- ▼▼▼仏教は不幸な死にかたした人は前世が悪いと言うらしい▼▼▼ [無断転載禁止]©2ch.net
267 :神も仏も名無しさん[]:2017/04/27(木) 02:43:50.05 ID:yS35B1hT - どの宗派においても伝統としては、“三世に跨る業報”を説いています。
本来のゴータマの教えがそうなのですから、当然のことです。 そうでなければ、とても仏教とは言い難い。 しかしながら、 現実問題としてはそのことを信じてない僧侶がいずれの宗派においても増えてきているのが事実です。 理由としては元々、個人的に唯物主義的な感覚の人間や信仰心の薄い者が ただ親の寺院を継承するために僧侶となっているからであり、 また、学術の分野においても偏見を抱いている一部の無知な学者によって、 「“三世に跨る業報”はゴータマの教えではない」などと主張したことにあります。 特に禅宗系統は、座禅が悟りのための修行の中心になってきますから、 仏典・経典の記述がどうこう...というのもあまり重視しません。 前世来世についてさえ、「在ると思えばあるし、無いと思えばない」的な感覚でしかなく、 心の姿勢として、「すべての捉われを捨てよ!」をモットーにしているで気にしていない...。 私は以前、 黄檗宗(三大禅宗の一つ)の総本山に直接この問題で電話にて確認したことがありますが、 これを解答をした高僧はまったく信じてなどいませんでした。 そして、私個人の印象というか、 私の知る範囲内ではこれを信じている禅僧を一人も知りません。
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268 :神も仏も名無しさん[]:2017/04/27(木) 02:49:37.38 ID:yS35B1hT - >>0549
https://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1472976578/0267
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269 :神も仏も名無しさん[]:2017/04/27(木) 02:51:07.75 ID:yS35B1hT - >>0268
誤爆-失礼しました
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272 :神も仏も名無しさん[]:2017/04/27(木) 04:37:40.73 ID:yS35B1hT - >>0270
私の個人的な理解としては、 前世の業により非業の死を遂げる運命に無い人は、 その時、その場所に居合わせることがない筈です。 逆に、その運命に生れた人はその時、その場所には必ずそこにいるのです。 航空機墜落事故でもそうです。その運命にない人は結局、その飛行機には乗らない。 逆も然り。その運命にある人は必ず乗ることになる。 前世の殺人において、 その時の被害者が今生で仕返し殺人をしてくるケースなども考えられる(退行催眠の前世療法などによると)。 その人は、前世の殺人者と同時期に転生して相手と必ず巡り合う。そして、思いの復讐殺人を行う。 信じない人は、そんな馬鹿な...という。 しかし、これがすべての真実なのだろうとこの私は見ています。 まっ、もちろんすべてのケースではないでしょうが、これが基本的なものの見方でしょう。 人間、いずれすべての前世が見える能力を自分自身が身に付けたときに、 なるほど“それ”として理解するのです。
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273 :神も仏も名無しさん[]:2017/04/27(木) 04:42:28.59 ID:yS35B1hT - つまり、
過去世におけるあの時のあの行為の報いが 未来世においてこのような形で結実したのだ、と。 仏典を読むならば、仏教的理解としてはそうなる。 『また、心が安定し・・・堅固な不動のものとなると、比丘は過去の生存の境涯を想起する 知(宿住通)に、 心を傾け、心を向けます。彼は過去の生存のさまざまな境涯を想起します。すなわち、ひとつの生涯、二つ、 三つ、四つ、五つ、十、二十、三十、四十、五十、百、千、一万の生涯を想起します。そしてそれは幾多の生 成の宇宙期(成劫)、幾多の壊滅の宇宙期(壊劫)、幾多の生成・壊滅を含む宇宙期を(通して)想起します。 「あのときの生存において、自分の名まえはこうであった。家系はこう、階級はこうで、こんな食物を食べ、 こんな幸福や不幸を体験し、これこれの年齢まで生きた。そして、その世から消え去り、別の世に生まれ変わり、 そこでも同じように、自分はこれこれの名まえ・家系・階級の者で、こんな食物を食べ、これこれの幸福や不 幸を体験し、これこれの年齢まで生きた。そしてその世から今のこの世に生まれ変わってきたのだ」というよ うに、具体的な映像や、具体的な説明を伴って過去の生存の境涯を想起します。
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274 :神も仏も名無しさん[]:2017/04/27(木) 04:43:26.48 ID:yS35B1hT - たとえば、大王よ、ある人が、自分の村から他の村へ行き、その村からまた別の村へ行き、そしてその村か
ら再び自分の村へと戻ってくるとします。彼はこう考えるでしょう。「わたしは自分の村からあの村に行き、 そこでこういうように立ち、座り、あるいは喋り、あるいは無言でいた。そののち、その村からあの村へ行っ たが、そこでもこのように立ち、座り、あるいは喋り、あるいは無言でいた。そして今はその村から再び自分 の村へ帰ってきている」と。 まさにそれと同じく、大王よ、心が安定し・・・堅固な不動のものとなったとき、比丘は過去の生存の境涯 を想起する知に、心を傾け、心を向けます。---(93節の繰り返し)--。 これまた、大王よ、前に述べた果報よりもさらにすぐれてより霊妙な、目に見える沙門の果報であります。』 (ディーガ・ニカーヤ2:93〜94/出家の功徳)
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275 :神も仏も名無しさん[]:2017/04/27(木) 04:50:29.93 ID:yS35B1hT - 『二軒の家の間に立っている人が、その家人たちが一方の家から出てもう一方の家に入ったり出たりするの
をありありと観察することができるように、私は生命の転生を知る天眼通によって、衆生がカルマに牽かれて 善い境遇や悪い境遇に転生することを、そして、それぞれの転生先で優劣美醜の差を得ることを知っています。 ・・・・比丘たちよ、このことを私は、他の沙門やバラモンたちから聞いて語っているのではありません。 そうではなく、私が自分で知った、自分で見た、自分で体験した、そのことだけを私は語っているのです。』 (中部経典130) 『このように、アヌルッダたちよ、弟子が死去し死亡したとき、如来が「この者は、このところへ生まれる。 この者は、このところへ生まれる」と、再生する場所を予言するのは、人を欺くためでなく、人に吹聴するた めでなく、利益や尊敬や名誉や、功徳のためでなく、「わたしは、このような超能力があることを人は知れ」と いうためではない。アヌルッダたちよ、信をもち、広大な信仰をもち、広大な喜悦をもつ、良家の子はそれを 聞いて真理に心をはせる。アヌルッダたちよ、かれらにとっては、それは長いあいだ利益をもたらし安楽をも たらす」以上のことを世尊は説いた。尊者アヌルッダは、歓喜し、世尊の教説を信受した。』 (『中阿含経第77/帝三族姓子経』) 『愚かな者は(悪い事を)しながら「この報いはわれには来ないであろう」と考える。 しかし、のちに報いを受けるときに、苦痛が起こる。』(ウダーナヴァルガ9-11) 『悪い事をしても、その業(カルマ)は、刀剣のように直ぐに斬ることは無い。 しかし、来世におもむいてから、悪い行ないをした人々の行きつく先を知るのである。 のちに、その報いを受けるときに、劇しい苦しみが起る。』(同9-18)
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277 :神も仏も名無しさん[]:2017/04/27(木) 19:26:29.57 ID:yS35B1hT - >>0276
当然、復讐殺人をした者はその行為の苦しい果報を受けるでしょう。 カルマの法則は自然の摂理です。 だから復讐などしなくとも、悪しき行為をした者はその分の報いを受けるのです。 なのに、わざわざ自分から復讐などをしたら、結果的に自分自身が地獄の苦悩を味わうハメとなる。 死刑制度も直ちに廃止すべきです。 死刑などしなくても、犯罪者はその報いを受けるのです。 人々がそのことが心から理解するならば、死刑制度も社会から不必要となるし、 第一、自ら犯罪を犯そうとする者そのものがいなくなってしまう。 「誰も見てないから...」といった犯罪行為は、結果的に自分を苦しめるだけです。 つまり、この社会から意図的な犯罪は完全に消滅するのです。 もちろん、警察も司法も不要です。 世界から戦争が終焉し、兵器はすべてガラクタと化す。 その実現は、 この業報輪廻の法則を真実として理解し受け入れることなのです。 これ以外に完全な平和社会の実現は絶対に在り得ません。
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