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神も仏も名無しさん
悟りとは何か

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悟りとは何か
423 :神も仏も名無しさん[sage]:2011/12/20(火) 05:32:09.51 ID:Y5uPnX9J
>>422
これはTMの教師達の多くが誤解してテクニックを認識してる事なのですが、
マントラとは心の中で繰返し唱えるのではなく、マントラの側から自動的に自然に湧いてくるものが本来なのであり、そのマントラの精妙なレベルである「想い」の出所の心地よい感覚こそが味噌なのです。

マントラの側から自動的に湧いてくるからこそ、何の努力も要らない自然で楽な瞑想となるのです。
マントラの出所の精妙な状態とは、既に言葉という決まった形のあるレベルではなく、漠然とした感覚、つまり気と呼べる状態のとでもいうのでしょうか?もお言葉としてはっきりと形のあるものではありません。

それをいつまでも、言葉として形のあるレベルに拘り続けて「マントラ」という事に固着していては、形骸化された「瞑想の様なもの」となってしまうのです。


悟りとは何か
425 :神も仏も名無しさん[sage]:2011/12/20(火) 05:52:38.01 ID:Y5uPnX9J
続き

マントラの側から自然に湧いてくる、何の努力も要らない自然な状態であるからには、瞑想中、マントラ等という事を忘れて、気が付けば他の事を考えていたというのも全く問題ありません。

言葉の出所の心地よい感覚とは、不安定な心の状態を安定させる為の瞑想のコツと言えるでしょう。
波の動きによって海面を漂う船の動きを最小限に抑える為の錨に相当するのがマントラの出所の心地よい感覚と言えます。
その心地よい精妙な出所の感覚の側から、コンコンと泉の様に自動的に湧いてくるマントラの状態を他の事で例えると、猫が機嫌の良い時に喉をゴロゴロ鳴らしますね?あれと同じ状態だと思います。
そのコツとも呼べる感覚は、心地よい感覚だからこそ、他の事を考えていても常に無意識に自動的に維持される様になります。
また瞑想以外の日常でもその感覚が定着してしますので常に落ち着いて集中力のある行動へと繋がります。


悟りとは何か
426 :神も仏も名無しさん[sage]:2011/12/20(火) 06:31:38.40 ID:Y5uPnX9J
続き

心地よい出所の感覚は身体のどの位置に当たるのか?それは漠然としていて、ここだと一ヶ所を特定出来ないものだと言えますが、とりあえずは身体の中心から湧いてくるという事が分かると思います。
更に段々と、その心地よい感覚の出所が明確になってくると、それが脊椎沿いに点在している事が分かってきます。つまりそれが所謂チャクラと呼ばれるものの感覚なのでしょう。
つまりチャクラとは個別にバラバラに点在している状態のものではなく、霊的には全てが重なり合った一つのもの、または、お互いが引き合い、一つに成ろうする方向性の状態と言えるのではないでしょうか?
かと言って、この様なチャクラ等の知識は必要ありません。逆に変に意識しては自然で心地よい状態のものではなくなります。身体が健康な状態である為には、医学的解剖学的な知識が必要であるとは限らないのと同じと言えるでしょう。

そういう意味では、チャクラやクンダリニー等の知識を初めから利用して悟りを得ようとするタイプの瞑想は、勘違いとか誤解から派生した流派の瞑想なのかもしれません。

悟りとは何か
427 :神も仏も名無しさん[sage]:2011/12/20(火) 06:42:52.84 ID:Y5uPnX9J
考えてはいけない、考えないではなく、逆に何を考えても良いのです。

ネバナラヌという方向性では心に不必要な緊張を生み出してしまうからです。

コツが掴めれば、雑念が湧いてきても必要以上、それに囚われなくなります。波に揺られて海面を漂っていた不安定な船が錨を下ろし、漂うのを抑えられるのと同じでしょう。
気が付けば何も考えていなかったという自然な状態が徐々に増えてくるでしょう。

何の努力も要らない自然で楽な状態が瞑想する大前提だと思います。

敢えて努力が必要だとしたら、瞑想する習慣を心がけるという事くらいだと思います。

悟りとは何か
428 :神も仏も名無しさん[sage]:2011/12/20(火) 07:32:04.28 ID:Y5uPnX9J
「悟り」を得る為に瞑想するのではなく「気持ち良い」「楽しい」から瞑想するというのが自然だと思います。

難しい哲学的概念を理解するのが悟りではありません。もしそういう事があるとしたら、それは二次的、副産的な事であり、後からくるものであり、そういう事を考えるのが好きな人、各自が勝手に考えていればよいだけの事でしょう。

自分のしたい事、何気無く自然にした行為が自然の法則や秩序と調和したものとなる様な意識状態こそが、悟りと言われるものの方向性でしょう。ですから、狭義的な意味では全てのスポーツに通じる運動神経とも直結しているのです。

自然な瞑想をする時の「ネバナラヌ」ではなく「気が付けばしていた」という自発的な心の状態の延長線上にあるのが日常の活動となってきます。
そういう意味で瞑想とは単なる「静」や「無」ではなく「動」の1番微弱わ状態であり「在る」の1番シンプルな状態だと言えると思います。

「無」ではなく「ただ在る」という事でしょうか?
瞑想の為の瞑想ではなく、より良く活動する為の瞑想なのであり、矢を遠くに飛ばす為に弓を充分に引いて準備する状態に相当するのが瞑想と言えるのではないでしょうか。

悟りとは何か
429 :神も仏も名無しさん[sage]:2011/12/20(火) 07:35:28.57 ID:Y5uPnX9J
訂正

微弱わ状態×

微弱な状態○
悟りとは何か
430 :神も仏も名無しさん[sage]:2011/12/20(火) 07:58:38.56 ID:Y5uPnX9J
>>424
そんな道理は知りませんし理解していません。また私にはどうでも良い事ですから貴方が勝手に理解していて下さい。

そもそも、それを理解したとして何になるのですか?とりあえず今の私には必要ない事です。
悟りとは何か
432 :神も仏も名無しさん[sage]:2011/12/20(火) 08:19:19.62 ID:Y5uPnX9J
>>431
そういう事を言葉で根掘り葉掘りここで詳細に語ったところで意味はないし、他人には理解出来ないでしょうね。何故ならそれは頭で理解できる様な事ではないからです。

ですからこそ「悟り」と言われる所以であり、各自一人一人が体験するしかないのです。瞑想などの悟りに至る行為の助言は出来ますが、悟りそのものを言葉で表し伝える事はできません。

カレーライスを食べた事のある者同士ならカレーの風味や美味しさを語り合えますが、食べた事のない人にカレーの味を文字で教え様としても無理なのと同じですね。


悟りとは何か
434 :神も仏も名無しさん[sage]:2011/12/20(火) 08:31:48.23 ID:Y5uPnX9J
>>433
揚げ足取りの質問ですか?
それなら、今は常にカレーを食べている状態とでも言っておきましょう。また更に美味しいカレーを求めているとも言えるでしょうか。
悟りとは何か
436 :神も仏も名無しさん[sage]:2011/12/20(火) 08:48:32.32 ID:Y5uPnX9J
>>435
ハイ知っています。更に美味しいカレーを探求している途上でもあります。


悟りとは何か
438 :神も仏も名無しさん[sage]:2011/12/20(火) 09:24:08.18 ID:Y5uPnX9J
カレーを実際に初めて食べて、その味を体験するという方法は様々でしょう。人によってはカレーパンやカレーうどんから入る人もいるでしょう。レトルトのカレーという場合もあるでしょう。

初めはそういう人でも究極のカレーを食べるには、自分で調達したカレー粉スパイスを吟味しブレンドし、新鮮な野菜や肉を炒めてじっくり時間をかけ煮込んだ最高のカレーを味わう事ができるでしょう。

その途上で、いろんなカレー専門店で食べ歩いたり、市販のカレールーで作ったりする体験も必要なのかもしれません。

また家庭菜園で有機野菜を栽培し家畜を飼い、菜の花から油を取り徹底的な拘りで最高のオリジナルカレーを極める人もいるでしょう。

どのレベルで満足するかは人各々でしょうし、とりあえず今は市販のカレールーを使い、八百屋の野菜とスーパーの安い肉で作ってる段階でも、それはそれで、その人が出来る現状での最大の事かもしれません。

しかし角度と方向性はいずれの段階でもカレーなのであり、決して中華丼ではありません。一度もカレー食べた事がない人にとっては想像すら出来ない味でしょう。


悟りとは何か
440 :神も仏も名無しさん[sage]:2011/12/20(火) 09:42:47.81 ID:Y5uPnX9J
>>439
カレーという比喩的な表現を使った説明で、その方向に話を持っていくのは、単なる表面的な揚げ足取りなだけで、意味がないですね。
ボケたつもりなら、それに対する突っ込みを考えてる時間が無駄なだけです。
私にとっては、貴方がカレーの味を知ってるのか否かや、どの段階にあるのかには全く興味ありません。御自分の好きな様になさって下さい。

悟りとは何か
445 :神も仏も名無しさん[sage]:2011/12/20(火) 14:35:49.13 ID:Y5uPnX9J
根本的な大きな勘違いをしているのが伝統的な仏教関係者の知識ですね。
正しい生活、正しい行いによって悟りが得られるのではなく、悟りの意識状態があるからこそ、その(何気ない)行いが正しくなり結果的には正しい生活を送れる様になるのです。
原因と結果、手段と、その成果が逆転され、それが知識として蔓延しているのです。上のレスでも先に述べましたが、悟りと呼ばれる状態とは、在るがままの何気ない普段の行為が、自然の法則や秩序と調和したものとなる様な意識状態である、というものだと言えるでしょう。

書物を読んだり人から聞いた知識を利用してやる行為は、補助的なものであり、場合によっては単なる偽善となってしまいたす。
自分自身が本当は何がしたいのか?という内なる魂の叫び声に耳を傾け、自分自身に正直に生きないと、頭で考えた計算高い行動ばかりしていますと、心に緊張が生じ、ストレスを蓄積していく事になるでしょう。


悟りとは何か
446 :神も仏も名無しさん[sage]:2011/12/20(火) 14:50:22.55 ID:Y5uPnX9J
物に対する執着を捨て、不必要な物を所持しないという事が本当に必要な事なら、その事が自然に行える意識レベルになれは自然とその様にするでしょう。
まだ色々な物に執着してる意識レベルであるのに、上記の様な知識に従って不自然にその事を成すと、処分してしまった物に対する未練から後悔し、思い悩む人もいるのではないでしょうか?

まだ物に執着してる自分がいるのなら、それが今のあなたの正直な自分自身のレベルなのですから、その正直な自分を認めて、素直に執着していれば良いのです。

ネバナラヌ否定的な意識からではなく本心から積極的に「〜シタイ」という思いで事が成されるべきでしょう。


悟りとは何か
447 :神も仏も名無しさん[sage]:2011/12/20(火) 16:05:47.91 ID:Y5uPnX9J
物質的な執着が無くなってきて、不必要に物を欲求する事がなくなるという意識状態こそが肝心なのであり、既に所有してしまった物を無理に処分する必要はないでしょう。経済的余裕がないのに、それを処分するにはそれ相応の費用がかかる場合もあるかもしれません。

今は必要無かっても、今後それが必要な時がくるのかもしれませんし、それを必要とする人が将来、現れるのかもしれません。その時は快く譲渡すれば良いでしょう。

本当に処分したいと思う物を処分するのは、その人の自由なのですから。

悟りとは何か
448 :神も仏も名無しさん[sage]:2011/12/20(火) 18:17:48.46 ID:Y5uPnX9J
難解な哲学書や宗教教義の内容を丸暗記し、頭でそれを理解しようとしても悟りとは全く関係のない事だと言えるでしょう。
その教義や教えを無理に実践しようとしても、表面的な自己満足に浸る事になるだけでしょう。
また賢者になったつもりで、気分を装うのは単なる偽善者なだけではないでしょうか。
在るがままの底辺レベルの自分を認めて、正直に行動する事の方が堅実な生き方ではないでしょうか。




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