- エホバの証人ざけんなよ!100
672 :神も仏も名無しさん[]:2011/12/06(火) 00:33:45.34 ID:l/zkJWCq - >>668
>聖霊=神の力と考えても問題ない表現だし どこに聖霊が神の力と書いてある? むしろ第二コリント6章6、7節 のように「純真、知識、寛容、親切、聖霊、偽りのない愛、 真理の言葉、神の力によってそうしています。左右の手に義の武器を持ち、」 と聖霊と神の力は分けて書いてあるが? また、水や血など人格のないものを擬人化している箇所は確かにあるが、それらの表現は少なく、他の箇所で人格がないものである事が明らかである。 さらに、教会はそもそも、人の集まりであるから、神と同等の位置ではない。 神の子といえばイエスであり、万物の創造者であるが、 君は神の霊といえば、なぜかエネルギーを想像するw 神の子→独り子の神 神の霊→聖霊なる主
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675 :神も仏も名無しさん[]:2011/12/06(火) 00:42:20.80 ID:l/zkJWCq - >>674
まさに聖霊に逆らう罪だなw
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678 :神も仏も名無しさん[]:2011/12/06(火) 01:33:36.33 ID:l/zkJWCq - >>677
なら、イエスの弟子たちはイエスを神とし、イエスの名を伝えていたからサタンの手先だとでも? また、イエスは「わたしはある」 とはっきり述べているし、トマスの信仰告白も受け入れている。
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680 :神も仏も名無しさん[]:2011/12/06(火) 01:53:13.18 ID:l/zkJWCq - >>679
ヨハネの福音書10章の30節でイエスは「私と父はひとつです。」と言っています。 これを聞いただけでは、イエスが自分の事を神だと言っているのではないように思えます。 しかし、イエスのこの言葉に対しユダヤ人達はこう言いました。 「良いわざのためにあなたを石打ちにするのではありません。冒涜のためです。あなたは人間でありながら、自分を神とするからです。」(ヨハネの福音書10章33節) ユダヤ人達には、イエスが自分のことを神だと言っていたのが解ったのです。 しかもこの後、イエスはユダヤ人達を否定して「私は自分が神だとは言わなかった。」などとは言いませんでした。 ということは、「私と父はひとつです。」(ヨハネの福音書10章30節)と言うことによって、イエスは自分を神だと認めているのです。
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681 :神も仏も名無しさん[]:2011/12/06(火) 01:55:41.03 ID:l/zkJWCq - >>679
ヨハネの福音書8章58節は、もうひとつの例です。 イエスは「まことに、まことに、あなたがたに告げます。アブラハムが生まれる前から、私はいるのです。」と言っています。 ここでも、この言葉を聞き、ユダヤ人達はイエスを石で打とうとしました。(ヨハネの福音書8章59節) イエスは自分のことを「わたしはある」という名で呼びました。 これは旧約聖書に書かれた神の呼び名です。(出エジプト記3章14節) イエスが自分を神と呼んだからこそ、ユダヤ人達はそれを神への冒涜とし、イエスを石打ちにしようとしたのです。 ヨハネの福音書1章1節に「ことばは神であった。」という箇所があります。 ヨハネ1章の14節には、「ことばは人となって」という箇所があります。これは、イエスが、人であり神様であったということを述べています。 イエスの弟子であるトマスは、イエスのことを「私の主。私の神。」(ヨハネの福音書20章28節)と呼んでいます。 これについてイエスは、反論してません。 使徒パウロは、「大いなる神であり私たちの救い主であるイエス・キリスト」(テトス2章13節)と述べています。 使徒ペテロも同じように「私たちの神であり救い主であるイエス・キリスト」(第二ペテロ1章1節)と述べています。 そして父なる神様が、イエス様がどのようなお方であるかを述べています。 「御子については、こういわれます。神よ。あなたの御座は世々限りなく、あなたの御国の杖こそ、まっすぐな杖です。」 イエスの神性について旧約聖書には次のように述べられています。 「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は、不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君と呼ばれる。」
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687 :神も仏も名無しさん[]:2011/12/06(火) 09:05:04.79 ID:l/zkJWCq - >>686
違和感などないね。 君らの論法では父と同列に子や聖霊が挙げられていても神ではないという論法だろ。 ならば、人格のないものの中に混じっているからといって聖霊に人格がないとは言えない。 北風引用 エホバの証人は、神の聖霊を、非人格的な神の「動的エネルギー」(『聖霊―来るべき新秩序の背後にある力』1977年日本文発行 ものみの塔聖書冊子協会)としています。 彼らの用語でいうところの『神の活動力』ということです。 その根拠としているのが、聖書で「注ぐ」とか「満たされる」、「覆う」と言う表現が使われていることと、ヘブライ語ルーアハには息、風などの目に見えないながら作用する力という意味もあるからだと説明します。 しかし、ルカ4:14や、ルカ24:49、Uコリント6:6.7では、神の力と聖霊が別のものとして書かれています。 聖霊の人格性についてもTコリント2:10-11,12:11、エフェソ4:30、イザヤ63:10、使徒5:3.4.9,7:51、マタイ12:31-32、ヘブライ3:7-11,10:29、ヨハネ14:16.26,15:26,16:7-8.13-15、ローマ8:26-27、他、 などを読めば明らかです。 そもそも神は霊であられ(ヨハネ4:24)ますし、天使たちも霊的な存在です(ヘブライ4:24)、悪魔や悪霊も霊的存在です(マルコ7:25-26)。 これらはすべて人格的存在なのに、聖霊だけが非人格的な動的エネルギーとするのは、なんとも理屈に合いません。 それなら、天使は神からの実行的な動的エネルギーで、悪魔や悪霊は、神の意志と反する方向に作用する動的エネルギーであり、聖霊は神ご自身の直接的働きだとする方が、まだ一貫性があると言うものです。
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689 :神も仏も名無しさん[]:2011/12/06(火) 10:20:30.38 ID:l/zkJWCq - >>688
いや、どちらを信じても構わんが、その結論には何の証拠もない。
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691 :神も仏も名無しさん[]:2011/12/06(火) 10:29:37.52 ID:l/zkJWCq - >>690
過敏に反応するな。 世の者のネラーw
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694 :神も仏も名無しさん[]:2011/12/06(火) 10:47:04.25 ID:l/zkJWCq - >>688
>権力が創り上げた偽りの神ってことでOKだな! これを詳しく説明せよw
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697 :神も仏も名無しさん[]:2011/12/06(火) 11:47:06.24 ID:l/zkJWCq - >>695
>三位一体の真理内容は『聖書の中に啓示されている』が、三位一体の教理的表明は『突如として出現したわけではない。』 >>696 コンスタンティヌスはアリウス派の支持者であり、 晩年にはアリウス派で洗礼を受けている。 コンスタンティヌスが会議を召集した事は事実だが、会議に圧力をかけたという説には説得力はない。
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699 :神も仏も名無しさん[]:2011/12/06(火) 11:58:30.84 ID:l/zkJWCq - >>698
ニカヤ総会議(325年)の決定は、皇帝コンスタンティヌスの政治圧力によるものですか。 答 そうではありません。皇帝が最終的に権威をもって裁定を下したのは事実ですが、それは会議の結果を覆したのではなく、会議の合意を権威によって認め、論争を終結させる目的がありました。 しかし権威による解決は、アリウス派はもちろんアタナシウス自身も納得せず、論争を終結できませんでした。 その後、ニカヤ信条に反対するアリウス主義の勢力が優勢になり、皇帝は常に多数派に回りました。アタナシオスは5回島流しにされ、そこで死にました。最終的に、新しい世代の教父たちが、聖書研究を通して、三位一体を支持しました。 381年のコンスタンティノポリス総会議で、三位一体は318名の教父たちによって決議採択され、キリスト教信仰の生命線が守られました。
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707 :神も仏も名無しさん[]:2011/12/06(火) 12:29:31.49 ID:l/zkJWCq - >>706
都合のいいのは君らでは?(笑) 聖霊を非人格的なものに限定できる箇所はない。
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708 :神も仏も名無しさん[]:2011/12/06(火) 12:33:17.02 ID:l/zkJWCq - 訂正
聖霊を非人格的存在だとみなす根拠はない。
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