- 仏教議論スレ26
127 :神も仏も名無しさん[]:2011/11/10(木) 06:41:38.38 ID:GqR3ss9P - >>91
一応、解説しますが、一日も早くちゃんとした先生に指導してもらうことをお勧めします。 また、チャクラ・プラーナ系のことは、自分勝手に妄想するのは究めて危険なので考えるのは止めた方がいいと思います。 以下は楽を他人にやり、苦を他人からとるので「やりとり」チベット語で「トンレン」と呼ばれる修行法です。 自分を大切にし他人を軽視することから苦を作ってきた行為を転換し、 他人を大切にし自分を軽視する、できれば虚しくすることから、自他交換などとも呼ばれます。 実際に観想するのは他人を苦しみを受け、自分の楽を他人にあげるということです。 その際、光を観想してもいいと思います。自分の楽が胸から光線となって他人に放たれると。 例えば、無実の罪で殺される自分の母を想像してその苦しみ悲しみを思い、その苦を自分がとり楽を与えると観想しましょう。 重要なのは最初に自分が同情し易い人から始めてだんだん疎遠な人にも出来るようになり、 最後は嫌いな人にもできるようになったら最高です。 以下は、伝統的な教えの和訳です。
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- 仏教議論スレ26
128 :神も仏も名無しさん[]:2011/11/10(木) 06:46:11.32 ID:GqR3ss9P - 今、苦が起こる一切は、かつて我執を敵と知らず諸有情を大恩人と知らなかったから起こる。
一切は我執の過失だと教えるために「仇全てを自分一人に追い詰めよう」と説かれる。 今、自分にどんな苦が起きても、昔、自分自身が自分を我と捉えたので受け取ったのだから、他人のせいにするな。 なぜなら『入菩提行論』に 諸世間でどんな災害があり、ありとあらゆる恐怖や苦があるけれど それら全ては我執から起きたのであるなら、その大悪霊など私にとって何になろう? と説かれるから無始の輪廻から無我なのに我と捉え、その愛惜のために他を害する等の業を積んだので、輪廻の中で悪趣などの苦一切が起こるのだ。なぜなら『入菩提行論』に 意識よ! お前がしたい放題思うがままで無数劫過ぎたけれど、 そんな懸命に苦労してお前は苦だけを成した。と説かれるからである。 以上のように苦は我執によって生じるから、その我執を敵と見る。 なぜなら無我を我と捉えるこの意識が、輪廻の中で無始より今まで苦一切を生み、上に嫉妬し、下に軽蔑し、はこれから起こり、自分が輪廻から解脱できず、人や非人の害など苦一切は、こいつが作ったのだから。 なぜなら『入菩提行論』に こいつが何百回も輪廻の中で自分を害した。 今、怨みを思い起こして、お前が自利を望むのを退治しよう。と説かれるから
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- 仏教議論スレ26
129 :神も仏も名無しさん[]:2011/11/10(木) 06:47:13.31 ID:GqR3ss9P - 我執が起きたなら「どんな我も無いのに、どうして我と捉えるのか?」と考えて我執が生じた瞬間に捨て以後、我を大切に捉える意識が生じないよう努力すべきだ。『入菩提行論』に
お前が私をいろんなところで破滅させてきた前とは違うのだから、 私が監視する今、お前が何処へ行こうとお前の慢心全ては退治されよう。と説かれるからだ。 だからどんな害が起きても、この我執という魔物による贈り物だから、こいつをなんとか退治する努力をしよう。 ある聖者が「今、この短い人生で、この魔物をなんとか退治してください」と仰りまた、自利を成す意志・行動に凡人の名が、利他を成す意志・行動に仏家の名が付けられる。 ある善友の御作法のように取捨しよう。 ある善友が「今、心という城門で対治という槍を持って威圧する以外に何もすることはない。 こいつが緊張すれば私も緊張し、こいつがくつろげば私もくつろぐ」と仰られた。 我執を敵と見て捨てる、これをある聖者が「魔物解放駆逐法」と仰られたのである。 以上のように我執を敵と見て、他を大切と捉えるために「全てを大恩人と修習しよう」と説かれる。 一般に有情一切は無始からの恩人父母であるから、かねてから大恩人であり、無上菩提を成就することも有情に依拠する。 なぜなら『入菩提行論』 に 諸有情とブッダから仏法が成立する。その意味では両者同等なのに、 ブッダを敬うように有情を敬わないのは、どういう次第だ? と説かれるように、 悟りを成し遂げる人に、仏と有情の恩は等しいから、そのような大恩人である諸有情に慈悲を強く修習して、 彼らの苦を自分に受け取って、自分の楽・善を彼らに与えよう。
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- 仏教議論スレ26
130 :神も仏も名無しさん[]:2011/11/10(木) 07:04:11.77 ID:GqR3ss9P - 私に依ってこいつが長い間苦を味わい、味わうであろう。
だから、慈悲を抱いて強く修習しよう。「嘗て私がこいつに害だけを為してきた。 今、こいつの害を除き利を成そう」と思って、与え受けを強く修習しよう。 特に人や犬のように実際に見えるものなら、それに実際に何か利を為す努力し、 実際にどうしても利を為せなくても意志でこの加害者が苦と離れ楽を備え悟りを早く得られますようにと心から思って、 言葉でも唱よう。また今以降、私のどんな善も、こいつのために為そうと思う発心しよう。 また加害者が神魔であれば、私は無始からお前の血肉などを食べ飲んだので、そのお返しにそうと思って、 その加害者の前に自分の身体を観想で引き裂いて自分の血肉骨など何か望むものをお前が食べなさいと思って、 観想で身を委ね、言葉も唱えよう。 それから、その加害者が自分の肉を食べて飢え渇き等を鎮めて心・身・無漏の楽で満たされ、 菩提心に通達したと思おう[彼だけでなく]同じく血肉を食べる神魔の類ありとあらゆるもの一切に自分の身体を 前のように与えたので一切は満足し、楽で善になったと思おう。 そのようであれば悪一切は自分を大切と捉えることから起こってきたのだから、それを敵と見て、 利楽一切は有情から起こってきたのだから、彼らを友と見て利を為そう。 ある聖者が「私はどれほど深い法を紐解いて見ても欠点一切は自分のものであり、 功徳一切は尊き有情のものであった。その要義で利益と勝利を他人に与え、 損害と敗北を自分で受け取る。これ以外に理解することはない」と仰られた。
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- ☆ 卍 仏教 @ 質問箱 卍 ☆ パート29
805 :神も仏も名無しさん[]:2011/11/10(木) 07:38:28.75 ID:GqR3ss9P - >>796
仏教の場合はキリスト教と違ってこれ一つというものではなく、 それぞれの人に様々な道が説かれているので、それぞれがそれぞれの人にとって正しいことになります。 また、各地域、時代によって縁起して、それぞれに説かれるので、形態は異なって見えると思います。 ですから、インド仏教だから正しいという歴史主義は、反縁起的で仏教に反すると思われます。 といっても、恐らくアナタの意図と反するので一応紹介しますと。 一冊で済ますなら、 山口益編『仏教聖典』 これには文献学的な解説も結構詳細に書かれているので、次に繋がると思います。 あるいは中公の世界の名著の1、2巻で済ますのもいいし、 筑摩の原始仏典と大乗仏典の二巻で済ますのもいいかもしれない。
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- ☆ 卍 仏教 @ 質問箱 卍 ☆ パート29
806 :神も仏も名無しさん[]:2011/11/10(木) 07:39:22.16 ID:GqR3ss9P - そうでなく全体像を把握したいなら、
袴谷憲昭『仏教入門』の255頁の三蔵対照表を参考に (袴谷は内容的には偏っているのでお勧めできないが表は簡明) 水野弘元『仏書解題事典』を読むことをお勧めします。 その上でパーリ三蔵なら、 片山一良『ブッダのことば パーリ仏典入門』を読んで 片山一良先生のパーリ翻訳シリーズを読むのが最良 大乗仏典は、 山口益先生の『仏教思想入門』を読んで 中公文庫の大乗仏典シリーズを読むのがいいでしょう。 いずれにしろ水野弘元先生の『仏教要語の基礎知識』は読んでおくべきです。 この内容が大体理解できてないと、何を読んでも妄想しかできないからです。 このプリテキストとして比較的読みやすい古坂紘一『宗教史地図 仏教』がいいと思います。 ネットですますなら皆さんが指摘する以下 http://www1.atwiki.jp/occultfantasy/pages/1035.html ただしこれは漢訳の国訳で膨大です。 それぞれがどのような位置にあるかは『仏書解題事典』あたりを読まないと、全く分からないでしょう。
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810 :神も仏も名無しさん[]:2011/11/10(木) 20:09:28.05 ID:GqR3ss9P - >>809
諸法無我は「モノはそれぞれの習慣(ラング、言語ゲーム)に添って用途も目的も縁起するが、 その実体は無い、幻想だ」という方が近いと思いますね。
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- 仏教議論スレ26
156 :神も仏も名無しさん[]:2011/11/10(木) 20:49:40.93 ID:GqR3ss9P - >>153
だって止観ってサマタ・ヴィパサナーだから。しかし、違う。 先ず、日本スリランカ仏教が言っているヴィパサナーというのは四念処のことで、 本来のテーラワーダのヴィパサナーとは違います。 次に大乗と小乗では違う。なぜかというと、 小乗・テーラワーダは、戒定慧を修行して目指すのはアルハット・涅槃 大乗は戒定慧に加えて発心・誓願・廻向などが加わり目指すのは一切智の仏・無住処涅槃 この点、スケールが違う。正に大きい。 さらに観も見解が違う。 この点は『天台小止観』は観法に論点が集中しているため戒定慧を中心に論じているので いわば大乗小乗共通の部分を論じていますが、岩波文庫本で178頁を見れば、 『中論』24.18が引用されていることから、見解が高いことが分かり、 さらに一切智を目指していることも分かる。 『中論』24.18の見解はパーリ・ニカーヤでも『カッチャーナ・スッタ』に説かれているのですが、 テーラワーダの伝統で有無二辺を超えた中道を『中論』のように扱っている論書、あるいは伝統はないようです。 だから、見解が高いことが分かります。 ここらへん綱要書などでは人無我しか理解できない小乗、法無我も理解できる大乗と 図式化されて述べられます。
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- 仏教議論スレ26
158 :神も仏も名無しさん[]:2011/11/10(木) 21:05:11.25 ID:GqR3ss9P - >>157
私はそうは思わない。 なぜなら、アーガマ・ニカーヤでも一切智や誓願が結構でてくるのにパーリ仏教ではどうも、その理解がないようだから。 一切智も誓願もジャータカの意味も説明されているものを見たことがないです。 テーラワーダでも菩薩道に入る人がいるみたいなので、少なくとも現代では理解はあるのでしょうが、 その点をきっちり説いたものを見たことがないです。 まあ、私のテーラワーダに関する知識なんてたかがしれてるけど。
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- ☆ 卍 仏教 @ 質問箱 卍 ☆ パート29
813 :神も仏も名無しさん[]:2011/11/10(木) 21:10:08.57 ID:GqR3ss9P - >>811
言葉の場合は単なる習慣だけど。部品の場合は因果になるでしょう。 設計屋さんは、各部品の意味は習慣的に定まっているけど、 その常識に囚われては非凡な製品を設計することはできないということじゃまいか?
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