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575 :底名無し沼さん[sage]:2019/05/16(木) 15:07:40.66 ID:zZnkdNdX - れている。B2山宮浅間神社なしB3村山浅間神社なしB4須山浅
間神社なしB5須走浅間神社なしB6河口浅間神社B7冨士御室浅 間神社B8運営御師住宅なしB9山中湖B10河口湖B11忍野八 海B12船津胎内樹型・溶岩洞穴等の主体となる地形・溶岩洞穴等 を構成する地質(剣丸尾溶岩流と火砕物により構成)B13吉田胎 内樹型・溶岩洞穴等の主体となる地形・溶岩洞穴等を構成する地質 (運営剣丸尾溶岩流と火砕物により構成)B14人穴富士講遺跡( 人穴浅間神社)なしB15白糸ノ滝なしウ眺望C三保松原なしA歴 史的要素構成資産の周辺地域の地下には、関連の遺構、遺物が良好 に残されている区域があり、それらは文化財保護法に基づき運営埋 蔵文化財包蔵地として周知されている。また、かつて登山者に利用 された御師の家並みなど、文献史料に記載された多数の伝承地や名 所等が存在している。アアフィ山体及び登山道−79−Aアフィな しA1山頂信仰遺跡なしA2大宮・村山口登山道・運営馬頭観音1 村山浅間神社脇の舗装された道を登って南西から北東に進んでいく と、舗装道が大きく北西方向にそれていく。村山口登山道跡はここ を北西に行かずに、直進し北東方向へ進む。その交差点に馬頭観音 の碑が建っている(標高約590m)。昭運営和8年(1933) に上原伸郎によって建てられたものである。・馬頭観音2静岡県立 アフィ麓山の村を抜けた場所にある。ここはやや道幅が広い、比較 的直伸している経路と、屈曲した経路の2つが存在する。前者につ いては明治以降に木材の切り出し運営・運搬に使われた木馬道であ ると推測される。ここで以前に馬が死んだので、供養のために馬頭 観音を建てたと伝えられている。・2号建物跡平成5年の富士宮市 の調査では、中宮八幡堂跡手前で日沢を渡り、50mほど登ったと ころに2号建物跡がある運営とされる。『アフィ村山口登山道遺跡 調査報告書』では、「道の南側に12m×8mの平坦面があり、道 の北側にも平らな場所がある」と報告している。平成20年の唆短
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576 :底名無し沼さん[sage]:2019/05/16(木) 15:08:05.67 ID:zZnkdNdX - では平場らしき地形を確認したが、平成5年当時の景観と著しく異
なっており、両運営者が同一のものか判断できない。写真建物跡の 写真図建物跡の図面・3号建物跡登山道跡と県道富士宮富士公園線 が交差する地点から約60m南に下りた位置にある。周囲はなだら かな傾斜の天然林で、地面は落葉に覆われている。むき出しになっ た岩石運営には一面に苔がむしている。東西4m弱・南北6m弱の 方形の石列があり、その北東側に小さなくぼみを確認した。『富士 山村山口登山道遺跡調査報告書』は、このくぼみを便所跡としてい る。写真建物跡の写真図建物跡の図面・4号建物跡アフィスカイエムソ ゙ネラインと村山登山道が交差する地点から北北東の方角に約600 mの位置にある。登山道の西側には日沢が南北に走っており、北側 と東側には斜面が迫る。周辺は天然林で、下草にスズタケが生い茂 っている。平場は東西約8m、南北は約6mで、南側の運営縁には 一部石組が確認された。南側中央部には石段が確認された。『富士 山村山口登山道遺跡調査報告書』はここを「矢立・新小屋」にあた るとしているが、後世まで木の切り出しなどの休憩小屋として使わ れていた可能性をも指摘している。・6号建物運営跡5号建物跡か ら北北東に約450mの位置(標高約1,985m)にある。周囲 は西向きに傾斜するやや急な斜面である。登山道の西側は、日沢に 向けて急激に落ち込んでいる。登山道の東側には、東西約12m、 南北約10mの平場がある。平場の南運営縁には石組が見られ、登 山道を挟んで東西12mにわたって延びている。平場の北側の斜面 にも石組が確認できる。・岩屋不動岩屋不動は、役行者からの伝法 で村山三坊が毎年年番で行っていた札打ちや勤行等を行う富士峯修 行の修行所の1つであった。運営江戸時代の絵図には、高所にある 洞穴と、その脇を流れる滝の情景で描かれ−80−ることが多い。 洞穴内には不動明王が安置されていたという。慶長7年(1602 )に書かれた「アフィ持場之事」に記述があるが、宝永4年(将壁
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577 :底名無し沼さん[sage]:2019/05/16(木) 15:08:40.23 ID:zZnkdNdX - 07)の宝永噴火で運営堂室が消失したと言われている。また、文
化13年(1816)〜天保5年(1834)に執筆された『修訂 駿河国新風土記』には、岩屋不動に、家のような板葺きの建物があ り、登山者の休憩所であったことが記されているが、嘉永7年(1 854)の運営「アフィ室小屋建立古帳面写」では「堂室無之」と 記載され、この時点では再び堂室が消失していると推測される。そ の後、岩屋不動の所在は不明となっていたが、平成19年に候補地 たりうる洞穴の存在を確認した。不動沢を標高約1,820mの地 点運営まで登りつめ、地上から7mほどの高さの場所にある。洞穴 の内部は、高さ2m、幅6.4m(最奥)、奥行9mを測る。洞穴 内は人が立つことのできる程度の高さがあり、内壁は全体的に赤み がかっている。中央部向かって右側から入口付近に向けて崩運営落 した大岩が多く転がり、入口は半ば塞がれたような状態である。最 奥の向かって左側については人工的に開削された可能性が残る。写 真岩屋不動の写真図岩屋不動の図面A3須山口登山道なしA4須走 口登山道・御室浅間神社跡ふじあざみライン沿いの運営標高1,8 30m付近にある。冨士浅間神社の末社で、かつては中宮小室社と 呼ばれた。女人禁制の時代には、須走口登山道で女性が登山できる のはこの場所までであった。祭神は瓊々杵命と木花開耶姫命である 。昭和54年に古御岳神社に合祀された。運営国土地理院の地形図 に記載があるものの、社殿は昭和50年代に倒壊し、廃屋となって いる。鳥居、灯籠等、神社に関連する工作物はなく、かつては石仏 が多くあったが、現在は1体も残っていない。写真神社跡の写真・ 大日堂(野中神社)冨士浅間神社運営の末社で、富士あざみライン から南側の脇道を入った自衛隊東富士演習場内の標高1050m付 近にある。演習場内のため、許可なく立ち入ることはできない。明 治7年に野中神社と改名されたが、それ以前は大日堂と呼ばれ、水 源地に祀られていること運営から雨乞いの神として地元の信仰出姓
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578 :底名無し沼さん[sage]:2019/05/16(木) 15:09:16.78 ID:zZnkdNdX - めた。元禄3年(1690)の冨士浅間神社の古文書に記述が見ら
れ、成立年代は江戸時代前期まで遡る。宝永4年(1707)の噴 火によって被害を受けたが、宝暦14年(1764)に再建された 。祭神は大日要運営命(大日如来)で、建物は本殿・拝殿合わせて 間口二間、奥行き二間三尺、それに四間と二間の籠舎が付いていた とされる。古絵図(小山町史)では、須走口登山道から脇道にそれ た場所に描かれている。江戸時代には、大日堂に立ち寄ってか茎紛
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579 :底名無し沼さん[sage]:2019/05/16(木) 15:09:50.10 ID:zZnkdNdX - 頂を目運営指したとされる。建物は現存しないが、二重の石組みに
囲まれた建物跡に一対の灯篭(江戸時代)と不動明王像が置かれ、 敷地脇には地蔵菩薩像と石碑がある。昭和58年(1979)に石 の祠が建てられ、毎年9月に祭礼が行われている。写真神社跡のエムソ ゙ネ写真・下山道(砂走り)登山道の南側に、下山道(砂走り)があ る。須走口では江戸時代から登山道と下山道が別々に存在していた 。下山道は標高約2,900mの7合目付近で登山道と分岐し、登 山道南側の砂礫地を直線的に降りる。御殿場口(須山口運営)の「 大砂走り」と区別して、「砂走り」と呼ばれる。−81−A5吉田 口登山道北口本宮冨士浅間神社を起点とする登山道で、本8合目で 須走口登山道に合流する。合流地点は古くから「大行合」と呼ばれ た。ここから上は頂上奥宮の神域で、小屋を建運営てることが許さ れなかったことから、登山道最後の小屋場として多くの小屋が建て られていた。写真小屋の写真A6北口本宮冨士浅間神社A7西湖A 8精進湖A9本栖湖・中道往還と関連遺跡中道往還は甲斐と駿河と の交通路のうち、若彦路と河内路の中運営間に発達したので「中道 」と呼ばた。甲府市から国道358号線を経て精進湖赤池交差点よ り国道139号に入り、静岡県の富士宮市・富士市に至る道である 。こうした交通の要地であることから本栖湖周辺には中道往還に関 連する遺跡が複数確認できる運営。イ信仰B1アフィ本宮浅間大社 ・浅間大社遺跡(埋蔵文化財包蔵地)浅間大社周辺の南北500m ・東西200mの範囲は、縄文時代から近世にかけての複合遺跡と して埋蔵文化財包蔵地となっており、遺構や遺物等が発見されてい る。写真出土遺物の運営写真・大宮城跡浅間神社大宮司の居館とし ての大宮城が、現在の県道富士宮富士公園線の東側に位置していた 。・神田宮第2駐車場から100mほど南にある水田を備えた神社 である。五穀豊穣を祈願して米を作り奉納する「御田植祭」が毎年 7月7日に運営行われる。・大鳥居昭和30年(1955)に小憩
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580 :底名無し沼さん[sage]:2019/05/16(木) 15:10:25.63 ID:zZnkdNdX - された大鳥居が、第2駐車場に設置されている。・大灯籠昭和35
年(1960)に奉納された大灯籠2基が、第2駐車場南側入口に 設置されている。B2山宮浅間神社なしB3村山浅間神社なしB4 須運営山浅間神社なしB5須走浅間神社・須走護国神社−82−西 南の役から太平洋戦争に至る期間の、須走地区の戦没者24名が祀 られている。・鎌倉往還指定地南側には、相模から駿河、甲斐への 連絡路であった鎌倉往還が通っていた。中世の幕府所在地鎌運営倉 から放射状に存在した複数のルートの一つで、当時の御家人らが鎌 倉と自領との往還に利用した道である。また、生活必需品を運ぶ商 人や各国々に旅する人も多く、須走地区が、古くから富士北麓地域 と静岡県駿東部を結ぶ交通の要衝として利用されて運営いたことが わかる。写真鎌倉往還の写真B6河口浅間神社B7冨士御室浅間神 社B8御師住宅なしB9山中湖B10河口湖B11忍野八海B12 船津胎内樹型・社寺等溶岩洞穴等については、洞穴本体あるいは富 士山の関連として信仰の対象と位置づけら運営れたものが多く見ら れ、周辺には社寺等の宗教的施設がみられ、船津胎内樹型に伴う無 戸室浅間神社などの設置形態は、洞穴と一体になって信仰が行われ ている事例である。・信仰的意味を付された地形・空間B13吉田 胎内樹型・参詣道吉田口登山道の運営「中ノ茶屋」から、吉田胎内 本穴に向かうものである。古くから富士講の信者等に利用され、「 甲斐国誌」には「胎内道」として記述されている。B14人穴富士 講遺跡(人穴浅間神社)・中道往還かつて甲斐と駿河を結んだ街道 のひとつである。富士講運営信者は、富士参詣に合わせて人穴参拝 をする習慣があり、アフィ北口の吉田と人穴を結ぶ巡礼道として中 道往還を通っていた。写真中道往還の写真・赤池家跡境内地から南 へ下ったところに、人穴で修行する行者の食事や宿泊の世話、洞穴 や周辺の碑塔の運営建立や管理等を代々行ってきた赤池家の跡地が ある。・石鳥居県道脇の参道への入口に石鳥居が建てられてい誓幣
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581 :底名無し沼さん[sage]:2019/05/16(木) 15:10:58.82 ID:zZnkdNdX - 額束には「富士人穴」と刻まれている。・参道参道は、県道清水富
士宮線から石鳥居をくぐって進み、浄土門と刻まれた石碑を右折し て、境運営内地内の参道へ続いている。石碑から階段までの参道は かつての中道往還と重複する。−83−B15白糸ノ滝なしウ眺望 C三保松原なしB人文的要素アフィ山体においては、登山道沿いに 登下山者の緊急避難や遭難者の救助、応急処置の機能を兼ね備えエムソ ゙ネた山小屋が立地している。アフィ麓における構成資産の周辺につ いては、山林、農耕地のほか市街地となっており、日常生活に関連 する各種施設等をはじめとして、道路、橋、線路、電柱、看板等の 各種人工物が存在している。また、構成資産の公開活用運営を目的 した資料館等の施設が存在している。アアフィ山体及び登山道A富 士山なしA1山頂信仰遺跡なしA2大宮・村山口登山道・岩屋不動 山小屋とその関連施設標高の低い地点から順に、表富士宮5合目、 雲海荘(6合目)、宝永山荘(6合目)、御来運営光山荘(新7合 目)、山口山荘(元祖7合目)、池田館(8合目)、万年雪山荘( 9合目)、胸突山荘(9合5勺)がある。山小屋周辺にはバイオト イレ、自動販売機、ベンチ、テーブル等が設置されている。・緊急 ・救急施設アフィは、高山であり気候運営も急変することから、登 山客の安全確保を目的として、アフィ登山指導センター(山頂、富 士宮口登山道新5合目)とアフィ衛生センター(富士宮口登山道8 合目)が設けられている。写真救急施設の写真・救急搬送・荷物搬 送区域登山道にほぼ並行して運営、救急用・緊急用避難道としての 役割を持つ道路等の施設が設けられている。搬送にはブルドーザー が使われる。歩道との交差部には、進入禁止柵・注意看板等が設置 されている。・県道180号線富士宮富士公園線浅間大社前交差点 を起点とする「県道運営180号富士宮富士公園線」が、村山口登 山道跡と2箇所で交差している。交差する地点は、西臼塚駐車場か ら山頂方面へ約1.5q進んだ地点と、高鉢山駐車場から約7汰執
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