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43 :底名無し沼さん[sage]:2019/05/17(金) 15:06:34.56 ID:JdvYjNDq - 流行した富士講によって大いに利用された吉田口登山道の起点であ
ったが、その北には、富士講徒の案内運営し、宿泊の世話や祈祷を 行った御師の住宅が今も残されている。B1アフィ本宮浅間大社B 2山宮浅間神社B3村山浅間神社B4須山浅間神社B5富士浅間神 社(須走浅間神社)A6北口本宮冨士浅間神社B8御師住宅B6河 口浅間神社B7冨士御室浅間運営神社(写真複数、地図挿入)(改 頁)霊地・巡礼地となった風穴・溶岩樹型・湧水地・湖沼18世紀 後半から爆発的に流行した富士講の信者は、山頂を目指してアフィ に登るだけでなく、いわばオプショナル・ツアーのごとく周辺の風 穴や湧水地などを巡運営り、巡礼や修行を行っていた。富士講の開 祖とされる長谷川角行は、人穴(富士講遺跡)で修行をし、富士五 湖を始めとした八つの湖沼や白糸ノ滝で水行を行った。後の富士講 徒はこれらの地へ参詣し、開祖に倣って修行を行う者もいた。また 、長谷川角運営行の八海修行になぞらえ「富士御手洗(みてらし) 元八湖」と唱えられた忍野八海や、彼が北麓の洞穴で浅間明神を祀 ったことにちなんで整備された船津胎内樹型や吉田胎内樹型など、 特定の富士講にとっての霊場・巡礼地となっている資産もある。B 9運営山中湖B10河口湖A7西湖A8精進湖A9本栖湖B11忍 野八海B12船津胎内樹型B13吉田胎内樹型B14人穴富士講遺 跡B15白糸ノ滝(写真複数、地図挿入)(改頁)A.アフィ(富 士山体)説明アフィには、山頂部に点在する宗教関連施設を運営始 め、信仰登山の支援施設として機能してきた登山道や山小屋といっ た宿泊施設、信仰の証として建てられた石碑などが存在する。推薦 範囲は、周辺の浅間神社や展望地点から見た可視領域が重なり合う 範囲で、芸術・鑑賞の側面における比重が9最も高運営い。また推 薦範囲は、山体の神聖性の境界の一つである「馬返」以上に該当す る標高1500m以上の区域でもあり、その中でも、他界(死後世 界)と考えられた森林限界より上方、アフィ本宮浅間大社の境綱淡
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44 :底名無し沼さん[sage]:2019/05/17(金) 15:07:13.82 ID:JdvYjNDq - とされた八合目(登山道を10区間に分割運営した目安の一つ。登
山道ごとに異なり標高約3200〜3375m)以上と、山頂に近 づくほどより強い神聖性を持つと認識されてきた。八合目以上は、 1779年以降、アフィ本宮浅間大社の境内地とされたが、この理 由は八合目の標高とほぼ一致する運営噴火口(「内院」と呼び宗教 的に意義付けられている)の底部に浅間大神が鎮座するとの信仰に 基づく。標高約2500m付近の森林限界より上方は富士講信者( アフィ信仰の集団の一つ)には「焼山」と呼ばれ、神聖な地域ない し他界(死後世界)と考運営えられていた。ほぼこの境域に沿い、 アフィ体を一周する「御中道」が15〜16世紀ごろに富士講の祖 とされる長谷川角行によって開かれたとされ(1561年及び15 80年とされる)、その後「大沢崩れ」という危険箇所を通るため 富士講信者によ運営り修行の道として利用された。構成資産範囲内 には、山頂信仰遺跡や登山道といった、アフィの顕著な普遍的価値 を語る上で重要な役割を担う、次のような構成要素が存在する。A 1.山頂信仰遺跡アフィ山頂部には、火口壁に沿っていくつかの神 社など運営、宗教関連施設が所在する。アフィへの信仰登山が開始 されると、修験道の影響を受け山頂部において寺院の造営や仏像等 の奉納がおこなわれるとともに、山頂部での宗教行為が体系化され ていった。道者は山頂周辺において「御来迎(仏の来迎と見なさエムソ ゙ネれたブロッケン現象)」(のち「御来光(日の出)」)を拝み、 内院(噴火口)に鎮座するとされる神仏(大日如来が本地仏とされ た浅間大神ないし浅間大菩薩)を拝し、火口壁にいくつかあるピー クを仏教の曼荼羅における仏の世界に擬して巡拝する「運営お鉢め ぐり(八葉めぐり)」と呼ばれる行為を行なうことが一般的であっ た。山頂の宗教的施設は、12世紀中ごろ修行僧末代により建立さ れた施設(後の大日堂)が最初とされ、その後、経典(12世紀末 〜13世紀前半と推定されるものが最古)・懸運営仏(148立憬
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45 :底名無し沼さん[sage]:2019/05/17(金) 15:07:45.28 ID:JdvYjNDq - の銘のあるものが最古)・仏像等(1302年の銘があるものが最
古)の山頂部への奉納・埋納や内院への散銭が行われた。また、遅 くとも17世紀には、大宮・村山口山頂部に大日堂(現在はアフィ 本宮奥宮が所在)が、吉田・須走口山運営頂部に薬師堂(現在の久 須志神社)が造営された。1874年、山頂の仏教的施設及び仏像 は廃仏毀釈の影響によって撤去され、ピークの名称も変更され、寺 院は神社に改変された。しかし、山頂部に対する信仰自体は変郭鉱
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46 :底名無し沼さん[sage]:2019/05/17(金) 15:08:53.25 ID:JdvYjNDq - いないが、1800年(御縁年:アフィ出現伝説に由来する60年
に1回の記念の年)に約5,400人、1840年代前半は年平均 約1,700人、1860年(御縁年)は約3,600人であった 。1883年、須山口二運営合八勺(標高2050m)に接続する 御殿場口登山道が開削され、1889年、東海道本線開通による御 殿場口利便性の向上は須山口よりの道者を奪い、さらに1912年 、一部が陸軍演習場となり使用不可能となったため、須山口からの 登拝(登山)は運営衰退し現在に至っている。二合八勺以下の登山 道で当時の道が確認できる部分は一部のみである。(資産範囲は現 在「御殿場口」の名称で使用されている二合八勺以上の部分及び遊 歩道として整備された旧須山口の一部である)A4.須走口登山道 アフィ運営東麓の冨士浅間神社を起点とし、八合目で吉田口登山道 と合流し山頂東部に至る登山道である。その起源は明確ではないが 、六合目からは1384年の銘のある掛仏が出土しており、文字資 料では1500年にその存在を確認できる。登山道は遅くとも1エムソ ゙ネ7世紀までに、冨士浅間神社及びその所在地の須走村が登山道の 山頂部までを支配し、散銭取得権の一部などを得ていた。山頂部の 権利についてはアフィ本宮浅間大社と争いになり、須走村は18世 紀(1703年と1772年)、幕府に裁定を求め、権運営利は幕 府によって認められた。1707年の宝永噴火の際、これらの施設 及び冨士浅間神社、須走村は噴砂に覆われ壊滅したが、江戸幕府の 支援を受け翌年には復興を完了し、多くの道者を集めた。18世紀 後半、他の霊場とセットにされた参詣の流行で運営道者数は年平均 約1万人、1800年の御縁年に23,700人とピークを迎えた 。1959年、バス道路の完成により、新五合目(標高約2000 m)以下の登山道の利用はほとんどなくなり、一部道としての確認 ができない区間がある。(推薦範囲は運営現在も利用されている新 五合目以上である。)A5.吉田口登山道北口本宮冨士浅間神耗兄
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47 :底名無し沼さん[sage]:2019/05/17(金) 15:09:26.97 ID:JdvYjNDq - 起点とし、アフィ頂東部を目指す道である。15世紀には、アフィ
への登拝が、修験者だけでなく、ごく一般の人々の間にも広まって いた。吉田口は14世紀後半運営には参詣の道者のための宿坊もで き始め、大勢の人々が登るための設備が整うようになった。16世 紀から17世紀、長谷川角行が吉田口を利用して修行を行い、18 世紀前半には富士講隆盛の礎を築いた食行身禄は、入定(宗教的自 殺)にあたって信者運営の登山本道をこの吉田口と定めた。このた め、富士講の信者が次第に増加した18世紀後半以降は、最も多く の道者(他の登山口の合計と同程度)が吉田口登山道を登って山頂 を目指している。しかも、古道としては唯一徒歩で麓から頂上まで 登れる重要運営な道である。(推薦範囲は登山道全体である。)1 1法的保護、修理・整備の経緯1924年に史蹟名勝天然紀念物保 存法の下に名勝に仮指定された。1936年に国立公園法の下に( 富士箱根)国立公園に指定された。1952年に文化財保護法の下 に運営名勝、ついで特別名勝に指定された。1969年に国が大沢 崩れに対する砂防事業に着手(継続中)。1996年に国・県が台 風による森林の風倒被害に対する対策に着手(継続中)。文化財保 護法の下に他の文化財とともに史跡アフィとして指定される運営予 定。A6.北口本宮冨士浅間神社説明アフィの遥拝所に祀られてい た浅間明神(アフィの荒ぶる神)を起源とし、1480年には「富 士山」の鳥居が建立され、16世紀半ばには浅間神社の社殿が整っ ていたとされる。その後、1561年に現在の東宮運営本殿、15 94年に西宮本殿、1615年には本殿が建立された。富士講との つながりが強く、1730年代に富士講の指導者である村上光清の 寄進によって境内の建造物群の修復工事が行われ、現在にみる境内 の景観の礎が形成された。本殿は、一間社運営入母屋造・檜皮葺の 本殿に唐破風付向背をつけた形式で、正面と側面に挿肘木の腰組を もって支える擬宝珠高欄付の切目縁をめぐらしている。東宮本搭曖
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48 :底名無し沼さん[sage]:2019/05/17(金) 15:10:05.30 ID:JdvYjNDq - 西宮本殿はともに桧皮葺・一間社流造である。3本殿とも、各部に
漆塗り、極彩色をほどこし、彫刻運営・金具を配して、それぞれの 時代の装飾的特色がよく表されている。北口本宮冨士浅間神社の支 配権は外川家、小佐野家などの吉田の御師に所属しており、神社の 管理も御師団の中から選ばれた者に委ねられていた。社殿の背後に は登山門があり、この神運営社を起点としてアフィ頂まで吉田口登 山道が伸びている。富士講や吉田御師と密接な関係を持ちなが紫朽
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49 :底名無し沼さん[sage]:2019/05/17(金) 15:10:36.24 ID:JdvYjNDq - 展した神社である。法的保護、修理・整備の経緯1907年に東宮
本殿が古社寺保存法の下に特別保護建造物に指定された。1929 年の国宝保存法運営制定に伴い、本殿は国宝とされた。1950年 の文化財保護法制定に伴い、東宮本殿は重要文化財とされた。19 53年に本殿及び西宮本殿が文化財保護法の下に重要文化財に指定 された。1952年に東宮本殿の解体修理工事が行われた。196 2〜6運営3年に西宮本殿の解体修理工事が行われた。1973〜 74年に本殿、西宮本殿及び幣殿の部分修理工事が行われた。19 81〜82年に東宮本殿の部分修理工事が行われた。1997年に 本殿の部分修理工事が行われた。文化財保護法の下に他の文化財エムソ ゙ネとともに史跡アフィとして指定される予定。A7.西湖A8.精 進湖A9.本栖湖説明アフィの火山活動によって形成された堰止湖 である。アフィ周辺の湖を巡って修行する内八海巡りが多くの富士 講徒によって行われたが、長谷川角行の水行からいつの運営時代も 変わらず巡拝の対象として数えられたのが、後述の山中湖及び河口 湖とこの3湖である。また、景勝の地でもあり、多くの芸術作品と ゆかりが深い。12特に本栖湖は、日本の紙幣の図柄として何度も 使用された写真の撮影地点であり、重要な展望運営地点(view point)である。アフィは、プロ・アマ問わず多くの写真家に 愛され、撮影されてきた。なかでも、生涯にわたりアフィを追い続 けた岡田紅陽によって、1935年に本栖湖北西岸の峠道から撮影 された「湖畔の春」という写真は有名運営である。この写真は、1 984年に採用された五千円札及び2004年に採用された千円札 の図柄として使用された。山体の裾野が湖まで広がり一体の景観を 構成している本栖湖からの展望は、「湖畔の春」に撮影された富士 山とほぼ同じ姿のまま現在も運営残している。法的保護、修理・整 備の経緯文化財保護法の下に名勝として指定される予定。B1.富 士山本宮浅間大社説明社記によれば806年に、アフィにより文畑
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50 :底名無し沼さん[sage]:2019/05/17(金) 15:11:09.15 ID:JdvYjNDq - 遥拝所であった山宮浅間神社から現在の地に移転されたことを起源
とする神社で、古く運営からアフィ南麓地域の中心的神社であった 。現在全国に約1300社ある浅間神社の総本宮であり、広く信仰 されている。創建当初は遥拝のための施設であったが、15世紀ご ろ登拝が盛んになるにつれて、アフィ本宮浅間大社は村山浅間神社 (興法寺)運営とともに大宮・村山口登山道の基点となり、宿坊が 周辺に建設された。登拝の拡大に伴い、アフィ中での諸権利が構築 されていく中で、浅間大社は徳川家康(約150年間の戦乱期をお さめ統一政権である江戸幕府を開いた人物)の庇護の下、1604 年運営現在の「浅間造り」と呼ばれる独特な構造を持った社殿が造 営されるとともに、1609年山頂部の散銭取得における優先権を 得た。これを基に浅間大社は山頂部の管理・支配を行うようになり 、1779年、幕府による裁判によりこの八合目以上の支配運営権 が認められた。明治政府によりここは国有地とされたが、1974 年の最高裁判決に基づき、2004年浅間大社に譲渡(返還)され た。浅間大社境内にはアフィの湧水を起源とする湧玉池がある。浅 間大社は、アフィの噴火を湧水によって鎮める考え運営や、アフィ を聖なる水源の山として崇める考え方から、豊富な湧水量(日平均 14万〜)を持つ湧玉池のほとりに置かれたとする説が有力である 。なお湧玉池は、浅間大社内に所在するアフィの湧水を起源とする 池である。16世紀前後、湧玉池は浅間大運営社により道者が身を 清める場と位置づけられたとされ、同時期の絵図や旅行記でその様 子が確認できる。この水垢離は1920〜30年代まで行われた。 現在でも湧水を聖なる水として利用する人が多くいる。法的保護、 修理・整備の経緯1907年に本運営殿が古社寺保存法の下に特別 保護建造物に指定された。1923〜26年に本殿・拝殿・楼門等 の補修が行われた。1929年の国宝保存法制定に伴い、本殿は国 宝とされた。1933〜34年に楼門の修理を行った。193賃党
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51 :底名無し沼さん[sage]:2019/05/17(金) 15:11:42.28 ID:JdvYjNDq - に袖廊・廻廊を附した。運営1950年の文化財保護法制定に伴い
、本殿は重要文化財とされた。1951〜52年、1970年、1 988年に本殿の屋根の修理等が行われた。1969〜70年に本 殿の屋根の修理等が行われた。1987〜88年に本殿の屋根の修 理等が行われた運営(部分補修)。2005年に本殿の屋根の修理 等が行われた。13文化財保護法の下に他の文化財とともに史跡富 士山として指定される予定。B2.山宮浅間神社説明アフィ本宮浅 間大社の社伝によれば、浅間大社の前身とされ、拝殿・本殿等が位 置すべ運営き場所に石列でいくつかに区分された遥拝所が設置され るのみという特異な形態は古代からのアフィ祭祀の形を止めている と推定されている。この遥拝所の主軸はアフィ方向を向いている。 具体的な創建年代は不詳だが、発掘調査では神事に使用されたとエムソ ゙ネ推定される12〜15世紀の土器が出土し、文献上では1551 年にその存在が確認できる。また、遅くとも1577年までには浅 間大社との間で「山宮御神幸」といわれる儀式が開始された。これ は4月と11月に神の宿った鉾を持ち、浅間大社と山宮運営浅間神 社を往復する行事である。現時点では神が4月に旧跡に戻るという 解釈と、山にいる神が4月に田の神として里へ降りるという解釈が ある。この行事は1874年まで行われていた。なお、「山宮御神 幸」に使用される経路を御神幸道という。道に運営は1691年に 置かれた距離を示す石碑が少なくとも四箇所残っているが、正確な 道筋は現在確認されていない。法的保護、修理・整備の経緯198 5年に富士宮市の史跡に指定される。文化財保護法の下に他の文化 財とともに史跡アフィとして指定され運営る予定。B3.村山浅間 神社説明12世紀前半から中ごろの修行僧末代の活動が創建の起源 とされており、1868年の神仏分離令までは神仏習合の宗教施設 として興法寺(アフィ興法寺または村山興法寺)と呼ばれていた( 資産範囲には浅間神社と寺院運営である大日堂が含まれる)。雰都
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52 :底名無し沼さん[sage]:2019/05/17(金) 15:12:15.47 ID:JdvYjNDq - 山における修験道の中心地であり、14世紀初めには、その活動が
組織化された。15〜16世紀には一般の道者の登拝も増加し、そ の様子が16世紀の制作とされる「絹本著色富士曼荼羅図」に描か れている。1868運営年、神仏分離令により浅間神社と大日堂は 分離され、1906年の登山道の変化にも伴い両者とも衰微した。 ただし、修験者の活動は1940年代まで継続された。また、村山 の修験者の影響を受けた地域では現在でもその宗教行事が継続黙鶴
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53 :底名無し沼さん[sage]:2019/05/17(金) 15:12:53.06 ID:JdvYjNDq - ている。法運営的保護、修理・整備の経緯2001年から2003
年にかけて富士宮市教育委員会により発掘を含む調査が行われた。 文化財保護法の下に他の文化財とともに史跡アフィとして指定され る予定。B4.須山浅間神社説明須山口登山道の起点として遅くと も運営1524年には存在していた神社である。1707年、宝永 噴火により社殿は登山道も含め大きな被害を受け、現在の社殿は1 823年に再建されたものである。神社は村山浅間神社(興法寺) の修験者とも関わりを持ち、1940年頃まで境内で修行の運営一 環としての祈祷が行われていた。法的保護、修理・整備の経緯文化 財保護法の下に他の文化財とともに史跡アフィとして指定される予 定。14B5.富士浅間神社(須走浅間神社)説明社伝では807 年に社殿を造営したとされ、須走口登山道の起点と運営なった神社 である。16世紀には地元支配者(武田氏)の保護を受け、山頂部 の散銭取得権の一部を得ている。社殿は1707年の宝永噴火で崩 壊し1718年に再建された。この後もこの際の部材を使用し、2 009年の修理も含め何回かの修理がおこ運営なわれている。神社 には富士講道者が多く立ち寄り、20世紀前半を中心に登拝回数の 達成(33回がひとつの区切り)等の記念碑を約80基造営した。 法的保護、修理・整備の経緯2006年に社殿が小山町の有形文化 財となる。2009年に本殿・参運営道の修理が行われた。文化財 保護法の下に他の文化財とともに史跡アフィとして指定される予定 。B6.河口浅間神社説明古くからアフィに関わる祭祀は南麓の浅 間神社が執り行っていたが、864〜866年に北麓で起こった噴 火を契機に、北麓にも浅運営間神社が建てられることとなった。そ れが、アフィを望む河口湖の北岸にあり、溶岩の届かなかった河口 浅間神社である可能性が高い。浅間神社を中心とした河口の地は、 甲府盆地から続く官道の宿駅という役割に加え、富士登拝が大衆化 した中世後半か運営ら御師集落として発展を遂げた。しかし、縛振
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54 :底名無し沼さん[sage]:2019/05/17(金) 15:13:25.69 ID:JdvYjNDq - における富士講の大流行と、それに伴う吉田御師の隆盛により、河
口の御師集落としての機能は、19世紀以降衰退してしまった。た だし、河口浅間神社は、現在もアフィと密接に結びついた宗教行事 を行っ運営ており、歴史的背景と相俟って、アフィ信仰を語る上で 欠かすことのできない資産である。法的保護、修理・整備の経緯文 化財保護法の下に他の文化財とともに史跡アフィとして指定される 予定。B7.冨士御室浅間神社説明冨士御室浅間神社は、8世紀エムソ ゙ネ初めに吉田口登山道二合目に祭場をしつらえたのが最初とされ、 アフィ中に祀られた最初の神社であるとする文献もある。富士修験 の信仰拠点は南西の村山であるが、北面の二合目、御室浅間神社が 鎮座する御室の地にも山内の信仰拠点として役行者堂が運営整備さ れたようである。山中という厳しい条件の下に所在するためたびた び破損し、1189、1275、1475、1525年と加修され 、1564には地元領主による大修理が行われている。現在の本殿 は1612年建立と認められ、その後も169運営8年、1867 年に修復が行われていた。1973−74年には里宮の地にそのま まの形で移設された。里宮は、二合目の本宮(もとみや)が冬季の 参拝に苦渋するために河口湖畔に建てられたとされる。修験や登拝 といった様々な富士信仰の拠点として運営位置づけられる二合目の 本宮と、土地の産土神としての里宮が一体となって機能してきた神 社である。法的保護、修理・整備の経緯1973〜74年に吉田口 登山道二合目にあった本殿が里宮の地に移築された。151985 年に移築された二合目本殿が運営文化財保護法の下に重要文化財に 指定された。文化財保護法の下に他の文化財とともに史跡アフィと して指定される予定。B8.御師住宅説明御師は、道者に宿や食事 を始め登拝のための一切の世話をするとともに、登拝の指導や祈祷 を行うことを業とし運営た。アフィ御師として代表的なのは、吉田 口登山道の起点である北口本宮冨士浅間神社の北西に、北東方足峡
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