- オーディオ・マキャベリズム Ver.1.0
178 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2019/11/24(日) 06:58:47.03 ID:ugOBZ04x - 1960年代の演奏の主流はノイエ・ザハリヒカイトつまり新即物主義であり
楽譜通りに演奏することで、作曲家の意図をストレートに伝えることである。 一方で、演奏者の技量も機械的に一寸の狂いもなく訓練されることが重要で 楽器の不安定さをあまり感じさせないモダン楽器の演奏形態もほぼ固まった。 1960年代のアメリカでのクラシックの録音に共通するのは職人的な気質であり ハイフェッツ、セル、ジュリアーニ四重奏団など、その正確無比な技量は 人間技を越えていると感じたものだった。そういう定規で演奏家は測られた。 では、演奏に人間味がないかと問われれば、むしろ努力の塊のような 一種の熱情と爽快感が伴うと言っていい。スポーツのそれと似ているのだ。 クラシック音楽に、ギリシア彫刻のような人間の肉体美を感じさせるのは この時代にクライマックスに達したアメリカ的なヒューマニズムのように思える。
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179 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2019/11/24(日) 07:17:09.60 ID:ugOBZ04x - こうしたマッチョな演奏家を相手にするためのオーディオ機器が
スペック重視の機能性を最重要と考えるのは当然である。 アルテックやJBLは、ランシング氏のシアター機器でのリアリティの追求から生まれ 音楽の躍動感を劇場サイズで再生するポテンシャルをもっていた。 エレクトロボイスも屋外競技場などのPA機器、テレビでの生放送など 実況的なコンテンツをタフにこなす力を有していた。 同じ新即物主義の理解でも 1970年代の日本のスレンダーなオーディオ機器の一群は むしろテクノ音楽に向かっていくような未来主義に彩られている。 もちろん、ヤマハのピアノがリヒテルやグールドに好まれたのと同様に コンテンツのもつ人間味を色付けなく出すということはあったかもしれない。 ただ正確なことが感動には結びつかないというのは十分ありえる話だ。
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180 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2019/11/24(日) 08:12:32.21 ID:ugOBZ04x - 正確な音響というニュアンスは、日本の場合はNHK技研の影響が大きい。
ステレオのノウハウは、ここでの実験的な訓練から生まれていて 三菱 2S-305スピーカー、デンオン DL-103カートリッジなど その標準的な性能の保持は、開発年度が古いわりには正確さが秀でている。 今では漫才マイクとして知られるソニー C-38の前身であるC-37Aは ワルター/コロンビア響の録音にも使われたもので、とても自然な音響で収まっている。 1970年代はアンチ国営の時代でもあり、犬HKなどと揶揄していたが オーディオ技術もFM放送よりも高音質でなければなければと必死だった。 アキュフェーズ、ナカミチ、スタックス、キノシタなどは、そのなかではピカイチの存在で アナログ技術の限界にまで挑戦して製品化した銘品である。 こうして達観すると、同じスペック競争を求めて勝敗を決した結末として 1960年代の新即物主義と1970年代にそれを追い抜いた日本のオーディオ業界は どこか別の惑星の住人のように感じるのだ。 それは1960年代が実物を体感しながら追認する装置としてオーディオを考えたのに対し 1970年代は録音の成果物を元にオーディオでできる事柄を究めたこととも言える。
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181 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2019/11/24(日) 08:28:14.83 ID:ugOBZ04x - 録音の成果物の限界というのは
例えばデッカとグラモフォンのウィーンフィルの音の違いに現れる。 デッカが爽やかさがあるとすれば、グラモフォンは淫靡である。 そのどちらもウィーンフィルのもつ特徴なのだが 同じことは、シカゴ響のRCAvsデッカ、クリーブランド管のCBSvsデッカにも言え 録音年代や指揮者の違いだけではないように思う。 つまりレーベル毎のトーンの違いが明らかに存在していて そこが障壁となって、原音の意味が曖昧になっているのである。
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182 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2019/11/24(日) 08:40:16.63 ID:ugOBZ04x - この原音主義の意味が複雑怪奇になっているため
マルチマイクでの演出を伴った1960年代の録音の評価を難しくしている。 作品への忠実な態度なのか、ある種の演出を伴った録音のシステムなのか それがステレオという新しい媒体の周辺を巡って彷徨っているのだ。 なんたって将来的に2chなのか3chかで迷っていたし 1970年代初頭の4chも含め、立体音響の定義はいたって曖昧だった。 1960年代のオーディオ技術も同様に、足らないダイナミックレンジや臨場感を 録音との演出のさじ加減で調整すべく、会社ごとのサウンドポリシーを提示したのだ。
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183 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2019/11/24(日) 18:15:16.13 ID:ugOBZ04x - もうひとつは、クラシックの演奏が基本的に同じ楽譜からの再現になるので
ジャズやロックと違い、その時代にしか成し得ないオリジナリティが希薄になりやすい。 たとえば1970年代には、ビバップそのものが新録では出なくなった一方で JBLのモニタースピーカーで、1950年代のモノラル録音のリアリティが再び注目された。 そうしたトリビュートは、1970年代のクラシックではほとんど起こらなかった。 現在ではリマスターされたSACDのほうが新譜よりも高いことが起こっているが 国際化して独特のサウンドを失った、かつてのオーケストラの姿にようやく気付いたところだ。 それが作品を代表する名演なのか、オーケストラの機能性を再考するアーカイブなのか 評価の行方は難しいところだが、できればその再生方法までアーカイブしてくれると有り難い。
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184 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2019/11/24(日) 19:48:37.85 ID:ugOBZ04x - 大切にアーカイブされたリマスター音源は本当にすごいと思うことがある。
やや作品としては地味だが、ブリテンとピアーズが共演した管弦楽伴奏付の歌曲は 一番古い「夜想曲」で1959年だが、全く違和感のない自然な仕上がりだ。 手持ちの音源は1989年のCDで、かなり念入りにリマスターされている感じがする。 演奏そのものの強い説得力と、録音技術がうまく一体化していること もうひとつは声楽曲であることによる、適切なイコライジングがなされているからだろう。 イギリス物の録音では、ビーチャムのディーリアス管弦楽曲集が有名だが 1956〜57年に録音された初期ステレオの名盤は CD化にあたってリマスターでグラモフォン賞をとったような覚えがある。 こちらは暖色系の穏やかな録音と相まって、その後の演奏ではなかなか再現できない。 (さすがに「日没の歌」はラジオドラマ風のすし詰め状態だが…) この時期のイギリス国民楽派について、「牛糞派」とも呼んだらしいが ナショナル・トラスト運動をはじめとする自然風景をそのまま保存する社会機構に こうした歴史的録音もターゲットになっているように感じる。
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185 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2019/11/24(日) 20:44:21.65 ID:ugOBZ04x - ビーチャムの日没の歌が臨場感の乏しいのは、当時のコーラスの収録では当たり前で
残響に埋もれて発音が聞き取りにくいという欠点を補うために行ったことだ。 同じことはオペラの収録にも言えると思う。 この時期の録音で恐るべきかたちで残っていたのが 1959年にホーレンシュタインがロンドン響を振ったマーラー「千人の交響曲」のライブで この演奏会をもってイギリスでのマーラーブームが始まったという記念碑的名演である。 BBCがステレオのテスト放送用に残していたアーカイブのひとつで 1998年にようやく正式リリースされた蔵出し音源でもある。 この当時のBBCはEMIとの共同研究でステレオ収録と放送実験を行っており 収録方法がブルムライン方式という両指向性マイク2本でのワンポイント方式。 見事にオケ、合唱、ソリストのパースフェクティブが自然に定位している。 この後に「イギリス病」といわれる長期の不景気に見舞われたので FMステレオ放送網の企画そのものはボツになったものの これだけの大構成の音響をホールごと収録したクルーの心意気が伝わる名録音だ。 これには余談があって、マーラーブームの余波のなかで 未完の交響曲10番の補筆版をクック博士に依頼したが アルマ夫人の了解を得ないまま進行したため逆鱗に触れ ようやく4年後に第2稿の了承を得たという逸話がある。 その第1稿、第2稿の放送録音が残されているがいずれもモノラル録音。 しかしイギリスにおけるマーラー演奏の伝統を窺い知るのに ラジオ放送というメディアの役割を考えるうえで感慨深い。 同じ時期にビートルズもBBCの番組を通じてイギリス全土に行き渡ったのだ。
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186 :名無しさん@お腹いっぱい。[sage]:2019/11/24(日) 21:28:38.67 ID:ugOBZ04x - BBCでの1970年代のFMステレオ放送が仮想のサウンドステージを理論付けたが
それ以前の放送はモノラルであったということと レコード協会との紳士協定でレコードは放送で流さないという法律があった。 この辺は日本やアメリカと異なる文化があった。 そのため英国のラジオ放送は、必然的にレコードとは切り離されていたが 上記のマーラー演奏は、国営放送を巻き込んだ文化事業という側面と ラジオならではのドキュメンタリー的なスクープ作りという側面とが入れ混じった 20世紀的な進行の仕方が伺える例ともいえる。 情報の海のなかをコラージュしながら進む楽曲にベリオ「シンフォニア」があり マーラー復活の第三楽章を基調にしたのは、委嘱元のニューヨークフィルに対し 同じ時期に完成したバーンスタインのマーラー交響曲全集とも引っ掛けたのだろう。 これも1968年の4楽章版と、翌年に改稿した5楽章版があり 4楽章版でのニューヨークフィルの録音は面目末潰れで長らくお蔵入りだった。
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