- 仏教 議論スレッド 25
730 :神も仏も名無しさん[]:2011/12/04(日) 00:46:15.75 ID:ZPgWxQWQ - >>701
混乱してるみたいだからまず「悟り」が何かより「迷い」が何かを問うといい。 特別にめちゃめちゃ気分が良いとか、 ハイな気分とか、それって結局「迷い」の延長でしかないよ。 「迷いを脱すること」 をいま仮に悟りと呼んでるだけだから 何か特別な状態になることが悟りという訳じゃないんだよ。
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736 :神も仏も名無しさん[]:2011/12/04(日) 02:14:23.81 ID:ZPgWxQWQ - 結局、脳内であーだこーだ言ってるだけ。
そんなんどこまで行ってもぜんーぶ丸ごと「迷い」。 そういう「これが悟りだ」、とか「これが狂気だ」、とか思い込むことが 「迷い」。で、迷いを脱することが悟りだからな。
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906 :神も仏も名無しさん[]:2011/12/04(日) 05:47:22.36 ID:ZPgWxQWQ - 「有る」とか「無い」とかは相対的な概念だよね。
もしも誰かが「無い」と言えば、即座に別の人から えっ?「何が」無いの?と聞かれる羽目になる。 で、実際に「無いもの」を限定しないと意味をなさないから、 例えば「鉛筆が無い」と言えば、その無いものが鉛筆である、と限定することになるわけ。 ということはその「無い鉛筆」は無い状態で限定され心の中には不在として存在する状態になる。 すなわち「無い鉛筆」として有る状態になるわけだな。 その人は心に「鉛筆の不在」を刻み付ける。 それはつまり、「限定そのもの」はそこに有って、その限定が不在の形で存在している、ということを意味する。 さて、ここで疑問である。 仏教でいう「無我」は実際には何を意味するのだろう? 我の存在を認めた上で、その我が無い状態を意味するのか? そうだとすると上記の「鉛筆の不在」と同じで我の存在を「不在の形で認めている」 ことになってしまう。 それとももっと根源的に、そもそものはじめから、これが「我」です、というときの、 その「我という限定そのもの」を否定しているのだろうか? そうだとすると「無い」と説明したときに、その無い我の不在でさえ発生しないことになる。 なぜなら最初から何が無いのか、無いものを限定さえしていないのだから。 答えはもちろん後者だが、この場合、どこからどこまでが「我」であるか、 固定した実体を限定しないので全ては不明瞭になる。 こういう話を少しでもわかりやすくするために大乗では「空」という言葉を使う。 空は無ではない。なぜなら「有」と「無」という相対概念を生み出す限定そのものを投げ捨ててしまっているから。 どうも上座部系の人はこういうことが分からないらしく 単純に「釈尊は無我を説いた」と言いたがるが、それでは不十分で間違いと言わざるをえない。
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909 :神も仏も名無しさん[]:2011/12/04(日) 12:38:49.71 ID:ZPgWxQWQ - >>907
>無常を悟ったら無我と苦がわかるし、苦を悟っても無我と無常がわかる。 無我が分かる、と言っているのは誰でしょう? そこにヒントがありますよ。
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911 :神も仏も名無しさん[]:2011/12/04(日) 12:45:16.15 ID:ZPgWxQWQ -
辞書で分かったら仏教なんていりません。 最近、上座部系のナンセンス説法があまりにひどいので書いてみただけです。
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913 :神も仏も名無しさん[]:2011/12/04(日) 13:10:24.52 ID:ZPgWxQWQ - その我と言われるものが何かを見いだすのが仏教な。
最初から分かってたら誰も苦労しない。 汝自身を知れ、なのよ。結局。
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914 :神も仏も名無しさん[]:2011/12/04(日) 13:11:40.96 ID:ZPgWxQWQ - そうね。無我を説いた、というのは上座部系のウソだね。
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916 :神も仏も名無しさん[]:2011/12/04(日) 13:33:17.60 ID:ZPgWxQWQ -
>>906で説明した通り。これを読んで意味が分からないなら何を説明しても無駄。 「我」という言葉は単なる言葉、それが具体的に何を意味するかは別。 世間一般で我と言われているのは、あくまでも通説で、結局は頭の中の概念でしかない。 突き詰めて問われると誰も「これが我だ」と答えられない。 もしもそういう「我」が実際にあると仮定すると ホムンクルスの小人のような矛盾を内包することになるしね。 あとよく言われるように無我と非我は意味が違うよ。
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918 :神も仏も名無しさん[]:2011/12/04(日) 14:28:52.10 ID:ZPgWxQWQ - 無数の生涯にわたり、あてどなく輪廻をさまよってきた、
家の作者をさがしもとめて。 更に更にと、生まれ変わるのは苦しいことである。 家の作者(渇愛)よ、汝の正体は見られたり。 汝がもはや家を作ることはあるまい。 汝の梁(煩悩)はことごとく折れ、家の屋根(無明)は壊れてしまった。 形成するはたらき(行)からこころは離れ、渇愛を滅ぼし尽くした。 <ダンマパダ 153、154偈>
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919 :神も仏も名無しさん[]:2011/12/04(日) 14:32:54.39 ID:ZPgWxQWQ - >家の作者をさがしもとめて。
>汝の正体は見られたり。 家の作者を探したりとか、汝の正体を見た、で あってそれまで正体は見られていなかったのな。 「闇」は単に光の不在であって 「闇という実体」があるのではない。 そもそも無い実体を有ると思い込むから話がおかしくなる。 正しく見よ、あるがままに。 ということなんだね。
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