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神も仏も名無しさん
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【脱洗脳】苫米地英人博士【脳機能学者】パート12

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78 :神も仏も名無しさん[sage]:2011/03/02(水) 13:24:11.93 ID:28x8go4w
質問

@釈迦の悟りとは端的に言って何だと考えますか?

A悟りを得る為の具体的な方法はありますか?


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82 :神も仏も名無しさん[sage]:2011/03/02(水) 14:41:25.15 ID:28x8go4w
>>78さんへ

それだと、バラモン教のヨガと余り変わらないような気がしますが。

アーレフへどうぞ見たいな話になってしまうw



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103 :神も仏も名無しさん[sage]:2011/03/02(水) 17:27:11.37 ID:28x8go4w
瞑想をやって無念夢想になっているときは確かに「予め抱いた偏見が存在しない」状態と言える。

大抵の場合、人は偏見の奴隷になっており、「あいつはムカつく」と言う事を100篇繰り返している事が在る。

すると「あいつはムカつく」がリアリティを持ち始める。

例えば、海にバカンスに行ったり、山登りを3日くらいして、町に帰ってきたときなど、世間の風景が新鮮に感じるときがあるだろう。

それは「日常の雑事」に三日間触れなかったことで、その点においては「無念無想」になっている訳で、仲たがいしていた友人とかとも、新鮮な気持ちで接する事が出来たりするからだと思われる。

普段当たり前に見ていた町の風景も、なにやら美しいものに見えてきたりする。

偏見が無くなり、「存在のありのまま」が一瞬見えたような瞬間と言える。

もし、無念無想の瞑想に効果があるとしたらこういうものだろう。

日常の想念、妄想から自由になると言う事である。

24時間のうち、1時間でも「無念無想」であれば、それだけ、「煩悩から自由」になる可能性はある。


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104 :神も仏も名無しさん[sage]:2011/03/02(水) 17:35:05.11 ID:28x8go4w
しかし、下界に下りて、三日もすれば、また煩悩の虜になる。

何故なら、下界の人全てが悟りを得ているわけではないからだ。

下界に生きて、尚且つ、煩悩の虜にならないような瞑想の工夫をする必要がある。

一つ、私がやって有効だったのは、下界の人全てが釈迦ムニ仏であると言う瞑想である。

これを毎日やっていれば、下界に居ながらにして、仙人郷にいるような心境がするだろう。

心に妄想が起きる余地が無いのである。

常に安らかな気持ちで、日常を過ごす事が出来る。実際にチベット密教ではこういう瞑想があるようである。

ただ、よっぽど瞑想に習熟しないと、俗悪資本主義的リアリティの方が勝ってしまい、「とてもじゃないが目の前の上司や同僚が釈迦には見えない」と言う心境に陥ってしまう。

この辺、もう少し工夫の余地があると思う。

殆ど、住民全てが仏教に強化されているチベットやブータンなどと、現代日本では条件が違いすぎるのだ。








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105 :神も仏も名無しさん[sage]:2011/03/02(水) 17:41:22.63 ID:28x8go4w
精神の衛生という観点から2ちゃんねるの評価

「2ちゃんねる」ははっきり言って、瞑想、精神の衛生と言う観点からすると、かなりマイナスである。

他人の悪口が主であるからである。

毎日のように2チャンネルをやっている人は、他人が悪人に見えてくると思うw

人間に対してネガティブな偏見を増長してしまう効果があるのだ。

2ちゃんねるをやるくらいなら、その時間を瞑想に当てたほうがいいだろう。


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107 :神も仏も名無しさん[sage]:2011/03/02(水) 18:05:36.47 ID:28x8go4w
無念無想の瞑想を一日10時間くらいやったらどうなるか。

その間は煩悩は止んでいる訳である。

10時間と言うと、半日小旅行に出かけたくらいの時間である。

さすがに認知の上で何らかの変化が起こりそうである。

10時間無念夢想の瞑想が出来るとしたら、日常生活でも無念夢想で生活できるくらいの「精神力」が生まれそうに思う。

普通は、無念無想で仕事をしたり、生活をしていない。

思い出したように2ちゃんねるに書き込みをしたり、友達の事が気になったり、他人の噂話に興じたりしている。

しかし10時間無念夢想の瞑想が出来るならば、3時間くらい無念夢想でいることは十分可能であろうし、3時間無念無想ならば、休憩を挟んでさらに三時間無念夢想も可能だろう。

つまり24時間無念夢想で一生無念無想と言う事も不可能ではない。

無念無想と言うのは、要は、存在そのものをありのままに認識していると言う事である。

全てのものが見えていると言う状態のはずである。

例えば、目の前に居るものを、普通は「奥さん」だと思うわけだ。

日常意識では「奥さん」と言う概念を認識している事になるが、無念無想でみればそれは「一瞬一瞬で変化する縁起の総体」かなにかに見えるやもしれぬ。

理屈ではそうなるので、是非実践して報告してくださいw



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108 :神も仏も名無しさん[sage]:2011/03/02(水) 18:23:08.68 ID:28x8go4w
仏教とフッサールの現象学って相通じる面があるようにも思う。

要するに、どちらも「あるがままの世界」を見ようと言う取り組みだからである。
フッサール現象学では例えば「パソコン」と言う概念を括弧でくくってそれを認識する。
所謂「現象学的還元」である。
現象学的還元を通してみた世界では、あらゆる情報が飛び込んでくるはずである。
と言うのも、普段我々の意識は、一定の「志向性」を持ち、それに対応するような情報しか見えないからである。
弟子のハイデッガーが「道具存在」と言っているのもそれに近かろう。
(話は脱線するが、ハイデッガーは世界を「事物存在 道具存在 人間存在」に分類した。
会社の奴隷となって働いてい居るA君は、まさに「道具存在」である。「おい、飯作れよ」と妻に命令する主人にとって妻は道具存在である。
ちなみに道具存在である前段階を事物存在と言う。奥さんはかつてA君にとって事物存在であったが、結婚して、いつのまにか「道具存在」になっている訳である。
それは「親しみが増した」と言う面があるが、一方で、包丁や鞄と同じような日常生活を形成する「道具」になっている訳である。)

次に無念無想とハイデガーの存在論について考えてみよう。
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109 :神も仏も名無しさん[sage]:2011/03/02(水) 18:30:11.42 ID:28x8go4w
目の前のパソコンは、もはや、MITUBISIの○○型パソコンと言うような存在ではなくなっている。

無かったらしっくりしない、いつもの「あれ」である。

パソコンである事自体忘れるくらい、自己の一部になっている。要するに「道具存在」と化している訳である。

毎日履いている靴は、もはや、事物としての靴ではなく、自己の一部になっている。

「奥さん」もそうだが、無念無想の瞑想をした場合、奥さんや靴は「ただの事物存在」になるのであろうか。

だとすると、無念無想の瞑想は、世界との疎外感を増すだけであって、余り意味が無いではないか。

この辺の問題について、ハイデガーがどう考えていたかは私は寡聞にして知らない。

『存在と時間』も未完なので、その辺の話は曖昧に終わっているのではないかと思われる。

(ただし彼の思想は非常に面白い問題提起をしていると思う。)



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110 :神も仏も名無しさん[sage]:2011/03/02(水) 18:40:35.54 ID:28x8go4w
何の変哲も無い茶碗に美を発見した千利休

丁度、利休の美学と言うのは、日常生活を形成する道具に過ぎなかった茶碗などを、芸術に昇華している面がある訳だ。

丁度、子供のころ、木目の模様に見とれ、歯ブラシで戦争ごっこをしたように、「欠けた茶碗」も見ようによっては宇宙を感じると言うこともあるだろう。

道具存在と化しているパソコンに名前をつけたり、飾ったりして楽しむようであれば、それは、もはや道具ではなく一種の芸術品である。

「芸術品も道具存在ではないか?」

茶道具として政治に利用するような場合、それは道具存在であろう。

しかし、その茶碗そのものの在りのままの価値を楽しむと言った域に達している場合、それは単なる「道具存在」とはいえなかろうと思う。

では、無念無想の瞑想の到達点が千利休なのであろうか


【脱洗脳】苫米地英人博士【脳機能学者】パート12
114 :神も仏も名無しさん[sage]:2011/03/02(水) 19:33:29.76 ID:28x8go4w
ふむ。そういう「痛い人間」を発見して「楽しむ」という君の心境は「ねじまがっている」

そういう人間こそ「痛い人間」なのであって、他人のことが過剰に気になるのは「病気」です。

人生観を再考する必要があるでしょう。


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113 :神も仏も名無しさん[sage]:2011/03/02(水) 19:36:47.61 ID:28x8go4w
>>112

どういう瞑想をすればいいかが書いてないね。

それとも三段目以下の「心を平静にして・・断ち切れ」までが瞑想の内容と捉えて差し支えないのかな?


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116 :神も仏も名無しさん[sage]:2011/03/02(水) 19:51:03.34 ID:28x8go4w
?さんの引用は、偏見を払って見ると、「結構、面白い」

つまり、本格的な大瞑想に入る前に無所有処とか、非想非非想処の瞑想で、煩悩の塵を払っておく事が

重要と言うことですな。








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118 :神も仏も名無しさん[sage]:2011/03/02(水) 19:53:00.30 ID:28x8go4w
>>115
すいませんでした。以後気をつけます。

では改めて質問なのですが

>想受滅(滅尽定)

という瞑想は具体的にどういうものですか?

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120 :神も仏も名無しさん[sage]:2011/03/02(水) 20:01:29.60 ID:28x8go4w
と言うのも、個人的に「記憶」による、世界観の固定化(要するに偏見)をどのように解体するべきか

と言う問題にぶつかってまして。

例えば、誰かと口論したとしますね。すると、その記憶が縁となり、「嫌な奴」と言う固定観念が生まれます。

「これは固定観念に過ぎない」と理性的に考えても、大本となる「記憶」が存在する限り「嫌な奴」と言う固定観念も消えません。
(まぁ記憶を消去すればいいんですが、記憶を消去したと言う記憶によって、記憶された内容が再現してくるw)

「過去の記憶」と言うのが「煩悩の原因」なんだと思います。

例えば「私とは何か」と言うのは「過去の記憶」に関連しています。

過去の記憶が「私」と言う自我を形成していると言えましょう。

一切の記憶が無ければ、「私」も消える訳です。

しかしそれではただの記憶喪失患者になってしまうw

ので、新しい記憶を作る必要があります。新しい記憶を作る方法、それが瞑想だと思います。

ただし、古い記憶をうまい具合に消去する方方が無いと、新しい記憶と古い記憶が衝突を起こしてしまう。

或いは「無念無想の瞑想」が古い記憶をデリートする方法の一つかもしれませんが






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123 :神も仏も名無しさん[sage]:2011/03/02(水) 20:17:01.31 ID:28x8go4w
なるほど、今、さらっと想受滅について調べてきましたが、大体、私が持っている問題意識と同様の論点を持っているようです。

つまり、「想」(記憶、或いはそれを縁にした妄想)が無ければ、自我も他我も解体される。

あいつはこういう奴だとか自分はこういう人間だと言う偏見は「想」から生まれる訳ですからね。

要するに、心を「空っぽ」にしようと、意識して務める事が、禅の瞑想の目標なのではないかと思います。


輪廻転生から解脱するのも当然と言えば当然で、輪廻転生と言う観念体系も心の中から削除されてしまえば、「輪廻転生によって来世ノミに生まれたらどうしよう」

などと「悩まない」訳だ。悩む種が無い。




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124 :神も仏も名無しさん[sage]:2011/03/02(水) 20:23:41.58 ID:28x8go4w
>>122

ただ、それだと「練習中に、本番で怪我をしたときの事を思い出し、足がすくみ、失敗を繰り返し

さらにその失敗が、失敗のイメージを想起させて、さらなる失敗を呼ぶ」と言う悪しき連鎖による世界の固定化の方向に向かっていく」可能性もかなり在りえる訳です。

対人恐怖症などもそういう例でしょう。

順序としては、想起そのものを断滅させて、成功体験のイメージを繰り返し、繰り返し植えつけて、その上で、競技にチャレンジすると言うような方法が取られるべきはずで

実際、現代のコーチ理論と言うのはそういうものになっているようです。


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128 :神も仏も名無しさん[sage]:2011/03/02(水) 21:41:12.46 ID:28x8go4w
>>125
「何故失敗したか」ですが、偶発的なアクシデントのようなものの場合、その原因はまさに「たまたま」以上の何ものでもないと思います。
それ以上に考察すると「妄想」に至ります。
跳び箱で千回飛べばどんな名人でも一回は失敗します。
しかし、そのたまたまの失敗を拡大して解釈し、分析を繰り返す事で、心の中に失敗イメージを繰り返し植えつけます。
そうするといつの間にか「たまたまの失敗」が縁になり「俺は駄目人間だ」と言ううつ病まで発展する事にもなり得る訳です。
そして物事の根本の原因は、その原因を観察しているところの、「心」であるともいえます。
「オリンピックで金メダルとろう」と思ったのも心であり、その初心が無ければオリンピックで金メダルは取れません。
「オリンピックで金メダルをとろう」と言う初心が「怪我しないようにそこそこ頑張ろう」になれば、金メダルは取れません。取れたとしてもそれは「偶然」です。
心は絶えず動いているので、もし何かの結果を出そうとすれば、心の状態を適切なものに戻す必要があります。
余計な雑念が在る心より、余計な雑念が無く「オリンピックで金メダルとろう」と言う心が、もっとも金メダルに近い心である事は間違いないでしょう。
勿論、仏教瞑想の観点からすれば「オリンピックで金メダルとろう」と言う心も煩悩ではありますが









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129 :神も仏も名無しさん[sage]:2011/03/02(水) 21:53:43.03 ID:28x8go4w
>>125
負の想を正の想にしようと言うのは確かに瞑想の効用としてそういう手段もとりえますが
仏教の瞑想とは、どうやら正負を超えた瞑想のようです。
負の想から正の想にしたとして、例えば「バリバリ社会で活躍して億万長者になっている自分」をイメージしたとしましょう。
間違いなく、そのようなイメージを持ったほうが、「成功」する確立は高いでしょう。多くの人間の想念は、そういった能動的なものではなく
日々、社会や環境の中で「作られた」、マイナスのイメージの方が多く、それに翻弄されているからです。
ナポレオンヒルの成功哲学などでも「自分が成功しているイメージを持ちましょう!」と書いてあります。
しかし、それって、「想に囚われている意味では同じじゃないですか?」ということもいえると思います。

「社会的成功」と言っても、自分や社会が「彼は成功者だ」と認識しているだけのことで、実態は狸や狐に化かされているような状態とも

言えないことはない訳です。

年商100億の会社を作ったが過労死で30代で死にましたなどと言う例がそうでしょう。




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131 :神も仏も名無しさん[sage]:2011/03/02(水) 22:12:36.35 ID:28x8go4w
>>130
原因と言うのは、大乗仏教の受け売りそのまんまで言えば、その人の心です。
天台仏教では「一念三千」と言いますね。
原因を分析しているのも心なのですから、客観的な原因の特定などと言うものは到底不可能です。
何で俺は苦しいんだろう、そうだ社会のせいだ、いや親のせいだ・・いや結局自分のせいなんだ・・と自他を苛みます。
特に日本人はその傾向が強く、自殺者も半端無く多いです。
実際は、苦しいと「思う」から苦しいのであり、楽しいと「思え」ば楽しいわけです。
苦しみを生み出している原因は心にあると言うゆえんです。




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133 :神も仏も名無しさん[sage]:2011/03/02(水) 22:17:33.61 ID:28x8go4w
とはいえ、こういう悟り切った見解は、実際に座禅の達人であった天台大師だから言えることで
その受け売りそのまんまの答えを述べても自分のものになったとは言えないでしょう。
解法だけではなく実際に解いて(座禅をしてみる)見る必要があると思います。
(もっとも、釈迦は悟りを得るのに座禅は必ずしも必要ないという考えだったようですが。)




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135 :神も仏も名無しさん[sage]:2011/03/02(水) 22:19:56.44 ID:28x8go4w
>>132
私の質問に答えられる人がいればいいが、どうやら、答えられる人が居ないので
私が質問に答えるスレになってしまいました。想定外のことでした。
ここは質問するスレだけではなく、質問に答えるスレでもあるので、一応、スレタイと矛盾はしていないのではないでしょうか。


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136 :神も仏も名無しさん[sage]:2011/03/02(水) 22:28:24.47 ID:28x8go4w
座禅と喫煙

例えば、煙草を吸っているとき、「ああ体に悪いものを吸ってるな」と思いながら吸っている場合、

その人は、煙草を吸っていると言うより、かっこつけて言えば「意味を吸っている」訳です。

つまり「煙草→発癌物質→肺ガン」という想念が湧き上がり、「私は肺ガンで早世する」などと言うような信念すら助長する訳です。

こうなると、果たしてブラセボ効果で肺ガンになっているのか、純粋に物理的な影響で肺ガンになっているのかあやしいものです。

ま、それはさておき、そろそろ禅定に入ろうと思うので今日はここまでにしたいと思います。

お付き合いありがとうございました。





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