取って受けて、行くのである。 それは、かれに従うものである。 影が人に従って行くように。 それ故に、善いことをして、来世のために功徳を積め。 功徳は、あの世で人々のよりどころとなる。」 (サンユッタニカーヤ「子がいない」) 「無常 忽(たちま)ちにいたるときは国王大臣親暱(しんじつ)従僕(じゅうぼく)妻子珍宝たすくる無し、 唯独り黄泉(こうせん)に趣(おもむ)くのみなり、 己に随い行くは只(ただ)是れ善悪 業等(ごっとう)のみなり。」 (修証義第一章「総序」)
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- マインドフルネス瞑想 Part10
345 :神も仏も名無しさん[sage]:2018/06/14(木) 22:44:47.61 ID:Ph5NOJ4N - 《上杉謙信の健康法・坐禅》
上杉謙信の健康法は、悩みをさらば、ストレスに打ち消す脳の活性術。 謙信が幼い頃から信仰していたのは曹洞宗で、「坐禅」の修行をしていた。 「坐禅」とは己を知る修行で、最近では「心のダイエット」とも呼ばれ注目を集めている。 ★坐禅と健康の関係とは 「坐禅」は、記憶力や集中力が増し、リラックスが出来る不安を打ち消す。 身体は、交感神経が適度に活性化し、自律神経のバランスが良い状態になる。 また、最近の研究では、うつ病の再発リスクが40%減少したいう報告がある。 複式呼吸法を行っている最中に特別な脳波が発生する ■α2波 α波の一種で、リラックス、集中力が高まった状態のときに発生する。 「クールな覚醒」と言っても良い、特殊な心の状態。 ■坐禅の実体験 横浜市鶴見区の曹洞宗本山総持寺で行った。総持寺の坐禅堂はお喋り厳禁。 坐禅の目線は斜め45度下、呼吸は腹式呼吸、深いゆったりとした呼吸を心がける。 ■坐禅を家庭で行う 椅子に深く座り、背筋を伸ばす。目線は斜め45度位下げて、肩ではなく、腹筋を意識した複式呼吸を行う。 5秒かけて鼻から吸い込み、1秒止め、10秒かけて口から吐く。 毎日5分位行うと気持ちの安定につながるという。 http://samrich.xsrv.jp/wp8/%E5%81%A5%E5%BA%B7%E6%B3%95/%E5%81%89%E4%BA%BA%E3%81%AB%E5%AD%A6%E3%81%B6%E5%81%A5%E5%BA%B7%E6%B3%95%E3%80%81%E6%B8%A9%E6%95%85%E7%9F%A5%E6%96%B0%E3%81%AE%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%87%E3%82%A2%EF%BC%81%E5%AE%B6%E5%BA%B7%EF%BC%86/
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346 :神も仏も名無しさん[sage]:2018/06/14(木) 22:50:27.08 ID:Ph5NOJ4N - >>345
>5秒かけて鼻から吸い込み、1秒止め、10秒かけて口から吐く。 自己レスになりますが、引用したこの部分の口から吐くというのはどうかなあ? 最初の欠気一息の時は口から吐くけど…まあ人それぞれなんでしょうかね。
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