トップページ > 心と宗教 > 2017年07月28日 > 76yZkfKH

書き込み順位&時間帯一覧

84 位/399 ID中時間01234567891011121314151617181920212223Total
書き込み数0000000010000021000000004



使用した名前一覧書き込んだスレッド一覧
神も仏も名無しさん
【仏教】悟りを開いた人のスレ【天空寺】251 [無断転載禁止]©2ch.net

書き込みレス一覧

【仏教】悟りを開いた人のスレ【天空寺】251 [無断転載禁止]©2ch.net
419 :神も仏も名無しさん[]:2017/07/28(金) 08:53:43.42 ID:76yZkfKH
質問者    真の本性を実現する前に、人は個人として在る必要があるのではないでしょうか?自我にはそれなりの価値があるのではないのでしょうか?
マハラジ   個人は何の役にも立たない。それは自分の関心事に深く巻きこまれ、その真の存在に完全に無知なのだ。観照意識が個人に働きかけない限り、
       そして個人が観察の主体よりも、むしろ対象とならないかぎり、真我の実現は不可能だ。真我の実現を望むべき達成可能なものとするのは、観照者なのだ。
質問者    人生のなかで、個人が観照者になる時点が来るのでしょうか?
マハラジ   そうではない。個人が自ら観照者になることはない。それでは冷たいロウソクがやがて自ら火を灯すことを期待するようなものだ。
       個人は気づきの炎に触れられない限り、無知の暗闇のなかに永遠にとどまることもありうる。
質問者    誰がロウソクに火を灯すのでしょうか?
マハラジ   グルだ。彼の言葉、彼の臨在だ。インドでは、しばしばそれはマントラだ。ひとたびロウソクに火が灯れば、炎はロウソクを燃やし尽くすのだ。
質問者    何故、マントラはそれほど効果的なのでしょうか?
マハラジ   絶え間ないマントラの復唱は、個人が自分のためにするような何かではないからだ。ロウソクが燃えるほどロウソクが増えていくということがないように、その恩寵を受ける人は個人ではないのだ。
質問者    個人は自分で自分に気づくことができるのでしょうか?
マハラジ   できる。それはときどき、大変な苦しみの結果として起こることがある。グルはあなたを果てしない苦痛から救いたい。彼の恩寵とはそのようなものだ。
       たとえ外側のグルが発見できないとしても、そこにはつねに内面から助け導く、内なる師(サットグル)がいる。内面や外面という言葉は身体にだけ関係する言葉だ。
       外面の存在は単に内面の投影にすぎない。気づきは高次の次元からやってくるのだ。
【仏教】悟りを開いた人のスレ【天空寺】251 [無断転載禁止]©2ch.net
471 :神も仏も名無しさん[]:2017/07/28(金) 14:55:24.77 ID:76yZkfKH
質問者    ものごとの真の知識というものはありうるのでしょうか?
マハラジ   相対的見地からすれば──ある。絶対的見地からすれば──ものごとといったものはないのだ。何も存在しないことを知るのが、真の知識だ。
質問者    何が相対性と絶対性を連結するものなのでしょうか?
マハラジ   それらは同一のものだ。
質問者    どの見地から、それらが同一なのでしょうか?
マハラジ   言葉が話された後、そこには沈黙がある。相対性が終わったとき、絶対性が残るのだ。言葉が話される前の沈黙は、話された後の沈黙と異なるだろうか?
       沈黙はひとつであり、それなしには言葉も聞こえなかっただろう。それはつねに言葉の背景にあるのだ。あなたの注意を言葉から沈黙へと移行しなさい。
       そうすれば、あなたは聞くだろう。マインドは記憶をその知識とするために、体験を熱望する。ジニャーニはすべての体験を超えている。
       そして彼は過去の記憶を持たないのだ。彼は特定のいかなるものとも完全に無関係だ。
       マインドは体系化と定義づけを切望し、つねに実在を言語的な形態のなかに押し込もうと熱心なのだ。すべてにおいてそれは観念を求める。
       なぜなら、観念なしにマインドは存在しないからだ。実在は本質的にひとりなのだ。だが、マインドはそれをひとりにしておかない。
       そして、その代わりに忙しく実在について考えつづける。ただ非実在を実在として見なすこと、それがマインドにできる唯一のことなのだ。
【仏教】悟りを開いた人のスレ【天空寺】251 [無断転載禁止]©2ch.net
472 :神も仏も名無しさん[]:2017/07/28(金) 14:57:21.06 ID:76yZkfKH
質問者    実在を実在として見ることは?
マハラジ   実在を見るという状態はない。誰が何を見るというのだろう?あなたは実在として在ることができるだけだ。いずれにせよ、あなたは実在なのだ。
       問題はただ精神的なものだ。偽りの概念を放棄しなさい。それだけだ。真の概念など必要ない。そんなものはないのだ。
質問者    では、どうして私たちは実在を探し求めるように勧められるのでしょうか?
マハラジ   マインドは目的をもたなければならない。非実在からマインドを自由にするように奨励することは、何らかの見返りを約束することだ。実際には目的の必要などない。
       偽りから自由になること自体が良いことなのだ。それは報酬を求めてはいない。それはまったく汚れずにいるようなものだ。それ自体がその報酬なのだ。
質問者    自己知識は報酬ではないのでしょうか?
マハラジ   自己知識からの報酬は個人的自己からの解放だ。あなたに知るものを知ることはできない。なぜなら、あなたが知るものだからだ。知っているという事実が知るものを証明している。
       ほかの証拠など必要ない。知られるものを知るものは不可知なのだ。光が色彩のなかでのみ知られるように、知る者は知識のなかで知られるのだ。
【仏教】悟りを開いた人のスレ【天空寺】251 [無断転載禁止]©2ch.net
484 :神も仏も名無しさん[]:2017/07/28(金) 15:18:38.03 ID:76yZkfKH
全ては状況が決める、とはマハラジの言葉…。


※このページは、『2ちゃんねる』の書き込みを基に自動生成したものです。オリジナルはリンク先の2ちゃんねるの書き込みです。
※このサイトでオリジナルの書き込みについては対応できません。
※何か問題のある場合はメールをしてください。対応します。