- 創造論と創造科学とID論と進化論Part67
706 :神も仏も名無しさん[]:2011/09/07(水) 10:03:03.69 ID:zCK7Rq+Q - 存在があるところに、実在がある。一方なくして他方はなく、存在は実在をとお
して「ある」と言えるし、実在がなかっらた、「ある」とは言えない。 神の存在・実在は、みずからの力による存在の実在ではない。そうなると起源が あることになる。つまり、みずからの中にあっての存在・実在であるはずのものが、 その中に他の起動因をもつことになる。みずからの中にあっての存在・実在は、 永遠からのもので、みずからの中にあっての存在・実在は、造られたものではない。 造られたものは、すべて、この造られない方によって造られた。造られたものは、 有限な存在であるが、その有限なものは無限な方によらない限り、実在することはない。 神は空間には関係なく、あらゆる空間のうちに存在している。神は時間に関係なく、 あらゆる時間のうちに存在している。神については、自然固有の概念をあてはめて 考えることはできない。 自然には、空間と時間という二つの固有な性格があり、自然的世界にある人間は、 ここから自分の思考概念を形づくり、その結果、理性も形成していくことになる。 以上が理解できない人、しかも時間に関係なく存在する神について、ある種の感じ とりで思いをめぐらすことができない人は、永遠といっても、時間における永遠し か考えに浮かばない。そして、永遠の昔から存在する神を考えて、頭が狂ってくる。 つまり、神を存在し始めの時点から考え、時間の中での独自の最初を考えている。 これは、神がみずからの力で実在するとし、さらに自然自身が自然の力で始まった という考えにはまってしまう。これが混乱のもとであり、このような気ちがいじみた 考えから脱するためには、「永遠とは何か」の霊的な考えかたによらなくては、 まったく分からなくなってくる。 霊的な考えでの永遠には、自然的世界のような時間がなく、時間がないという 点では、永遠と神性は同等と言うことになる。神は(みずからのうちにまし ます神)であり、(みずからの力にゆる神)ではない。
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691 :神も仏も名無しさん[]:2011/09/07(水) 10:18:52.70 ID:zCK7Rq+Q - ↑
アホクマくんですた^^ ク ク || プ // ス ク ス | | │ // / ス | | ッ // ク ク ||. プ // / // ス ク ス _ | | │ // / ̄ ̄\ / ス ─ | | ッ // / _ノ .\ / // | ( >)(<) ____ . | ⌒(__人__) ./ ⌒ ⌒\ | ` Y⌒l / (>) (<)\ . | . 人__ ヽ / ::::::⌒(__人__)⌒ \ 。。。。聖書も知らない奴がww(爆 ヽ }| | | ` Y⌒ l__ | ヽ ノ、| | \ 人_ ヽ / . /^l / / ,─l ヽ \ ネヨ サロメ
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695 :神も仏も名無しさん[]:2011/09/07(水) 17:39:39.96 ID:zCK7Rq+Q - マルコによる福音書10.18
「イエスは言われた。『なぜ、わたしを〔善い〕と言うのか。 神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。』」と このとおり、イエスははっきり、ご自分を「善い者」と言われていない。 未だ、イエスは神人であり、イエスにには母マリアからの人間性が残っていたのです。 そのことは、ヨハネの福音書20.17から分かります。。 「イエスは言われた。『わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父の もとに上っていないのだから。』」と 「父のもとに返る」とは、母から来ている人間的なものが完全に斥けられて、 イエスの御霊魂である御父と、イエスの人間的なものが完全に合一することを 意味しています。 イエスが御父のおられるところへ、帰られるのではありません。 イエスの神性こそ御父そのものなのです。 神の属性は、無限の広がりの中での遍在なのですから、在る場所に局在して おられるわけではありません。
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698 :神も仏も名無しさん[]:2011/09/07(水) 19:13:58.97 ID:zCK7Rq+Q - >「よき師よ、永遠の生命を受けるために、何をしたらよいでしょうか」。
「イエスは言われた。『わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、 死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者は、だれも決して死ぬことはない。』」 (ヨハネ11.25、26) 復活と生命とは、主(キリスト)から発して他の何者からも発していないことを 意味する。イエスを信じる者とは、主の神的なもの〔神性〕を信じ、主が全能 なる唯一のであられることを信じる者を意味している。 ここにも、現代キリスト教会のもつ「三神・三主」の三位一体の信仰がないことが 明らかである。死んでも生きるとは、人間は、自然的肉体の生命では死ぬものの、 霊的な生命において復活することを意味している。 生きていてわたしを信じる者はだれも決して死ぬことはないとは、主の言葉を実践 し、再生(改良)されている者は、霊的には死なない、すなわち、罪に定められない ことを意味している。 「はっきり言っておく。わたしの言葉を守るなら、その人は決して死ぬことはない。」 (ヨハネ8.51) 「主の言葉を守る」とは、主の戒めによって生きることを意味しており、「死ぬこと がない」とは、罪に定められることはなく、生命を見出すことを意味し、その生命 のなかに人間は死によみがえり、入るのである。 このことから、「死ぬ」は、死ぬことを意味しないで、生命(霊的)への復活を 意味しているのは、明らかである。聖書で、主の教義から逸脱し、偽りの信仰に 入ることを「霊的死」と言う。
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708 :神も仏も名無しさん[]:2011/09/07(水) 19:16:14.41 ID:zCK7Rq+Q - >「よき師よ、永遠の生命を受けるために、何をしたらよいでしょうか」。
「イエスは言われた。『わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、 死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者は、だれも決して死ぬことはない。』」 (ヨハネ11.25、26) 復活と生命とは、主(キリスト)から発して他の何者からも発していないことを 意味する。イエスを信じる者とは、主の神的なもの〔神性〕を信じ、主が全能 なる唯一のであられることを信じる者を意味している。 ここにも、現代キリスト教会のもつ「三神・三主」の三位一体の信仰がないことが 明らかである。死んでも生きるとは、人間は、自然的肉体の生命では死ぬものの、 霊的な生命において復活することを意味している。 生きていてわたしを信じる者はだれも決して死ぬことはないとは、主の言葉を実践 し、再生(改良)されている者は、霊的には死なない、すなわち、罪に定められない ことを意味している。 「はっきり言っておく。わたしの言葉を守るなら、その人は決して死ぬことはない。」 (ヨハネ8.51) 「主の言葉を守る」とは、主の戒めによって生きることを意味しており、「死ぬこと がない」とは、罪に定められることはなく、生命を見出すことを意味し、その生命 のなかに人間は死によみがえり、入るのである。 このことから、「死ぬ」は、死ぬことを意味しないで、生命(霊的)への復活を 意味しているのは、明らかである。聖書で、主の教義から逸脱し、偽りの信仰に 入ることを「霊的死」と言う。
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709 :神も仏も名無しさん[]:2011/09/07(水) 19:40:27.42 ID:zCK7Rq+Q - 人の自然的な肉体の死は、復活(よみがえり)以外の何ものでもないのは、
身体は死ぬとき、人間はその霊については生きかえり、そうして死は単に人間の 生命が連続することにすぎないという理由からだ。 なぜなら死を通して、人間は自然界における生命から霊界における生命へ移る からである。しかし人間は、生きているときから、肉体の面において自然界に あり、霊の面で霊界にあって生きていることを知っている人は、ごく少数しかいない のである。
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712 :神も仏も名無しさん[]:2011/09/07(水) 19:43:41.79 ID:zCK7Rq+Q - 幼稚園児は理解できないのよ
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713 :神も仏も名無しさん[]:2011/09/07(水) 19:46:27.40 ID:zCK7Rq+Q - >>711
同病相憐れむと言うからな^^ のうまくえん
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702 :神も仏も名無しさん[]:2011/09/07(水) 19:53:17.67 ID:zCK7Rq+Q - @「ロゴス」は時には神であり、時には神とは別のお方
ことばは神とともにあった。ことばは神であった(ヨハネ1:1) 言葉とは(神の真理)のことですよ。 この言葉の中に、神の愛と神の英知があるのです。 言葉は、主イエスそのもの、聖書(みことば)そのものです。
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717 :神も仏も名無しさん[]:2011/09/07(水) 19:56:25.19 ID:zCK7Rq+Q - おまえの妄想の終了する罠
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718 :神も仏も名無しさん[]:2011/09/07(水) 19:57:07.67 ID:zCK7Rq+Q - おまえの妄想も終了する罠
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705 :神も仏も名無しさん[]:2011/09/07(水) 20:08:23.62 ID:zCK7Rq+Q - (いのち)とは、主に属する神愛を、「光」とは、主に属する
神知を指します。これはヨハネが福音書に記されている(いのち) また「霊」のことです。 「命を与えるのは霊≠ナある。わたしがあなたがたに話した言葉は 霊であり、命である。」(ヨハネ6.63) ロゴスとかという言葉に酔って、分けのわからないことを言っていう人が いかにアホか分かりますね。
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721 :神も仏も名無しさん[]:2011/09/07(水) 20:14:10.61 ID:zCK7Rq+Q - 言われないようにしろよ。統合さん
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708 :神も仏も名無しさん[]:2011/09/07(水) 20:23:07.83 ID:zCK7Rq+Q - 聖書(みことば)の中で、主(イエス)が「太陽」、「火」、または
「光」と言われているのは、相応がもとになっている。 「太陽」とは、(神の愛)と(神の英知)の双方から見た場合の主を 死しているからだ。「火」は(神の愛)から見た主であり、「光」は、 (神の英知)からみた主を表す。 神の「火」は神の熱であり、光も霊の光であり、そして霊の熱は(仁愛の善) で、霊の光は、(信仰の真理)でる。
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709 :神も仏も名無しさん[]:2011/09/07(水) 20:26:38.87 ID:zCK7Rq+Q - 訂正
「太陽」とは、(神の愛)と(神の英知)の双方から見た場合の主を 指しているからだ。 (言葉)=ロゴス=キリスト であるゆえんはここにある。
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710 :神も仏も名無しさん[]:2011/09/07(水) 20:29:12.21 ID:zCK7Rq+Q - 「ところで、可感的世界の一部分が神のロゴスのうちの像の似像である以上、この「可感的な世界」という種全体が
神のロゴスのうちの像の写しであることになり、我々が「可知的な世界」と称している原形を成す印章は、 まさしく神のロゴスであることは明らかである。」 (アレクサンドリアのフィロン「世界の創造」2:25、教文館、参照) そんな抽象的なものでは、事実上何のことか意味をなさない。
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712 :神も仏も名無しさん[]:2011/09/07(水) 20:33:25.92 ID:zCK7Rq+Q -
グノーシス主義とキリスト教はまったく相反する思想だよ。
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716 :神も仏も名無しさん[]:2011/09/07(水) 20:48:03.96 ID:zCK7Rq+Q - もともとギリシア語のrhemaは「流れる」と言うような意味があり、
むしろ人間の理性を照らす静かな光の流れ、これはどこからか吹いてくる風(ヨハネ3.8) であり、これは神の霊を指している。
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718 :神も仏も名無しさん[]:2011/09/07(水) 20:50:32.92 ID:zCK7Rq+Q - ギリシア語だせって、ほんとバカですねぇ、サロメは。
聖霊は、諸国・諸言語で話されたんですよ。(使徒言行録) ギリシア語でなくでも理解できるってこと。
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723 :神も仏も名無しさん[]:2011/09/07(水) 20:52:55.34 ID:zCK7Rq+Q - >>722
過去スレでも読めよ。 スレタイに関しては、もう十分すぎるほど論議は尽くされた。
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721 :神も仏も名無しさん[]:2011/09/07(水) 20:58:01.87 ID:zCK7Rq+Q - >>719
だーかーらw イエスは、ご自分を世の光とか、命の光と言われているだろう。 この「光」が、何か分からないというなら、阿呆としか言えないよ。 おそらくグノーシスの言うロゴスも、この光のことを言っているのだろう。
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724 :神も仏も名無しさん[]:2011/09/07(水) 21:06:07.06 ID:zCK7Rq+Q - 人間に肉体と霊魂があるように、聖書(みことば)にも、肉体にあたる文字上
の意義と、霊魂にあたる(内的意味)が存在している。 (みことば)を文字だけから見るなら、霊魂のない肉体のようなものだ。 人が文字の意味にだけ固執すると、この内部が存在することに気づきません。 いずれ、どっかのアホ学者がこねくり回した、ギリシア語の意味に振り回される ことになり松^^
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727 :神も仏も名無しさん[]:2011/09/07(水) 21:15:44.28 ID:zCK7Rq+Q - 主の(みことば)は、文字の意味において平易であり、
その内的意味においては難解です。 「口に入ってくるものが、その人を汚すのではなく、 口から出て来るものが人を汚すのである。」(マタイ15.11) ギリシア語原典をいくらこねまわしても、文字上の意味以外に理解できる ものはありません。
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729 :神も仏も名無しさん[]:2011/09/07(水) 21:29:41.05 ID:zCK7Rq+Q - 主の(みことば)は、文字の意味において平易であり、
その内的意味においては難解です。 「人は再び生まれなければ、神の国を見ることはできない。 だれも水と霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできない。 『あなたがたは新たに生まれなければならない。』と言ったことに、 驚いてはいけない。風は思いのまま吹く、あなたはその音を聞いても それがどこから来て、どこへ行くか知らない。霊から生まれたものも そのとおりである」(マタイ15.3、5、7) ギリシア語原典をいくらこねまわしても、文字上の意味以外に理解できる ことはありません。 サロメは、死ぬまでギリシア語の文字上の意味以外は理解できません。
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731 :神も仏も名無しさん[]:2011/09/07(水) 21:38:48.64 ID:zCK7Rq+Q - まぁ、カトリックは信じましょう、祈りましょうで済むからね。
聖書読みの聖書知らずでもカンケーないんでしょ^^
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733 :神も仏も名無しさん[]:2011/09/07(水) 21:54:34.05 ID:zCK7Rq+Q - >>732
改ざんじゃなく(みことば)の霊的意味な^^
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736 :神も仏も名無しさん[]:2011/09/07(水) 22:12:49.39 ID:zCK7Rq+Q - >>735
聖書は相応と表象の関係で記されていますから、勝手な勝手な解釈はできません。 もう何度も「相応」や「表象」が何かは、説明されたでしょう。 愛こそ(いのち)の存在そのものであり、英知こそ(いのち)の実在で、 あらゆるものは、愛と英知にねざして造られたからです。 「(みことば)は、神のもとにあった。神は(みことば)であった。すべて のものはその方によって成った。その方によらないで成ったものはない。 この世は、その方によって成った。」(ヨハネ1.1、3、10) ここにある(みことば)とは、神の真理のことです。それは神の英知のこと でもあります。ですから、(みことば)は、ここですべての人を照らす「光」 とも言われています。 この「光」は、主のおられる太陽から発してきます。
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739 :神も仏も名無しさん[]:2011/09/07(水) 22:29:38.20 ID:zCK7Rq+Q - 神の愛は「火」で表されます。これも相応によります。
「火」は「愛」に相応し、愛を意味するものだからです。 エホバなる神がモーセの眼前の茂みで、火として現われたのはそのためです。 またシナイ山の頂上で、イスラエルの子らに前に現われたときもそうです。 また、愛を霊的熱とか、通俗的にも、愛から派生する情愛をすべて熱で 表したりすることから、分かります。 エホバがマレムの樫のところで、暑い真昼にアブラハムの所に現われた ときもそうです。(創世記18.1)「熱い昼どき」とは、愛に根差したことを 示しています。 このように、聖書にはすべて霊的に相応した関係で記されています。
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742 :神も仏も名無しさん[]:2011/09/07(水) 22:50:32.83 ID:zCK7Rq+Q - 三位一体の位格の神は、ニケア公会議でつくられたもので、それ以前に
三位格(ペルソナ)の神概念はありません。それは初期の教会である、 使徒教会の「使徒信条」からも明らかです。 旧約聖書を読めば、神がお独りなのは明らかです。 「あなたは、わたしをおいてほかに神があってはならない。」(出エジプト記20.3) (申命記5.7) 「わたしこそ主、わたしの前に神は造られず、わたしの後にも存在しない ことを。わたし、わたしが救い主である。わたしのほかに救い主はいない。」(イザヤ43.10,11) 「ほかに神はおられない。他の神はむなしい。」(イザヤ45.14) 創世記で神を「エロヒム」と複数で記されているのは、天使たちを含めて「神々」と呼んでいるためですね。
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745 :神も仏も名無しさん[]:2011/09/07(水) 23:35:56.08 ID:zCK7Rq+Q - >わたしの言葉を守るとは 主との契約を守ることであって 言葉を実践して改良>なんて噴飯ものの
>でたらめです^^ 契約を結んでも、その契約を履行しなければ、契約不履行になりますね。 神との契約も同じことでしょう。契約だけで救われると教えはありません。 そんなことは聖書を読めば誰でも分かります。 「『主よ、主よ』、呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか。しかし、 聞いても行わない者は、土台なしで地面に家を建てた人に似ている。」(ルカ6.46、49) 「人は再び生まれなければ、神の国を見ることはできない。」(ヨハネ3.3) 「全世界に、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」(マルコ16.15、16) 「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。」(マタイ28.20) 「この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。」(マルコ7.6) 新しく造りかえられるため、霊的に再生しないなら、人は神の国に入ることはできません。
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746 :神も仏も名無しさん[]:2011/09/07(水) 23:42:32.95 ID:zCK7Rq+Q - >ユダヤ的な意味の言葉=ロゴスなんて概念はないよ。
>ヨハネがヘレニズム哲学の影響を受けただけ。たぶんグノーシス・トマス派からパクったんだろ。 だったら、万物は(言葉)によって成ったというヨハネに記されている (言葉)の意味を説明すればいい。 キリスト教で、(言葉)=ロゴス=イエス・キリストは常識。
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747 :神も仏も名無しさん[]:2011/09/07(水) 23:56:25.50 ID:zCK7Rq+Q - >>700
神はひとつの存在と三つの位格からなります 存在と位格が一対ではないことは ヨハネ書が明らかにしていますし 創世記のエロヒムという神の複数形からも明らかです ↑ @「ロゴス」は時には神であり、時には神とは別のお方 ことばは神とともにあった。ことばは神であった(ヨハネ1:1) 「そこで、イエスは言われた。『あなたたちの律法に、〔わたしは言う。 あなたたちは神々である〕と書いてあるではないか。神の言葉を受けた 人が〔神々〕と言われている。」(ヨハネ10.34) はい、三位一体の神は、幻想です。
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