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3.1.0
【心行】高橋信次・佳子先生の智慧【TL人間学】

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【心行】高橋信次・佳子先生の智慧【TL人間学】
85 :3.1.0[sage]:2011/11/11(金) 01:03:26.97 ID:VAfswpb6
>>83
まじめな疑問ととらえていいですか?
他の件についてコメントをまとめていたので、夕方以降にコメントします。
【心行】高橋信次・佳子先生の智慧【TL人間学】
86 :3.1.0[sage]:2011/11/11(金) 01:11:41.19 ID:VAfswpb6
>>81
>84でニンザブローさんのコメントがあることを知りませんでした。まずは自分のまとめていた考えをそのまま出します。

>【私は、正しさを超えて、他を生かすことが利他であり、また正しさであると思っています】
難解です。ヘーゲルの哲学を読んでいるみたいです。ですが基本条件は分かっているのでなんとかなりそうです。
基本条件というのは、「コメントに悪意が無い」「正法神理を実践努力中」「まじめに考えている」です。

言葉を字句通りに解釈した場合の難解なポイント
「正しいというものが超えられるのか」「仮に正しさを超えているものがあるとして」「なぜそれが正しさという観念に戻るのか」

私の思考プロセスを細かく解説すると長文になり過ぎるので、結論を出します。意訳しました。

【私は、正しいとか間違っているとかの人間的観念、例えば対象に対する好き嫌いに関わらず、良心(善我)の導きで
他者にとって役立つことや成長を願って助力することが、神の愛という意味の利他という行為であり
それが真の正しさであると思っています】

このような解釈でいいですか?これはまさにスピリチュアリズムそのもの正法神理そのものです。

すみません>84はさらに難解なので、真剣に考えますのでコメントはしばらくお待ちください。
【心行】高橋信次・佳子先生の智慧【TL人間学】
87 :3.1.0[sage]:2011/11/11(金) 01:14:33.08 ID:VAfswpb6
>>81
私の理解出来る範囲での簡単な解説

「正しいというものが超えられるのか」・・・そもそも正しいという考え方はどこからくるのか?それは一般常識的には
人間側がこしらえた正しさが基準となります。つまり人間的な観念です。人間的な観念には敵とか味方とか損得とか
様々なこの世の五官六根から生じたエゴ(我欲)による判断が含まれています。人間による正しさの基準は
時とともに進歩することもあるでしょう(奴隷という存在を認め使役することが現代では正しいとされないように)。
しかしこのような時代や地域によって変わる判断基準は正しいという基準にはなりません。不確定だからです。
ということは、仮定としてそのような不確定な基準では無く、確定した基準があれば、「超えた」と言えるでしょう。

「仮に正しさを超えているものがあるとして」・・・上で示した判断基準は正法神理ではありません。
宇宙の運行は偏りもなく恣意も無い中庸で育まれています(諸法無我)。そしてこれこそが常に確定している
宇宙で唯一の正しさです。人間的な観念に左右されない、人間側から見れば人間的な観念の正しさを超えた唯一の
正しさ、判断基準と言えます。(中間説明省略)宇宙の中枢であり支配の中心である大霊の一部を宿している人間は、仏教にある
「一切衆生悉有仏性」と伝えられるように人間みな神の子です。本来の善我は慈悲と愛の塊です。

「なぜそれが正しさという観念に戻るのか」・・・以上で明らかなように、人間的な観念でこしらえた正しさは
本当の正しさではなく、諸法無我という正法神理に基づく判断基準が正しさの本当の姿ということになり、よって
それこそが真に正しいと言えるわけです。

よって【私は、正しさを超えて、他を生かすことが利他であり、また正しさであると思っています】は正法神理であり
スピリチュアリズムであり、人間の目指す道であり、霊性向上の近道であり、理想社会構築への近道です。
あとは・・・志のあるみなさん、お互い実生活で正法神理実践に励みましょう、ということですね。
【心行】高橋信次・佳子先生の智慧【TL人間学】
97 :3.1.0[sage]:2011/11/11(金) 21:41:07.67 ID:VAfswpb6
>>83
「謎の霊体X」さんへ回答いたします。以下、疑問形が多くなりますが、真摯に考えた結果です。

>八正道とは、何のためにするのか?
八正道はしなければならないものなんでしょうか?私はそうは思いませんしこだわりません。
八正道は自分自身の霊性向上につながる方法の一つだとは思います。
しかしこれだけが全てではないと思うし、そしてそれは強制的にするものではないと思います。
世の中を見渡せば、八正道など知らなくても人々や社会の役に立っている人がいくらでもいます。
このような自分のことよりも他者を優先し善意を実行することは結果的に霊性向上につながると考えています。
つまりまず大切なのは「動機」です。自分の未熟さを克服したい、自分を何かのために役立てたい、と
真剣に思うなら、方法はその人に最も馴染み無理なく実行できることをやればそれでいいと思います。
そのために必要なのは「己を知ること」だと思います。

自分とはどんな人間なのか。どんな個性を持っているのか。どんな長所短所を持っているのか。などなど。
また、自己修養の方法が分からない場合は、詳しい人に聞いたり、あるいは古今東西の賢者が残してくれた本を
参考にするのもいいと思います。その上で、今の自分の個性にとって最も必要とされる方法を試し、成果を反省し
また別の方法を試し、というように思考錯誤して辿りついた方法にするのが、結果として最も自分にとって
ふさわしい霊性向上の道・人の役に立つ道、になると思います。宗教や思想などは実施者にとって対立の種になることが
多いのですが、私はどの方法がどの方法よりも最も適している、というようには考えません。比較は無意味と考えています。
最も適しているのは人間一人一人に様々な個性があるように、その人にとって最適だと思うのを自ら見つけ実行すること
だと思います。霊魂の段階、成長度によってその時点で自分に合う方法を行えばいいと思います。
まずは自分の個性を卑下せず慢心せず冷静に見極めることが一番大切だ、と私は思います。
【心行】高橋信次・佳子先生の智慧【TL人間学】
98 :3.1.0[sage]:2011/11/11(金) 21:42:36.67 ID:VAfswpb6
>>83
>「一言で言うなら、「天国にいたころの自分に戻す」ための訓練ですよ」
>天国にいたころ(生まれる前)の自分なら、どのように行動したか?
>を今の自分に実現させるための訓練だということでした。

天国にいた頃の自分に戻すことがなぜ八正道につながるのでしょうか。なぜ天国に戻った時に前の自分よりもさらに
成長を果たすため、ではないのでしょう。現状維持のために生まれても考え方が後ろ向きだし、生前に自分の人生計画を
立てるとしたら、天国にいる現在の自分よりもさらに一歩でも二歩でも霊性向上と社会貢献ができるようになろうと
考えるか、あるいは自分の持っているカルマを少しでも多く修正しようって考えるのではないでしょうか。
なぜ天国にいた頃という観念でこの世を考えないといけないのでしょうか。何事かを志しそれを成そうと決意した場合に
必要なのは今ここにいる自分がどうしたいのか・どうありたいのかを認識し、それを真剣に実施するだけで充分では
ないでしょうか。わざわざ天国の話を持ち出すことも必要ないと思います。

さらに過去の自分があったとしても、それが白紙状態になっているのだから自由な思考と方法で新しい経験を
積むことが許されているはずです。自分の信念と責任において、八正道を選ばず、何か別の方法で生き抜いても
それが自分の良心と対話して得られた結果なら、充実した人生になると思います。そして「謎の霊体X」さんが
どのような立場の方か分かりませんが、私達には守護霊・指導霊という存在に、間違った道を選ばないようそれとなく
示唆によって指導を受けられるらしいのですが(真剣に人生を生きている人の場合)、そのような指導を受けても
正しく自分が生前に計画した人生を選びとれないと言われるのでしょうか?
【心行】高橋信次・佳子先生の智慧【TL人間学】
99 :3.1.0[sage]:2011/11/11(金) 21:46:45.86 ID:VAfswpb6
>>83
全く別の観点から。上の2つの考え方は「霊性・個性」を立脚点としたものです。今度は「機能面」から考えます。

霊界に入りそこの住人となった場合、この世とは違って全てが明らかになると言われています。他者の考えていること
などは全て丸裸だということです。また思っているその波長によって相応しい階層に導かれるとも言われています。
そして思念によって形あるものを生み出したり引き寄せたりも出来ると言われています。それを現わしたり現れたりするのは
思念の強さに比例するようです。つまりこれが意味するのは何か。考えてみるだけで恐ろしいことです。

うっとうしいから近寄ってくるな、という思いが出現した瞬間、自分がどこか別の場所に移動していたりとか、対象が
消えていたとか、あるいはあの白いドレスの中味はどうなっているんだろうなどと、美しい女性の前でごく自然に
その想像したイメージが浮かんでしまったとしたら・・・少なくても霊界のエチケット、一般常識には反しています。
「正見」「正思」「正念」はしっかりこの世で身につけておかないと、霊界ではむき出しの思いや感情を持った者ばかりの
階層に引きつけられてしまいそうです。むき出しの思いや感情を持った者ばかりの世界は霊性レベルが低いところでしょう。
そこにいたらおそらく心が安らぐことも落ち着くことも出来なくなると思われます。

日頃から「邪な思いは考えても心に思い浮かべてもダメ」ということでしょう。非常にこれはやっかいな話です。
また、最低限の霊界エチケットを身に付けていても、「正業」「正命」「正精進」によって常に向上心をもって何かのために
働いたり人間関係を築き上げることが出来ないと、やはりそれは怠け者がいる階層に引き寄せられてしまうでしょうね。
怠け者がいる階層は退屈な世界であってみな苦しんでいると思われます。
さらにこれらがしっかり行えていたとしても「正定」によって自分の間違っている点がないかを反省しておかないと
知らず知らずのうちに自分の抱えているカルマが出っぱなしになっていると思われます。そのようなカルマを抱えたままだと
自分をより進歩させたいと思っても出来ないと思われます。以上によって八正道は霊体の機能面にとって
良い影響を与えられるものと考えます。霊性向上に役立つことは言わずもがなです。
【心行】高橋信次・佳子先生の智慧【TL人間学】
100 :3.1.0[sage]:2011/11/11(金) 22:02:01.32 ID:VAfswpb6
>>84
>他を利するとはどのようなことなのかを考えてみました。信次先生は、『使命と目的を果たす』とおっしゃってますが、
>仏教ではこれは本願成就のことだと思います。

難解です。まずどのような意味で本願成就という用語を使われたのか分からないので
資料を引っ張って考えてみました。すみませんどうしても分かりません。

1.大無量寿経の本願成就文から派生した考え方
諸有の衆生、其の名号を聞きて信心歓喜せんこと乃至一念せん。至心に廻向せしめたまえり。
【彼の国に生れんと願ずれば、即ち往生を得、不退転に住す。】唯五逆と正法を誹謗せんとをば除かん【 】が本願成就
http://www.shinrankai.or.jp/b/shinsyu/infoshinsyu/qa0422.htm
他力を信じるのではない。信じるのが他力であるという。それを本願成就という。本願成就の自覚である。安田理深「他力の信心」
ttp://www.asahi-net.or.jp/~yi9h-uryu/sinnzinn.htm

2.仏教用語のそれぞれの単語のミックス
本願「菩薩の誓願」+成就「智、徳を完璧に備えた状態」
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E9%A1%98
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%90%E5%B0%B1

3.国語として一般的に使われている単語のミックス
本願「本来の願い。本懐。」+成就「物事を成し遂げること。また、願いなどがかなうこと。」

>私は、利他とは『本願を果たすための助力とその環境を与えること。本願を果たすために役立つことすべて』と考えています。
上のコメントの1.2.3.のうちのどれかの意味につながるのが、この「本願」という意味でしょうか?
それとも、それ以外の意味で使いたかったけど、自分の真意を表現するために他に適当な用語が無かったので「本願」という
単語を便宜上、使用されたのでしょうか?もしそうであれば、もう少し分かりやすい表現で解説していただけると助かります。

本願の意味が分からないので、私の思考は前に進まない状態です。申し訳ありません。洞察力不足を痛感しています。
【心行】高橋信次・佳子先生の智慧【TL人間学】
101 :3.1.0[sage]:2011/11/11(金) 22:34:42.45 ID:VAfswpb6
>>96
>>>58
>>その方法を高橋信次氏が詳しく解説されました。それ以外に何がいるのでしょうか?
>>そこからはずれた時代考証・人物考証・超常現象考証に時間を割くことは、正法神理から見ると現実逃避です。

>お言葉ですが、これは、高橋信次が戒めた、盲信に近いものがあるのでは?考証に耐え得る教義でないならば、徒に信じようとするのは逆に
>危険だと思います。そこには、自分の理想を教義に投影してその結果として信じたいから信じるという逃避が存在する恐れもあると思うのです…。
>一見、疑問追究を宗とする高橋信次に従っているようですが、当の高橋信次本人については、特権的地位に位置づけているようにも感じられる
>のです。

質問ありがとうございます。若干の誤解があるものの、あなたが言わんとしていることは、私が発言した内容と
矛盾しないと思います。ただ、私の真意が上手に伝わらなかっただけのように思います。

それ以外に何がいるのでしょうか?という発言が、あなたにとって「盲信」を感じさせてしまったという事ですか?
私が言葉足らずで真意が伝わらないようなので、細かく言い直します。
高橋信次氏が解説されている、人生訓(人は如何にして生きるべきや?)のみを重視し、それを受け売りでは無く自分の頭で考え
実生活上で自分の考えた通りに、身の丈にあった方法(理解出来たこと・または共感出来ること)で試してみる。その結果については
反省し、さらにまた試してみる。そのように実体験の反復作業を重ねていく以外は不要と思っています。というのが真意です。

なおこのスレッドの中心的な話題が高橋信次氏になるので、高橋信次氏だけを取り上げて発言していますが、同じことを
例えばキリストの新約聖書だとか仏典だとかソクラテスだとか孔子だとか、古今東西あらゆる賢者の人生訓についてもあてはめて考えています。
また、スレ違いになるので細かく取り上げませんがスピリチュアリズムのシルバーバーチとかに対しても同様の考えでいます。
【心行】高橋信次・佳子先生の智慧【TL人間学】
102 :3.1.0[sage]:2011/11/11(金) 22:36:50.21 ID:VAfswpb6
>>96
ショウペンハウエルじゃないですが、結局、読書は他人の思想の残り滓を吸収するようなもので、自力で考えたこと(智慧を出すこと)には
遠く及びません。これはもちろん高橋信次氏の著作にも言えます。高橋信次氏は高橋信次氏であり、私達とは違う個性をもっています。
自分の現在おかれている状況を把握しながら、何が自分にとって必要な教訓となり得るのか?その立脚点を念頭にしつつ
説かれた教義を吟味し不要なものはふるいにかければいいと思います。これは信じるか信じないかということではなくて
理性や知性や良心を使って行う作業です。また、それとは別に私は確かに高橋信次氏を尊敬していると言いました。
ですが尊敬しているだけで、偶像崇拝しているわけではありません。よって高橋信次氏の言っていることだからこれは正しい、とか
それがたとえ人生訓についての話であっても、することは絶対にありません。必ず自力で情報の吟味はしています。

>正法者が正法でないものを駆使して人の意識の自由を縛ったら、その反作用は無間地獄にも匹敵するというのがGLAの教義だと思います。
>だとするならば、ないで済ませられるならそのほうが望ましいと記されてはいるものの、ただちに「戒律が正法神理に適っていない」とすること
>には若干の疑問が生じます。もし地獄に匹敵するような行為であれば、高橋信次は4巻の釈迦伝のうちいずれかで明記するはずだと思うからです。

まず、私はGLAの教義がどんなものか知りませんので、あくまでも私自身の考えで回答させていただきます。
もう一度、私の>60>61を参照していただきたいのですが、これらは全て検証不可能な物語に対する個人的な推論です。
その上で人間釈迦[3]と[4]の戒律について自説を展開してみました。まず[3]の戒律は現代語に意訳すると一般常識であり
[4]の戒律は戒律第一の弟子が行っていた自戒(現代語に意訳すると個人的な実践修養論)であるということ。両者は意義も意味も
違っているということ。ただし両者に共通するのは、人間の側がこしらえたものだということ。正法神理は私の理解では
諸法無我に代表されるような宇宙の法だと思っています。それは人間がどうやっても改訂出来ない絶対法であり、だから人間側で
こしらえたルールは正法神理では無いと考えているわけです。
【心行】高橋信次・佳子先生の智慧【TL人間学】
103 :3.1.0[sage]:2011/11/11(金) 22:42:42.41 ID:VAfswpb6
>>96
さて[3]の一般常識ですが、これは教団の指導者が教団を健全に運営していく上で欠かせないルールだと推測しました。
なぜそう推測したかは、今一度、[3]のP.75-76のページを読んでいただければお分かりになると思います。
教団の目的から外れないよう社会生活を営むためには、そうした一般常識的なことに無頓着な弟子志願者を放任させておくわけには
いかなかったということです。これは最初に弟子志願者にルールとして遵守するよう指導した後は、各自がそれを守って
いけるよう各自で努力する仕組みだったと思われます。教団の指導者は、ローテーションによって(常にだと自分自身の修行が
出来なくなるから)、彼らが一般常識を守って反省の修行をしているか見回りにいったり、あるいは質疑応答や相談を受けたり
を行っていたと思います。この指導者の行う至極まっとうな教育的指導が、人の意識の自由を縛ることになるとは思えません。
なぜなら、教団へ加入するための条件だからです。本人が望んで一般常識的な教団のルールを学ぶことに同意しているのです。
つらくて続けられそうにない人は、まず指導者に相談しに行くでしょうし、それでも耐えられなければ自分から去って行くでしょう。

次に[4]の個人的な実践修養論ですが、これは正法神理を自分に合わせて実践しようとした場合に、どのような方法が適切なのか
戒律第一の弟子が自分自身でこれまでの人生を反省し、出した結論及び実生活上の態度を後世の弟子達が体系化したものだと思っています。
これは彼の智慧で自力で生みだしたものであり、彼にとって無くてはならないものだったでしょうが、今の仏典ほど哲学的な
体系にはなって無かったと考えています。ということでこれも戒律第一の弟子が自分のために作ったルールであって、宇宙の法では
ありません。そういう意味で[3]も[4]も合わせて「戒律は決して正法神理ではありません」と私は結論付けているのです。
【心行】高橋信次・佳子先生の智慧【TL人間学】
104 :3.1.0[sage]:2011/11/11(金) 22:53:27.29 ID:VAfswpb6
>>96
ここからは若干話がずれますが別の角度からこの「戒律(特に自戒という戒律第一の弟子が行っていた個人的実践修養論)」について
考えてみたいと思います。まず私は人間の側でこしらえたルールは、いかなるものでも正法神理では無いと考える立場です。
ただし、そうだからといって「戒律」は正法神理では無いから間違っている、何人たりとも適用すべきではない、というようなことは
全く考えていません。現実社会において人間の側でこしらえたルールであっても、人や社会に役立つ決まりごとはあるからです。
そのような他者の役に立つ智慧、あるいは自分自身に適用して役に立つ智慧については素直に尊重しています。
ブッタが戒律は正法では無いしつくらなかったと書かれていますが、はいその通りでございます、などと鵜呑みにしては、先へ進めません。
「戒律」の実施で間違っている点、それは他人の考えて体系化したルールを自分に適用させるという他力、依存心、自己強制、ミスマッチと考えます。

まず私は個性尊重についてたびたび発言してきました。そして人間の個性は千差万別で人の数ほど考え方がある、とも。
そしてその個性である霊性にも、各自成長の差による質の差がある、とも思っています。するとどういうことが言えるのか。
ある人にとって役に立つ教訓もある人には全く役に立たないということです。例えば呑気な人と短気な人では克己する方法が違うわけです。
戒律第一の弟子は、正法神理を極めるため自助努力で自分を厳しく律するよう過ごしてきた。それは彼が自分のために考案した方法で
あって、それ自体には何も問題ないし間違ってはいません。その時の彼には必要であったと自分で思っていただろうからです。
【心行】高橋信次・佳子先生の智慧【TL人間学】
107 :3.1.0[sage]:2011/11/11(金) 23:10:54.43 ID:VAfswpb6
>>96
自分の個性は自分のものであり他人のものでもブッタのものでもありません。そして自分の霊性を向上させるのは自分自身の
役目であり責任であるはずです。自分の知性と理性を駆使し、良心に問いただしてそれで結論をだした自分のためのルールなら
彼にとっては正しいことです。自分の欠点を修正するために矯正するのは正しいことです。自分で自分を躾けるには強制的に感じる
ようなことも、ある人にとっては必要な場合があるからです。例えばアルコール中毒の人が、断酒するために何らかの形で自分を強制的に
酒から遠ざけようとする努力を私は間違っているなどと思いません。だからもし私達が自由な思考で反省して、もし自分にとって戒律的な
ルールの必要性を痛感しそしてそれを自力で考案して実行するなら、それは素晴らしいと思うし、立派だと思います。
正法神理を自分に合わせて活用していくことは全て自分自身の自由であり責任でもある、と思っています。

>3.1.0氏のお考えになる正しさの基準とは何でしょうか?自分で考えた八正道とは?行為するには基準がなくてはならないのでは?
正しさの基準は人類共通の正法神理です。宇宙の法則です。私にとっての個人的な正しさの基準というものはありません。
ですが、私は煩悩まみれの平凡な人間です。無理なく取り組んで行こうと考えています。よって自分の個性、霊性向上にとって
何が大切なことなのか良心と対話し、現在行える事で最善と考えられること(正法神理に基づくこと)を行っています。
自分で考えた八正道とは、言葉そのものの意味です。私が解釈し理解している八正道と他の方のそれとでは、解釈の内容が
違っていると思います(どちらが正しいという話ではありません)。八項目の解釈にこだわらなくても良いと思っています。
自分で解釈してそれが正しいと思ったらそれを実施すればいいだけの話で、他の方の解釈と比較する必要性はないと思っています。
八正道をどのように自分で取り組んでいくかは各個人の自由であって、他者との共通点を見出さなければならないという決まりごとはないはずです。
真剣に八正道に取り組むべく、その解釈について自分の良心に問えば、守護霊・指導霊がそれとなく導いてくれると考えます。


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