- ローマカトリック教会20161120 [無断転載禁止]©2ch.net
917 :老クリスチャン[]:2017/03/17(金) 13:23:53.24 ID:33dTmo/q - 2005年(主日A年) 2月27日 四旬節第3主日
出 17:3〜7 ロマ 5:1〜8 ヨハ 4:5〜42 イスラエルの先祖の人々はエジプトを出た後の荒れ野の旅で、「皆、同じ霊的な食べ物を食べ、皆が同じ霊的な飲み物を飲みました。 彼らが飲んだのは、自分たちに離れずについて来た霊的な岩からでしたが、この岩こそキリストだったのです。」(Iコリ 10:3-4) 使徒パウロはこのように述べることによって、私たち教会がキリストによって支えられ生かされている共同体であることを説明しました。 マサとメリバでの出来事に象徴される民の罪を、聖書は繰り返し戒めています(申 6:16、詩 95:8, 106:32、マタ 4:7、I コリ 10:9 )。 それは旧約の民の過去の罪でありつつ、また新約の民である教会の罪でもあることを、使徒たちは強調したのでした。 洗礼の秘跡によってキリストに接ぎ木された私たちの罪を、自らその身に担って死んでくださった救い主が、教会を支え生かしてくださっているという根本的事実に注目しましょう。 カトリック信者がゆるしの秘跡で、各自の心に掛かっている諸々の自責の念への心理的な癒しを受けて来たことは、大切なことでありました。 典礼憲章はこれを次のように定義しています。 「告解の秘跡を受ける者は、神の慈悲によって神に加えた侮辱の赦しを受け、同時に、自分たちの罪をもって傷つけた教会、愛と模範と祈りによって自分たちの改心のために努力している教会と和解する。」(11) 私たちが神に加えた侮辱の罪を自らその身に担って死んでくださった救い主が、私たちのミサの中心に来てくださって、永遠の命に至る希望に私たちを導いてくださるという恵みの中でこそ、真の礼拝もゆるしの秘跡も意味を持つのです。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より
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- 十十十 カトリック249 十十十 [無断転載禁止]©2ch.net
711 :老クリスチャン[]:2017/03/17(金) 13:25:30.65 ID:33dTmo/q - 2011年(主日A年) 3月27日 四旬節第3主日
出 17:3〜7 ロマ 5:1〜8 ヨハ 4:5〜42 「しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」(ロマ v.8) 四旬節はキリストの苦難をしのぶ期節として、カトリック教会では中世以来 “十字架の道行き” という祈りが大切にされています。 残念なことに、古代教会以来の “勝利の十字架” “勝利者キリスト” という主題が、あまり明示的には語られていません。 たとえば典礼聖歌 351 復活の続唱 でも、最後のところに “勝利の王キリスト” という語句はあっても、歌詞全体の中でその意味への言及が全く欠けているのが実状です。 その理由は、私たちが生きているこの世が、今なお罪と死と悪魔の支配のもとにあるという事実を、 そしてキリストの救は “生まれながら神の怒りを受けるべき者 ・・・・・ 、罪のために死んでいたわたしたち”(エフェ 2:3,5) を “新たに生まれさせ”(ヨハ 3:3-7)、“新しく創造された”(IIコリ 5:17) という福音の出来事を、 教導職と信者のいずれもが、聖書から直接学ぶことに怠慢であったからでありましょう。 イエス・キリストの勝利の福音は、私たち信じるすべての者に、“神の栄光にあずかる希望” (ロマ v.2) を与えてくださいます。 「わたしたちの国籍は天にあり、わたしたちはそこから来られる救い主、イエズス・キリストを待ち望んでいるのです。」(フィリ 3:20/フランシスコ会訳) 私たちは御子イエスを、先祖ヤコブに勝る井戸掘りの名人などというレベルで、決して理解してはなりません。 「こうして、罪が死によって支配していたように、恵みも義によって支配しつつ、わたしたちの主イエス・キリストを通して永遠の命に導くのです。」(ロマ 5:21) ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より
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- カトリック教徒が励まし合う場所3 [無断転載禁止]©2ch.net
14 :老クリスチャン[]:2017/03/17(金) 13:26:47.55 ID:33dTmo/q - 2005年(主日A年) 2月27日 四旬節第3主日
出 17:3〜7 ロマ 5:1〜8 ヨハ 4:5〜42 イスラエルの先祖の人々はエジプトを出た後の荒れ野の旅で、「皆、同じ霊的な食べ物を食べ、皆が同じ霊的な飲み物を飲みました。 彼らが飲んだのは、自分たちに離れずについて来た霊的な岩からでしたが、この岩こそキリストだったのです。」(Iコリ 10:3-4) 使徒パウロはこのように述べることによって、私たち教会がキリストによって支えられ生かされている共同体であることを説明しました。 マサとメリバでの出来事に象徴される民の罪を、聖書は繰り返し戒めています(申 6:16、詩 95:8, 106:32、マタ 4:7、I コリ10:9 )。 それは旧約の民の過去の罪でありつつ、また新約の民である教会の罪でもあることを、使徒たちは強調したのでした。 洗礼の秘跡によってキリストに接ぎ木された私たちの罪を、自らその身に担って死んでくださった救い主が、教会を支え生かしてくださっているという根本的事実に注目しましょう。 私たちが告白し悔い改める罪は、既にそのためにキリストが自らその身に担って死んでくださった罪であることを、使徒たちは飽くことなく語りました。 「しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」(ロマ v.8) 「信仰によって義とされた」(ロマ v.1) というその 「信仰」 とは、このキリストの贖罪の死への信仰のことであって、 御自身の血によってただ一度 (天の) 聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたキリストは(ヘブ 9:12)、復活して天の父の右の座に着き、再臨の日を待ち続けておられるのです(ヘブ 10:12-13)。 ですからこの信仰は 「神の栄光にあずかる希望」(ロマ v.2) と固く結びついています。 カトリック信者がゆるしの秘跡で告解する罪は、既にそのためにキリストが自らその身に担って死んでくださった罪であることを理解しましょう。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より
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- ★聖書を読みなさい!
668 :老クリスチャン[]:2017/03/17(金) 13:28:13.02 ID:33dTmo/q - 2011年(主日A年) 3月27日 四旬節第3主日
出 17:3〜7 ロマ 5:1〜8 ヨハ 4:5〜42 「あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。」(ヨハ v.12) サマリアの女がイエスに向かって言ったこの攻撃的な言葉は、実は現代のキリスト者が実社会において、いわば当たり前にしている判断基準と、どこか通じるように思えます。 私たちの国や社会は、ライフラインとインフラの確保のために、これまで多大な知恵と財を用いて来たのであって、 今回の東日本巨大地震への今後の対応についても、その復興のためにこれまでと同様な知恵と財を有効に活用する以外に、何か好都合な神の奇跡を期待するなどということはありません。 人類は古くから、その生存のために水を確保する必要に迫られていて、そのために多大な労力と財を用いて来ました。 エルサレムの町が敵に完全に包囲されても、なお長期間の攻撃に耐え得るために、ヒゼキヤ王が水源に至る長い地下トンネルを掘った話は、その一例です(王下 20:20)。 ヤコブの井戸と呼ばれているものは深さが24mもあって、その貴重な井戸から水を得るために、サマリアの女たちは水がめを頭に乗せて、何キロもの道を通って来ていました。 イエス・キリストは、罪と死と悪魔に勝利して贖いを成し遂げられた私たちの救い主です。 “土は茨とあざみを生え出でさせ” “人は顔に汗を流して” ライフラインとインフラを確保しなければならない(創 3:18-19) という現実が、罪と死と悪魔の支配の姿であるということを、 今朝の福音書の中の問答を通して、天上のイエスは私たちキリスト者に教えようとしておられます。 キリストの福音、十字架と復活の福音は、“わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る”(Iコリ 15:57) 神の国の福音なのです。 「イエスは言われた。 “わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである。”」(ヨハ v.34) ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より
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- 【東京】カトリック麹町・聖イグナチオ教会【四谷】 [無断転載禁止]©2ch.net
333 :老クリスチャン[]:2017/03/17(金) 13:31:25.86 ID:33dTmo/q - 2014年(主日A年) 3月23日 四旬節第3主日
出 17:3〜7 ロマ 5:1〜8 ヨハ 4:5〜42 「我々に飲み水を与えよ」(出 v.2) それは理由のない、あるいは不当な要求というわけではありませんでした。 「民は喉が渇いてしかたないので ・・・ ・・ 」(出 v.3) それは彼らの生存に関わる問題であったからです。 しかしイスラエルの伝承はこれを先祖の不信仰として、“主を試した” という言葉で断罪しました(出 v.7、詩 95:8-9、申 6:16)。 「彼らはメリバの水のほとりで主を怒らせた。 彼らをかばったモーセは不幸を負った。」(詩 106:32) “永遠の命に至るキリストの福音” に耳を傾けることは、信者にとってすべてに優先する第一のことなのです(ヘブ 3:7-15 参照)。 「もしもあなたが、神の賜物を知っており、また、“水を飲ませてください” と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、 ・・・・・ 」(ヨハ 4:10)。 永遠の命に至る水を与えてくださる方は、私たちの贖い主イエス・キリストただお一人だからです。 ・・・・・ 以下、本文参照。 http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より
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