- ACIM(A Course In Miracles)・奇跡のコース 41
107 :神も仏も名無しさん[sage]:2018/01/25(木) 06:11:28.04 ID:mZX4DVA1 - コースもマインドフルネスも、いろんな教えはただたんに人間を元の状態に気づかせるのが目的。
高いも低いもないし、次元もないし、難しいも簡単もない。 それらは分離が作り出した幻想。 ただ、あなたはすべての存在を可能にするポテンシャル。 顕現しているときは全てであり、顕現していないときは無であり、そしてその両方。 我々は顕現しているときに肉体への同一化現象を起こすけど、その時に個別性に執着すると全てであることを忘れてしまう。 その結果、分離という幻想に陥る。 この分離は、相対性に基づいた時間と空間の世界を作り出す。 我々はこの相対性に縛られた時空世界において、あらゆる物に分離を見ることを宿命付けられている。 コースもマインドフルネスも、この分離の夢から覚めるのが目的。 夢から覚めるのに、頭に水をぶっかける方法があったり、おねしょする方法があったり、目覚まし時計の方法があったり、人から起こしてもらう方法があったり、シナリオは既に自分が書いている。 眠ったまま起きないことはない。 だって、夢は幻想なんだから。 幻想内において、夢から覚めるのが早いか遅いかという幻想のシナリオがあるだけ。 幻想内において、コースで目覚めるのか、マインドフルネスで目覚めるのか、それ以外で目覚めるのかという幻想があるだけ。 教えに違いがあるというのもまた幻想。 教えは様々な形と種類を持った手段。 好きなものを選べばいいという選択の問題。 全ての道は、真の自分に繋がっている。 どの道を選んでもいいけど、目的地への道の長さに長い短いはある。 そしてその長短もまた幻想。 どの道を選ぶか、幻想を長引かせるのか早く終わらせるか、その選択はあなたにある。 そしてその選択と目的地への到着は既に終わっている。 選択もまた幻想。 あなた自身に気づきさえすれば全ては消え去る。
|
- ACIM(A Course In Miracles)・奇跡のコース 41
108 :神も仏も名無しさん[sage]:2018/01/25(木) 06:16:38.37 ID:mZX4DVA1 - そしてあなただけが残る。
|
- ACIM(A Course In Miracles)・奇跡のコース 41
113 :神も仏も名無しさん[sage]:2018/01/25(木) 10:33:20.71 ID:mZX4DVA1 - イエスの言う奇跡って、肉体に基づく物事の知覚方法を修正することだよね。
肉体というのは分離の象徴。 この肉体の知覚に基づいた行動は、自ずとあらゆるものを相対的に見る。 そして物事を、肉体を基準にした敵や味方に区分けする。 コースでは「特別な関係」と名付ける部分。 イエスの言う奇跡とは、この肉体の知覚が引き起こす分離に自覚を持つことから始まるんじゃないかな。 分離の自覚ができれば、苦しみは肉体の知覚が原因で生じるメカニズムが理解できてくる。 そしてそのメカニズムは、心が中心。 肉体の知覚に基づいて行動するのか、それとも肉体の知覚が引き起こす分離感覚が苦しみを生じさせていることを見抜いて行動するのか、その判断をしているのは心。 我々の行動は、つまり肉体の知覚を引き起こすのは、心が肉体の知覚に同意しているから。 心が肉体の知覚への同意をやめるのが奇跡へのステップ。 心頭滅却すれば火もまた涼しというように、心がどの感覚に同意するかによって痛みや快楽が左右される。 だから、心が分離ではなく調和に基づくようになれば、肉体の分離の知覚は修正される。 そして、苦しみを引き起こすこの世の相対世界の幻想性に気づくようになる。 この気づきと、心が肉体の知覚への同意をやめる、つまり聖霊の知覚を取り入れるのが奇跡では? 聖霊とは、相対世界を卒業したがっている内なる声のような気がする。 聖霊は、神との一体境地の記憶。 その記憶が聖霊として擬人化され、神との一体という帰還を呼び掛ける。
|
- ACIM(A Course In Miracles)・奇跡のコース 41
121 :神も仏も名無しさん[sage]:2018/01/25(木) 15:06:01.50 ID:mZX4DVA1 - 自我はそもそも存在しないんじゃね?
自我という実体はないが、自分は分離独立しているという勘違いは存在する。 この自分は分離独立しているという勘違いが自我。 だから、自我を実体として扱おうとする表現は厳密に言うと誤り。 存在しないものを存在するように扱うと、自己の分離独立という勘違いをリアルとして強めてしまいかねない。 ただ最初は、自己を個人と認識するのは誤りだということを理解する上では、分離を擬人化した自我の概念は役に立つ。 自我を敵として扱うのも厳密に言うと誤り。(なぜなら自我は存在しないから) だが、肉体をリアルにしようとする自我と表現される働き見抜く上では、自我を実体化して自我を敵として扱うことに効力は見いだせる。 包括的な一つの生命を個人性として分離化する働きを、自我として実体化する ↓ 自我を実体化することにより、日々の生活においていかに自分が自我に支配されているか気づくキッカケとして利用する。 ↓ 自我の支配とは、包括的な生命を分離したものと勘違いさせる働きであることを体感する。 ↓ 自我の認識から派生する己の本当の生命は包括性であるという自覚が強まることにより、自我は実体ではないことに気づき始める。 ↓ 常に自分は神との一体境地(聖霊の記憶)から一度たりとも離れたことがなかったことを段々と思い出す。 ↓ 自我とは、自分の夢見ていた実体の無い分離の思考であったこととして消え去る。 ↓ 幻想として肉体は残るが、聖霊との一体化により肉体の生老病死とは無縁な人生になる。 生老病死やその他肉体の苦しみや限界も、聖霊の視点から見れば自分が己のカルマを解消して奇跡を起こすための自分が描いた脚本であったことに気づく。 苦しみに満ちた己の人生を神への感謝と共に受け入れる。 そうするとそれらは無の中へと溶け去る。
|
- ACIM(A Course In Miracles)・奇跡のコース 41
126 :神も仏も名無しさん[sage]:2018/01/25(木) 16:14:07.01 ID:mZX4DVA1 - 丸太を壊す=丸太は元々存在しなかったってことに気づくことだよね
これはコースのみならず、非二元、不二一元論の考え方。 この世と呼ばれる相対世界に、リアルなものは何一つとして存在しない。 丸太も存在しないし、修正すべき何物も存在しない。 ただ、相対世界という幻想世界を作り出す心の作用は存在する。 心は、神から分離したという罪悪感を抱くと、神から逃れるために分離の意識を投影して相対的な幻想世界を作り出す。 心は、肉体と同化してこの幻想世界を神からの逃避場所としてリアル化し、肉体と世界を守り抜こうとする。 丸太を本質的に取り除くには、丸太という幻想が生じる源を取り除くこと。 その為には、分離を生じさせてリアル化している心の働きを見抜くこと。 そしてあらゆる原因である心が支持する分離の信念、つまり肉体への同化を放棄する。 そうすると、心の意識が映写機として投影してきた幻想世界は幻想の仮面を剥がされる。 当然丸太も、個人性も幻として認識される。 この幻想世界は、人間の知覚を修正することにより、リアルから映画のスクリーン上の光の点滅のようなものとして認識される。 あらゆる映像は無意味になる。 スクリーン上の丸太を作り出したのはあなたであり、また、あなたは自分が投影した世界という映像が身体に流れる不断の鑑賞者。
|