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老クリスチャン
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ローマカトリック教会20170328 [無断転載禁止]©2ch.net
269 :老クリスチャン[]:2017/06/09(金) 11:05:36.03 ID:u8sCFfw9
2005年(主日A年) 5月22日 三位一体の主日
出 34:4〜9  IIコリ 13:11〜13  ヨハ 3:16〜18

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。 独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハ v.16)

父なる神は自らその独り子を受肉させることによって、私たちへの愛を示されました。
御子の贖いの死は父なる神の御心によることであったと、聖書は語っています。

たとえば御子と御父と聖霊とはそれぞれ別の人格であると考える人は、御子が十字架で御自分をいけにえとされた愛が御子だけのものであるかのように理解します。
そして御父はそれまでは自ら救済することの出来ない神として、無能であったかのように考えます。
しかしキリストの受肉の教理を信じるということは、単に御子を信じるだけではなくて、御子と共に御父が愛であることを信じるのです。

三位一体論の古典的表明は、5世紀に作られた 「クイクンクェ・ウルト」(通称アタナシオス信条) に見られ、これはアウグスティヌスの思想に基礎をおいているものと言われています。
その情熱に満ちた語り口の一部を紹介すると、「1.誰でも救われたいと願う者は、なによりもカトリックの信仰を保つことが必要である。」 から始まって、「15.かくの如く、御父は神であり、御子も神であり、聖霊も神である。
16.しかも三つの神ではなくて、一つの神である。 17.かくの如く御父は主であり、御子も主であり、聖霊も主である。 18.しかも三つの主ではなく、一つの主である。」 と述べられています。

古典的三位一体論で用いられている “位格(ペルソナ)” という用語は、現代語の “人格” とはやや意味が異なっていますが、それでもなお私たちが自らの信仰体験を説明する大切な手がかりでであることに変わりありません。
キリスト教は、御子の血で贖われた教会と共に歩まれる三位一体の神への人格的な信仰であつて、決して神に関するある種の教えや戒律を単に知的に受容することではないからです。

・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より
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423 :老クリスチャン[]:2017/06/09(金) 11:06:56.25 ID:u8sCFfw9
2005年(主日A年) 5月22日 三位一体の主日
出 34:4〜9  IIコリ 13:11〜13  ヨハ 3:16〜18

「主よ、もし御厚意を示してくださいますならば、主よ、わたしたちの中にあって進んでください。 確かにかたくなな民ですが、わたしたちの罪と過ちを赦し、わたしたちをあなたの嗣業として受け入れてください。」(出 v.9)

歴史の中のキリスト教は、神がキリストによって世を御自分と和解させ (IIコリ 5:19) てくださった十字架と復活の福音を信じる信仰によって、今日まで歩んで来ました。
教会と共に歩んでくださる方は、父・子・聖霊なる三位一体の神であると説明した4世紀の教会会議の教理的言明は、現代のキリスト者にとっても自らの信仰体験を説明する大切な手がかりです。

キリスト教は、御子の血で贖われた教会と共に歩まれる三位一体の神への人格的な信仰であつて、決して神に関するある種の教えや戒律を単に知的に受容することではありません。
ですから教理の背後には、各時代の教会の生きた歴史があります。
モーセの律法の背後にも荒れ野を旅するイスラエルの民の歴史がありました。

紀元313年のミラノの勅令によってローマ帝国でキリスト教が公認されると、それまでの迫害の時代が去って、今やキリスト教は時流に乗る宗教に変身し、多くの人々が洗礼を受ける時代が到来しました。
当然その中には社会的野心家や無知で中途半端な改宗者が多く、キリスト教の実質的な異教化の波が押し寄せて来ます。
事情は違っても、現代の教会の実態もこれに非常に似ているのではないでしょうか。
キリストの神性についての論争が元で教会の分裂は深刻なものとなり、325年のニケア会議と381年のコンスタンチノープル会議により、恐るべき論争の末にカトリック教会は、信条という形で使徒継承の福音を表明しました。
私たちが現在持っているニケア・コンスタンチノープル信条は、後に451年のカルケドン会議で批准されたものです。
我が国のカトリック中央協議会は、ミサの説教に続く信仰宣言には本来これを使用するのが正しいと説明しています。

・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より
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284 :老クリスチャン[]:2017/06/09(金) 11:07:51.48 ID:u8sCFfw9
2011年(主日A年) 6月19日 三位一体の主日
出 34:4〜9  IIコリ 13:11〜13  ヨハ 3:16〜18

教会の信仰は、先ず第一に御子の受肉と死と復活の出来事に固着し、さらに聖霊が今も教会を通して信じる人々をその贖いと救いに与らせ、御国を受け継ぐ保証を与えてくださっている、
「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっている」(ロマ 11:36)、三位一体の神の御業への信仰であることを、私たちは聖伝と聖書を通して理解しなければなりません。

そんなことは、これまで神父さまからも先輩の信者からも教えてもらわなかった、などと不満を述べても、終末の裁きの日にはそんな言い訳は通用しません(ヘブ 4:13)。
「兄弟たち、喜びなさい。 完全な者になりなさい。 励まし合いなさい。 思いを一つにしなさい。 平和を保ちなさい」(IIコリ v.11) とは、
この “教会の信仰” において各自が豊かにされ(Iコリ 1:4-9)、キリストの御業を理解して神の愛の豊かさに与ることだからです(エフェ 3:18-19)。

ミサの開祭の部で宣べられる “主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが皆さんと共に” という挨拶は、ただの呪文ではありません。
「あなたがた一同と共にあるように」(IIコリ v.13) とは、むしろ神を深く知ることへの “神の招き” なのです(エフェ 1:17-23)。

・・・・・ 以下、本文参照。
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ルーテル教会2 [無断転載禁止]©2ch.net
972 :老クリスチャン[]:2017/06/09(金) 11:09:01.45 ID:u8sCFfw9
2008年(主日A年) 5月18日 三位一体の主日
出 34:4〜9  IIコリ 13:11〜13  ヨハ 3:16〜18

神がモーセを通してシナイでイスラエルに律法を授けられたという伝承は、恐らく古代イスラエルの新年祭における朗唱に起源するものと考えられています。
私たちが旧約聖書で読むシナイ伝承の断片は、かつて祭祀伝説というかたちで伝えられて来たものなのです。
私たちの典礼で聖書が朗読されるように、古代のイスラエルの祭祀でも朗唱されたであろう伝承の断片を、今朝私たちは読んでいるのです。

イスラエルの祭りでこの伝承が朗唱されるとき、神が自ら臨んで語られるという信仰体験が、そしてその神へのモーセの嘆願が彼ら自身の祈りになるという場面が、生き生きと目に浮かぶようではありませんか。
古代のイスラエルの典礼において、神がその民を訪れてくださるという主題がいかに生々しいものであったかを、今朝のテキストは示しています。
この主題が詩文として伝えられているものの例は、詩篇の中に数多く見出される他、申 33:2-4 や、士師記5章のデボラの歌、ハバクク3章 などがあります。
この信仰によって、彼らは 「しかし、わたしは主によって喜び、わが救いの神のゆえに踊る」 と歌いました(ハバ 3:18)。

・・・・・ 以下、本文参照。
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