- 悟りを開いたことあるけど何か質問ある?2
91 :473 ◆xIpfQokPjM []:2011/10/14(金) 08:07:12.73 ID:azxCALCW - >>47
空を知ったら空を知ったという自分を持ってるから、空を知った自分も空になるといいよ 何で?何でそうしなければいけないのでしょうか。それに何の意味があるのですか? どこかで聞いた言葉を喋っているだけに聞こえます。 空を知るということとは何か。それに付随する喜びとそれによって明らかになる苦しみがあり そして一切からの解放があるということを語っていただかなければ何も明らかになりません。 ≫これは悟りとは関係なく、よくあることではないですか? ある人にはよくあり、ある人にはめったにないのだと思います。 神への愛、仕事への愛に満ち、いつも幸せそうに人一倍生き生きと動いている人がいました。 そういう人には良くありそうです。 しかし、瞑想に誘ったら、ものすごく眠そうで気の毒なぐらいでした。 これは一例ですが、人間何かに秀でていて何かは苦手なものです。
|
- 悟りを開いたことあるけど何か質問ある?2
107 :473 ◆xIpfQokPjM []:2011/10/14(金) 12:43:51.27 ID:azxCALCW - >>104
論点がずれています。 何故あなたはそれをベターだと思っているのですか。 その裏付けはなんですか。
|
- 悟りを開いたことあるけど何か質問ある?2
108 :473 ◆xIpfQokPjM []:2011/10/14(金) 12:48:12.15 ID:azxCALCW - ≫そうしなければならないなんて言ってないよ
日々の留意からくる理解からではなく何らかの観念で語っているのなら、 それは自他に対する強制でしかありえない。 観念というものは、思考というものはそういうものです。 そうしなければならないという強制のない理念や道徳はあり得ません。 このあたりのニュアンスを理解せずただ言葉面を捉えて言ったの言ってないのしても仕方ないでしょう。
|
- 悟りを開いたことあるけど何か質問ある?2
109 :473 ◆xIpfQokPjM []:2011/10/14(金) 12:57:45.20 ID:azxCALCW - ≫なるほど!
ようやく理解してきました。 要は、瞑想は体験であると見抜くことが本当の瞑想だということですね。 別の言い方をするなら、観ている存在を観て、さらにそれも観る、のような感じでしょうか・・・。 自分がいないという認識がある限り、それは、どこまでも体験であり、 その認識主体の正体を見破ることこそ瞑想といえるのかもしれません。 はい。おおむね合っております。 その理解は非常に正しい理解、つまり理解するもののない原初の自由に近づいているように感じますが、 いつ理解する主体のある理解、すなわち自我の作り出す相対性の罠にはまるかもしれないのでその点だけご注意を。 観る人を観ること、これは言葉を超えたことにおける言明ですのであまり何がどうと説明できるものでもありません。 自分にも他人にもあらゆる観念にしがみつかなければ、、、、。といったものです。 何かが終点だと思わなければ道の歩みの妨げもないかと思います。 前途に祝福あれ。
|
- 悟りを開いたことあるけど何か質問ある?2
111 :473 ◆xIpfQokPjM []:2011/10/14(金) 15:21:39.20 ID:azxCALCW - ≫自分がいない状態
amaさんのいう自分がいない状態をあなたは体験しましたか? 体験していないのに言っているのだとしたら一体何について語っているのですか? その場合ただの想定的な言葉遊び、思考以外の何物でもないでしょう。 ≫それをどう思うか判断するかしないかはその人の自由 自分がどういった印象を発しているかに完全に無自覚ですね。 私が構うか構わないかはともかく、それでは人々の中で災いを引き寄せるでしょう。 ≫観念?思考?そんなものがどこにあるのだろう? ニュアンス?理解?言葉面?そんなものがどこにあるのだろう あなた自身に向き合えばあなたが発するそれが見えてくるでしょう。 見つめればそれもなかったのだと見抜くかもしれませんが、無自覚に同化した状態からは まずそれを認知しなければはじまりません。
|
- 悟りを開いたことあるけど何か質問ある?2
113 :473 ◆xIpfQokPjM []:2011/10/14(金) 16:49:14.96 ID:azxCALCW - >>112
あなたにはそうやって決して自分自身と向きわない権利がある。 どうぞお好きなように。
|
- 悟りを開いたことあるけど何か質問ある?2
114 :473 ◆xIpfQokPjM []:2011/10/14(金) 17:02:59.83 ID:azxCALCW - 決して自分と向き合わない。
全く良心の呵責を感じないで全く無感覚に他者に破壊的な影響を与え続けるサイコパスという人種がいる。 サイコパスでったりそれに近い人間の心の動きを客観的につかもうとしてもそれは私にはできない。 私自身の人生の経験の蓄積であったり、瞑想体験の蓄積であったり、文学作品や覚者の言葉であったり、 つまり私は完全な自由、体の執着から離れてこの宇宙を愛によって謳歌する意識そのものではなく、 自己や他者の言葉の経験の総体の影響を受け続けているのだ。 それ故に正直それらの道徳的なもの、もしくは自分を意識しなければならない、公正でなければならない という観念は、同じ観念同士であったら仲良く暮らせることかもしれないが、 全く違う観念と出会うと理解できないし、まあ正直殺意を感じる。 道徳なんてそんなもの。 決して自分を見つめないように生きる冷笑的なサイコパスチックな作法というものがあり、 それはそれで理解してうまく対応しなければいけない。 もしくは人生の中で周りに合わせそういったふりをしたほうがいい場面があるかもしれない。 (ふりだって難しいのは自分の自我がそれに対立する観念を多く抱えているから) 私はある種類の人間は自分の主観で分析できても、それそのものの在り方を自分の内部で再現できない。 またそれと対立してしまう。(ぶつかるとわかれば外面は合わせられる) それは不自由だ。自分を見る理由ができたことは嬉しい。
|
- 悟りを開いたことあるけど何か質問ある?2
115 :473 ◆xIpfQokPjM []:2011/10/14(金) 17:31:52.39 ID:azxCALCW - >>95
@自分自身にくつろげない自我は他者の批判や批評で自己逃避をする必要に駆られます。 誰もが互いに犠牲者を求めあっています。 そして意識がない限り私もそうなのです。 私自身がこれから解放されればもう同じものを巡って争うこともないでしょう。 自分自身にこれを見ることができれば、他者は苦しみ故に仕方なくそれをやっていることが解り、 そこには理解が生まれてくると思います。 A意識や良心からくる観念は、それ同士対立することはありません。 しかし、それが通用しない相手に傷ついたり憤慨したりします。 そしていつでも通用しない相手がいます。人だけでなく天災や事故も含めれば絶対です。 @とAは別のものです。どちらも不自由なのは同じです。 性欲 留意が途切れればあらゆる欲望のとりこにされえます。 その中で特に性欲がよかったりわるかったりはしないと思います。
|
- 悟りを開いたことあるけど何か質問ある?2
118 :473 ◆xIpfQokPjM []:2011/10/14(金) 21:22:38.47 ID:azxCALCW - (人類の一員としてでなく独リアルということ)
目が覚めると様々なことが見えてきます。 自己逃避のための贅沢にあまりに多くのエネルギーが無駄にされ、あらゆる無駄なものが作られる。 人はそれに逃避し快楽を得るが、人間の意識の成長という観点からはマイナスの存在で そういったものや食べ物をつくることと自分の利害が一致したことなどないです。 純粋に生計を立てるために仕事をすればいいかもしれません。 仏教であれば自分一人しかいない感覚で、異邦人の感覚で淡々と生計を立てるために仕事をすればよいでしょうし、 それはヴァガバットギーターでクリシュナがアルジュナに戦争の中でもひとは究極に達すると導いた道にもつながるでしょう。 もしくは淡々と自らの愛情を仕事に注げるのでしたらただ愛が道です。 いかに仕事に愛情を注げるか、家族に愛情を注げるかだけしか目に入らないような方でしたらただその導きに従えば 最終的に自分の仕事の影響や社会の産業の実態を客観的に見つつそれと葛藤しないで付き合えるという次元に到達するでしょう。 家族を捨てて農産物を作っても、その仕事をやろうと思ってた誰かを世俗の仕事に追いやって自分がその仕事をするだけの事です。 労働力は余っており、そもそも無駄なものばかり作る世の中ですから、生活保護を受ける人の方が働く人より人間社会全体には貢献しています。 生活必需品を作るための労働力が不足すればその限りではありませんが、それに必要な労働力は非常に限られています。 正直、自分の労働もしくは非労働において人間社会がどうなろうと関係の無いことです。 彼らは彼らの論理でただ破滅にひた走ります。 我々は地球とかかわりを持つべきですが、人類とまともに付き合うべきではありません。 ほっておけばよいのです。
|
- 悟りを開いたことあるけど何か質問ある?2
119 :473 ◆xIpfQokPjM []:2011/10/14(金) 21:24:22.10 ID:azxCALCW - (ハート、理性、思考、常識、体、社会の現実は互いに葛藤する。
問題はまさに根本からしか解決できない。もしくは都合の悪いことは見ないで眠り続け、 安定と引き換えに真理を失うか) 生きなければいけないから、死ぬのは苦痛だから仕事をするのは仕方ない。 いかに仕事をするかが大切だ。 という前提を私も持ちがちではありました。 死ぬのは痛いというのも無条件の前提ではなく思考にすぎないのです。 これを単純に思考としてみなければ人は体への執着、飢えへの恐怖から逃れるべく何らかの目的に 逃避せざるを得ないでしょう。 体への執着があるということは、人間社会に貢献したいという理性や正義や愛という執着も同時に無意識に抱えることになります。 するとお金稼ぎと真の意味での社会的道義は必ず対立します。 対立しない人間は社会に流通している考え方に染まっておりその点無意識であるというだけの事です。 意識的であれば社会で正しいといわれるあらゆる考え方が人類にとって破壊的であることに気づかないことは不可能です。 それは物質的資源的にも精神的にも全くもってそうなのです。
|
- 悟りを開いたことあるけど何か質問ある?2
120 :473 ◆xIpfQokPjM []:2011/10/14(金) 21:26:46.75 ID:azxCALCW - 故に体への執着痛みへの恐怖を前提としてしまったところからの思考は社会の通念と本人の意識、良心などの執着も同時に
抱えざるを得ず必然的にそれ同士の葛藤を避けられないのです。 社会で葛藤なく生きる方法は2つしかなく、 無意識に世の中の考え方に染まるか、(自分の仕事が物質的に精神的に人間にどんな影響があるかは直視しないしできない) 覚醒して社会の通念も体への執着も意識と良心からくる事実に即した真の社会的道義すらも まとめて捨ててしまうかしかありません。 また覚醒は捨てる思考を選べません。覚えてしまったこと見てしまったことは部分的に忘れることは不可能なのです。 部分的に忘れるためにはそれを選択するマインドが必要なのですが、マインドはマインドと対立するだけで消すことはできません。 故に無選択、無差別に全ての執着を消し去るか、全く無意識に個々の観念に同化するかどちらかしかないのです。 そして中間的段階として意識的に自己内部の矛盾を見るという悟っても光明を得ていない人間の段階があるのです。 (個人差はあるがこれは非常にしんどい。故に世俗での欲望が燃え尽きていないのに宗教に入ることはできないし、 下手に深入りすると進むことも戻ることもできなくなる。) 故に仕事や仕事と対立する良心ではなく、問題の根本である死という思考からだという思考を見守ることが始まりとして必要なのです。
|
- 悟りを開いたことあるけど何か質問ある?2
124 :473 ◆xIpfQokPjM []:2011/10/14(金) 22:10:22.40 ID:azxCALCW - 理想があるということは、理想を共有する存在が周りにいてそれを共に追及していってほしいという
欲望があることを意味します。 そして私の理想と人類の動向は決して一致しないしそもそも一致する根拠がない。 「人類」、「みんなで」とは客観的な言明ではなく、 みな各々の理想各々の夢を共有し強化しあう他者を夢想しているにすぎません。 他者が、人類がいるときそれは自分の主観的な妄想なのです。 そして無意識な人々はその主観的妄想が似通っているので人類という夢を疑いもなく見続けられますが、 個性があり意識があり良心がある少数の人々はどうもしっくりこなくなってゆくでしょう。 私という主観がいなくなり、他人という夢を見なくなれば私はたった独りの存在であり、人類に何の期待も持たずただその有様を客観的に見るでしょう。 人類に何の期待もないので何の絶望もない。 そういった人は平静であり、ゆとりがあり、エネルギーに満ちています。 この人類から外れた幸福な存在が一体どうして人類に仇をなすでしょうか?
|
- 悟りを開いたことあるけど何か質問ある?2
125 :473 ◆xIpfQokPjM []:2011/10/14(金) 22:11:05.48 ID:azxCALCW - ≫121
戦争についてはバガバットギーターをご参照ください。 (アルジュナにはアルジュナの引くに引けない理由、彼の道があったのです) ≫122 しかし、人はどうやら生きるためだけの存在ではないらしい。 だからこそ自分の生死を意識できる。 だからこそ実利では考えられない愛があり、その退化した形でたわいもない幻想を好む。 人は生死に左右される部分は確実にありそれを意識することは素晴らしいことです。 しかし問題は人間は生死を無視するような感情的理性的傾向が大分にあるということなのです。 そしてそれは多分我々が人間存在ではなく全体的な存在であるという内在性を示しているのかもしれません。 少なくとも人間が人間のままこの矛盾を解決した例を知りません。 2頭の馬に同時に乗ることは不可能だ イエスキリスト 解決方法はない。問題のまさに根本から目覚めるしかない 和尚
|
- 悟りを開いたことあるけど何か質問ある?2
129 :473 ◆xIpfQokPjM []:2011/10/14(金) 23:52:06.94 ID:azxCALCW - 根本から解決することと、外面的な仕事の選択はまた別の事かと思います。
(ただその根本の解決に向かうような仕事の選び方という流れはあり職業選択が微妙に変わるかもしれません。) 人類の一員であるという幻想が真理から外れているので「何か」については無いというしかないところです。 別に仕事をやめるわけではないし、仕事をしながら他者や仕事の存在を抑圧して消し去ってしまうということでもないのです。 私が仕事も人類もないと思ったとしたらそういう夢を見ていたら、あると思っている人の中でドキドキですが、 ただあると思いがないだけなら特に問題はありません。 周りもそんなに変だと思わないか全く気付かないような完全な演技が可能でしょう。 というより真に受けていないならやることなすこと演技以外の何物にもならないかもしれません。 月並みですが、今の日常での日々の留意。そして何か転機がありそれへの準備ができているならそれに飛び乗る。 それだけのことだと思います。
|