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老クリスチャン
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十十十 カトリック246 十十十©2ch.net
934 :老クリスチャン[]:2016/12/09(金) 10:42:10.94 ID:3UJzXjYF
>>931 >時間短縮のために

「拝領者がご聖体を立って拝領する」 のが間違っているのではなくて、その理由の説明が間違っているのです。
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/doc/cbcj/20141130.pdf

(ローマ・ミサ典礼書の総則 42) には、次のように定められています。
「 ・ ・ ・ 会衆の動作と姿勢は、・ ・ ・ 個人の好みや自由裁量に対してよりも、・ ・ ・ 神の民の霊的共通善に寄与することに対して注意が向けられなければならない。
すべての参加者が共通の姿勢を守ることは、聖なる典礼のために集まったキリスト者共同体の成員の一致のしるしである。」

下記 【典礼憲章に学ぶ】 も、ご参照ください。
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1479634978/31-35
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798 :老クリスチャン[]:2016/12/09(金) 10:49:23.96 ID:3UJzXjYF
2007年(主日A年) 12月16日 待降節第3主日

イザ 35:1〜10  ヤコ 5:7〜10  マタ 11:2〜11

「主が来られる時が迫っているからです。」(ヤコ v.8)

各家庭でクリスマスツリーを飾って、その周りにクリスマスプレゼントが置かれて、みんなが12月25日の午前0時になるまで開けるのを待つというお楽しみの習慣が、特に西欧では何百年も続いて来ました。
そして待降節は、みんながこの日が来るのを首を長くして待つ期節だと考えられるようになりました。
我が国の “もういくつ寝るとお正月” という感覚と同じです。
言うまでもなくこれは、キリストの第二の来臨を待つという福音の使信を子供たちに教えるために、先人が考え出した演出でありました。
ところがいつの間にか、本来の福音の使信が忘れられるようになって、プレゼントとクリスマスケーキのメリークリスマス (楽しいクリスマス) が世間の常識になってしまいました。

私たちがミサで、教会が典礼暦によって守ろうとして来た福音の終末的使信を聞くことは、本当に尊い大切な務めです。
そこで朗読される聖書の朗読配分に、共同体の会衆が意識的、主体的に耳を傾けることを、主は今朝も求めておられます。

今日キリスト教に関する通俗的な論議の世界だけでなく、神学の世界でも、救いに関する見解の多様性が生み出されています。
教会が使徒継承によって受け継いで来たものとは異なる “ほかの福音” が、あたかも現代に適合した解釈ででもあるかのように思われているのです (ガラ 1:6-11 参照)。
現代の多くの小教区の待降節と降誕節のミサで、キリストの第一の来臨が当時 “来るべき方の到来” であったということも、また歴史の教会にとってキリストは今なお “来るべき方” であるということも、もはや語られません。

四旬節の主日のほかに、待降節の4回の主日でも “栄光の賛歌” が歌われないのは、これらの期節が特に悔い改めの時であるからなのです。
主は現代のキリスト者である私たちに向かって、今朝再び語っておられます。

「わたしにつまずかない人は幸いである」(マタ v.6) と。

・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より
ローマカトリック教会20161120 [無断転載禁止]©2ch.net
251 :老クリスチャン[]:2016/12/09(金) 10:52:41.12 ID:3UJzXjYF
2013年(主日A年) 12月15日 待降節第3主日

イザ 35:1〜6a  ヤコ 5:7〜10  マタ 11:2〜11
「来るべき方は、あなたでしょうか。 それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」(マタ v.3)

ヨハネは牢の中で思い惑うていたと、トゥルナイゼンは彼の説教の中で語っています。
現代のキリスト教界で、大多数の信者たちは洗礼者ヨハネ以上に思い惑うている ・・・・・、いや、聖書の中のキリストを最早ほとんど理解出来ないで、何か別の新しい救いや癒しを見つけ出そうと手探りしています。

「イエスはお答えになった。 “行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。”」(マタ v.4)

聖伝と聖書を通して現代の教会が受け継いで来ている “信仰の遺産” に目を留めなさい、そうすれば “今、現に働いているキリストの福音”(Iテサ 2:2,13) の気配に、あなたは気付くであろう。
私たちの知識は一部分にしか過ぎず、不完全ではあるけれども(Iコリ 13:9)、それでも 「主の方に向き直れば、(心の) 覆いは取り去られます。」(IIコリ 3:16)

ですから、だれかが “福音の使者”(マタ v.10) となるのは、知識や学問の多寡によるのではなくて、本物の福音を知り、また感じ取ることによってであります。
そのような “本物の福音の使者” は、教会の歴史においてはいつも少数者でありました。
しかし、「キリストは常に御自分の教会と共におられ、特に典礼行為のうちにおられる」(典礼憲章 7) ことを信じることが出来る人、このキリストにつまずかない人は幸いです(マタ v.6)。

・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より
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373 :老クリスチャン[]:2016/12/09(金) 10:58:02.43 ID:3UJzXjYF
2010年(主日A年) 12月12日 待降節第3主日

イザ 35:1〜10  ヤコ 5:7〜10  マタ 11:2〜11
「兄弟たち、主の名によって語った (旧約の) 預言者たちを、辛抱と忍耐の模範としなさい。」(ヤコ v.10)

旧約聖書の預言者たちの書に親しんで、彼らの信仰と希望に共感するという体験が、どれほど多くのキリスト者の歩みを支えて来たことでしょうか。

「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。 約束されたものを (未だ) 手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声を上げ ・・・・・ 。」(ヘブ 11:13)

この約束の実現である神の国への信仰の “創始者また完成者” は、私たちの主イエス・キリストです(ヘブ 12:2)。
私たちキリスト者は、自分の信仰が “神の約束への信仰”、“約束を実現してくださるイエス・キリストへの信仰” 以外ではあり得ないことを、今年もこの期節に再確認しましょう。
私たちの教会の信仰、教会が公に言い表している希望 (ヘブ 10:23) とは、「罪の赦しをもたらす唯一の洗礼を認め、死者の復活と来世のいのちを待ち望みます」 だからです(ニケア・コンスタンチノープル信条)。

恐らくイザヤのこの預言は、アッシリアの王センナケリブが敗退した頃 (王下19章) に語られたものであろうと推測されます。
現代の教会は今、その預言の実現する日に大きく近づいて、イエス・キリストの第二の来臨を待っています。
私たちは預言者イザヤの当時の信仰に思いを馳せて、心を励まされるのです。

「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、(未だ) 見えない事実を確認することです。 昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。」(ヘブ 11:1-2)

「主に贖われた人々は帰って来る。 とこしえの喜びを先頭に立てて、喜び歌いつつ (天の) シオンに帰り着く。 喜びと楽しみが彼らを迎え、嘆きと悲しみは逃げ去る。」(イザ v.10)

やがて来られる方は、かつておられ、今おられるのと同じキリストであることを感謝しましょう。
そのようなキリストの第一の来臨を追憶する祭典として、私たちは今年も主の降誕の祭りを共に祝います。

・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より
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935 :老クリスチャン[]:2016/12/09(金) 11:01:13.65 ID:3UJzXjYF
2004年(主日A年) 12月12日 待降節第3主日

イザ 35:1〜10  ヤコ 5:7〜10  マタ 11:2〜11
洗礼者ヨハネは牢の中で思い悩んでいました。 彼は神の御業が理解出来ないでとまどっていました。

「来るべき方は、あなたでしょうか。 それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」(マタ. v.3)

現代のキリスト者も、神の終末的救済の実現を理解出来ず、神の国の福音を宣べ伝えることも自ら信じることも出来ない無力感に支配されています。
イザヤの語った終末的救済の実現の徴など、世界のどこにも全く見えないのです。
しかし今年も待降節第三主日に、全世界の教会は聞いています。

「わたしにつまずかない人は幸いである。」(マタ v.6)

世の中の大多数の人々が、クリスマスの喧噪にひとときの息抜きや空騒ぎを求めて、サンタクロースを主人公にして浮かれているとき、再臨のキリストはもう 「すぐ近くにおられます」(フィリ 4:5)。
神の終末的支配が実現しようとしていること、そして神の救済史の御業は決して阻まれることはないということは、さらに真実なのです。

私たちは現代キリスト教の世俗化と荒廃、その権威と社会的影響力の失墜、使徒継承的福音理解と信仰の喪失という事実を、正直に認めてもよいのです。
それは紛れもない現実なのですから。
しかし、その現実のただ中にありながら、私たちは一つのことだけは最早疑ってはならりません。
再臨のキリストはもう 「すぐ近くにおられます」(フィリ 4:5)。
神の終末的支配が実現しようとしていること、そして神の救済史の御業は決して阻まれることはないということは、それらの現実を超えてさらに真実なのです。

・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より
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388 :老クリスチャン[]:2016/12/09(金) 11:14:36.86 ID:3UJzXjYF
2004年(主日A年) 12月12日 待降節第3主日

イザ 35:1〜10  ヤコ 5:7〜10  マタ 11:2〜11
洗礼者ヨハネは牢の中で思い悩んでいました。
彼は神の御業が理解出来ないでとまどっていました。

「来るべき方は、あなたでしょうか。 それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」(マタ v.3)

彼にはその生涯の悲痛な結末が迫って来ていました。
彼は自分の失望の大きな苦しみだけを見ていました。
なんと彼の姿は、現代の教会の有様と似通っていることでしょう。
私たちにも神の御業が理解出来ない。
現代のキリスト者は皆とまどっているのです。
教会は世界に平和と救いをもたらす能力も可能性も最早持っていないという失望感が、人々の心を支配しています。

それに対するイエスの答えは、イザ 35:5-6 と 61:1 への言及でした。
“あなたにはこの事実が見えないのか” とイエスは言われます。
ヨハネの目には、自分をつないでいる鎖と自分を閉じこめている牢しか見えませんでした。
しかしそこにイエスが来ておられるということ、神の終末的支配が実現しようとしていること、そして神の救済史の御業は決して阻まれることはないということは、さらに真実でありました。

現代のキリスト者も、神の終末的救済の実現を理解出来ず、神の国の福音を宣べ伝えることも自ら信じることも出来ない無力感に支配されています。
イザヤの語った終末的救済の実現の徴など、世界のどこにも全く見えないのです。
しかし今年も待降節第三主日に、全世界の教会は聞いています。

「わたしにつまずかない人は幸いである。」(マタ v.6)

・・・・・ 以下、本文参照。
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【イエス】<本家復活>・キリスト教難民スレ第5章【キリスト】 [無断転載禁止]©2ch.net
223 :老クリスチャン[]:2016/12/09(金) 11:54:17.01 ID:3UJzXjYF
>>220 >遠い場所で良かったです。

世界のどこかで惨事が起きると、「*** の中に日本人が含まれていたという情報はありません」 という報道がよく行われます。
それが一般人の心理だということは百も承知の上で、私は一人のクリスチャンとして、いつもひどく抵抗を感じます。
災難にあったのが他所の国の人なら、気にしなくて良いという心の本音を、あからさまに見せつけられるような気がするんです。
(言い訳は、何とでも出来るでしょうが ・ ・ ・ )
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5 :老クリスチャン[]:2016/12/09(金) 12:36:47.70 ID:3UJzXjYF
第二バチカン公会議は、古代教会の時代に倣って、「数段階に分けられる成人の入信準備制度」 を復興しました。
それが 「儀式書 成人のキリスト教入信式」 に取り入れられています。

以前に書き込んだ 【信仰とは】 へのリンクをご紹介します。
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1478019542/288-293
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6 :老クリスチャン[]:2016/12/09(金) 12:40:13.65 ID:3UJzXjYF
2004年(主日A年) 12月12日 待降節第3主日

イザ 35:1〜10  ヤコ 5:7〜10  マタ 11:2〜11
洗礼者ヨハネは牢の中で思い悩んでいました。 彼は神の御業が理解出来ないでとまどっていました。

「来るべき方は、あなたでしょうか。 それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」(マタ. v.3)

現代のキリスト者も、神の終末的救済の実現を理解出来ず、神の国の福音を宣べ伝えることも自ら信じることも出来ない無力感に支配されています。
イザヤの語った終末的救済の実現の徴など、世界のどこにも全く見えないのです。
しかし今年も待降節第三主日に、全世界の教会は聞いています。

「わたしにつまずかない人は幸いである。」(マタ v.6)

世の中の大多数の人々が、クリスマスの喧噪にひとときの息抜きや空騒ぎを求めて、サンタクロースを主人公にして浮かれているとき、再臨のキリストはもう 「すぐ近くにおられます」(フィリ 4:5)。
神の終末的支配が実現しようとしていること、そして神の救済史の御業は決して阻まれることはないということは、さらに真実なのです。

私たちは現代キリスト教の世俗化と荒廃、その権威と社会的影響力の失墜、使徒継承的福音理解と信仰の喪失という事実を、正直に認めてもよいのです。
それは紛れもない現実なのですから。
しかし、その現実のただ中にありながら、私たちは一つのことだけは最早疑ってはならりません。
再臨のキリストはもう 「すぐ近くにおられます」(フィリ 4:5)。
神の終末的支配が実現しようとしていること、そして神の救済史の御業は決して阻まれることはないということは、それらの現実を超えてさらに真実なのです。

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