- 壁コンセント・その21
396 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2013/09/01(日) 11:28:43.87 ID:owh+/ln0 - >>394
電気回路はある程度の知能が無いと無理。 君の場合は詐欺の心理学を学習したほうがいいと思う。
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- 壁コンセント・その21
410 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2013/09/01(日) 15:45:16.84 ID:owh+/ln0 - オーディオアクセサリーは一昔前とは比較にならないほど多様化している。
ケーブルで音が変わるのは常識といわれ、それも電源ケーブルまでが対象になった。 このようなアクセサリーの増加は、機器が進歩して微妙な音の差が聞き取れるように なった成果ととらえる人もいるかもしれないが、音声データの再生、増幅という 技術的にとっくに十数年以上も前にドン詰まっているピュアオーディオにおいて、 新たな商売ネタを業者が増やしただけである。
オーディオアクセサリーは多種多様な商品が存在するが、本格的な製造設備を持たない 小さな個人経営の町工場でも容易に参入できる為、その大半は理屈を知 らない素人が 思い込みだけで作ったガラクタである。 このような町工場がカタカナ文字のブランドを掲げ、マニアが喜びそうな高価な材料を 使ってケーブルやイ ンシュレータを作り、適当に理屈をデッチあげ、原価のウン10倍の 値段を付ければ、立派なハイエンドアクセサリーの一丁上がりとなる。
あとは、それをオーディオ評論家というこれまた同じ穴の狢にテストしてもらって 「この音は、このケーブルしか出ない」などという何の根拠も無いポエム記事を書いて もらい、広告出稿量と見事なまでにリンクする銘器賞でも受賞すれ ば、マニアが喜んで 買うというしくみだ。
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- 壁コンセント・その21
411 :名無しさん@お腹いっぱい。[]:2013/09/01(日) 15:45:47.22 ID:owh+/ln0 - オーディオをめぐる言説や現象がオカルトじみてしまったのは、煎じ詰めれば
オーディオ評論の責任である。自らオカルトを実践布教する評論家もいるが、ともあれ、 70年代から90年代にかけての最盛期に、オーディオ評論は、音を評価するための言葉、 科学的とまではいわないにせよ、それなりの普遍性や 客観性、妥当性を備えた言葉の技術 というものをついに開発できなかった。 「それは動きの表情より、むしろ、かまえての力といってよいのかもしれない」 (「かまえての力」が意味不明だがママ) 「『砂』に例えるなら、大粒の砂がざーっと勢いよく流れてくるのではなく、 きめの細かい砂がさらさらと、しかし同じスピードで流れている感じ」 これは最近の雑誌から適当に拾ったフレーズだが、オーディオ評論というものは、 こんなふうに、印象をひたすら抽象的につづる、人工無能が自動生成したみたいな( ある意味で)詩的な言葉が横溢する異空間に成り果てて久しい。 「解像度」「スピード感」「音像感」「表現力」「腰高」……といったジャーゴンも 駆使されるのだが、評論家ごとにてんでに使われているだけなので 判断の参考にすらならない。 カリスマ評論家、故・長岡鉄男がコンポの「質」を判断する基準に「重さ」を使っていた ことはよく知られているけれど、逆にいえ ば「重さ」くらいしか客観的な指標となりうる 要素がなかったということだ。 同時に「ある水準を超えたら、音質の差なんてプラシーボにすぎない(ようするに“気のせい” であり、オーディオ評論は端的に無意味だというこ )」という批判も根強くあって、140万円もしたゴールドムンドのユニバーサル・プレーヤーの中身がそのまま実売1万3000円ほどの パイオニア製DVDプレーヤーだったなんて例を見せられるとあながち極論とも いいがたく思えてくる。 プラシーボ効果なのかどうか、二重盲検 テストをやれば白黒つくはずなのだが、 オーディオ誌や評論家はこれをかたくなに拒んできた。 もっとも、批評対象がスポンサー商品という商業媒体の宿命を鑑みれば、あまり 責めるのも酷ではある。
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