- プロテスタントの分際でエホバの証人批判するとか馬鹿なの?その7
316 :神も仏も名無しさん[sage]:2017/10/13(金) 00:12:21.34 ID:YPs4SvpL - ヨハネ 1章1節には,テオス(神)というギリシャ語の名詞が2回出てくる
最初に出てくる語は全能の神を指しており,「言葉」はその方と共におり(つまり,「言葉[ロゴス]は神[テオスの変化形]と共におり」)ましたとなる この最初のテオスの前には,トン[英語では“the”で,「その」の意]というギリシャ語の定冠詞の変化形が付いており,この定冠詞は別個の実体,この場合には全能の神を指す (つまり,「言葉は[その]神と共におり」ました)
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317 :神も仏も名無しさん[sage]:2017/10/13(金) 00:13:37.27 ID:YPs4SvpL - 一方,ヨハネ 1章1節の二番目のテオスの前には冠詞がない
それで直訳すれば,「言葉は,神[god]であった」となる ところがこの二番目のテオス(叙述名詞)を「神性を備えた」,「神のような」,あるいは「神[a god]」というふうに訳出している多くの翻訳がある コイネー・ギリシャ語には定冠詞(英語の“the”[「その」の意])があるが不定冠詞(英語の“a”[「一つの」の意])はない つまり叙述名詞の前に定冠詞が付いていない場合,その名詞の意味はあいまいで,文脈によって左右される
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318 :神も仏も名無しさん[sage]:2017/10/13(金) 00:14:32.28 ID:YPs4SvpL - 「聖書文献ジャーナル」は,「無冠詞の述語が動詞に先行している[表現]は主として限定詞的意味を持つ」と述べている
これは同「ジャーナル」が述べる通りロゴスを一種の神になぞらえ得ることを示している 同「ジャーナル」はまた,ヨハネ 1章1節に関し,「述語の持つ限定詞的働きは極めて顕著であるゆえに,その名詞[テオス]を特定されたものとみなすことはできない」と述べている それで,ヨハネ 1章1節は「言葉」の性質,つまりこの方は全能の神ではなく,「神性を備えた」方,「神のような」方,「神[a god]」であられたことを強調している このことは,神の代弁者としての役割の点で,ここで「言葉」と呼ばれているイエスが,ご自分の上位者であられる全能の神により地に遣わされた従順な従属者であることを示している聖書の他の箇所と調和している
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319 :神も仏も名無しさん[sage]:2017/10/13(金) 00:15:10.72 ID:YPs4SvpL - 同様の構文のギリシャ語の文章を翻訳する際ほかの言語のほとんどすべての翻訳者により,“a”という英語の冠詞に相当する語が一貫して挿入されている聖句はほかにもたくさんある
例えばジェームズ王欽定訳のマルコ 6章49節には弟子たちはイエスが水の上を歩くのを見た時「彼らはそれを霊[a spirit]だと思った」とある コイネー・ギリシャ語では「霊[spirit]」に相当する語の前に英語の“a”という冠詞に相当する語はない しかしほかの言語のほとんどすべての翻訳は訳し方を文脈に合ったものにするため英語の“a”という冠詞に相当する語を挿入している 同様にヨハネ 1章1節では,「言葉」が神[God]と共にいたことを示しているのでその「言葉」は神[God]ではあり得なかった つまり,「神[a god]」,または「神性を備えた」方であられた
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320 :神も仏も名無しさん[sage]:2017/10/13(金) 00:15:46.28 ID:YPs4SvpL - アメリカ標準訳の仕事に参加した学者であった神学者ジョセフ・ヘンリー・セアは「ロゴスは神性を備えていたが,神ご自身ではなかった」と簡潔に述べた
また「聖書辞典」の編者であるイエズス会士ジョン・L・マッケンジーは同辞典の中で「ヨハネ 1章1節は厳密に訳せば……『言葉は神性を備えた存在であった』となるであろう」と結論している
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321 :神も仏も名無しさん[sage]:2017/10/13(金) 00:17:11.18 ID:YPs4SvpL - イエス・キリストが「神[a god]」であると言うことは,神はただひとりであるという聖書の教えと矛盾していない
聖書では「神[a god]」という語が力ある被造物を指して何回か使われている 詩編 8編5節には「あなたはまた,人を神のような者たち[ヘブライ語,エローヒーム]より少し劣る者と(された)」とある この「神のような者たち」とは,天使のこと
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322 :神も仏も名無しさん[sage]:2017/10/13(金) 00:18:02.95 ID:YPs4SvpL - イエスはご自分が神であると主張したというユダヤ人の訴えに対して弁明した際
「律法に……神の言葉を受けた人たちが,『神々[gods]』と言われている」と指摘したがその神々とは人間の裁き人のこと (ヨハネ 10:34,35,新共; エルサレム。詩編 82:1‐6) サタンでさえコリント第二 4章4節で「この事物の体制の神[god]」と呼ばれている
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323 :神も仏も名無しさん[sage]:2017/10/13(金) 00:18:39.03 ID:YPs4SvpL - イエスはみ使いたちや不完全な人間あるいはサタンよりもはるかに高い地位に就いておられる
それら後者が「神々[gods]」つまり力ある者たちと呼ばれているのですから確かにイエスは神[a god]であり得るしまたそうであられる イエスは父なる神との関係で特異な地位に就いておられるゆえに「力ある神[Mighty God]」と表現されている―ヨハネ 1:1。イザヤ 9:6。
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324 :神も仏も名無しさん[sage]:2017/10/13(金) 00:19:17.33 ID:YPs4SvpL - カトリックの神学者カール・ラーナーによればテオスという語はキリストに言及しているヨハネ 1章1節のような句で使われているが
「それらの聖句の中には新約聖書の他の箇所で『ホ テオス』すなわち最高の神として出てくる方とイエスを 同一視するような仕方で『テオス』が使われている例は一つもない」と英国のジョン・ライランズ図書館会報は指摘し こう付け加えている 「もし新約聖書の筆者が信徒はイエスが『神[God]』であると告白することが肝要であると考えていたのであれば まさにそのような形式の告白が新約聖書中にほとんどないというのは説明のつくことであろうか」
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325 :神も仏も名無しさん[sage]:2017/10/13(金) 00:20:32.22 ID:YPs4SvpL - ヨハネ 20章28節でトマスがイエスに向かって,「わたしの主,そしてわたしの神!」と言ったことについて
トマスにとってとりわけそう叫ばせるようにトマスを動かした奇跡的な状況ではイエスは「神[a god]」のようだった 中にはトマスが単に驚きのあまり感情的に叫んでイエスに話しかけたが神に向かってそう語ったのだと考える学者もいる いずれにしてもトマスはイエスが全能の神だとは考えてはいなかった トマスや他の使徒たちは皆イエスがご自分は神であると主張されたことは決してなく父なる神だけが「唯一まことの神」であると教えられたことを知っていた―ヨハネ 17:3。
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326 :神も仏も名無しさん[sage]:2017/10/13(金) 00:21:36.99 ID:YPs4SvpL - トマスがそのように叫んだ箇所のほんの3節後のヨハネ 20章31節で聖書は
「これらのことは,イエスが[全能の神ではなく,]神の子キリストであることをあなた方が信じるため(に)……記されたのである」と述べてその点をさらに明らかにしている それは三位一体の神のある神秘的な一部ではなく普通の父と子の場合のような文字通りの「子」を意味していた
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327 :神も仏も名無しさん[sage]:2017/10/13(金) 00:22:51.56 ID:YPs4SvpL - ヨハネ 10章30節の句は第三の位格に言及していないが三位一体を支持するためにしばしば引き合いに出される
しかしイエスご自身父と「一つ」であることによって何を言わんとしておられるのかを示された イエスはヨハネ 17章21節と22節で神に向かってご自分の弟子たちが 「みな一つになり,父よ,あなたがわたしと結びついておられ,わたしがあなたと結びついているように 彼らもまたわたしたちと結びついていて……わたしたちが一つであるように,彼らも一つになるためです」と祈られた イエスはご自分の弟子たちすべてが単一の実在者となるように祈っておられたのではない イエスは明らかにご自分と神がそうであるように弟子たちが考えや目的の点で結束するように祈っておられた―コリント第一 1:10も参照。
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328 :神も仏も名無しさん[sage]:2017/10/13(金) 00:23:59.40 ID:YPs4SvpL - イエスはヨハネ 10章30節のすぐ後の数節の文脈の中でご自分が神であると主張する言葉を述べなかったことを強力に論じ
そのような誤った結論を出してイエスを石打ちにしようとしたユダヤ人に「父から聖なる者とされて世に遣わされたわたしが 『わたしは神の子である』と言ったからとてどうして『神を冒涜している』と言うのか」とお尋ねになった(ヨハネ 10:31‐36,新共; 新英) 確かにイエスはご自分が子なる神ではなく神の子であると主張された
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329 :神も仏も名無しさん[sage]:2017/10/13(金) 00:25:22.64 ID:YPs4SvpL - 三位一体を支持する別の聖句として挙げられているのはヨハネ 5章18節
それによればユダヤ人は(ヨハネ 10:31‐36の場合のように)イエスが「神を自分の父と呼んで,自分を神に等しい者としている」としてこれを殺そうと考えた しかしイエスがご自分を神と等しい者としたと言ったのはイエスではない イエスは実際次の節(19節)でこの偽りの訴えに対して弁明された 「そこでイエスは彼らに言われた『……子は,父のなさることを見なければ,自分からは何事もできない』」― 新共; エルサレム そのようにしてイエスはご自分が神と等しくないことしたがって率先して行動できないことをユダヤ人に示された 全能の神と等しい方が「自分からは何事もできない」と言われるところを想像できるのか(ダニエル 4:34,35と比較。) ヨハネ 5章18節と10章30節の文脈は両方とも三位一体論者のように間違った結論を出したユダヤ人から受けた偽りの訴えに対してイエスが弁明されたことを示しているのだ
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332 :神も仏も名無しさん[sage]:2017/10/13(金) 00:26:40.91 ID:YPs4SvpL - プロテスタントのある出版物は「三位一体という言葉は聖書には出ていない。……この言葉は4世紀まで教会の神学に正式には登場しなかった」(「図解聖書辞典」)と述べている
また三位一体は「直接,またじかに示された神の言葉……ではない」とカトリックの一権威者は述べた―新カトリック百科事典 カトリック百科事典もまた「神の三つの位格を一緒に示す単一の用語は今までのところ聖書には一つもない。 τρ?ας[トリアス,「三位性」の意](そのラテン語訳がトリニタス[「三一性」の意])という言葉は,最初,西暦180年ごろのアンティオキアのテオフィロスの著書に出ている ……その後,ほどなくして,そのラテン語形であるトリニタスという語が,テルトゥリアヌスの著書に出て来る」と注解している
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334 :神も仏も名無しさん[sage]:2017/10/13(金) 00:29:10.06 ID:YPs4SvpL - ヘブライ語聖書ではエローアハ(「神」の意)というヘブライ語の言葉には二つの複数形すなわちエローヒーム(「神々」の意)とエローヘー(「の神々」の意)という言葉がある
これらの複数形は大抵父なる神のことを指しており,そのような場合単数形の「神」と訳されている これらの複数形は三位一体を示唆してなどいない ウィリアム・スミスは「聖書辞典」の中で「[エローヒーム]が神における複数の位格もしくは人格的存在で成る三位一体を指しているという奇抜な考え方を支持する人は今や学者の中にはいない。 それは,文法学者の言う威厳の複数かあるいは神の力の豊かさつまり神の発揮した力全体を表わすかのいずれかである」と述べている
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336 :神も仏も名無しさん[sage]:2017/10/13(金) 00:30:12.18 ID:YPs4SvpL - >>333
お前もよく読んでレスしろよ 俺は今三位一体を論破してんだぞ?
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338 :神も仏も名無しさん[sage]:2017/10/13(金) 00:36:38.74 ID:YPs4SvpL - 「セム系諸言語・セム語文献アメリカン・ジャーナル」はエローヒームについて
「この語は,ほとんどいつの場合も単数形の述語動詞と共に用いられており,これに伴う限定形容詞も単数形である」と述べている この点を例証するものとしてエローヒームという称号は創造に関する記述の中で単独で35回出て来るがそのいずれの場合でも神が言われたり行なわれたりしたことを描写する動詞は単数形(創世記 1:1‐2:4) それで前述の出版物は,「[エローヒーム]はむしろ,偉大さや威光を表わす強意の複数形として説明されなければならない」と結んでいる
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339 :神も仏も名無しさん[sage]:2017/10/13(金) 00:38:13.67 ID:YPs4SvpL - ギリシャ語には“威厳もしくは卓越の複数”がない
それで七十人訳の翻訳者たちは創世記 1章1節でエローヒームに対応する言葉としてホ テオス(神,単数)を用いた 申命記 6章4節を引用されたイエスの答えが述べられているマルコ 12章29節でも同様にギリシャ語の単数形ホ テオスが用いられている 申命記 6章4節のヘブライ語本文には四文字語<テトラグラマトン>が2回出て来るのでこの箇所をもっと正しく読むとすれば 「わたしたちの神エホバはただひとりのエホバである」(新世)となる そのように話されたイスラエル国民は三位一体を信じていなかった バビロニア人やエジプト人は三つ組の神々を崇拝していたが四文字語<テトラグラマトン>のエホバはそれとは異なっておられることがイスラエル人にははっきりと示されていた
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341 :神も仏も名無しさん[sage]:2017/10/13(金) 00:43:29.55 ID:YPs4SvpL - 「ステファノは聖霊に満たされ,天を見つめ,神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを見て,『天が開いて,人の子が神の右に立っておられるのが見える』と言った」。―使徒 7:55,56,「新共同訳」
神の活動力に満たされたステファノはイエスが「神の右に立っておられる」のを見た イエスは天に復活した後神になったのではない 以前と同じく神とは別個の霊者になった そして神の隣に第三の者がいたとは述べられてもいない 「一つの神の内に三つの位格……があるということを示す記述は,新約聖書のどこにも見当たらない」と ドミニコ会の司祭マリー‐エミール・ボワマールは自著「キリスト教の夜明け ― 教義の誕生」(フランス語)に書いている
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342 :神も仏も名無しさん[sage]:2017/10/13(金) 00:44:01.88 ID:YPs4SvpL - マタイ 28章19節と20節で父と子と聖霊に関して「名」という語の単数形が使われているという点に三位一体が暗に示されていると考えるなら
創世記 48章16節でアブラハムとイサクに関して「名」という語の単数形が使われているという点を比較検討すればいい―ジェームズ王欽定訳,新世界訳聖書。
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343 :神も仏も名無しさん[sage]:2017/10/13(金) 00:44:46.97 ID:YPs4SvpL - マルコ 13:32,口語: 「その日,その時は,だれも知らない。天にいる御使たちも,また子も知らない,ただ父だけが知っておられる」
マタイ 12:31,32,口語: 「人には,その犯すすべての罪も神を汚す言葉も,ゆるされる。しかし,聖霊を汚す言葉は,ゆるされることはない。 また人の子に対して言い逆らう者は,ゆるされるであろう。しかし,聖霊に対して言い逆らう者は,この世でも,きたるべき世でも,ゆるされることはない」 コリント第一 11:3,口語: 「あなたがたに知っていてもらいたい。すべての男のかしらはキリストであり,女のかしらは男であり,キリストのかしらは神である」 ヘブライ語のシャッダイとギリシャ語のパントクラトールはいずれも「全能者」と訳されている 原語のこれらの言葉は両方とも父なる神を指して繰り返し用いられているが(出エジプト 6:3。啓示 19:6)どちらの表現もみ子や聖霊には一度も用いられていない
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344 :神も仏も名無しさん[sage]:2017/10/13(金) 00:45:35.90 ID:YPs4SvpL - イザヤ 40章3節では明らかに神の前に道を備えることが述べられているのになぜヨハネ 1章23節ではイザヤ 40章3節が引用され
バプテストのヨハネがイエス・キリストのために道を備える際に行なった事柄に当てはめられているのか? なぜならイエスは父を代表しておられたから イエスは父の名によって来て父が常に共にいてくださるという保証をお持ちだったた なぜなら,イエスは父を喜ばせることを行なわれたから―ヨハネ 5:43;
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345 :神も仏も名無しさん[sage]:2017/10/13(金) 00:46:06.05 ID:YPs4SvpL - 詩編 102編25‐27節はこの言葉が神に向かって語りかけられていることを示しているのに
どうしてこの句がヘブライ 1章10‐12節に引用されてみ子に当てはめられているのか? なぜなら詩編作者がこの句の中で描写している創造の業は神がみ子を通して行なわれたものだから(コロサイ 1:15,16; 箴言 8:22,27‐30参照。) ヘブライ 1章5節後半にサムエル第二 7章14節の一部が引用され,神のみ子に当てはめられていることにも注目 この句は最初ソロモンに当てはめられ後にイエス・キリストに当てはめられたからといってソロモンとイエスが同一人物であることを意味してはいない イエスは『ソロモンより偉大な』方でソロモンによって予表された業を遂行しておられる―ルカ 11:31。
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346 :神も仏も名無しさん[sage]:2017/10/13(金) 00:46:48.57 ID:YPs4SvpL - ヨハネ 8章58節:
改訂標準訳では「イエスは彼らに言われた,『ほんとうにほんとうにあなたがたに言っておく。アブラハムのいる前から,わたしはある[ギリシャ語,エゴー エイミ; 英語,I am]』」 (新英,欽定,今英,エルサレム,新アはすべて「わたしはある[英語,I am]」となっており中にはこれが称号であるという考えを表わそうとして,大文字を用いている英訳さえある こうしてこれらの英訳では,その表現を出エジプト記 3章14節と結び付けようとする努力が払われている それら英訳の訳し方によれば,神はご自身のことをその句の中で「わたしはある[英語,I Am]」という称号で呼んでおられるとされている) しかし正確にはヨハネ 8章58節の後半の箇所は次のとおり 「アブラハムが存在する前からわたしはいるのです」。(聖ア,モファット,民衆,簡英などの英訳もこの同じ考えを同様の表現で表わしている)
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347 :神も仏も名無しさん[sage]:2017/10/13(金) 00:47:11.33 ID:YPs4SvpL - イエスがお答えになったユダヤ人の質問(57節)はイエスの実体ではなくて年齢を取り上げたものだった
それで当然イエスはその答えの中でご自分の年齢つまりご自分が存在してこられた期間を取り扱われた さらにエゴー エイミという言葉を一つの称号として聖霊に当てはめようとする試みは一度もなされていない
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348 :神も仏も名無しさん[sage]:2017/10/13(金) 00:47:51.27 ID:YPs4SvpL - A・T・ロバートソンの著わした「歴史上の研究から考察したギリシャ語新約聖書の文法」と題する本は
「動詞[エイミ]……時には[エゴー エイミ]の場合のように他のすべての動詞と同様述語として確かに存在を表わすことがある(ヨハネ 8:58)」 ― テネシー州ナッシュビル,1934年,394ページ,英文と説明している
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349 :神も仏も名無しさん[sage]:2017/10/13(金) 00:48:19.66 ID:YPs4SvpL - テトス 2:13 ― ギ語,το? μεγ?λου θεο? κα? σωτ?ρος ?μ?ν Χριστο? ?ησο?
(トゥー メガルー テウー カイ ソーテーロス ヘーモーン クリストゥー イエースー) 神もキリストもしばしば『わたしたちの救い主』と呼ばれており,? δ?ξα το? μεγ?λου θεο? κα? σωτ?ρος ?μ?ν [ヘー ドクサ トゥー メガルー テウー カイ ソーテーロス ヘーモーン] だけであれば,ごく当然のこととして,単一の主体,すなわちみ父である神に適用されると理解されよう しかしながら,σωτ?ρος ?μ?ν[ソーテーロス ヘーモーン]に?ησο? Χριστο?[イエースー クリストゥー]が加えられていることにより事情は全く異なってくる それによって,σωτ?ρος ?μ?νは,パウロの通常の言葉遣いに従って,彼が? θε?ς[ホ テオス]と呼ぶ方とは区別される人物もしくは存在者に限定されることになる
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350 :神も仏も名無しさん[sage]:2017/10/13(金) 00:48:43.24 ID:YPs4SvpL - そのためあいまいさを避けるための定冠詞を繰り返して付ける必要はなかったのである
同様に,テサロニケ第二 1:12の場合も,κατ? τ?ν χ?ριν το? θεο? ?μ?ν κα? κυρ?ου [カタ テーン カリン トゥー テウー ヘーモーン カイ キュリウー]という表現は単一の主体に適用されると考えるのが自然であり 二人の別個の主体が意図されているのであれば,κυρ?ουの前に冠詞が必要とされるであろう しかし,κυρ?ου[キュリウー]に?ησο? Χριστο?[イエースー クリストゥー]が付け加えられるだけで,冠詞を挿入することなしに,二人の別個の主体に適用されることになる
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351 :神も仏も名無しさん[sage]:2017/10/13(金) 00:49:14.91 ID:YPs4SvpL - それでテトス 2:13ではエホバ神とイエス・キリストという二人の方のことが言及されていることになる
聖書全巻を通じて父なる神とイエスを同一の存在とみなすことはできない
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352 :神も仏も名無しさん[sage]:2017/10/13(金) 00:49:55.16 ID:YPs4SvpL - ヨハネ 10章30節:
イエスは「わたしと父とは一つである」と言われた しかし同じヨハネ 17章21,22節でイエスはご自分の追随者たちに関して祈り,「それは……彼らも一つになるためであります」と言われ さらに,「わたしたちが一つであるように,彼らも一つになるためです」と言われた イエスはこれらすべての箇所で「一つ」を意味する同じギリシャ語(ヘン)をお用いになられた イエスの弟子たちがみな三位一体の一部になるのでないことは明らか イエスの弟子たちは確かに,目的において父と子との一致にあずかるようになる それは神とキリストが結ばれているのと同様の一致を表す
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353 :神も仏も名無しさん[sage]:2017/10/13(金) 00:52:55.81 ID:YPs4SvpL - 三位一体を正当化しようと必死になってギリシャ語の原文を知ったかぶって持ち出すのはいいが
聖書全体の文脈と原文の用いられ方、ヘブライ語との訳を注意深く調査すれば 聖書の中に父と子と聖霊が同一の存在であることを示唆する記述は一つもないことが明らかになる 聖書から説明できないとか勘違いするな いちいち説明するまでもない常識だから言わないだけだ 三位一体の教理は明らかに背教であり、真理にヴェールをかけて覆い隠そうとするサタンの策略なのだ はい論破 あとはせめて>>4に全て論理的に答えてから出直せ
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