トップページ > 心と宗教 > 2017年02月16日 > rwdtTeR3

書き込み順位&時間帯一覧

28 位/512 ID中時間01234567891011121314151617181920212223Total
書き込み数00000003022100012000000011



使用した名前一覧書き込んだスレッド一覧
神も仏も名無しさん
坐禅と見性第116章汝こそ汝の主人公、他の誰が」主人公でありうるか。 [無断転載禁止]©2ch.net

書き込みレス一覧

坐禅と見性第116章汝こそ汝の主人公、他の誰が」主人公でありうるか。 [無断転載禁止]©2ch.net
337 :神も仏も名無しさん[]:2017/02/16(木) 07:37:49.28 ID:rwdtTeR3
ひふみ神示 月光の巻 第54帖 

頭を下げてみなされ、流れて来るぞ
頭も下げず低くならないで居(い)ては
流れて来ないぞ
神の恵みは淡々とした水の様なものぞ
そなたは頭が高いぞ
天狗ぞ
その鼻曲げて
自分の臭いを嗅(か)いで見るがよい
そなたは左に傾いているぞ
左も見なければならんが
片よって歩いてはならんぞ
そなたは右を歩きながら
それを中道と思って御座るぞ
そなたは平面上を行っているから
中道の積りで
他(ほか)に行く道は無いと信じているが
それでは足らんのう
立体の道を早く悟りなされよ
正中の大道あるのであるぞ
左でも無く、右でも無く
嬉し嬉し(うれしうれし)の道あるぞ
左も右も上も下も相対の結果の世界じゃ
原因の世界に入らねばならん
平面より見れば相対あるなれど
立体に入り更に複立体、複々立体
立立体の世界を知らねばならんぞ
相対では争いじゃ
戦(いくさ)じゃ
真の世界平和は今のやり方考え方では成就せんぞ
坐禅と見性第116章汝こそ汝の主人公、他の誰が」主人公でありうるか。 [無断転載禁止]©2ch.net
338 :神も仏も名無しさん[]:2017/02/16(木) 07:40:58.82 ID:rwdtTeR3
三千世界和平から出発せねばならんぞ
そなたは神示をよく読んでいるが
それだけでは足らん
神示を肚(はら・腹)に入れねばならん
つけ焼刃ではならん
神示を血として生活すれば
何ごとも思う通り
スラリスラリと面白い程栄えて来るぞ
思う様に運ばなかったら省みよ
己(おのれ)が己に騙(だま)されて
己のためにのみ為していることに気づかんのか
それが善であっても
己の為(ため)のみならば死し
善の為の善ならば弥栄えるぞ
善にも外道の善あるぞ、心せよ
神示見て居(お)らぬとびっくりが出て来るぞ
この世始まってない事が出て来るのじゃ
世界の片はし(端)八まべ(浜辺)からぞ
分かったか
そなたは神体を偶像と申して御座るが
それはそなた自身が偶像なるが故であるぞ
礼拝を忘れ、祈りを忘れることは
神を忘れることじゃ
そなたの住む段階では
祈り畏こみ謹んで実践しなければならんぞ
拝まんでも拝んでいる境地は中々じゃなぁ
そなたは我(われ)が助かろうとするから
助からんのじゃ
世界はこの世ばかりで無い事を
よく得心して下されよ
我(が)を捨てて素直になされよ
三千年の秋(とき)が来ているのであるぞ
坐禅と見性第116章汝こそ汝の主人公、他の誰が」主人公でありうるか。 [無断転載禁止]©2ch.net
339 :神も仏も名無しさん[]:2017/02/16(木) 07:49:01.36 ID:rwdtTeR3
真ん中に﹅なくば外道に落ちることあると、気をつけよと…。
坐禅と見性第116章汝こそ汝の主人公、他の誰が」主人公でありうるか。 [無断転載禁止]©2ch.net
343 :神も仏も名無しさん[]:2017/02/16(木) 09:51:51.26 ID:rwdtTeR3
前スレ812続き ひふみ神示 地震の巻 第15帖続き

霊人はまた、いろいろな食物を食している。
言うまでもなく霊人の食物であるが、これまたその霊人の状態によって千変万化するが、要するに歓喜を食べているのである。
食べられる霊食そのものも、食べる霊人もいずれも食べる、ということによって歓喜しているのである。
地上人の場合は、物質を口より食べるのであるが、霊人は口のみでなく、目からも、鼻からも、耳からも、皮膚からも、手からも、
足からも、食物を身体全体から食べるものである。
そして、食べるということは、霊人と霊食とが調和し、融け合い、一つの歓喜となることである。
霊人から見れば、食物を自分自身たる霊人の一部とするのであるが、食物から見れば霊人を食物としての歓喜の中に引き入れることとなるのである。
これらの行為は、本質的には、地上人と相通じる食物であり、食べ方ではあるが、その歓喜の度合いおよび表現には大きな差がある。
食物は歓喜であり、歓喜は神であるから、神から神を与えられるのである。
以上のごとくであるから、他から霊人の食べるのを見ていると、食べているのか、食べられているのかわからないほどである。
また霊人の食物は、その質において、その霊体の持つ質より遠く離れたものを好む。
現実社会における、山菜、果物、海藻等に相当する植物性のものを好み、同類である動物性のものは好まない。
何故ならば、性の遠く離れた食物ほど歓喜の度が強くなって来るからである。
霊人自身に近い動物的なものを食べると歓喜しないのみならず、かえって不快となるからである。
そして霊人はこれらの食物を歓喜によって調理している。
そしてまた与えられたすべての食物は、悉(ことごと)く食べて一物も残さないのである。
坐禅と見性第116章汝こそ汝の主人公、他の誰が」主人公でありうるか。 [無断転載禁止]©2ch.net
344 :神も仏も名無しさん[]:2017/02/16(木) 09:59:04.43 ID:rwdtTeR3
すべての善は ﹅ より起こり、 ﹅ に還るのと同様、すべての悪もまた ﹅ より起こり、 ﹅ に還る。
故に、神を離れた善はなく、また神を離れた悪のみの悪はあり得ないのである。
殊(こと)に地上人はこの善悪の平衡(へいこう)の中にあるが故に、地上人たい得るのであって、
悪を取り去るならば、地上人としての生命はなく、また善は無くなるのである。
この悪を因縁により、また囚われる感情が生み出す悪だと思ってはならない。
この悪があればこそ、自由が存在し、生長し、弥栄するのである。
悪のみの世界はなく、また善のみの世界はあり得ない。
所謂(いわゆる)、悪のみの世界と伝えられるような地獄は存在しないのである。
地上人は、霊人との和合によって神と通じる。
地上人の肉体は悪的な事物に属し、その心は善的霊物に属する。
その平衡するところに力を生じ、生命する。
しかし、地上人と、霊人と一体化したる場合は、神より直接に地上人にすべてが通じ、すべてのものの ﹅ が与えられると見えるものである。
これを直接内流と称し、この神よりの流入するものが、意志からする時は理解力となり、真理となる。
また、愛より入る時は善となり、信仰力となって現われる。
そして、神と通じる一大歓喜として永遠に生命する。
故に、永遠する生命は愛と離れ、真と離れ、また信仰と離れてはあり得ないのである。
神そのものも神の法則、秩序に逆らうことは出来ない。
法則とは歓喜の法則である。
神は歓喜によって地上人を弥栄せんとしている。
これは地上人として生まれ出ずる生前から、また死後に至るも止まざるものである。
坐禅と見性第116章汝こそ汝の主人公、他の誰が」主人公でありうるか。 [無断転載禁止]©2ch.net
345 :神も仏も名無しさん[]:2017/02/16(木) 10:01:04.42 ID:rwdtTeR3
神は左手に🌀の動きをなし、右手にて🌀の動きを為す。
そこに地上人としては割り切れないほどの、神の大愛が秘められていることを知らねばならぬ。
地上人は絶えず、善、真に導かれていると共に、また悪、偽に導かれる。
この場合、その平衡を破るようなことになってはならない。
その平衡が、神の御旨(みむね)である。
平衡より大平衡に、大平衡より超平衡に、超平衡より超大平衡にと進み行くことを弥栄と言うのである。
左手は右手により生き動き、栄える。
左手なき右手はなく、右手なき左手はない。
善、真なき悪、偽はなく、悪、偽なき善、真はあり得ない。
神は善・真・悪・偽であるがその新しき平衡が新しき神を生む。
新しき神は、常に神の中に孕(はら)み、神の中に生まれ、神の中に育てられつつある。
始めなき始めより、終わりなき終わりに至る大歓喜の栄える姿がそれである。

15帖は以上であります…。
坐禅と見性第116章汝こそ汝の主人公、他の誰が」主人公でありうるか。 [無断転載禁止]©2ch.net
347 :神も仏も名無しさん[]:2017/02/16(木) 10:32:56.72 ID:rwdtTeR3
おそらくですが、全ての人が既に真ん中に﹅を持っているのでしょう。
それは心の中にある真実を映す鏡と捉えてもよいのかもしれませんが、曇ってありのままに映らないことが多い。
心の鏡を磨いて曇りを拭えば嘘偽りなく、自分が自分を知る事が出来るのではないでしょうか…。
坐禅と見性第116章汝こそ汝の主人公、他の誰が」主人公でありうるか。 [無断転載禁止]©2ch.net
348 :神も仏も名無しさん[]:2017/02/16(木) 11:22:13.66 ID:rwdtTeR3
扶桑の巻 第13帖 

称え言太祝詞(たたえことふとのりと)こと今ぞ高らかに
木でも草でも皆、中から大きくなるのだと申してあろう
つけ焼き刃や膏薬(こうやく)貼りで大きくなるのでないぞ
三千年に一度と言う
又とない結構な時がめぐり来ているのであるぞ
為せば為るぞ
難しい事申しているのでは無い
自分の中の自分を掃除して
自分の外の自分を洗濯して磨けと申しているのぞ
磨けば神と同列のミタマぞ
釈迦ぞ
キリストぞと申してあろう
内にあるものを磨けば
外から響くものも磨かれた
汚れ(穢れ)無い者となるのじゃ
中の自分を掃除しないで居ると
いつまで経っても、岩戸がひらけていても岩戸はひらけん
坐禅と見性第116章汝こそ汝の主人公、他の誰が」主人公でありうるか。 [無断転載禁止]©2ch.net
352 :神も仏も名無しさん[]:2017/02/16(木) 15:10:43.93 ID:rwdtTeR3
鬼和尚さんは全ては一つの意識であると云いますが、全てが一つならば自我も無我もないのかもしれませんね。
或いはありか。
車を動かすのは自我か無我か、なんて考えなくても免許さえあれば運転出来ますし
自分を動かすには免許なんていりませんが、結局私も言葉に頼らなければ自分が何を求めているのか自覚できないし…。
坐禅と見性第116章汝こそ汝の主人公、他の誰が」主人公でありうるか。 [無断転載禁止]©2ch.net
353 :神も仏も名無しさん[]:2017/02/16(木) 16:10:23.81 ID:rwdtTeR3
ひふみ神示 地震の巻 第16帖 

考えること、意志すること、行為することの根本は、肉体からではない、霊的な内奥の自分からである。
この内奥の自分は神につながっている。
故に自分自身が考え、意志し、行為するのではなく、自分というものを通じ、肉体を使って、現実界への営みを神が為し給っているのである。
そこに地上における司宰者たる、またたり得る本質がある。
地上人が死の関門をくぐった最初の世界は、地上にあった時と同様に意識があり、同様の感覚がある。
これによって、人の本体たる霊は、生前同様に、霊界でも見、聞き、味わい、嗅ぎ、感じ、生活することが出来るのである。
しかし、肉体を捨てて、霊体のみとなり、霊界で活動するのであるあら、物質の衣にすぎないことが判明する。
肉体を持っている地上人の場合は、その肺臓が想念の現われとなって呼吸する。
霊界に入った時は、霊体の肺臓が同様の役目を果たすようになっている。
また、心臓は、その情動の現われとなって脈打つ。
霊体となってもまた同様であることを知らねばならぬ。
この二つの動きが、一貫せる生命の現われであって、生前も、生存中も、死後も、また同様である。
肉体の呼吸と脈搏とは、新しき霊体の呼吸と脈搏に相通じ、死の直後に霊体が完全するまでは、肉体のそれは停止されないのである。
かくて、霊界に入った霊人たちは、すべて生存時と同じ想念を持っている。
為に、死後の最初の生活は生存時とほとんど同一であることが判明するであろう。
故に、そこには地上と同様、あらゆる集団と、限りなき段階とが生じている。
而して、霊界においては、先に述べたごとき状態であるが故に、各人の歓喜は、死後の世界においても、生前の世界においても、これに対応する霊的の事物と変じて現われるものである。
この霊的事物は、地上の物質的事物に対応する。
人間が物質界にいる時は、それに対応した物質の衣、すなわち肉体を持ち、霊界に入った時はそれに対応した霊体を持つ。
そして、それはまた完全なる人間の形であり、人間の形は、霊人の形であり、神の形であり、さらに大宇宙そのものの形である。
坐禅と見性第116章汝こそ汝の主人公、他の誰が」主人公でありうるか。 [無断転載禁止]©2ch.net
354 :神も仏も名無しさん[]:2017/02/16(木) 16:13:05.07 ID:rwdtTeR3
大宇宙にも、頭があり、胴があり、手足があり、目も、鼻も、口も、耳もあり、また内臓諸器官に対応するそれぞれの器官があって、常に大歓喜し、呼吸し、脈打っていることを知らねばならない。
大歓喜は無限であり、かつ永遠に進展して行くのである。
変化、進展、弥栄せぬものは歓喜ではない。
歓喜は心臓として脈打ち、肺臓として呼吸し発展する。
故に、歓喜は肺臓と心臓とを有する。
この二つは、あらゆるものに共通であって、植物にもあり、鉱物にすら存在するものである。
人間の場合は、その最も高度にして精妙なる根本の心臓と肺臓に通じる最奥の組織を有する。
これはもはや心臓と表現するにはあまりにも精妙にして、かつ深い広い愛であり、肺臓として呼吸するにはあまりにも高く精巧なる真理である。
而して、この二者は一体にして同時に、同位のものとなっていることを知らねばならない。
それは心臓としても脈搏でもなく、肺臓としての呼吸でもない。
表現極めて困難なる神秘的二つのものが一体であり、二つであり、三つの現われである。
そこに人間としての、他の動物に比して異なるもの、すなわち、大神より直流し来るものを感得し、それを行為し得る独特のものを有しているのである。
人間が一度死の関門をくぐり、肉体を捨てた場合は、霊そのものの本来の姿に帰るのであるが、それはただちに変化するものではなくして、漸次その状態に入るのである。
第一は極外の状態、第二は外の状態、第三は内的状態、第四は極内的状態、第五は新しき霊的生活への準備的状態である。
七段階と見る時は、内と外との状態を各々三段階に分け、三つと見る時は内、外、準備の三つに区分するのである。


16帖は以上であります…。


※このページは、『2ちゃんねる』の書き込みを基に自動生成したものです。オリジナルはリンク先の2ちゃんねるの書き込みです。
※このサイトでオリジナルの書き込みについては対応できません。
※何か問題のある場合はメールをしてください。対応します。