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神も仏も名無しさん
【コテハン】基督者の談話室 1【入室お断り】
キリスト教議論スレ 005

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【コテハン】基督者の談話室 1【入室お断り】
431 :神も仏も名無しさん[sage]:2011/09/07(水) 19:31:25.11 ID:MaedDzuL
こんにちわ
キリスト教議論スレ 005
61 :神も仏も名無しさん[sage]:2011/09/07(水) 19:56:08.11 ID:MaedDzuL
>>56  @に関する、シモン氏の回答への感想
言葉で神の存在証明をすることはできない。神を体験する以外にない。
神の存在は聖霊体験によって事実になる。ただし個人的な体験にとどまる。
 
聖霊体験をしたとしても、それが聖書の創造神であるとは限らない。
ただ、聖霊を教える書物は聖書しか存在しない。そのため、自然に聖書に
向かったが、それが創造神なのか至高神なのかはわからない。
 
聖霊体験は神を観照するのではない。聖霊体験=神の訪れとは、
神が自分の中に入ってくることであり、神を味わう=食べることだろうか。
キリスト教議論スレ 005
62 :神も仏も名無しさん[sage]:2011/09/07(水) 20:06:32.22 ID:MaedDzuL
聖婚に関するテーマの中で書こうと思っていたのだが、
霊魂体験をした時、触覚、視覚、聴覚はあるのだが、味覚と嗅覚がない。
なぜだろうと不思議に思っていたが、味覚は聖霊体験で体験しており、
嗅覚はまったく匂いのない清浄な神界では不要なのだろう。
 
これらを考慮すれば、霊魂には五感が備わっている。
キリスト教議論スレ 005
63 :神も仏も名無しさん[sage]:2011/09/07(水) 20:22:45.10 ID:MaedDzuL
Aに関する、シモン氏の回答への感想
ギリシャ語が、男性、女性、中世を区別する言葉だとは知らなかった。
何らかの根拠があって区別しているのだろうと思う。
 
それならば霊魂体験がなくても、聖霊体験だけで「聖婚」の話を語ることが
可能かもしれない。頭の中、心の中に落ちてくる神の雫を、
心が女性格であることによって推理すれば、結婚の比ゆが成立すると思う。
 
英語は区別しないのに、性別を区別する言葉ですか。不思議ですね。
キリスト教議論スレ 005
64 :神も仏も名無しさん[sage]:2011/09/07(水) 20:43:32.61 ID:MaedDzuL
ただ、言葉に性別を区別しない日本人は、何のことやら、
真理の領域に言葉遊びを持ち込んでいるような印象さえ受ける。
 
しかし霊魂体験をすればすっきりする。
霊魂は、形ある命であり、完璧な球体であり、いわゆる「タマ」である。
男でもなく、女でもなく、両性具有の状態にある。
 
それが基本だから、肉体のレベルにおける男とか女とかは、
霊魂の半分でしかなく、霊魂の完全性を表現していないことになる。
その不完全性が、人間を根源的にイラつかせている。
キリスト教議論スレ 005
65 :神も仏も名無しさん[sage]:2011/09/07(水) 21:01:07.23 ID:MaedDzuL
Bに関する、シモン氏の回答への感想
旧約には、創造神と物質世界という二元性がある。
これが創造神デミウルゴスの完全性を示すのではないかと想像する。
 
創造神が男性格、物質世界が女性格
キリスト教議論スレ 005
66 :神も仏も名無しさん[]:2011/09/07(水) 21:03:30.14 ID:MaedDzuL
グノーシスに関しては、筒井賢治著『グノーシス』を読んだだけで詳しくない。
しかし作者の熱い思いに波長があい、引き込まれて読ませてもらった。
 
もともと聖霊体験の意味を知りたくて聖書を読め始めた。
聖霊に関する教えなどが充実しているなら、グノーシスでもかまわない。
そういう意味でナグ・ハマディの研究には期待している。
キリスト教議論スレ 005
67 :神も仏も名無しさん[sage]:2011/09/07(水) 21:39:16.54 ID:MaedDzuL
プネウマは肉体の牢獄に囚われているか。
 
これについては仏教の唯識、マナ識とアラヤ識の関係が参考になる。
マナ識はアラヤ識を自分だと思い、アラヤ識に執着している。
この執着が原因になってアラヤ識の転生が生じる。
 
アラヤ識とは霊魂をびっしり覆っている無意識の自分自身である。
ということは、霊魂は自分が産み出したアラヤ識に囚われているのであり、
身動きができなくなっている。だれのせいでもない。
キリスト教議論スレ 005
68 :神も仏も名無しさん[sage]:2011/09/07(水) 21:56:38.44 ID:MaedDzuL
霊魂がアラヤ識から自由になるには、アラヤ識を脱ぎ捨てればいい。
マナ識がアラヤ識に執着しなければいい。

しかしマナ識もアラヤ識も無意識の世界にある。
無意識を左右することは不可能に近い。だから霊魂だけになれない。
かりにできたら脱魂し、霊魂体験をすることになる。
 
無意識を左右する力は、夢を左右する力とイコールである。
これを可能にするのが聖霊体験ではないかと思う。
キリスト教議論スレ 005
70 :神も仏も名無しさん[sage]:2011/09/07(水) 22:47:09.84 ID:MaedDzuL
聖霊は覚醒中に目を開いたまま体験する。
次は霊魂体験だが、これを体験するには夢を左右する力がいる。
夢の中で善悪を判断できなければならない。
 
魔境だろうが明晰夢だろうが夜見る夢だろうが同じ。
よい判断ができればよい夢を見る。そんな力がどこで手に入るかと言えば、
その王道は聖霊体験だろうと思う。
キリスト教議論スレ 005
71 :神も仏も名無しさん[sage]:2011/09/07(水) 22:57:10.29 ID:MaedDzuL
道元は坐禅の心得として心身脱落を説くが、
実際に必要なのはマナ識がアラヤ識を見捨てられるかどうか。
 
完全に心身を脱ぎ捨てると、完全に死んでしまうと思う。
アラヤ識は見捨てても、マナ識以下を地上に残して置く必要がある。
というか、座禅中の脱魂は自然にそういった形になる。
 
脱魂した霊魂が再び戻ってくる依代みたいなものか。


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