トップページ > 心と宗教 > 2017年10月21日 > huQTKptB

書き込み順位&時間帯一覧

44 位/419 ID中時間01234567891011121314151617181920212223Total
書き込み数0000000000900000000000009



使用した名前一覧書き込んだスレッド一覧
老クリスチャン
キリスト教 [無断転載禁止]©2ch.net
カトリック教徒が励まし合う場所3 [無断転載禁止]©2ch.net
日本もキリスト教を盛んにしようよ。 [無断転載禁止]©2ch.net
敬虔なクリスチャンは喧嘩しない
ルーテル教会3 [無断転載禁止]©2ch.net

書き込みレス一覧

キリスト教 [無断転載禁止]©2ch.net
299 :老クリスチャン[]:2017/10/21(土) 10:09:13.14 ID:huQTKptB
2014年(主日A年) 10月19日 年間第29主日
イザ 45:1〜6  Iテサ 1:1〜5b  マタ 22:15〜21

「すると、イエスは言われた。 “では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。”」(マタ v.21)

私たち日本人にとっては事実上、納税は逃れることの出来ない国民の義務でありますから、納めるのが正しいか否かなどと考えることはありません。
むしろ “皇帝のものは皇帝に” という言葉を、教会やキリスト者一人一人の社会的政治的責任に当てはめて理解する傾向が、20世紀以来かなり強くなって来たことはよく知られています。
しかしそれは現代人がこじつけた解釈であって、元来のテキストが全く意識していなかった主張であることは明らかです。

むしろ、今朝の福音書のテキストの重点は “神のものは神に返しなさい” にあるのですが、実はそのことの意味もまた、近代以来の人本主義、道徳主義に強く影響されて解釈されて来ました。
つまりそれは要するに、世のため人のためになる行動を実行することであると再解釈するのが、当然のことであるとされて来たのです。
そこでこのイエスの言葉は、教会とキリスト者一人一人が社会的政治的責任に目覚め、その責任を具体的に果たして行くことが、神のものは神に返すということになる(換算される)という意味なのだと主張されるようになりました。
キリスト教 [無断転載禁止]©2ch.net
300 :老クリスチャン[]:2017/10/21(土) 10:10:01.66 ID:huQTKptB
(つづき)
今朝の朗読部分に含まれていない マタ v.22 を参照すると、ファリサイ派の人々はこのイエスの答えに驚いて立ち去ったと書いてあります。
彼らにとってはイエスの答えは余りにも当然過ぎたからです。
皇帝に対して政治的社会的責務を果たすことがどんなに重荷であっても、それはいささかも “神のものは神に返す” ことの免責理由にはならないと言われたからです。
果たして自分たちは今、神のものは神に返すという歩みを実際にしているだろうかと、鋭く心に突き刺さるものを彼らは感じて “驚いた” のでした。

それでは “神のものは神に返す” とは、どういうことなのでしょうか。
それを知るには聖書を読まなければなりません。
啓示の源泉は聖書が証言する神の子イエス・キリストであって(ヘブ 1:2)、これ以外のところに解釈の鍵はないからです(神の啓示に関する教義憲章 4)。

それは難しすぎるものでもなく、普通の信者の遠く及ばぬものでもなくて(申 30:11、ロマ 10:5-13)、むしろ単純に、色眼鏡を掛けずに読めば、だれでも理解出来るものです。
ただその、単純に、色眼鏡を掛けずに、しかし熱心に聖書を読むということが、現代では多くの教導職と信徒には欠けているのであって、それが私自身の過去60年ほどの教会生活における悲しい見聞体験でありました。

・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より
カトリック教徒が励まし合う場所3 [無断転載禁止]©2ch.net
851 :老クリスチャン[]:2017/10/21(土) 10:11:46.39 ID:huQTKptB
2011年(主日A年) 10月16日 年間第29主日
イザ 45:1〜6  Iテサ 1:1〜5b  マタ 22:15〜21

ペルシア王キュロスの勝利によって、今やイスラエルのバビロン捕囚が終わるのを、息詰まる思いで待つ第二イザヤの預言は、神の救いを “壮大な神の新しい創造の御業” として描きました。
神はキュロス王をそのための手段として用いられるけれども(イザ v.1)、彼はそれを知らない(イザ vv.4,5)。
神はイスラエルを贖われるが、決して世界をイスラエルに造り変えたりはなさらない。

そして新しく創造されるイスラエルの果たすべき使命が、四つの “僕の歌” (イザ 42:1-4,49:1-6,50:4-9,52:13〜53:12)で歌われていきます。
主イエスが御自分を “僕なるメシア” として理解され、「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た」(マコ 10:45)と言われたことを、
使徒たちの教会は “壮大な神の新しい創造の御業” であったと知って、神の国の希望を宣べ伝えました。

“共に恵みに与る者”(フィリ 1:7)としての教会を “造り上げていく”(エフェ 4:12)ことが、“神のものを神に返す” ことであり、これこそが宣教の主題であることを、
そして “皇帝のものを皇帝に返す” ことはそれとは区別されるべきことを、現代の教会が聖書を通して学ぶことが出来ますように。

・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より
日本もキリスト教を盛んにしようよ。 [無断転載禁止]©2ch.net
77 :老クリスチャン[]:2017/10/21(土) 10:12:58.21 ID:huQTKptB
2014年(主日A年) 10月19日 年間第29主日
イザ 45:1〜6  Iテサ 1:1〜5b  マタ 22:15〜21

「主が油を注がれた人キュロスについて、主はこう言われる。 わたしは彼の右の手を固く取り、国々を彼に従わせ、王たちの武装を解かせる。 扉は彼の前に開かれ、どの城門も閉ざされることはない。」(イザ v.1)

紀元前6世紀の古代近東における大いなる覇権争いは、ペルシア王キュロスの勝利によって新しい時代を迎えました。
彼はイザヤ書において “主が油を注がれた人” と呼ばれていますが、彼はイスラエルの民の一人ではありません。
捕囚となっていたイスラエルの共同体の外の世界で、一人の大王が攻撃に攻撃を重ねて世界を手中に収めました。
それは神から出たことでありましたが、彼自身は知りませんでした(イザ vv.4,5)。
キュロス王の強大な軍事力によって、諸国の王たちは武装を解かれ、新しい平和が実現したのです。
日本もキリスト教を盛んにしようよ。 [無断転載禁止]©2ch.net
78 :老クリスチャン[]:2017/10/21(土) 10:13:37.47 ID:huQTKptB
(つづき)
このような歴史の変遷を経て、神の民イスラエルはその再建の道を歩み始めたのでした。
「わたしはこの民をわたしのために造った。 彼らはわたしの栄誉を語らねばならない」(イザ 43:21)と神が語られたことが実現するために。

教会も、神がキリストによって世を御自分と和解させて委ねられた使徒たちの宣教(IIコリ 5:18-19)を、再び現代に継続するために再建されなければならないのです。
使徒たちの宣教の継続は、すべての時代の教会に受け継がれ、教導職と信徒の区別無くすべての信者に委ねられた “神のものは神に返す” 聖なる行為であります。
そしてその宣教の主題はただ一つ、「神と和解させていただきなさい」(IIコリ 5:20)であります。

外の世界の変遷は神の御手のうちにあるのであって、教会が歴史を動かしたり変えたり出来ると考えるのは恐らく思い上がりでありましょう。
ですから、そうではなくて、“何が神の御心であるか”(ロマ 12:2)を弁える判断力を、主が私たち一人一人の信者の心に与えてくださいますように。

・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より
敬虔なクリスチャンは喧嘩しない
336 :老クリスチャン[]:2017/10/21(土) 10:14:58.80 ID:huQTKptB
2011年(主日A年) 10月16日 年間第29主日
イザ 45:1〜6  Iテサ 1:1〜5b  マタ 22:15〜21

「わたしは、祈りの度に、 ・・・・・ あなたがた一同のことをいつも神に感謝しています。
あなたがたが信仰によって働き、愛のために労苦し、また、わたしたちの主イエス・キリストに対する、希望を持って忍耐していることを、わたしたちは絶えず父である神の御前で心に留めているのです。」(Iテサ vv.2-3)

ミサの “ことばの典礼” で朗読される聖書のテキストを、聖伝と聖書という背景から抜き出して、自分たちが生きている世界の政治や社会の問題にそのまま当てはめようとする傾向が、多くの人に見られます。
司祭や牧師たちの多くも、まるでそれが当たり前のように、聖書を材料にして自分が工夫した “現代人の歩み方” を説教しています。
毒にも薬にもならないそんな説教に、信者はすっかり馴らされて来たのではないでしょうか。

先ず 「信仰によって働き」 とは、使徒たちから伝えられたキリストの福音という土台の上に(Iコリ 3:10-17)、神の国の到来を待ち望む共同体を造り上げることを指しています(Iテサ 1:9-10)。
「希望を持って忍耐している」 根拠は、教会が福音を通して神の招きを受け(Iテサ 2:12)、教会の中に神のことばが 「現に働いている」(Iテサ 2:13)からです。
「愛のために労苦し」 とは、教会の中で信者が “主の言葉に基づいて ・・・・・ 互いに励まし合っている”(Iテサ 4:15-18)ことに外なりません。
敬虔なクリスチャンは喧嘩しない
337 :老クリスチャン[]:2017/10/21(土) 10:15:42.45 ID:huQTKptB
(つづき)
教会は、ただ一度成し遂げられたキリストの永遠の贖い(ヘブ 9:12)を根拠に存在しているだけではなくて、復活して神の右に上げられたイエスがその体である教会の頭として、今もその御業を継続しておられる(エフェ 1:20-23)のです。
それは “時が満ちるに及んで完成される”(エフェ 1:10)終末的な “新しい時”(ロマ 13:11、IIコリ 5:17)に属しています。
この教会はこの世に存在していますが、この世には属していません(ヨハ 18:36)。
だからと言ってこの世に対して責任がない訳ではなく(ロマ 13:5-7)、ただ “この世の有様は過ぎ去る”(Iコリ 7:31)ことを知っているのです。
“わたしたちの本国は天にあります。”(フィリ 3:20)

・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より
ルーテル教会3 [無断転載禁止]©2ch.net
121 :老クリスチャン[]:2017/10/21(土) 10:16:23.66 ID:huQTKptB
2011年(主日A年) 10月16日 年間第29主日
イザ 45:1〜6  Iテサ 1:1〜5b  マタ 22:15〜21

「わたしは、祈りの度に、 ・・・・・ あなたがた一同のことをいつも神に感謝しています。
あなたがたが信仰によって働き、愛のために労苦し、また、わたしたちの主イエス・キリストに対する、希望を持って忍耐していることを、わたしたちは絶えず父である神の御前で心に留めているのです。」(Iテサ vv.2-3)

ミサの “ことばの典礼” で朗読される聖書のテキストを、聖伝と聖書という背景から抜き出して、自分たちが生きている世界の政治や社会の問題にそのまま当てはめようとする傾向が、多くの人に見られます。
司祭や牧師たちの多くも、まるでそれが当たり前のように、聖書を材料にして自分が工夫した “現代人の歩み方” を説教しています。
毒にも薬にもならないそんな説教に、信者はすっかり馴らされて来たのではないでしょうか。

先ず 「信仰によって働き」 とは、使徒たちから伝えられたキリストの福音という土台の上に(Iコリ 3:10-17)、神の国の到来を待ち望む共同体を造り上げることを指しています(Iテサ 1:9-10)。
「希望を持って忍耐している」 根拠は、教会が福音を通して神の招きを受け(Iテサ 2:12)、教会の中に神のことばが 「現に働いている」(Iテサ 2:13)からです。
「愛のために労苦し」 とは、教会の中で信者が “主の言葉に基づいて ・・・・・ 互いに励まし合っている”(Iテサ 4:15-18)ことに外なりません。
ルーテル教会3 [無断転載禁止]©2ch.net
123 :老クリスチャン[]:2017/10/21(土) 10:17:01.64 ID:huQTKptB
(つづき)
教会は、ただ一度成し遂げられたキリストの永遠の贖い(ヘブ 9:12)を根拠に存在しているだけではなくて、復活して神の右に上げられたイエスがその体である教会の頭として、今もその御業を継続しておられる(エフェ 1:20-23)のです。
それは “時が満ちるに及んで完成される”(エフェ 1:10)終末的な “新しい時”(ロマ 13:11、IIコリ 5:17)に属しています。
この教会はこの世に存在していますが、この世には属していません(ヨハ 18:36)。
だからと言ってこの世に対して責任がない訳ではなく(ロマ 13:5-7)、ただ “この世の有様は過ぎ去る”(Iコリ 7:31)ことを知っているのです。
“わたしたちの本国は天にあります。”(フィリ 3:20)

・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より


※このページは、『2ちゃんねる』の書き込みを基に自動生成したものです。オリジナルはリンク先の2ちゃんねるの書き込みです。
※このサイトでオリジナルの書き込みについては対応できません。
※何か問題のある場合はメールをしてください。対応します。