- エホバの証人ふざけるな!96
493 :神も仏も名無しさん[sage]:2011/07/09(土) 01:08:19.45 ID:1slQhRtb - >>491
イエスはみ使いより低い状態になりました。 ヘブライ2章9節 ただ、「しばらくの間、御使たちよりも低い者とされた」イエスが、死の苦しみのゆえに、栄光とほまれとを冠として与えられたのを見る。それは、彼が神の恵みによって、すべての人のために死を味わわれるためであった。 低い立場を取られ人間となられたイエスは父を謙遜に褒めたたえておられます。 フィリピ2章3-5節 何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。 互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。 2章6-8節 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。 神であるイエスが御自分を低くして父に対する従順を示しておられるのであって、何の問題もありません。
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- エホバの証人ふざけるな!96
494 :神も仏も名無しさん[sage]:2011/07/09(土) 01:15:24.78 ID:1slQhRtb - >>492
確かにそう考えますよね。 クリスチャンですか?エホバの証人ですか? カナン人だけでなく、アマレク人に対する裁きやエリシャをからかった子供が殺された例など疑問に思う事もあるでしょう。
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- エホバの証人-組織上の調整について語るスレ 2
857 :神も仏も名無しさん[sage]:2011/07/09(土) 01:55:42.16 ID:1slQhRtb - >>856
捨てたから清いとは限りません。 自称、忠実な奴隷が不忠実で、偽預言者、その後の会長も問題だらけで偽預言連発。 サタン崇拝者が創始者という事に変わりはなく、キリストを神ではないなどと言い出して明確な聖書の教えである地獄を否定。 ま、反キリストという事です。
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- エホバの証人-組織上の調整について語るスレ 2
860 :神も仏も名無しさん[]:2011/07/09(土) 17:59:43.97 ID:1slQhRtb - >>859
キリストはどういうかたか ものみの塔は、イエス・キリストについて次のように教えています。 "イエスは、父なる神の最初の被造物である"(『論じる』五〇ページ) "イエスは神性を備えていても神ではない"(『論じる』三五二ページ) "天使長ミカエルとは、イエス・キリストのことである"(『論じる』六〇ページ) これに対し、聖書的キリスト教は、次のように教えています。 "イエスは、被造物ではなく、天使でもなく、父なる神から直接お生まれになったかたである" "イエスは神性を持ち、神のひとり子、また子なる神であられる" "イエスは父なる神と、本質と存在を一つにしておられる" これについて、聖書を調べてみましょう。 聖書はキリストを、 「神に造られたもののアルケーであるかた」(黙示三・一四) と呼んでいます。ものみの塔は、このギリシャ原語「アルケー」を、「はじめ」また「最初のもの」と訳し、キリストは神に造られた"最初の被造物である"としています。 「アルケー」は、実際「はじめ」と訳されることがあります。しかし右の聖句の場合は、「はじめ」ではなく、新改訳や口語訳のように「根源」と訳すべきです。その理由は二つあります。 一つは、アルケーは「はじめ」と訳される場合でも、つねに「出所」とか「起源」の意味で「はじめ」なのです。そこで右の聖句は、「神に造られた最初の被造物」ではなく、「神に造られたものの根源であるかた」と訳すべきです。 もう一つの理由は、聖書は全体から解釈しなければならない、ということです。翻訳も、全体に調和する意味に訳さなければなりません。キリストを最初の被造物とするなら、他の聖書箇所に矛盾するのです。たとえば、 「すべてのものは、このかた(キリスト)によって造られた。造られたもので、このかたによらずにできたものは一つもなかった」(ヨハネ一・三) と言われています。全被造物は、キリストによって造られました。キリストによらずにできたものは、一つもありませんでした。「神の言」と呼ばれるキリストは、創造のわざに参加したかたなのです。 そうであれば、彼自身は被造物ではありません。彼は被造物の根源となられたかたです。 「御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っているのです」(コロサイ一・一七)
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861 :神も仏も名無しさん[]:2011/07/09(土) 18:04:37.20 ID:1slQhRtb - 万物の根源=御子イエスは、万物よりも先に存在されました。彼はじつに、父なる神と共に、永遠から永遠まで存在しておられるのです。
「神は、御子(キリスト)によって世界を造られました」(ヘブル一・二)。 一方、彼は天使のひとりでもありません。天使は被造物だからです。聖書は、 「御使いも・・・・そのほかのどんな被造物も・・・・」(ロマ八・三九) と言っています。御使いは人間と同様、被造物なのです。また聖書は、 「(やがて)私たち(聖徒たち)は、御使いをさえさばく」(一コリ六・三) と言っています。それならどうして、キリストが天使のひとりでしょうか。彼は天使長ミカエルでもありません。キリストは、神から直接的に生まれたかたなのです。聖書は、 「はじめに、ことば(キリスト)があった。ことばは、神(原語は定冠詞つき)と共にあった。 ことばは神(定冠詞なし)であった」(ヨハネ一・一) と述べています。最初の「神」は父なる神、あとの「神」は、子なる神キリストをさします。 人間の子は、人間であり、また"子なる人間"です。ちょうどそのように、イエスは神の御子であり、また"子なる神"であられるのです。ヨハネ一・一八では、キリストは、 「父のふところにおられるひとり子の神」 と呼ばれています。旧約聖書でも、キリストは神と呼ばれています。 「彼(キリスト)の名は、"くすしい助言者""力ある神""とこしえの父""平和の君"と呼ばれるであろう」(イザヤ九・六 新世界訳)。 しかし、父なる神と子なる神キリストとは、本質と存在において一つです。
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862 :神も仏も名無しさん[]:2011/07/09(土) 18:05:06.66 ID:1slQhRtb - 「わたしと父とは一つである」(ヨハネ一〇・三〇)
とイエスは言われました。この「一つ」という言葉を、ものみの塔は、単に思いや目的において一つなのだと解釈しますが、原語は"同一の本質"の意味です。実際、 「わたしを見た者は父を見たのです」(ヨハネ一四・九) とキリストが言われたとき、それが思いや目的において一つという以上の意味であったことは、明らかです。 御父と御子は、本質と存在において一体であるゆえに、御子を見ることは御父のご本質を見ることでもあるのです。 さらに、黙示録二二・三に、 「神と小羊(キリスト)との御座が(新エルサレムの)都の中にあって・・・・」 と記されていますが、この「御座」の原語は単数形です。もし神と小羊キリストが存在を異にするならば、ギリシャ語では「御座」は複数形でなければならないのです。 しかし、御父と御子は一体であるゆえに、「御座」には単数形が使われています。 御父と御子が「一体」であるというとき、それは「同一」とか「同じ」という意味ではありません。両者の間に、区別はあるのです。しかし、存在と本質を一つにしておられるのです。 三位一体論は、決して"三神論"でも"三位同一論"でもありません。それは三つの神がいるという教えではなく、また御父・御子・御霊が"同じかただ"という教えでもありません。一体だ、という教えです。 人格(ペルソナ)が別のおかたが、意志や目的において矛盾することなく、唯一の神を形成しているのです。 これは至高の神に関する奥義的な事柄であり、私たちの知性で完全に把握することはできないでしょうが、明らかに聖書が教えている信ずべき真理なのです。
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863 :神も仏も名無しさん[]:2011/07/09(土) 18:18:35.18 ID:1slQhRtb - キリストを礼拝してよいか
また、ものみの塔は、イエス・キリストについて次のように教えています。 "イエスを礼拝したり、イエスに向かって祈ることは適切ではない"(『論じる』五六〜五七ページ) 一方、聖書的キリスト教は、次のように教えています。 "私たちは、父なる神を礼拝するとともに、御子イエスをも礼拝すべきである。また、父なる神に祈るように、御子イエスに向かって祈ってもよい" 聖書には、こう記されています。 「(復活の)イエスにお会いしたとき、彼ら(弟子たち)は礼拝した」(マタイ二八・一七) 「神の御使いはみな、彼(イエス)を拝め」(ヘブル一・六) イエスは、弟子たち、および天使たちから礼拝をお受けになりました。イエスは彼らの礼拝行為を、拒絶することはなさいませんでした。 「礼拝した」と記されている箇所は、このほかにも数多くあります(マタイ二・一一、一四・三三、一五・二五、二八・九、マルコ五・六、ヨハネ九・三八)。 このギリシャ原語は、プロスキュネオーです。ものみの塔発行の『新世界訳』は、この原語を、すべて「敬意をささげる」と訳しています。エホバに対する時にのみ、「崇拝する」と訳しているのです。 しかし、エホバに対するときは「崇拝する」と訳すのに、イエスに対する時だけ「敬意をささげる」と訳すのはおかしなことです。 また、プロスキュネオーが単なる「敬意をささげる」の意味でないことは、つぎの聖句から明らかです。 「私(ヨハネ)は、彼(天使)を拝もう(プロスキュネオー)として、その足元にひれ伏した。すると彼は私に言った。『いけません。私は、あなたや、イエスのあかしを堅く保っているあなたの兄弟たちと同じしもべです。神を 拝みなさい(プロスキュネオー)」(黙示一九・一〇)。 プロスキュネオーが単に「敬意をささげる」の意味なら、天使はヨハネの行為を拒絶する必要はありませんでした。ヨハネの行為は礼拝行為だったので、天使はそれを拒絶し、「神を拝みなさい」と言ったのです。
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- エホバの証人-組織上の調整について語るスレ 2
864 :神も仏も名無しさん[]:2011/07/09(土) 18:21:00.96 ID:1slQhRtb - 弟子トマスが復活のイエスを見て、
「わが主よ、わが神よ」 と告白して崇拝したとき、イエスはその礼拝行為を拒絶せず、むしろ、 「あなたはわたしを見たので信じたのですか。見ずに信じる者はさいわいです」 と言って、その信仰を励まされました(ヨハネ二〇・二七)。私たちは、イエスを礼拝してよいのです。 私たちは、イエスに向かって祈ってよいでしょうか。弟子ステパノは、死の間際に、イエスに向かって祈りました。 「主イエスよ。私の霊をお受け下さい」(使徒七・五九)。 パウロも、イエスに向かって祈りました。 「このことについては、これ(持病)を私から去らせてくださるようにと、三度も主(イエス) に願いました」(二コリント一二・八)。 黙示録でも、イエスに向けて祈られています。 「アーメン。主イエスよ。来て下さい」(黙示二二・二〇)。 イエスご自身、ご自身に向かって祈りなさい、と言われました。 「あなたがたが、わたし(イエス)の名によって、何かをわたしに求めるなら、わたしはそれをしましょうと」(ヨハネ一四・一四 王国行間逐語訳でも「わたしに求めるなら」なっています)。 私たちは、父なる神に祈るとともに、御子イエスに向かって祈ってよいのです。 ステパノは、主イエスに祈って言った。 「主イエスよ。私の霊をお受けください」 (使徒7:59)。
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- ☆十字架☆イエス・キリスト☆復活22
293 :神も仏も名無しさん[]:2011/07/09(土) 22:06:26.65 ID:1slQhRtb - >>292
その人はアンチですよ。 キリストを被造物だと考えている。
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