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神も仏も名無しさん
聖地■キリスト教談話室・予備■巡礼

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715 :神も仏も名無しさん[sage]:2011/07/12(火) 19:28:27.87 ID:77tzHQae
>>714
ヨハネスさんの話は、何となくわかるけど、何となくわからない。
熱が出そう。空のイメージをもっと具体的にお願いします。
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716 :神も仏も名無しさん[sage]:2011/07/12(火) 19:45:21.04 ID:77tzHQae
仏教の空はややこしい。
 
ややこしくしている原因のひとつは唯識派の存在にある。
唯識派はアラヤ識を設定し、まるでヒンズー教のアートマン(霊魂)を
認めるかのような主張をしている。他方で空も主張する。
唯識派は霊魂を否定する仏教には、存在してはならないのではないか。
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717 :神も仏も名無しさん[sage]:2011/07/12(火) 20:05:27.70 ID:77tzHQae
唯識派の主張が矛盾しているのはどうしてなのか。
真実が優先するのではなく、仏教が生活の手段だったからだろう。
 
若い頃から仏教を修行し、30代、40代になってから、
真実はヒンズー教が言うようにアートマン(霊魂)があると知っても、
いまさら自分の立場を変えることは難しい。
 
自分の体験を語れば、空を説く教団から追い出されるだろう。
ヒンズー教に就職しようと思っても、丁稚奉公からやり直すことになる。
そこで唯識派は何をやったのか。アートマンとは決して口に出さず、
それとよく似た、アラヤ識、如来蔵、仏性などを説いたのだ。
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718 :神も仏も名無しさん[sage]:2011/07/12(火) 20:17:27.41 ID:77tzHQae
その結果、中観派の峻烈な空のイメージがふやけ、
坐禅中の禅定、ヒンズー教でいう梵我一如が仏教の空として紛れ込む。
こうして空に関する二通りのイメージができあがる。
仏教を学ぶ者は、こういった仏教の混乱に、混乱させられている。
 
中観派の空 ・・・ 虚無
唯識派の空 ・・・ 梵我一如 → さらにアートマン(霊魂)へ
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719 :神も仏も名無しさん[sage]:2011/07/12(火) 20:47:56.48 ID:77tzHQae
ヨハネスさんが指摘した実相(真実は無相)は、
法華経にある言葉(諸法の実相)で、最澄が注目した言葉だと言われている。
真実は無相とは空のことであり、空が虚無であることを言っている。
 
仏教においては、善と悪とは縁起しており、縁起しているから空である。
この場合の空は、まったく何もないことであり、虚無である。
作用(+)と反作用(−)の中心、ゼロが空になる。
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720 :神も仏も名無しさん[sage]:2011/07/12(火) 21:51:39.07 ID:77tzHQae
空の大成者・竜樹は、『中論』で時間が存在しないことを証明している。
事実ではなく、言葉を巧みに操作しただけの証明だから机上の空論だと思う。
しかし今回、自分の経験を振り返り、そういうことが実際にあるかもしれない
と思い始めている。時間がなければ空間もない。虚無である。
 
言葉に論理性が貫徹していれば、虚無を含め、
それに対応した現実が何かしら存在しているのかもしれない。
キリスト教は「言葉は神である」と言っている。
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721 :神も仏も名無しさん[sage]:2011/07/12(火) 22:25:24.46 ID:77tzHQae
唯識論は、中観派に妥協するための作り話だった?
 
すべての事物は心が作り出した表象にすぎない、という唯識論は、
どう考えても狂っている。まったく理解できない話だ。
 
しかしである。中観派の空と、唯識派の主張(アラヤ識など)を接ぎ木する
ために、あえて唯識論を作り上げた可能性もある。現実と言葉がぴったり
対応していることが根拠にされたのは言うまでもない。
 
かりにそうなら、素直に仏教を学ぶ者にとってはとんだ迷惑である。
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722 :神も仏も名無しさん[sage]:2011/07/12(火) 23:20:43.50 ID:77tzHQae
仏教で言う空が虚無であれば、
虚無においては時間も空間もないから、『中論』18−7「心の境地が滅した
ときには、言語の対象がなくなる。」ということになる。
まったく何も無いのだから、言葉で何かを表現することは不可能である。
禅で言う「不立文字」の世界である。
 
しかしこういった境地にはだれも到達できないはずである。
到達したいとも思わない。竜樹の説く空は果たして虚無でいいのだろうか。
虚無でいいのなら、『中論』冒頭の「八不」が成立する。
空を悟った話を聞かないのは、虚無を悟れる者がいないからである。

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723 :神も仏も名無しさん[sage]:2011/07/12(火) 23:31:44.30 ID:77tzHQae
竜樹『中論』 帰敬序
何ものも消滅することなく、何ものもあらたに生ずることなく、
何ものも終末あることなく、何ものも常恒であることなく、
何ものもそれ自身と同一であることなく、
何ものもそれ自身において分かたれた別のものであることなく、
何ものも来ることもなく、去ることもない、
戯論の消滅というめでたい縁起のことわりを説きたもうた仏を、
もろもろの説法者のうちでの最も優れた人として敬礼する。
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724 :神も仏も名無しさん[]:2011/07/12(火) 23:45:25.09 ID:77tzHQae
悟ったかどうかという話は、
ヒンズー教の梵我一如やアートマン体験としてならありえる。
仏教の空(虚無)は体験不可能である。


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