- まったく当てにならない教育学の 「 統 計 」
113 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2013/09/23(月) 01:52:58.55 ID:B0BoF+Qo - 歴史資料を読むことも、文学小説を読むことも、結局は準経験に帰着する。
教育などという嫌な言い回しをすれば、いわゆる"ビルドゥング"である。 しかし、この両者の性質違いを 明確に人前で 説明出来るようになれる ということは、それは これから後の長い長〜い人生経験の整理の上で、 大きく役立ってくるものではないだろうか。いまいち 頭の中で 混乱していて、 整理がついていないんだが…
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114 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2013/09/23(月) 02:25:18.39 ID:B0BoF+Qo - 文学は、個人が「どう感じたか」を物凄く重んじる。もちろん、輪読、二次資料に
触れて自己を客観視するというのは、全ての文系科学・教育分野の基本だから、 世に高尚と言われる類の文学は、「ああ面白かった!」などで終わるものでは 決して無いのだが。 それは、エビデンスの提示という、公式な社会場面のデジタルな実証ルール、 証拠至上主義の「第三者」からの判子社会の基に捨象されてしまった、個人の感性を、 虚構の世界に現実風刺として活かすもの。つまり、観察対象の行動というものは、 傍からは こういう目で アナロジックに見られているのだ という 一世界観を提示するもの。 その世界観自体を、具現化・文字化・物質化された形で 提示することによって、 時に虚構の判を押されるような、「判子」を伴わないマイナーな視点が、実は 陰(いん) においては 膨大にあるのだと、読者にそれを教える。彼らは、行政そのもの、 世の中のルールそのものを、力関係や法治関係を超越して、それ自体を客観視することで、 次のような疑問を提示する。 つまり、「『第三者』ってのは、純客観なのかい? それって あくまで、そいつが 利害マッチの恩恵を被った、運に恵まれた人間 や セコい人間 ってだけなんじゃない?」 「現実なんてものは、所詮、如何様にも諸行無常に変わっていくものであって、 これまで培われてきた史実や、その積み重ねとしての現実なんてものは、無限にある クジが偶々当たっただけの、1つのパラレルな可能性の結果の1つに過ぎなかったのでは?」と。
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115 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2013/09/23(月) 02:54:42.47 ID:B0BoF+Qo - 対して、歴史学の方は、まず何より「大元の史料」に直に触れる習慣を
身につけることを、まず子どもたちに教えなければならない性質のものである。 こちらの方は、アナロジー派の前者に対して、バリバリのデジタル派にあたる。 近代-歴史学、要するに、現代-歴史学では、何故、史実、現実というものを、 芸術と看做すのか。それは、前者の文学に対して、「経験の抽象化」という誤謬性を 提示するためのモノ なのでは なかろうか。 「どう感じたか」。このアナロジックな営みは、無意識的に、頭の中で、今までの経験を 類型化することによって 箱詰めして 整理している。しかし、それはあくまで、究極的に 一個人の、容量(HDD)の少ない 頭の中で為された話であって、史料学というものは、端から、 現実や史実は、そんなものが 客観的に 意味を為さないほど、それは自分の容量やメモリーを 超えたものなのだから、経験を抽象化なんざして箱詰めしたところで、それは所詮は誤りであって、 そいつが世間、史実・現実を知らないだけだ、感想ってのは、頭の中の知識・情報量など次第で、 如何様にも変わるのだと、その無常性を、また別の次元からそれを訴える。つまり、 「どうやったら時空間レベルの全知識、森羅万象を、おまえのその たかが せいぜい 1000立方cmほどの 容量の中に詰めれると言うんだ。抽象化なんて絶対無理だぞ。そんなこと やってる暇があったら、どんどん他の新しい史料に触れて『視野を広げたら』どうなんだ。」 「一般化? おまえは、その頭の中にある チッポケな知識・情報・経験をもって、 自他未分裂的に全世界を観ていこうとするのか? それは、歴史人物の方よりも、 むしろ、賢者や専門家や中道を気取って、いちいち歴史人物にコメントを付け、 罵倒をしては悦に浸る、おまえの方こそ、自他未分裂に他ならないんじゃないのか?」という訳である。
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116 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2013/09/23(月) 03:17:00.55 ID:B0BoF+Qo - オレ個人的には、別にどちらか一方に偏るつもりはない。これはあくまで、
思考を効率化するために 便宜的に 二分化した話であって、実際、内心「文学は好きだけど 歴史学は嫌いだ」「歴史学は好きだけど文学は嫌いだ」なんて思う人間は、そうそう居ないと思う。 経験の抽象化も、確かに大事。マイナリティーを重んじる心も、確かに大事。 しかし、他方で、権力者だとか、世の中のルールだとかのメジャーな達を「自分(たち)は そんなものは超越したものだ」「制度は人(の総意)によって いくらでも 変えられる。 法律ってのは要するに解釈なんだ。よって、世間からの好き嫌いが命、世人こそが最高権力なんだ。」、 あるいは「世の中金だよ?」などと カウンセラーや経営者みたいに 倒錯的に 居直るのではなくて、 そういう人間たちを立てることも、これまた人生の正道として求められるのだ。 そういうことをし出したら、本当に 争いに キリが無くなる。 「上に弱くて下の多勢には強い」「下の多勢には弱くて上に強い」「誰に対しても強い」 「誰に対しても弱い」。一体、それが一番善いのかは、オレにはまだ分からない。 あくまでケース・バイ・ケースで。
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117 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2013/09/23(月) 03:32:17.88 ID:B0BoF+Qo - 経験は、抽象化・一般化されなければ、それは実存的に、
自分にとって意味のあるものへの変換は為されない。しかし、 同時に、その逐一の営みは、時として虚しくもあったりする。 経験の抽象化・一般化・類型化。これを心理学では何と呼ぶのだろう。 記憶を整理し、纏めたり、時には、自分にとって不都合な記憶を消したり。 「記憶のバイアス化」?「記憶のフィルター化」?… しかし、この一連の行為に共通して言えることは、これらの回顧や 纏めとも言い表せる行為は、しばしば「床についている時」「寝ている時」 「目を瞑っている時」に、「夢」として為され易いということだ。 この「夢」というものを、自分の人生の中で、どう位置付けすれば良いのか…
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118 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2013/09/23(月) 03:39:55.81 ID:B0BoF+Qo - 人は、自分が抑圧している側、やってる側の時は、それに気が尽かない。誰だって、
自分が犠牲になる位ならば、他人が犠牲になる方が好い。その限りで、おまえが そうやって 現実問題に煩悶させられざるを得ないのは、自分が抑圧されている側の、やられている側の、 逐一 責任を取らされる、社会的弱者の人間であるが故に他ならないものなのではないか。 そして、人は、そんな無惨な自分を受け入れられないが故に、虚栄心や意地から、 すぐに他責・転嫁したがったり、「オレたちはやる側の人間だ」と、倒錯的に 徒党を組みたがったり するのではないか。 その限りで「正直者」や「善人」、果ては「道徳家」を気取る輩たちなんてものは、 それこそをもって、ルサンチマン混じりの欺瞞人たちなのでは? どうせ自分が 権力者になれば、その見苦しい理性も取り払われて、本性を剥き出しにし、自分が 汚物を見るような目で 偉そうに見ている 人間たちと、同じことをするようになるのでは? その限りで、それを隠そうとする、「紳士」などという言葉も、所詮は等しく、 彼ら権力者が 自身を表面上キレく着飾らせるために 編み出した、欺瞞的な概念に過ぎないのでは? …ああ、現実というものは、どこまでも分からないものだ…
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119 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2013/09/23(月) 03:55:44.59 ID:B0BoF+Qo - そもそも、法律や世間、人間、他人、刑事訴訟や団結・暴力行使の報復、
虐めそのものに 怯えない人間自体が、現実としているのかどうか… 「雲の上の人間」なんてものは、何かに心を奪われている人間がハロー効果で 持ち上げているだけの人間に過ぎなくて、所詮は、人間一個人なんてものは、 みんな似たり寄ったりに過ぎなくて… だから、そんな己の無力さや他人のポストや振る舞いを 認められず、 受け入れられずに、自分の思い通りにならない故に、みんな互いに、 ああやって 我を突き通そうと、互いに意固地になり合って…
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