- [R指定]紳士淑女のオーディオ千夜一夜なのさ[124夜カニ]
795 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2013/10/07(月) 00:02:56.97 ID:OfPOHIdh - わたくしたちは、アーガマのお経本にお祈りしているわけではない。
わたくしたちは、正に仏様と一体である。 「証果を得た者は快楽に染まらず」 天に説法に行っている釈尊はね、美しい天人にかこまれて、天人は、皆綺麗なのです。天界の人がコンテストにでたら優勝ですよ。(一同笑) 出たりすることはないですがそれ以上に綺麗な人達からの供養を受諾され説法されている。 釈尊はいいなあとか釈尊はスキなのか?などと下是話な想像をするようでは、 必ず、中途挫折をして愚痴や嫉みにココロを占拠されてしまいます。 良いですか?諸君らは仏様仏道を守護する神様と共にある! 諸君らは必ず勝ぁ!!! わかりましたねえ 「証果を得た者は快楽に染まらず」 ・・・・・・アーガマである。
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796 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2013/10/07(月) 00:03:27.73 ID:OfPOHIdh - わたくしたちをあのてこのてで中傷攻撃してくるカルト集団がいます。
釈尊も外道集団に中傷されていましたねえ・・・・ 中傷しているのは、諂い中途半端に挫折した人がカルト集団に流れ込んで 煩悩をカルト教義で爆発させているのです。 釈尊はね、どうしたのか? わかりますね。外道悪魔に関わらず修行に専念しているという事です。 釈尊から離れては、いけません。 よろしいか?
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797 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2013/10/07(月) 00:03:58.51 ID:OfPOHIdh - 禅の開祖といえば達磨大師です。達磨さんはインドの人です。 南インドのコーシ(4〜5世紀ごろ)という小さな国の王子でした。
3人兄弟の末っ子で、当時は「ボディタラ」という名前でした。縁あって城を出て出家し僧侶となり修行をして、お釈迦様の法を28番目に継がれた方です。そして禅を広めるために中国に渡りました。 インドから中国へ渡るのに3年を費やし海路で西暦520年、広州の港に着きました。(527年説もあり)。 当時、中国は南北朝時代。なかでも南朝の梁の武帝(在位502-549)が大変仏法に帰依しており、武帝はインドから高僧が渡来したと聞き、是非会って仏法の話をしたいと願い達磨を招きました。 武帝:「朕、即位以来寺を作り、経を写し、僧に布施や供養をする事、挙げて記すべからず。 如何功徳ありや」 達磨:「無功徳」{むくどく}(功徳無し) *即位以来、自分はたくさんの寺を建て、たくさんの写経をし、たくさんのお坊さんにお布施や 供養をしてきたが、どんな功徳があるか?と武帝は聞きました。達磨はそれに対したった一言 「無功徳」(功徳など無い)と言い放ったのです。
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798 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2013/10/07(月) 00:04:39.21 ID:OfPOHIdh - つまり「見返りなど無い」、功徳だと思ってなされた功徳は功徳になるまい。
これには、さすがに武帝も愚かなことを聞いたと思い、次の質問をしました。 武帝:「如何なるか是れ聖諦第一義」 達磨:「廓然無聖」{かくねんむしょう} *武帝は人民より仏心天子と呼ばれていた。釈尊の説く本懐、まさに真俗不二のところ、 聖諦第一義を実践していると思うが、如何か?と聞いてきた。 すかさず達磨は、「廓然無聖」(カラリとして、秋晴れの空のように何も無い)とそっけなく一言 答えられた。 聖と言えば凡に対する聖であって、第一義にならん。そんなものを追求する事自体がもう 第一義から離れていると答えているのです。 さあ困った武帝、そこで更に達磨に対して次に質問をした。 武帝:「朕に対するものは誰そ」 達磨:「不識」{ふしき}しらない そして達磨はいつまでもこのような人と話しをしていても埒が明かんと思い、揚子江を渡って北方の魏の国へ行ってしまわれました。
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799 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2013/10/07(月) 00:05:18.29 ID:OfPOHIdh - すべての動きは、車輪のように円周上で起こっている。
だが中心では何も動きはしない。その中心では、何もかもがあるがままにとどまる。 そしてそれを中心として車輪は動きまわっている。この中心を、おぼえておきなさい! 自分の振る舞い、動作、同化を観つめていることだ。すると距離が生まれてくる。 少しずつ存在の中に距離というものがでてくる。観る者と行為する者が二つに分かれてくる。 あなたは笑っている自分を見、泣いている自分を見、歩き、食べ、愛を交わしている自分を見ていることができる。 周囲で何が起こっていようとあなたはありとあらゆことを演じることができ、――観る者としてとどまる。 何を見ていようとも飛びついてそれと一つになったりはしない。
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