- 仏教 議論スレッド 23
829 :机龍之介 ◆FjIfTkk1pxep [sage]:2011/10/14(金) 08:58:35.72 ID:USC8ljni - >>770
>竜樹は、「生と死」の区別が出来ないようなアホではない。 >それでは「世間の一切の慣習」に反する。 龍樹は天才かと思います。 俗世間的な意味の天才と、覚者という二つが揃って中論は書けたのかと思います。 中論の土台になった阿含経にも、この空思想の萌芽が書かれてる箇所がありまして、 やはりこの空思想は脈々と継承されておったのですね。 しかしこの法灯を論書に纏めようとする者はいなかった。 覚者はいたとしても、先ず論書にするのは不可能と・・・誰でも思っていたかと思います。 中論には一貫したコアがありましてね、各章はそれを別角度で解説したに過ぎない。 だから、「〇章はどういう意味か?」などは、全てコアに結び付ければOK牧場です。 コアは非常にシンプルでして、そのエッセンスは中論・序章に書かれてます。 つまり「戯論寂滅」です。 「世俗一切の慣習」の寂滅こそが中論のテーゼですが、 それは勝義締より導き出された、中論の結論なのであります。
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841 :机龍之介 ◆FjIfTkk1pxep [sage]:2011/10/14(金) 12:04:04.23 ID:USC8ljni - >>835
>「世俗的なことにもとづかなくては、第一義は説示され得ない。」(同24:10) 世俗的というのは「生命」のことを言うのです。 生命というのは、死を前提として成り立つ概念ですが、 それは、「生命」というのは生命の経過において死を迎える。 (注意・中論は三時否定です) というのがいわゆる「世俗一切の慣習」です。 つまり、生命と死は相反する概念。→「世俗的なことにもとずく」(中論より) これを前提として中論では、そもそも死とは迷妄なんですよ。と提示、 死が迷妄なら生命だって迷妄じゃないか。→これが中論です。 「死」というのは、隠居氏の迷妄ですよね?これは分かりますか? 隠居氏が老いたら完全に死を迎える。と迷妄してませんか? この迷妄から・・「生命」という概念がより一層脳に焼き付くのであります。 迷妄から解脱しますと、生も死もなくなり涅槃に逝くことが出来ます。 (参考資料・中論)
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865 :机龍之介 ◆FjIfTkk1pxep [sage]:2011/10/14(金) 17:21:28.84 ID:USC8ljni - >>848
>仏教が生命軽視の思想ではないと言うことを明確に示すことが出来れば 厳密に言うと仏教は「思想」ではない。 >もしくは、生命よりもっと重要な価値があることを論証できれば 仏教とは全く無価値なものだよ。 無価値であるが故に、>>849のように絶対なる価値へと到達できる。 価値と無価値は相反しない。 つまり世俗締では、無価値しか語ちりあえない。 これで裁定を下すなら、仏教が負けで良いんじゃないかと思います。 下手に議論をすると法を曲げる。
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873 :机龍之介 ◆FjIfTkk1pxep [sage]:2011/10/14(金) 18:27:44.92 ID:USC8ljni - >>871
そうですね。貴方が書いていることに異論はないですけど、 >その場合絶対無が妄想観念である根拠や理由を示さなくてはなりません これはもう絶対無にならんと分からんものかと思います。 生命教は無理ですね。 生命に固執しておるからです。 果たしてこの固執から解脱できるか?それが全てであると考えます。
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874 :机龍之介 ◆FjIfTkk1pxep [sage]:2011/10/14(金) 18:42:05.30 ID:USC8ljni - >>866
>釈迦仏教に一番近い宗派は、何処の宗派でしょうか? 釈迦仏教は無価値なもの。と主張する宗派は信頼していい。
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877 :机龍之介 ◆FjIfTkk1pxep [sage]:2011/10/14(金) 19:04:45.71 ID:USC8ljni - >>875
貴方の主張してるのは分かります。 しかし全くジャンルが違う。 西洋哲学とインド哲学は、水と油みたいなもんで決して混じることはない。 混じり合わないもんを、実験的に混ぜた(これをエマルジョンという) のが、かの論理学の大家である石飛道子。 この石飛がある意味、限界かと思います。 しばらくオチ。
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891 :机龍之介 ◆FjIfTkk1pxep [sage]:2011/10/14(金) 20:28:15.52 ID:USC8ljni - >>888
>ご隠居さんは、生命があるがゆえに全ての価値がありえる そもそも東洋哲学は「生命」という概念がない。 つまり主体という概念がなくて、客体という概念もない。 生命というのは、いわゆる主体を意味すると思うが、 それが全く無いのです。 ですから論拠事態が成り立たない。 もし仮に主体を単独の概念で考えれば、もはやそれは東洋哲学ではない。 今、帰ってきたので、これから寝ます。おやすみ。
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893 :机龍之介 ◆FjIfTkk1pxep [sage]:2011/10/14(金) 20:38:43.50 ID:USC8ljni - >>890
なるほど、これは面白いかもしれんけど、 仏教はよく言う「世俗論理範疇」という制限において世俗締で対論しなければならない。 やはりそれは限界があります。 世俗論理範疇なら仏教は“論理的に負けます” 何故なら、西洋哲学論理で語ちらねばならんですからね? 東洋論理は一切通用せんのですから。 隠居氏の方が論理的整合性は勝るかと思います。 まあ、明日への宿題ということで、おやすみ。
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894 :机龍之介 ◆FjIfTkk1pxep [sage]:2011/10/14(金) 20:48:02.94 ID:USC8ljni - >>892
>しかし、私が見るところ、机氏の主張は「詰み」となっているように思われます そうです、貴方が正しい。 そもそも >もし、机氏が、「無」は個人の生命と離れて存在すると主張するならば 東洋思想は、生命と離れて存在する。とか西洋論理ではないですから。 申し訳ありおません、私の完敗です。 この話しは終わりにしましょう。 では、寝ます。
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896 :机龍之介 ◆FjIfTkk1pxep [sage]:2011/10/14(金) 20:55:55.96 ID:USC8ljni - >>895
>ある概念に主体や客体も無いと言うのは、どういう基準でそのように判断できるのでしょうか 仏教は一如の法門ですから、二元論法とは相性が悪いのです。 よって西洋論理なら、全く刃が立ちません。 無理に私が対論すると法を曲げてしまいます。 申し訳ありません。
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