- 仏教とキリスト教はどう違うの?
459 :神も仏も名無しさん[sage]:2011/04/07(木) 00:08:58.67 ID:m5pqcKrh - >>458
いや、だからw 情報的に知ってるけど、それを表に出さない(→認めない、示さない、伝えない)ってことじゃ駄目なの? 誰も「情報的に知らない」なんて言ってないと思うけど? つか、今レスに書かれてきた文章以外との整合性を言うなら、 未確認なんでwさっさと撤回するけど?w
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462 :神も仏も名無しさん[sage]:2011/04/07(木) 00:33:34.41 ID:m5pqcKrh - >>460
じゃあ、なんで俺にレスするんだよwww 意味不明な奴だw
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464 :神も仏も名無しさん[sage]:2011/04/07(木) 00:48:10.76 ID:m5pqcKrh - >>461
「願う」のではなく「気付く」だよ。 それは、仏教に於ける「縁起する私(わたくし)」という自覚(≒観察)、「無我なる私」という自覚(≒観察)、と 軌が相似する。 《「諸法が縁起するのみで私なぞどこにもない」ということを踏まえた、「私が縁起している」という自覚(≒見)》こそが 入り口でありゴールであるように。 >>463 時間とタイミングから、ワシにレスしてる“形”にしかならんが?w こういう入り乱れた対話の時は、よほど明瞭な「応答の繋がり」がない限り、 アンカー無しは混乱の元だ。廊下に立ってなさいw
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466 :神も仏も名無しさん[sage]:2011/04/07(木) 01:31:26.49 ID:m5pqcKrh - >>465
・>時間とタイミングから ・ID:Sg/Ctqgrは、>情報的に知 っているかどうかという言い方をしていない。 また、そのような限定的意味で「知る」を分けていない。 ・上記を承けて、>>458は、『>情報的に知 るかどうかという分別でいくと・・・』というレスなので、 形上、「直前の>>457及び>>445に対してダイレクトに繋がったレス」となる。 >>456も同じ。
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469 :神も仏も名無しさん[sage]:2011/04/07(木) 01:41:40.59 ID:m5pqcKrh - >>467
私を、「特別な者・選ばれた者・『貴方の意向に隨う者』」として 【抽出(注目)してください、目をかけてください、(→特定してください)】(search) という意味には読めるな。 そして、そうした私を、【「貴方の意向に合致した者、貴方の御意に叶った者として」知ってください】(know) と。
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471 :神も仏も名無しさん[sage]:2011/04/07(木) 01:51:31.94 ID:m5pqcKrh - >>470
だからw、「阿弥陀様に既に救われている」という考え方と相似形じゃね?と。 救われてるから、どうであってもいい(→何をしてもいい、悪業を爲してもいい)とはならんでしょ。 そのこと「救われていること」に気付き、そのことを大切に受け止め、わが身の在り方へと投射するが如く・・。 神の御許へ行くことが決定していて、それを誠実に感謝することもまた決定しているとしても、 そのこと「全てが見通されていること」に気付き、そのことを大切に受け止め、わが身の在り方へと投射することが、 御意の顕れであり、神の愛を受ける者の義務であると受け止める、と。 決まっていること(≒御意)に粛々と隨ってこそのキリスト者である、と。
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473 :神も仏も名無しさん[sage]:2011/04/07(木) 08:28:58.07 ID:m5pqcKrh - >>467>>472
ポイントは、どちらも人間の【側】(神でない側)の台詞だということだろう。 つまり、神の御心(みこころ)が >計り知れない もので、 そして、救ってくれる(くれている)、その愛が既に十分に注がれているとしても、 「今の自分の境遇の不遇さに対する嘆き」から発せられている、という点じゃなかろうか。 今の自分の置かれた状況からすると、「神から愛が注がれている、既に救われている」ことへの信頼が揺らいでいる、 或いは、その証・徴を欲している、と・・。それを確認できる何かが欲しい、と。(まるで、恋人が、相手の愛の証を求めるかのように・・。) ややもすると、信頼がぐらつき、信心を失ってしまいそうな私に、「救われている」こと「既に愛は注がれている」ことを 示してください、信じさせてください、と・・。 勿論、神にとっては、当人のこうした煩悶も予定内・想定内のことだろう。 だから、「試練」という言葉がセットで用いられることが多いのでは? だから、常に【人間の側の】問題なのでは?
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481 :神も仏も名無しさん[sage]:2011/04/07(木) 19:21:52.58 ID:m5pqcKrh - 色々書いてきたが、当然全て推論だ。そして、「仮の」整合性、辻褄合わせでしかない。
私個人としては、この辺がキリスト教の抱える限界(最後に残る非整合性)だろうと思っている。 神に「全知全能」という要素を明確に付加することによって生じた齟齬ではないか?と。 全てが、予定調和的に仕組まれたものであったとして、人間に与えられる様々な危難・苦難が、 それらも含めた形での(―無難な、一色だけの世界でなく、多彩に彩られたキャンバスの如き世界としての―) 神の国の姿なのではないか、苦悶・煩悶あってこその人間世界(被造界)、逡巡や迷いあってこその「幸」「安心」ではないか、と。 人間に自由意志が与えられ(それはつまり煩悶を経験することもまた必然的義務として負わされているということだが) そうして右往左往することもまた、御意・御心である、と。敢えて、人間に自由にさせている、と。 これは、全て【現況の不遇さ、艱難苦難を正当化する(→理不尽さの払拭)爲の苦肉の策】と言うこともできる。 業論が、現世の苦難を前世に遡るように・・・。 新約も含め、聖書全てを包含して解釈できる・形成し得る整合性ということだが、 創世記に於ける「世界創造」を完全なもの(つまり人間の自由意志すらも御心のうち)としてしまうことによる齟齬ではないか、と。 「知恵の実」「蛇」「エデンの追放」等のエピ、「人間の自由意志」を考慮するなら、 上の方で誰かが言ってたが、創世記時代に於ける神は、その原初に於いて「全知全能」ではなく、 世界を創造する巨大な能力を持った存在というだけでしかなかったのではないか?と。 もっと素朴な創造神、民族の神fだったのではないか、と。 また、「慈愛に満ちてはいるが、同時に怒りの神ではないか」と。 *(個人的には、アニミズムの進化形・変異種と考えるが・・。)
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482 :神も仏も名無しさん[sage]:2011/04/07(木) 19:33:25.85 ID:m5pqcKrh - 世界を造りはしたが、そこに人間の選択、自由意志を盛り込み、世界完成の一翼を担わせた、と。
決定論的「全知」でなく、全てを操作する・強制作用させる「全能」でなく、 「見通している」という意味での「全知」、indefiniteなブレを許容する限定的「全能」、「世界創造」という点での全能という意味で。 (こっちの方が筋は通り易い気はする。創世記(及び旧約)に於いて、 「所謂」全知全能ということが言われているのかどうかは知らんがw) 初めから地獄行き天国行きが決まっている、というのは、実に決定論的だ。 「希望願望」含め(たとえば、敵対民族敵対共同体は、地獄行きが決まっている、とか)、 『通常の「決定論」』同様、後付理論、ファンタジーの域を越えられない。 しかしながら、そこにこそ「肝」があるのかもしれない・・。 信心も改心も、(その後の幸も)、ともに決定されている。 あとは、【それに気付くかどうか】。 気付いた者は(→信じた者は)、【結果論的に、「救われた存在であった」と見做し得(自覚、安心でき)】、 気付かない者(→信じない者は)、【上記以外の者として】、「裁きを受け、責めを受ける存在であった」と 見做し得る(批評し得る)、と。(当人は無自覚なまま、最後の瞬間に知ることになる。) だからこそ、気付きなさい(≒目覚めなさい、信じなさい)と言われる。 信じれば、そこに改心と神への祈りがあれば、【そのことによって、救われていることが証明される】、と。 後から判ることであり、「信」「気付き」のない者には知りようがない。 何度も言うようだが、こうした構図が、実に浄土系の思想、阿弥陀信仰に近似していると感じる。 (一代は、キリスト教との親和性を近代真宗教学に帰しているが、それのみでもないと思う。)
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- 仏教 議論スレッド 12
3 :神も仏も名無しさん[sage]:2011/04/07(木) 19:37:14.47 ID:m5pqcKrh - 乙
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484 :神も仏も名無しさん[sage]:2011/04/07(木) 20:57:36.03 ID:m5pqcKrh - >>483
千差万別。 伝統的にというか、最大公約数的に言えば、(宝珠とのやり取りを思い出して欲しいがw)、 「一切」が何を指しているか?ということに尽きる。 本来は、【百科事典的知】ではない、ということは押さえられるべきことなのだ。 つまり、「諸法が縁起すること」「諸法が縁起してあること」、それを知っている、という意味での「一切知者」ということになる。 中論を待つまでもなく、一切が縁起するものなれば、 縁起という理(ことわり)を知ることは、すなわち、世の一切を知ることに他ならない。 これが、最大公約数的第一義の「一切知者」。 もう一つは、上記(勝義としての「世の在り様」)も含め、且つ、 世の様々な事象、【世俗としての様々な事象、案件】について、その在り様(→なぜそうなのか?)を 縁起という考え方から、その骨格・本質を知り得る、という意味での一切知者。 この辺まで。これ以上の、《「所謂」神の全知》みたいなものでは決してないし、 そこまで行ってしまっては、少々逸脱が過ぎてしまう。(大乗仏教が陥った罠と言ってもいいかも?w)
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487 :神も仏も名無しさん[sage]:2011/04/07(木) 22:22:01.57 ID:m5pqcKrh - >>485
wwwww 今の論点に於いては、どちらであっても一分の変わりもありませぬw 相変わらずズレた横レス乙ですなw >>486 どちらもあり、です。 ただ、気付いた方が、「唐突な苦」「恨み言を誘うような苦」「打ちのめされるような苦」等は、遥かに軽減される、ということです。 孔子は四十にして迷わずと言いましたが、「気付かずにいても、適切安全な道程を進み得る」人もいるでしょう。 ただ、気付いていれば、自らの歩みを、「意図的に」平坦なものとしてゆくことが可能となるのです。 気付いていなければ、様々な苦を、回避可能な苦までをも、何度となく繰り返すことになるだけです。 気付けば、それを軽減する方途が開かれる、ということです。 しかし、どちらか一方は地獄行き、という二極的断絶ではありません。 常に、回避・離脱の可能性は開かれています。
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