- 真・潜水艦すれ
713 :零 ◆zUQDd8GEeLUR [sage]:2019/05/06(月) 19:55:55.57 ID:3L0z/WP9 - 広域に情報が発信される場合、事実よりも治安や教育的効果が優先されると仮定すると、うまく説明できることもあるかもしれない。
(少なくとも僕の周りで起こる不可思議な現象は説明がつきやすくなるので、どうしてもこの仮定が頭をもたげてしまう。) 例えば、なぜ殺人事件は起こってしまうのか。 どうして科学技術を駆使して完全に抑制しようとしないのか。(←そういう考え方が危険だという話はネットで見かけたことはある) ニュースでは毎日事件が起こることになっているけど、全てが事実である必要は無いのでは?むしろ科学技術を駆使して事件を創っているとしたら? 社会の利益に適うような「理想的な」出来事を創ることが可能ならば報道の仕方は変わるだろうか。 あるいは深刻な事件が一切起こらず平和そのものだとしたら明るく楽しいニュースばかり流すようになるだろうか。 否、治安や教育的効果が優先されるという先の仮定を勘案すると(架空のものであるとしても)暗いニュースを報道するメリットはあるような気がする。 この世のどこかでは本当に苦しんでいる人がいるかもしれない。あるいはかつて苦難を被った人がいたかもしれない。 そういう人達のことを知るための方策として機能しているならば、決して心地よくはないけれども、暗いニュースがもたらすものを僕は甘受しなければならない。 しかし一方、そうであるならば多くの不幸が報われることもまた予感するのである。架空のものであるとすれば尚更。 だからというのもある。殆どの人が当たり前だと思っていることを疑ってみるのは大変だけど、あえて積極的に疑っていきたい。 それはそうと高度情報化社会を迎えて報道も変容してく過程にあることは想像に難くない。 何といっても個人による広域への発信が可能な時代だ。(創られた)ニュースも社会の発展という文脈の下でしがらみから解放されていくだろう。 しかしスマホやインターネットがもたらすものは自由だけじゃない。 あらゆる場所に記録が残り、あらゆる行動が予測され、新たな形で管理される。 それでも昔よりは効率的で尚且つ人道的なやり方が可能になったのではないだろうか。 全てに意味があるならば、苦しみにもちゃんと意味がある。 それをどうやって知っていくかという課題は社会に仕組まれた情報網が密かに担っているのである。
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