- キリスト教なんでも質問箱
664 :神も仏も名無しさん[]:2011/09/11(日) 18:16:28.39 ID:g0ix9UdV - ヨハネ福音書の冒頭はいったい何だろう。
わかるような、わからないような、謎めいた不思議な文章ですね。 直感的に、これがキリスト教の肝のように思える。 この問題を棚に上げ、スルーするわけにはいかないかもしれない。
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665 :神も仏も名無しさん[sage]:2011/09/11(日) 18:27:32.37 ID:g0ix9UdV - ヨハネ福音書1.1−5
1.1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。 1.2 この言は、初めに神と共にあった。 1.3 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに 成ったものは何一つなかった。 1.4 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。 1.5 光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。
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666 :神も仏も名無しさん[sage]:2011/09/11(日) 18:49:42.84 ID:g0ix9UdV - この問題は順番に考えた方がいいと思う。
イエスを度外視、まず神と言葉の関係を追求してみよう。 神は言葉なのか、神は言葉を話すのか。 結論から先に言えば、神は口を持たないから、神は言葉を話さない。 では言葉とはまったく無関係なのか。そうでもない。 人間は泥人形に命を吹き込まれた神の被造物である。 泥は言葉を話さないから、言葉を話す能力は神からやってきたはずである。 言葉の中にある論理は神に由来している。
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667 :神も仏も名無しさん[sage]:2011/09/11(日) 19:13:57.50 ID:g0ix9UdV - 言葉は神ではない。しかし言葉は、神の影のようなものを宿している。
これが言葉の論理ロゴスなのだろう。あまり難しく考えない方がいいと思う。 言葉が神でないとしたら、イエスは自動的に神ではなくなる。 イエスを度外視すれば、ヨハネ福音書冒頭の誤りが見えてくる。 言葉は神とイコールではないし、初めに言葉があったわけでもない。 冒頭の文章は、作者のカン違いか、意図的なものである。
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674 :神も仏も名無しさん[sage]:2011/09/11(日) 19:47:57.52 ID:g0ix9UdV - >>668
神を知らない人に神を理解させるのは不可能に近い。 最初の入り口、ウソも方便で神に祭り上げられた可能性もある。 祭り上げられただけなら気の毒だね。 >>669 善意悪意の問題は、話が混乱するから後回しにしよう。 今は人間の善意を前提に、言葉そのものの意味をテーマにしたい。
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675 :神も仏も名無しさん[sage]:2011/09/11(日) 20:08:27.57 ID:g0ix9UdV - 逆に、人間が言葉を使えない状況を想像してみよう。
その人間の現実は、わけのわからない、得体の知れない、 もそもそと蠢いている脈絡のない影のようなものかもしれない。 こんな風なら生きていられない。すぐに死んでしまう。 現実を言葉によって整理し、記憶し、相互の関係を理解するから 生きることができる。言葉は、鏡にはほど遠いが、現実を鏡のように 写し取ろうとする作業である。現実は言葉に置換される。 言葉によって頭の中に世界の影絵ができる。
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676 :神も仏も名無しさん[sage]:2011/09/11(日) 20:27:28.56 ID:g0ix9UdV - こういった能力が最初から人間に備わっていることに感動する。
あるいはその神秘さに打たれる。 神はロゴスである、という判断は、こういう思いを背景にしていないだろうか。 人種や民族を問わず、理解可能な言葉が先天的に存在している事実は、 人知を超える神の存在を思わせるのである。
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677 :神も仏も名無しさん[sage]:2011/09/11(日) 20:40:53.16 ID:g0ix9UdV - 言葉は神ではない。しかし神と密接に関係した能力でもある。
神は言葉を話さない。しかし人の言葉は神界に届く。 これが祈りの力であり、言霊でもある。 こういったことは理屈ではない。実際に体験しないとわからない。 霊魂には聴覚がある。霊魂の聴覚は神界で何を聞くのか。 神の言葉ではなく、霊魂を呼び戻す自分の声を聞くのである。
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678 :神も仏も名無しさん[sage]:2011/09/11(日) 21:09:25.05 ID:g0ix9UdV - 霊魂体験は、唯識の、マナ識がアラヤ識を見捨てるということで生じる。
無意識の領域だが、マナ識の自分が、アラヤ識の自分を見捨てる。 深い闇があり、霊魂はその後に突然、神界に現れる。 意識は霊魂にある。意識には触覚と視覚と聴覚がある。 なぜ聴覚があるのか。それにはそれなりの理由があったように思う。 自分が自分を見捨てたのだから、霊魂には地上に戻ってくる動機がない。 地上の自分が、呼び戻さないと永遠に返って来ないのである。
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680 :神も仏も名無しさん[sage]:2011/09/11(日) 21:37:23.23 ID:g0ix9UdV - 霊魂は神の観照者、神を見ているばかりである。反省がない。
神界には反省する動機がまったくないから、放っておくとそのまま死ぬ。 脱魂体験はそれぐらい危険なことだと知ってほしい。 魂の抜けた地上の自分が、霊魂を呼び戻さなければならない。 自分の声が神界にカミナリのように轟く。それぐらいの声が必要なのだろう。 これが言葉の意味である。それは神の言葉ではない。自分の声だ。 地上の自分と霊魂、地上の自分と神界とがつながった一瞬ですね。 言葉でつながる!
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681 :神も仏も名無しさん[sage]:2011/09/11(日) 22:00:52.45 ID:g0ix9UdV - 坐禅体験の連続の中で、霊魂が自分の体に戻る時に、
自分の霊魂がはるか空中に満月のように浮かんでいるのを見る。 このときの意識は地上の自分にある。 その霊魂が自分に向かって猛烈な勢いで飛び込んでくる。 自分が霊魂を飲み込むのではない。霊魂が自分を飲み込むのである。 この辺の機微は実際に体験しないとわからないだろう。
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682 :神も仏も名無しさん[sage]:2011/09/11(日) 22:14:48.85 ID:g0ix9UdV - こういった体験はあまり話したいものではない。
いろいろな理由があるのだが、けっこうな苦労が背景にあることもある。 けっして自慢話にできないような事情がある。 でもたぶん、みんなみんなわからないだろうと思う。 そんなもの体験して何になると思うかもしれない。そんなことはない。 聖霊体験も霊魂体験もそうだが、まず運が良くなる。 そういう体験があり、それを探し求めることが最初だろうと思う。
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