- 悟りとは何か
293 :神も仏も名無しさん[sage]:2011/12/12(月) 09:52:54.92 ID:3+6p8ME7 - その「至福意識」ってのよくわかる。
自分の場合は1週間の坐禅接心で、そのコツというか感触は掴めた。その後1年くらい 坐禅をしていたが、最近は止めている。というか、坐禅をしなくても日常的に至福感を 掴めるので、毎朝定期的にやる必要をあまり感じなくなった。今は毎朝、1時間走る。 走った後の最高の至福感(ランナーズハイ)は、坐禅の技術を身につけているからこそ できるのだと思う。 自分の場合はスポーツでの至福感は気持ちいいという以上のものではないが、常にピーク パーフォマンスを求められるプロの選手などにとっては、僅かなトレーニングの違いや、 精神的な安定性が大きく影響する。レベルが高くなれば高くなるほど繊細さが求められる。 そういう世界では、「単なる快感」では説明できない影響力を持つと思う。 そういう意味では、レベルの低い人にとっては、瞑想などは何の足しにもならないだろう。 栄養学や、基礎的な勉強の方がはるかに意味を持つ。坐禅などまったく無意味だ。
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297 :神も仏も名無しさん[sage]:2011/12/12(月) 12:36:29.16 ID:3+6p8ME7 - >わたしの例で言うと、エネルギーの開放が起きてから、一週間ほど、エクスタシーが続いた。
>ほとんど、何も考えることはできなかった。 ・・・・・ >最初の衝撃で自我は落ちた。 「エネルギーの開放」と「自我が落ちる」というのが、悟りの場合のセットなんですねー。 エックハルトトールなんかも同じような体験を言っているけど、彼の教えとしては 「自我を落とす」ことだけなんですよね。 教えだけで「自我を落とす」ことはできるんだろうか? もし条件として「エネルギー開放」が必要なら、彼の教えはあまり意味がない。
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303 :神も仏も名無しさん[sage]:2011/12/12(月) 15:55:32.23 ID:3+6p8ME7 - >1日のうちの僅かな瞑想と日常的な活動を繰り返す事により、瞑想中に得られた超越的な
>至福意識が瞑想以外の日常的意識として持続的に定着し、瞑想と日常的意識との隔たりが >取り除かれていくという意識状態になってくる、 こういう穏やかな悟りもあるのかもしれない。 穏やかではあっても、実は非常に強力に作用するということもありうる。 自分の場合も、日常の行動に本当に些細な枷(戒)を加えてみたら、精神的には劇的な変化 を起こすことになった。 一方坐禅でも、飯田とういんなどの系統(前田ギエン、原田雪渓など)では劇症的な悟りが いろいろ報告されている。つまり急激なエネルギー開放と自我の崩壊がおこる。それが悟り とされる。ただ悟り以後が本当の修行だとされる。
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304 :神も仏も名無しさん[sage]:2011/12/12(月) 15:57:04.93 ID:3+6p8ME7 - >重要なのは、自我が落ちるという方であることは、確かです。
マラソンなら、より速くを目指して、より多く練習すれば、確実にレベルアップできる。 不可能に見える目標であっても、努力を惜しまず、一歩一歩前進すれば、到達できる。到達 出来ないにしろ、前進している実感は掴める。たいていの場合、努力は報われる。 しかし、「自分とは何か」とか「自我をおとす」と言われても、捉えどころがない。 「努力は無駄」とさえ思える。 坐禅やヨガは悟りを得る手法だから、もちろん努力が無駄ということはない。努力した 人のほんの一部は悟りを得ることに成功する。そして多くの人は方法違いの努力をしている。 一所懸命努力しているのに、進歩しない。 同じことを指しているのに、僅かな言葉の差異が反発や反感に変わる。こういう捉えどころ のない難しさがある。
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309 :神も仏も名無しさん[sage]:2011/12/12(月) 18:06:31.40 ID:3+6p8ME7 - 自分が坐禅を教えてもらった老師は、在家のまま師について学び、20年前に悟りを得た
そうだ。その後10年間厳しい修行をして、ようやく在家を指導することを決意された。 その修行がどういうものかは分からないが、接心の中でときおり行われる講話には、洗練 された伝統のようなものを感じた。恐らくそういう話術も、相当の練習をしないとマスター 出来ないと思う。悟りは一つの重要な通過点ではあるが、そこから先の修行もまた大切だ。
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