- ローマカトリック教会20170328 [無断転載禁止]©2ch.net
42 :老クリスチャン[]:2017/04/20(木) 11:02:27.27 ID:Fts3KSsI - 2002年(主日A年) 4月7日 復活節第2主日
使 2:42〜47 Iペト 1:3〜9 ヨハ 20:19〜31 復活の主はトマスに向かって、「 ・・・・・ 見なさい。 ・・・・・ 入れなさい。 信じない者ではなく、信じる者になりなさい」(ヨハ v.27) と言われました。 トマスは他の11人と共に 「主の復活の証人」(使 1:22) である使徒とされました。 それに続いてヨハネ福音書は次のように記しています。 「わたしを見たから信じたのか。 見ないのに信じる人は、幸いである。」(ヨハ v.29) 使徒と、その使徒の宣教によって信じた人々とが、ここでは明確に区別されています。 私たちは聖書を通して使徒の時代と使徒後の時代の区別を教えられるのです。 新約聖書は 「使徒の教え」 を後の時代に伝え、それによって人々が 「イエスは神の子メシアであると信じるため ・・・・・ 、また信じてイエスの名により命を受けるため」(ヨハ v.31) に、教会が正典として受け入れた文書群なのです。 「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。」(Iペト v.8) 現代の私たちが主イエス・キリストとその救いを信じて喜びに満たされているのは、「使徒の教え」 を通して福音を聞いているからです。 「神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました。」(Iペト vv.3-4) その確かさは 「使徒の教え」 から来るものであり、その 「使徒の教え」 の背後には復活して天に上げられ、神の右の座に着かれた主イエス・キリストが立っておられるのです。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より
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- 十十十 カトリック250 十十十 [無断転載禁止]©2ch.net
104 :老クリスチャン[]:2017/04/20(木) 11:04:13.69 ID:Fts3KSsI - 2005年(主日A年) 4月3日 復活節第2主日
使 2:42〜47 Iペト 1:3〜9 ヨハ 20:19〜31 復活されたイエスは、人々が彼らの宣教によって福音を信じるようになるために、使徒たちをお遣わしになりました。 初代教会はこの使徒たちの宣教を出来るだけ純粋に後世に伝えるために、新約聖書を編集しました。 ですから代々のキリスト者は、聖書を通して使徒たちが伝えたキリストの福音を学ぶことが出来ます。 聖伝と聖書は互いに対立するものではなくて、両者は一つであり、相互に補い合う関係にあります。 過去にキリスト教がそのいずれか一方のみを強調することによって対立し分裂したことは、不幸なことでありました。 復活の主イエスによって遣わされた使徒たちに、私たちが聖書を学ぶことによって身近に出会うことが出来ることを、感謝しましょう。 聖書はイエスや使徒たちの教えを集めたものと言うよりもむしろ、使徒たちが語ったイエス・キリストの福音の宣教の書であると理解するのが適切であります。 復活のイエスは、使徒たちの使命の重大性を強調して言われました。 「聖霊を受けなさい。 だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。 だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」(ヨハ vv.22-23) どうか誤解しないでいただきたい。 人に罪の赦しを与える方は父・子・聖霊なる神であって、使徒やその後継者たちが独自に罪を赦したり赦さなかったりする権能を与えられたということではありません。 彼らは福音を宣教することによって、キリストが与えてくださる罪の赦しに奉仕する者とされました。 彼らが宣べ伝えるキリストの福音によって、人々は罪の赦しの恵みを受けるのです。 もし彼らの怠慢によって福音が正しく伝えられないなら、人々の罪は赦されないまま残る (ヨハ v.23) ことを、イエスは警告されたのではなかったでしょうか。 そして歴史の教会は、使徒たちの教え (福音の宣教) をかけがえのないものとして大切にして来たのでした。 使徒たちの言葉によってキリストを信じる代々のキリスト者は、幸いです(ヨハ vv.29,31, 17:20)。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より
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- カトリック教徒が励まし合う場所3 [無断転載禁止]©2ch.net
157 :老クリスチャン[]:2017/04/20(木) 11:06:08.93 ID:Fts3KSsI - 2005年(主日A年) 4月3日 復活節第2主日
使 2:42〜47 Iペト 1:3〜9 ヨハ 20:19〜31 成人のための洗礼式が特に復活節の期節に行われることが多いのは、それが死者の中からのイエス・キリストの復活に与って人が新たに生まれる秘跡であるからです。 すべてのキリスト者は洗礼を受けて 「生き生きとした希望」(Iペト v.3) に生きる者となりました。 その希望とは、「天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ」(Iペト v.4) 希望であり、 「終わりの時に現されるように準備されている救いを受ける」(Iペト v.5) 希望、「イエス・キリストが現れるときに与えられる恵みをひたすら待つ」(Iペト 1:13) 希望のことです。 「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ち溢れています。」(Iペト v.8) それは、私たちがこの希望に生きる者となったからです。 代々の教会は使徒たちによって伝えられた福音を聞くことによって、この希望を学んで来ました(コロ 1:5 参照)。 使徒たちの後継者である代々の教会の司教たちと、これに従属する司祭たちの、福音を宣教する使命は教会にとって死活的重要性を持っており、教会憲章第3章はこれを真の奉仕 (ディアコニア) として語っています。 それは決して彼らが神のことばを独占するためではなくて、むしろ信徒たちが自ら聖書から学び、霊によるあらゆる知恵と理解によって神の御心を十分に悟る (コロ 1:9) ことを助ける奉仕なのですから(神の啓示に関する教義憲章 10,25)、 私たち信徒は自ら熱心に聖書を学ぶように心がけねばなりません。 現代は、カトリックとプロテスタントの共同訳である “新共同訳聖書” が出版されていて、だれでも手軽に書店で入手し、安心して親しむことが出来る時代です。 信徒が自らの怠慢によって福音の希望から離れて、間違った信仰理解に陥ることのないようにと願わずにはいられません。 聖ヒエロニムスは 「聖書を知らないことは、キリストを知らないことである」 と言いました。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より
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- ルーテル教会2 [無断転載禁止]©2ch.net
714 :老クリスチャン[]:2017/04/20(木) 11:08:11.92 ID:Fts3KSsI - 2005年(主日A年) 4月3日 復活節第2主日
使 2:42〜47 Iペト 1:3〜9 ヨハ 20:19〜31 復活のイエスは、使徒たちの使命の重大性を強調して言われました。 「聖霊を受けなさい。 だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。 だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」(ヨハ vv.22-23) どうか誤解しないでいただきたい。 人に罪の赦しを与える方は父・子・聖霊なる神であって、使徒やその後継者たちが独自に罪を赦したり赦さなかったりする権能を与えられたということではありません。 彼らは福音を宣教することによって、キリストが与えてくださる罪の赦しに奉仕する者とされました。 彼らが宣べ伝えるキリストの福音によって、人々は罪の赦しの恵みを受けるのです。 もし彼らの怠慢によって福音が正しく伝えられないなら、人々の罪は赦されないまま残る (ヨハ v.23) ことを、イエスは警告されたのではなかったでしょうか。 そして歴史の教会は、使徒たちの教え (福音の宣教) をかけがえのないものとして大切にして来たのでした。 使徒たちの言葉によってキリストを信じる代々のキリスト者は、幸いです(ヨハ vv.29,31, 17:20)。 使徒たちが伝えた福音を抜きにして、教会を、キリスト教を、救いを考えてはなりません。 現代の教会のいかなる奉仕者も指導者も、そして多くのキリスト教論者も、決して使徒たちに代わることは出来ないし、使徒たちより偉くはないのです。 そして使徒とその後継者たちも、決してキリストに代わることは出来ないし、キリストより偉くはないのです。 イエス・キリストは、私たちの罪のために死んでくださり、私たちが義とされるために復活させられました(ロマ 4:25)。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より
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