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160 :底名無し沼さん[sage]:2019/05/16(木) 10:48:37.41 ID:uqkd61ta - 存管理計画」を策定(予定)(2)信仰B1アフィ本宮浅間大社富
士山の南西麓に位置する神社であり、この神社とともに発展してき た富士宮市の中央部に所在する。アフィの神とされ運営る木花之佐 久夜毘売命を主祭神とし、現在全国に約1300社ある浅間神社の 総本宮とされている。境内には登拝の際に水垢離場として使用され た湧玉池がある。浅間大社は7世紀ごろ、アフィにより近い遥拝所 であった山宮浅間神社から現在の地に移転運営されたとされる。創 建当時はアフィの噴火が盛んであり、これを畏れ鎮めることを信仰 の目的としていた。朝廷も浅間大神に他の山よりも高い神階を与え ることで崇敬の念を示した。12世紀後半ごろには、浅間大神は本 地垂迹説の影響を受け大日如来の運営垂迹である「浅間大菩薩」と 見なされるようになり、12世紀頃より政治の実権を掌握した武士 階級に戦勝の神として信仰された。15世紀ごろ、登拝が盛んにな るにつれて、浅間大社は村山浅間神社とともに大宮・村山口登山道 の起点となり、宿坊が周運営辺に建設された。16世紀ごろ、浅間 大社は湧玉池での水垢離を重要な儀式と位置づけることによって、 浅間大社を経由した登拝を喧伝した。同時期の絵図である絹本著色 富士曼荼羅図には、浅間大社・湧玉池及び村山浅間神社を経由して 登山する人々の運営姿が描かれている。登拝の拡大に伴い、アフィ 中での諸権利が構築されていく中で、浅間大社は徳川家康の庇護の 下、1604年現在の社殿が造営されるとともに、1609年山頂 部の散銭取得における優先権を得た。これを基に浅間大社は山頂部 の管理運営・支配を行うようになった。ただし、大宮・村山口登山 道と頂上部の大日堂周辺は−28−村山浅間神社が支配し、廃仏毀 釈以降、村山浅間神社の衰退と1906年の村山浅間神社を経由し ない登山道の開削などにより、浅間大社には多くの参拝者が訪れエムソ ゙ネた。また、明治政府の政策により、一時国有地とされていた八合 目以上の土地は1974年の最高裁判決に基づき、2004年男邪
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161 :底名無し沼さん[sage]:2019/05/16(木) 10:49:00.89 ID:uqkd61ta - 大社に譲渡(返還)された。写真本殿・拝殿+アフィ表法的保護、
修理・整備の経緯1907年本殿が古社寺保存法の下に運営特別保 護建造物に指定1925年本殿・拝殿・楼門等の補修1929年本 殿は国宝保存法制定に伴い国宝に名称変更1934年楼門の修理1 936年袖廊・廻廊を附した1950年本殿は文化財保護法制定に 伴い重要文化財に名称変更1952年本殿の屋運営根の修理等が行 われた1970年本殿の屋根の修理等が行われた1988年本殿の 屋根の修理等が行われた1996年富士宮市教育委員会が調査を行 った2002年富士宮市教育委員会が調査を行った2005年本殿 の屋根の修理等が行われた2008年運営財団法人静岡県埋蔵文化 財調査研究所により境内の発掘調査が行われ、その成果に基づき2 010年に「史跡アフィ保存管理計画」を策定2010年文化財保 護法の下に他の文化財とともに史跡アフィとして指定湧玉池は富士 山本宮浅間神社境内に所在す運営る面積約2,500uの池である 。池は約1万年前に噴出した万野溶岩流の末端から湧き出す一日平 均14万〜(2008年)の水を源としている。湧水のメカニズム は、アフィの標高1000m前後ないしそれ以上の高所の降水が地 下にしみ込み、何層運営もある溶岩層の間にはさまれて充満し、そ れが押し出されるようにして末端から湧出したものである。浅間大 社の位置は、アフィの噴火を湧水によって鎮める考えや、アフィを 聖なる水源の山として崇める考え方から、豊富な湧水量を持つ湧玉 池のほとり運営に置かれたとされる。この湧水には灌漑用水として の役割もあり、浅間大社境内の神田の宮では水徳の神・農業神とし ての浅間大神に感謝する祭礼が行われている。池の名前の由来には 、地底から玉が湧き出るように湧水しているためという説や湧く霊 た運営ま(神霊)との説等があり、わく玉の名は10世紀後半の地 元支配者による和歌に見られ、湧玉池の名称は1670年作成の「 社頭古絵図」に見られる。湧玉池は浅間大社に参拝し、アフィ誠飾
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162 :底名無し沼さん[sage]:2019/05/16(木) 10:49:35.21 ID:uqkd61ta - ざす登拝者が身を清める場として使用された。その様子は「運営絹
本著色富士曼荼羅図」や「富士浅間曼荼羅図」、17世紀初頭の登 山記で確認できる。この絵図では現在の形状に近い湧玉池が描かれ 、水垢離する人々やそのための施設が見られる。登拝者の水垢離は 1920〜30年代まで行われ、現在では山開きの運営恒例行事に 形を変えて継承されている。また、湧水は聖なる水として現在でも 利用する人が多い。湧玉池および周辺には様々な宗教に係わる施設 があるが、特に池の南端にある「神幸橋」は、御神幸道の基点であ り、現在でも1691年に作られた石碑が運営たもとに残されてい る。−29−写真沸玉池の写真B2山宮浅間神社浅間大社の北北東 約5kmに位置し、木花之佐久夜毘売命を主祭神とする神社である 。その起源は「富士本宮社記」によれば、山足の地に祀られていた 浅間大神を、神話上の英雄である運営日本武尊が大神の神威により 難を逃れた謝礼に山宮に祀ったこととされ、これが802年に再び 遷され浅間大社となったとする。具体的な創建年代は不詳だが、文 献上での初見は1551年である。神社は神事の際に使用する籠屋 以外の建物施設を持たず運営、拝殿・本殿等が位置すべき場所には 石列でいくつかに区分された遥拝所が設置されるのみという特異な 形態を示している。この形態は古代からのアフィ祭祀の形を止めて いると推定されており、遥拝所の主軸はアフィ方向を向いている。 発掘調査では1運営2〜15世紀にかけての神事に使用されたと推 定される破砕された土器が遥拝所北側から多数出土し、当神社での 宗教活動を裏付けている。また、遅くとも1577年までには浅間 大社との間で「山宮御神幸」といわれる儀式が開始された。これは 4月と運営11月に神の宿った鉾を持ち、浅間大社から山宮浅間神 社へ行き、神事を行った後、翌日未明に浅間大社へ戻る行事である 。行事の意味として、現時点では神が4月に旧跡に戻るという解釈 と、山にいる神が4月に田の神として里へ降りるという解釈があエ畏消
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163 :底名無し沼さん[sage]:2019/05/16(木) 10:50:09.06 ID:uqkd61ta - ゙ネる。この行事は1874年まで行われていた。なお、「山宮御神
幸」に使用される経路を御神幸道と称し、浅間大社湧玉池横より発 し、約600m東へ向かった後、ほぼ直角に曲がり直線状に北上し て山宮浅間神社に至る。道の出発点及び途中には169運営1年に 置かれた距離を示す石碑が少なくとも四箇所残っている。写真山宮 浅間神社の写真B3村山浅間神社山宮浅間神社の南東約4km、富 士山南麓に張り出した標高約500mのバルコニー状地形に位憲動
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164 :底名無し沼さん[sage]:2019/05/16(木) 10:50:42.51 ID:uqkd61ta - 、木花開花姫命を主祭神とする神社である。神運営社と一体化した
範囲には、現在別の宗教法人となった大日堂・水垢離場・護摩壇な どが存在している。これらは1868年の神仏分離令までは一体の ものであり、アフィ興法寺(村山興法寺)と呼ばれていた。なお、 周辺には興法寺の維持・運営にあたっ運営ていた道者坊の村山三坊 (池西坊・大鏡坊・辻之坊の三箇所)の跡が発掘調査によって確認 されている。その起源は、1149年の記録に見える修行僧末代上 人によるアフィ頂への大日寺の建立にあるとされる。末代上人が富 士山中又は村山の地に興法寺運営を建立したとの記録も残されてい る。これらの記録等から、12世紀中ごろに村山周辺において修験 道または密教系の宗教活動が行われていたと推測できる。1259 年には、現存する大日如来が寄進されたことを仏像の銘で確認でき る。末代以後、その運営流れを汲みアフィで修行する人々が現れ、 村山がアフィ修験道(富士行)の拠点となったと考えられる。14 世紀初めには僧の頼尊が修験者とその活動を組織化し、興法寺を再 興したとされる。15世紀に入ると興法寺とそれを支える宿坊の存 在が現存す運営る大日如来の銘(1478)で確認できる。148 2年には修験道本山派の本寺である聖護院と関係を持ち、その権威 を高めた。16世紀中には十数軒あった道者坊が村山三坊に統合さ れ、その活動を資料で確認できる。坊に所属する山伏は夏に「富士 峯運営修行」を山中及び山頂で行った。また、アフィへの一般の登 拝者も増加し、夜間に白装束をまとい、仏がいるとされた山頂を目 指す多くの人々の様子が「絹本著色富士曼荼羅図」に描かれている 。村山の山伏は、富士峰修行の際に東麓、南麓の村を年一回運営巡 回し加持祈祷等を行った。また18世紀、富士講の隆盛に対抗し西 日本の一般登拝者中の有力者に対して「先達」の免許を発行し組織 化を図ると−30−ともに、登拝が困難な人々に対しては川辺で垢 離を取り、祈ることで登拝と同等の利益があるとす運営る「富上乗
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165 :底名無し沼さん[sage]:2019/05/16(木) 10:51:19.70 ID:uqkd61ta - 離」の手法を広めている。加えてアフィを航海の目印とする伊豆半
島の漁業者に対しては航海安全と大漁の祈願を行った。興法寺の勢 力は地元支配者である今川氏の支援を受けていた16世紀前半が最 も強かったが、それ以降衰退しつつも聖護運営院の力を背景に一定 の権威をもち、登山道及びその頂上部の大日堂周辺を支配した。社 殿については、1697年徳川幕府により修復され、現在の大日堂 は建築様式や部材の状況から19世紀半ばに建立されたと推定され る。また、浅間神社は1913年運営改築されたものを基本として いる。1868年、神仏分離令により浅間神社と興法寺(大日堂) は分離され、山伏は還俗し、1906年の登山道の変化にも伴い両 者とも衰微した。ただし、富士峰修行と加持祈祷は1940年代ま で継続された。現在は1運営970年代より活発になった地域住民 による伝統復活のための活動が見られ、水垢離等の行事が行われて いる。また、村山浅間神社の影響を受けた地域のうち、滋賀県甲賀 市、三重県南伊勢町等では現在でも富士垢離の行事が継続されてい る。写真村山浅運営間神社の写真B−4須山浅間神社アフィの南東 麓、須山口登山道の入り口に位置し、木花開花姫命を主祭神とする 神社である。その起源は1598年作の社伝旧記によると110年 、日本武尊が蝦夷征伐の際、この地を訪れ浅間神社を創起し、さら に55運営2年有力豪族の蘇我稲目が再興したとある。記録上神社 の存在が確認できるのは1524年で修築時の棟札による。また、 市天然記念物である境内の杉は、樹齢500年以上と推定されてお り、遅くともこの時期までに須山浅間神社が現在の地に存在したエムソ ゙ネと推測できる。現在の社殿は1823年の再建である。1707 年の宝永噴火により登山道も含め大きな被害を受けたが、1780 年に登山道が再興され、1800年の御縁年には約5,400人の 登拝者があった。須山浅間神社は12軒の御師とともに運営当時の 須山村の中心的存在であり、村全体で須山口登山道と山頂部銀雑宛
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166 :底名無し沼さん[sage]:2019/05/16(木) 10:51:54.20 ID:uqkd61ta - を管理した。また、京都吉田家より神道裁許状を得たり、朝廷・公
家に銀明水を献上したりする等して権威を高めているが、山頂部で 発生した問題については、浅間大社の判断を仰運営いでいる。須山 浅間神社は村山三坊とも関わりを持ち、1940年頃まで境内で富 士峯修行の一環としての祈祷が行われていた。1883年、御殿場 口登山道が開設され、1899年の東海道本線開通による御殿場口 利便性の向上は須山口からの登拝者や運営登山者を奪い、加えて1 912年登山道の一部が陸軍演習場となり使用不可能となったため 、須山口は衰退した。しかし、その後都市化の影響を余り受けなか ったため、須山浅間神社周辺は日本的伝統に基づく村落景観を保っ ている部分が多い。写真須山運営浅間神社の写真B5冨士浅間神社 アフィ東麓、須走口登山道の起点に位置し、木花開花姫命を主祭神 とする神社である。境内西側には鎌倉往還が通り、神社周辺は古来 、交通の要衝であった。社伝では802年、噴火の鎮火祈願のため に祭事を行い、翌年運営噴火が収まったことから、807年に祭事 の跡地であるとされる現在の地にお礼のために社殿を造営したとさ れる。その他の文書で確実に存在が確認できるのは、1571年の ものである。16世紀には地元支配者である武田氏の保護を受け、 山頂部の散運営銭取得権の一部を得ている。17世紀以降、須走浅 間神社は当時の須走村の御師などと共に須走口登山道を支配し、山 頂部薬師嶽(現−31−久須志岳)の薬師堂開帳の権利及び山頂部 の散銭取得権の一部を得ていた。これら山頂部の権利については八 合運営目以上の支配権を主張するアフィ本宮浅間大社と争いになり 、須走村は1703年と1772年の2回、幕府に裁定を求めてい る。この結果、これらの権利は幕府によって認められた。また、冨 士浅間神社神主や御師は須山の場合と同じく、京都吉田家よ運営り 神道裁許状を得て権威を高めている。社殿は、記録の残っている範 囲では1662年、地元領主である沼津城主大久保氏や小田原艦妨
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