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445 :深山 ◆Y0jS4ug6fQ []:2011/02/04(金) 22:27:25 ID:gr5ts9YG - >>428 :神も仏も名無しさん :2011/02/04(金) 17:08:29 ID:9x6VcNMY
>因縁解脱を説いていないといいますが、スッタニパータでは >業解脱を説いています。 ようやくまともな主張をしていただき、歓迎します。 また、あなたが桐山阿含経以外の阿含経を自分で読んでいる点を高く評価します。 その姿勢を忘れずに、阿含経から直接学んでください。 あなたが主張した内容は、このスレではたぶん二度目です。
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447 :深山 ◆Y0jS4ug6fQ []:2011/02/04(金) 22:31:37 ID:gr5ts9YG - >>428 :神も仏も名無しさん :2011/02/04(金) 17:08:29 ID:9x6VcNMY
>因縁解脱を説いていないといいますが、スッタニパータでは >業解脱を説いています。 「古い(業)はすでに尽き、新しい(業)はもはや生じない」 この経典では業が尽きたとあるだけで、因縁が尽きたとはない。 おかしくありませんか。 因縁解脱、因縁切りを説いたというなら、なぜ「古い因縁は尽きた」とないのですか。 これを指摘するのは、あなたは何気なく、「因縁=業」を 前提として使っていることに気がついてほしいからです。 これは桐山さんがこういう使い方をしているからでしょう。 悪因縁とは運命の星であり、業とはそれを動かす力で、 因縁解脱も業解脱も同じものだという主張です。 こういうオカルトを鵜呑みにしているから、あなたは業も因縁も 同じ物だと思いこんでいる。 だが、仏教では業と因縁はまったく別物です。 その使い方も意味も、アゴン宗のそれとは違う。 それは後で説明しますが、私があなたに気をつけてほしいのは、 この経典では業が尽きたとあるだけで、因縁が尽きたとは言っていない点です。 あなたはそれを因縁が尽きることと同じだと短絡した。 それは間違いであり、思い違いです。 因縁が尽きる、因縁が切れる、因縁解脱という言葉はあなたが示した経典にも、 また阿含経ばかりか、大乗経典にも存在しません。 これをまず確認し、自覚してください。
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449 :深山 ◆Y0jS4ug6fQ []:2011/02/04(金) 22:34:53 ID:gr5ts9YG - >>428 :神も仏も名無しさん :2011/02/04(金) 17:08:29 ID:9x6VcNMY
>因縁解脱を説いていないといいますが、スッタニパータでは >業解脱を説いています。 あなたの理解している業と阿含経でいう業の意味が違うのです。 業に限らず、アゴン宗でいう因縁、梵行などの意味も仏教のそれとは違います。 あなたの頭に入っている阿含仏教だと思っている概念の大半は 仏教とは関係のない桐山教の教えです。 仏教でいう業とは、簡単にいえば「行為」です。 だから、あなたが読誦している経典にも「身口意の三業」という言葉が出て来る。 「三業 さんごう 一切の行為(karman,業(ごう))を,3種に類別したもの. 一般には,<身(しん)業>(kya-karman,身体的行為),<口(く)業>(vk-karman,言語表現),<意(い)業>(manas-karman,心意作用)の3種の行為をさす〔倶舎論13など〕. <身口意(しんくい)の三業>ともいう」(岩波仏教辞典) 身体と言葉と心での行い、これが業の意味です。 業解脱は行為解脱になってしまう。 これでは言葉も意味もおかしい。
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450 :深山 ◆Y0jS4ug6fQ []:2011/02/04(金) 22:39:36 ID:gr5ts9YG - >>428 :神も仏も名無しさん :2011/02/04(金) 17:08:29 ID:9x6VcNMY
>因縁解脱を説いていないといいますが、スッタニパータでは >業解脱を説いています。 身口意の三業など、あなたは普段から聞き慣れていたはずなのに、 業がただの行為を意味するなんて、驚いたのではありませんか。 あなたは桐山さんから業を次のように習って、信じていたはずです。 「仏教では、この宇宙は一つの存在原理によって成り立っていると考える。 それは、カルマ(業・あるいは業力)による輪廻である。 すべてのものはカルマによって存在し、カルマによってはてしなく輪廻する。 これが宇宙の実相であると考える。このカルマを断たぬかぎり、 すべてのものははてしない輪廻をくりかえす。 ひとがつくり出す人為的な災害も、自然現象としてあらわれる天変地異の災害も、 すべてみな、このカルマによるものである。 仏教は、この、カルマを断ちカルマの輪廻からの脱出を教えるのである。 では、カルマとはなにか? ものみながみずから具えるひとつのカである。 その力のゆえにそのものは存在し、さまざまな相をつくり出す。 だから、カルマとはすべてのものの存在原理であり、存在の根本動力である。」 (『一九九九年カルマと霊障からの脱出』280頁)
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451 :深山 ◆Y0jS4ug6fQ []:2011/02/04(金) 22:43:03 ID:gr5ts9YG - 「だから、カルマとはすべてのものの存在原理であり、存在の根本動力である。」
桐山さんのこの説明だと、業とは行為などという単純なものではなく、 人間だけでなく、ありとあらゆる物を動かしている見えない神秘力です。 だが、こんな業の説明は桐山教であって、インドにすらありません。 たしかに、釈尊時代のインドでも業とは、行為だけで終わるのではなく、 その行為が見えない力を生み出し、伝搬していくという思想はありました。 ウパニシャッドの思想はまさにこれであり、因果応報という考えを生み出した。 また、釈尊も因果応報を基本的には採用しています。 だから、人間の行為(業)が、行為だけで終わるのではなく、 死後や輪廻先にも影響するという考えは釈尊時代のインドにもあったし、 これが輪廻思想と深く関わったことは事実です。 しかし、桐山さんのように、存在原理だの、根本動力などという考えは インド思想にすらありません。 ましてや、前述のように仏教では業とは身口意の行為を指すもので、 桐山さんの説明とはまったく別物です。
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452 :深山 ◆Y0jS4ug6fQ []:2011/02/04(金) 22:47:53 ID:gr5ts9YG - >>428 :神も仏も名無しさん :2011/02/04(金) 17:08:29 ID:9x6VcNMY
>因縁解脱を説いていないといいますが、スッタニパータでは >業解脱を説いています。 桐山さんのこういうオカルト業思想にあなたは染まっているから、 仏教の説く業や因縁が目に見えない特殊な力だと信じ込んでいるのです。 阿含経を読んでいて、釈尊が極力、普通の人が認識できないような内容を 説くまいと努力していることに気がつきませんか。 できるだけ現実的、実際的でわかりやすく教法を説いている。 この釈尊が、目に見えない業だの因縁だのと説くはずがないのです。 釈尊のいう業とは見えない何かではなく、現実の我々が認識できる自分の 身体での行為、話をすること、心で思うことそのものです。 これなら、小さい子供でも、教育を受けていない人でも、誰でもわかる。 桐山さんのオカルト業思想を鵜呑みにするのではなく、 仏教辞典に書いてあるとおりに理解するのです。 そうでなければ、阿含経をいくら読んでも理解したことにならない。 業とは行為だという目で見たとき、あなたが引用した文言は、 釈尊の教法としては何も不思議や神秘のない、仏教としては普通の内容です。 「古い(業)はすでに尽き、新しい(業)はもはや生じない」 そのまま業を行為と置き換えれば、 「古い行為はすでに尽き、新しい行為はもはや生じない」 この文章を読んで、あなたが「あ!あの修行だ」と気がついたらいいのだが、 桐山教に染まっているだろうから、そこまで要求するのは無理かもしれない。 だが、この一文はアゴン宗の信者なら、すぐに気がつかなければならない修行なのです。 この後の私の回答を読む前に、ちょっと考えてください。 答を読んで、「なんだ、そんな程度か」と読み捨てるから、一日もたつと忘れてしまいます。 これを繰り返しているのが、したらばの準シュダオンさんで、 だから、何年たっても何の進歩もない。
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453 :深山 ◆Y0jS4ug6fQ []:2011/02/04(金) 22:53:12 ID:gr5ts9YG - 「古い(業)はすでに尽き、新しい(業)はもはや生じない」
「古い行為はすでに尽き、新しい行為はもはや生じない」 答えは四正勤(四正断)です。 桐山さんの大好きな三十七道品の一つです。 四正勤とは次の内容です。 1)すでに起こっている悪を断つ努力. 2)いまだ生じていない悪は,これを起こさない努力. 3)いまだ生じていない善を起こす努力. 4)すでに起こっている善は,これを大きくする努力. (岩波仏教辞典) すでに起こっている悪しき行為を断つ努力が四正断であり、 あなたが引用した経典では、悪しき行為を断ったと述べているのです。 いまだ生じていない悪しき行為を起こさない努力が四正断であり、 あなたが引用した経典では、新しい悪しき行為を起こさないと述べているのです。 このように見れば、この経典には何も不思議も神秘もありません。
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454 :深山 ◆Y0jS4ug6fQ []:2011/02/04(金) 22:57:00 ID:gr5ts9YG - 「古い(業)はすでに尽き、新しい(業)はもはや生じない」
「古い行為はすでに尽き、新しい行為はもはや生じない」 あなたがもし洗脳の度合いが強いなら次のように思うかもしれない。 「四正勤で善悪などと言われても、善悪は相対的なものであり、凡夫には判断できない。 それを判断するために桐山ゲイカの仏陀の智慧が必要なのだ」 桐山さんがこんなふうに言うのを聞いたことがある。 だが、これは「仏陀の智慧を持つオレ様の言うとおりに人と金を出せ」 という命令と、仏教を理解していない桐山さんのタワゴトです。 仏教での善悪は極めて明瞭で、あなたはその判断となる経典を読んでいるのです。 それが三供養品です。 三供養品に出てくるのは三福道ではなく、三善根です。 三つの善とは無貪・無瞋・無癡です。 貪瞋癡は三毒と呼ばれる悪玉煩悩です。 『アゴンマガジン』48号の18ページで「仏舎利宝珠尊解脱宝生行聖典全解説」 として、桐山さんが三毒について解説している。 貪瞋癡そのものの桐山さんが無貪・無瞋・無癡を説くのだから、笑えます。 このように仏教の善とは明瞭に定義されている。 「善=煩悩から解放されること」です。 悪とは貪瞋癡をそのまま出して、桐山さんのように愛人を持って愛欲にふけり、 食いしん坊だと自慢して、食欲を抑えられず、 あるが上にも勲章を欲しがるような名誉欲を垂れ流しにすることです。 あなたが引用した経典は、こういう貪瞋癡そのままの過去の行為を断ち切り、 これからも一切行うことはない、つまり解脱したと述べているのです。 逆に言うなら、貪瞋癡を絵に描いたような桐山さんが解脱者であるはずがない。
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456 :深山 ◆Y0jS4ug6fQ []:2011/02/04(金) 23:04:24 ID:gr5ts9YG - 「古い(業)はすでに尽き、新しい(業)はもはや生じない」
「古い行為はすでに尽き、新しい行為はもはや生じない」 ここであなたに自分を振り返ってほしいのが、 三十七道品を念仏のように唱えながら、この経典を読んでも、 四正勤の話だと気がつかなかったという点です。 これはあなただけでなく、アゴン宗の信者全員、いや桐山さんですらわかっていない。 桐山さんから、四神足のような神通力を体得するのが修行法で、 後のはオシエにすぎないと教えられて、四正勤なんてちらっと読んだだけで、 気にもとめない信者が多い。 だが、これが解脱の教法なのです。 四神足も四正勤も同じことです。 桐山さんは神通力という超能力を得たいと欲に目がくらんでいるから、 こんな簡単なことも理解できない。 欲が満載の餓鬼に「欲をすてなさい」と説いても、 「欲を捨てるとどんな得が得られるか」と餓鬼がいうのと同じで、 桐山さんは死ぬまで理解できないし、もちろん、死んだら理解できない。 桐山さんは自業自得だからいい。 問題は信者さんたちです。 目の前に釈尊の教法がありながら、とんでもない外道を釈尊の教法だと信じたまま 死んでいくなら、また来世で同じ課題に取り組むことになり、悲劇です。
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458 :深山 ◆Y0jS4ug6fQ []:2011/02/04(金) 23:07:27 ID:gr5ts9YG - >>428 :神も仏も名無しさん :2011/02/04(金) 17:08:29 ID:9x6VcNMY
>因縁解脱を説いていないといいますが、スッタニパータでは >業解脱を説いています。 あなたが何年信者をしているのか知らないが、その間、ずっと あなたは応説経や三供養品を読みながら、その両方に説かれている釈尊の 教法を理解することがなかった。 目の前に四正勤の話を出されても気がつかず、因縁解脱という言葉はないのに、 因縁解脱の証拠だと思いこんだ。 「ジョーシーガーブン」などと百年唱え続けても、阿含経を理解したことにはならない。 ましてや、山伏の格好をして山の上で焚き火をしても、 「古い(業)は尽きることなく、新しい(業)はますます生じる」だけです。 あなたが引用した経典はあなたの行為を諫めているのです。 古い行為とは、これまであなたがしてきた因縁解脱の御利益信仰です。 新しい行為とは、これから星まつりでする護摩木祈願などの御利益信仰です。 それらは煩悩をただ増大させるだけで、減らすことはない。 他の人も指摘しているが、この経典の業が尽きるという部分だけでなく、 その前後をよく読んでください。 ひたすら煩悩を減らせ、なくせと説いているだけです。 因縁解脱など探すのではなく、煩悩からの解放を説いたのだと理解すれば、 阿含経は実にわかりやすく、桐山さんのような大餓鬼に解説してもらう必要などありません。 釈尊自らの言葉に静かに耳を傾けてください。
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