- 仏教 議論スレッド 19
524 :宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk []:2011/08/06(土) 10:43:31.79 ID:FwSlXlLe - >>485-486
>正統派では転変説(pariNAma-vAda)[≒継続するモノの変化変遷]に立ち、 >有機的な生命体としての我(Atoman)という実体を立て、 >これを不生不滅の本体的存在とした。--中略-- >非正統派では積集説(Arambha-vAda)[≒物質的、機械的集合離散及び作用による存立]に立ち、 >精神的存在をも物質的に考え、 これなら、“間違いだ”といわても当然ですね。 アートマンというのは有機的でもなければ、物質的に見えるものなんかじゃないからです。 どうも何故か・・・こういった現象界的な表現にしていかないと アートマンを「存在」や「実在」としては理解されないようですね。 これならダメに決まってる。アートマンはそういうものじゃない。 >仏教では外教の本体説と違って、【心を生滅変化する現象としてのみとらえ】、 >心に自主自律の積極作用があるとしても、それは他の種々なる条件(縁)によってはじめて作用するという >無我縁起の説を立てた。 そりゃー仏教のいう通りですよ。心は違いますから。 「心」そのものはアートマンじゃないから。
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525 :宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk []:2011/08/06(土) 10:44:40.92 ID:FwSlXlLe - >このように仏教では生命活動や精神作用を自主自律のものとして認めるとしても、
>【その奥に常住の本体があるかないかはこれを問題とせず】、 >【現象として表面に現れているものだけを】考察した。 まっ、これが仏教の態度でしょうね。 それはそれでいい・・・。 説明する側(多くのバラモン?)もアートマンについての理解を間違えているし、 そのアートマンではないものを、仏教側からそれらは違いますよ!と言われても当然のこと。 けれども、(正しい意味におけるアートマンについて)「アートマンは在りません」とは言ってない。 仏典にそういう記録はない。 間違えているアートマン論を(仏教側に)否定されても、 アートマンが無いこととはならない。 ----取り合えず、 セブンには良い考察を促すような投稿に感謝です!!
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526 :宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk []:2011/08/06(土) 10:57:00.35 ID:FwSlXlLe - >>515
同意!!! 華厳さん、ご無沙汰でした。 今回はいつになく長文でしたね^^ >>518 神もアートマンも体験ができる。 けれども、科学が何年歴史を積み上げようとも、 科学は物質とは何ぞや?を知ることはできない。 また、その正しい使い方を(科学は)示すものでもない。
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530 :宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk []:2011/08/06(土) 15:51:43.83 ID:FwSlXlLe - >>528
>もし、以下 > >そりゃー仏教のいう通りですよ。心は違いますから。「心」そのものはアートマンじゃないから。 >のようであるなら、先の「心性本浄」の流れで恒常性を言い出す必要はなかろう? >なぜ、あそこで、【心について、心の性について】話されている時に「恒常性」と結びつけた? >ちょいと矛盾が過ぎるんじゃないかい?w 「心」の中には肉体崩壊後にも存続を続ける部分もあり、魂など呼ばれている「識」等々も在るけれ ども、アートマン本体はそこにはない。 「心」はアートマンではないし、心の中にアートマンが内在しているわけでもない。けれども、双方そ れぞれ別物でありつつも、この「心」と「アートマン」は“繋がっている”という言い方は可能でしょう。 で、大乗のアプローチの恒常性についていえば、現実問題として“本来の清浄なる心”を具現してい る人間などは皆無であって、生存している凡夫衆生は例外なく煩悩に塗れて汚れているのですから、 この場合の“本来の清浄なる心”とは「アートマン(真我)」そのものを意味するのだ、といってもいいで しょう。でなければ、敢えて“本来の清浄なる心”などと呼ぶその意味がないからです。 対する上部系のアプローチというのは、心には恒常的な清浄性など元々から持ち合わせていないの だけれども、仏道修行が進んでアートマン(真我)との連結、その結びつきが強固になり、アートマンの 持つ恒常的な清浄性質が行者の心に具現されてきて顕れることを意味するものと受け取れると思う。 厳密には心が恒常性を持っているわけではなくて、アートマンの性質が顕現してくるということ。 心というのは、常に一過性の反応を伝えるだけ表現媒体に過ぎない。 よって、両派の見解とアプローチは単に視点と表現の違いに過ぎないのでは?----というのが私の 率直な意見です。こうすることで両派の意見相違の矛盾を解消することができます。
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531 :宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk []:2011/08/06(土) 15:53:51.32 ID:FwSlXlLe - >>間違えているアートマン論を(仏教側に)否定されても、
>それは、いつも貴方が言うように『仏教側のアートマン観も間違っている』ということであり、 >おそらく『ゴータマのアートマン観も間違っている』ということなのです。 間違えているアートマン論を主張する多くの“未体験なバラモンたち”を批判している仏教側の指摘 ですから、それ自体は何も問題はないし、そのことが仏教側のアートマン理解が間違えているという ことを特に意味しないと思います。 >《アートマンが(概念以上のものとして)存在しており、そこを目指しなさい》と説かれた形跡は、 >今のところ見つかっていない。実体験・追体験でそのように言う伝承者もいない。 >それが何を意味するか? >なぜ、仏教の枠組みでアートマン論を明確に打ち出す者が出現し【得ていない】のか? >それは、文脈に於いては「無我」とみなさざるを得ず、且つ、縁起に於いては排されねばならないからです。 残念ながら間違って、涅槃すらも無為/現象界へと投じてしまった仏弟子たちにとり、無常ではな いものの存在などは有得ないわけですから、「アートマンはない」とは一言も述べてなくても、「それ はアートマンではない。これもアートマンではない」を繰り返す非我論というのは、結局、やはり「アー トマンはどこにもないのだ!」という意味としての経文として解することになっても不思議ではない。 その後、経典の記述に一句一句その通りに従おうとする法門の伝統指導によって、これに異を唱 える者が出てこれなくても無理からぬことです。 ですから、これを指摘し始めたのは近代仏教学ということでしょう。だから、信仰の世界からは自 己に対する客観的批判研究は無理なのです。 あと・・・頑固で聞く耳持たないし・・・。平均的に仏教徒はバラモン・ヒンドゥー教徒を見下す姿勢が 強いので、彼らの話などは聞かない。それで、「好きにさせておけ!」ということで、本国インドでは 仏教徒というのはインド民衆(ヒンドゥー教徒)からは放置/無視の対象ですね。
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532 :宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk []:2011/08/06(土) 15:55:33.45 ID:FwSlXlLe - >>531
訂正: ×「涅槃すらも無為/現象界へと」 ○「涅槃すらも有為/現象界へと」
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537 :宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk []:2011/08/06(土) 18:29:38.32 ID:FwSlXlLe - >>534
私はそういう意味では話していません。 バラモンたちが間違ったアートマン論を主張していることを仏教が指摘している、 という意味です。 従って、 元々、間違った話を間違いだと指摘しても、 そのことで正しいアートマン理解についてまでも完全否定する意味とはならない、 ということをいっています。
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546 :宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk []:2011/08/06(土) 23:16:18.92 ID:FwSlXlLe - >>544
>バラモン連中が「みた」と言っているのはガチでアートマンだよ、と言うのがバラモン側で >バラモン連中が「みた」と言っているのは実際五蘊の誤認に過ぎないよ、というのが釈迦です。 >確認のしようはありません。 はい、同意します! >釈迦に超自然的な視力があったとしても、起源経で大ポカをやらかしてます。 エッ、そうなんですか? 不勉強にて分りません・・・。
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547 :宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk []:2011/08/06(土) 23:19:24.16 ID:FwSlXlLe - >>545
業報の作用だって“宇宙の根本原理”でしょう。 ゴータマが、「これは如来が出現しようがしまいが、最初から定まっていた法則だ」と述べたものの一つです。 あなたは業報も分らないし・・・。
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