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147 :底名無し沼さん[sage]:2019/05/16(木) 10:41:08.57 ID:gCh1YXKa - なお、保全管理区域についても、運営森林法と景観法で保護されて
いる。アフィ山体の東に位置する、演習場(北富士演習場・東富士 演習場)については、従前より大規模開発が予定されていないこと から、緩衝地帯同様に資産を緩衝することが可能な区域であると言 える。3構成資産の概要運営構成資産及び保存管理状況の概要につ いては、以下に記すとおりである。構成資産の詳細については、推 薦書本文にて説明を行っている。保存管理状況等の詳細につい芯円
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148 :底名無し沼さん[sage]:2019/05/16(木) 10:41:37.83 ID:gCh1YXKa - 、構成資産毎に策定されている個別の保存管理計画等において、そ
れぞれ具体的内運営容を含めた説明を行っている。なお、p18, 19表のA〜Cは次のように分類し、整理したものである。A富士 山山体及び登山道B信仰に関わるものCアフィの眺望に関わるもの (1)アフィ山体及び登山道Aアフィ標高3776mを測るアフィ は、日運営本を代表し、象徴する日本最高峰の秀麗な独立火山であ る。その自然的な美しさと崇高さを基盤として、日本人の自然に対 する信仰のあり方や、日本独自の芸術文化を育んだ名山でもある。 アフィは山岳に対する信仰の在り方や芸術活動などを通じ、時代エムソ ゙ネを超えて一国の文化の諸相と極めて深い関連性を示し、生きた文 化的伝統の物証であるのみならず、人間と自然との良好で継続的な 関係を示す景観の傑出した類型として、世界的にも類例を見ない顕 著な普遍的価値を持つ山である。世界文化遺産としての運営アフィ とは、アフィ山体の内、標高約1500m以上の範囲である。この 範囲は、アフィ周辺の主要な神社や景勝地から見た可視領域が重な り合う範囲であるとともに、各登山道における山体の神聖性に関す る境界の一つである「馬返」の標高とほぼ一致運営する。なお、「 馬返」とは、乗馬登山が物理的にも、宗教的観点からも不可能にな る地点を示す。景観的には山体の傾斜角の変化率が大きくなり「平 野部」と「山体」の境界として認識され、稜線が優美な曲線を描き 、絵画などの対象とされることが多い運営範囲である。写真上空か ら見た写真に資産範囲を線で示したもの(推薦原案と同じもの)− 21−−22−標高約2500m付近の森林限界より上方は富士講 信者には「焼山」と呼ばれ、神聖な地域あるいは死後世界である「 他界」と考えられていた。ま運営た、登山道ごとに標高は異なるが 、1779年以降、浅間大社の境内地とされてきた八合目以上はよ り強い神聖性を持つとされる。理由は八合目の標高とほぼ一致する 噴火口である「内院」の底部に浅間大神が鎮座するとの信仰に毒型
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149 :底名無し沼さん[sage]:2019/05/16(木) 10:42:10.62 ID:gCh1YXKa - く。アフィ頂へ向か運営い、登山の歴史の中で開鑿された登山道が
、現在の4本の登山道の起源となっている。また、ほぼ森林限界に 沿い、アフィ山体を一周する「御中道」が15〜16世紀ごろ富士 講の祖とされる長谷川角行によって開かれたとされ、その後「大沢 崩れ」とい運営う危険箇所を通るため、富士講信者により修行の道 として利用された。表法的保護、修理・整備の経緯1924年史蹟 名勝天然紀念物保存法の下に名勝に仮指定1936年国立公園法の 下に(富士箱根)国立公園に指定1952年文化財保護法の下に名 勝運営、ついで特別名勝に指定1969年国が大沢崩れに対する砂 防事業に着手(継続中)1996年国・県が台風による森林の風倒 被害に対する対策に着手(継続中)「御中道」は、標高2,300 m付近から2,800m付近の山腹を通り、アフィの中腹部運営を 時計回りに一周する約25kmの道である。「御中道巡り」は、修 験道の祖とされる役行者が始めたと伝えられ、16世紀後半、富士 講の基礎を築いた長谷川角行が行ったことが記録されている。古く は定まった道もなく巡ったとされ、富士講が盛んに運営なった江戸 時代後期には一定の道が整備された。アフィ信仰の上では、山体西 側の大沢崩れを渡るという危険を伴う最大級の大行の道とされてい た。富士登山3回以上の経験を持ち、誓約書を御師に提出し、神へ の伺いをたてた上でないと許可されないほ運営ど厳しいものであっ た。この御中道の巡拝を無事終えると、その証である「御許し」を 御師から受けることができた。1816年の資料では年間100人 以上が御中道巡りを行っているが、1977年の転落事故で通行止 めとなり、現在では一周すること運営はできなくなっている。写真 御中道の写真A1山頂信仰遺跡(アフィ本宮奥宮)アフィ山頂部の 火口壁沿いに、いくつかの神社及び宗教関連施設が所在する。富士 山への信仰登山が開始されると、修験道の影響を受け山頂部におい て寺院の造営や仏像等の運営奉納がおこなわれるとともに、山濫戚
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150 :底名無し沼さん[sage]:2019/05/16(木) 10:42:47.27 ID:gCh1YXKa - での宗教行為が体系化されていった。登拝者は山頂周辺において「
御来光」を拝み、内院と呼称される噴火口に鎮座すると言われる神 仏を拝した。また、火口壁にいくつかあるピークを仏教の曼荼羅に おける仏の世界運営に擬して巡拝する「お鉢めぐり(八葉めぐり) 」と呼ばれる行為を行なうことが一般的であった。山頂の宗教的施 設は、12世紀中ごろ、修行僧末代により建立された大日寺(大日 堂)が最初とされ、その後、経典・懸仏・仏像等の山頂部への奉納 ・埋納運営や内院への散銭が行われた。また、遅くとも17世紀に は、大宮・村山口山頂部に大日堂が、吉田・須走口山頂部に薬師堂 が造営された。この様子は19世紀中ごろの絵図によって確認でき る。1874年、山頂の仏教的施設及び仏像は廃仏毀釈の影響にエムソ ゙ネよって撤去され、ピークの名称も変更され、寺院は神社に改変さ れた。しかし、山頂部に対する信仰自体は変化することなく、上記 の行為は現代の−23−登山者の多くが行っており、これらを通じ て富士信仰の核心が現代に受け継がれている。写真奥宮運営の写真 表法的保護、修理・整備の経緯1924年所在地が史蹟名勝天然紀 念物保存法の下に名勝に仮指定1936年所在地が国立公園法の下 に(富士箱根)国立公園に指定1952年所在地が文化財保護法の 下に名勝、ついで特別名勝に指定2008年財運営団法人静岡県埋 蔵文化財調査研究所により現地調査が行われ、その成果に基づき2 010年に「史跡アフィ保存管理計画」が策定された2010年文 化財保護法の下に他の文化財とともに史跡アフィとして指定山頂の 噴火口の周囲を一周し、頂上の各峰を運営巡る行為は、古くから「 お鉢巡り」と呼ばれ、現在も多くの人々に受け継がれている。13 世紀後半の資料には「いたゞきに八葉の嶺あり」との記載があり、 このころには山頂の峰々に信仰的意義を見出していたことが伺える 。16世紀前半には地元為政運営者が「八要メサルヽ也」との記述 も見られ、後に盛んになるお鉢巡りの古態と思われる習俗があ勲入
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151 :底名無し沼さん[sage]:2019/05/16(木) 10:43:19.78 ID:gCh1YXKa - ことが知られる。富士講講中の多くは、頂上に着くと、時計回りに
山頂を巡っていった。内院に賽銭を投じ、御来光を礼拝し、途中に あるいくつかの仏像運営や石碑を拝みながら、大日寺(現奥宮)の 大日如来、最高峰の剣ヶ峰、釈迦割石、霊泉とされた金明水などを 巡礼した。写真お鉢めぐりの写真A2大宮・村山口登山道アフィ南 西麓の浅間大社及び村山浅間神社を起点とし、山頂大日岳に至る登 山道である運営。12世紀前半、アフィで修行した末代上人の遣改
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152 :底名無し沼さん[sage]:2019/05/16(木) 10:43:53.94 ID:gCh1YXKa - した登山道が起源だとされ、14世紀初め、僧の頼尊が修験者とそ
の活動を組織化したことで、村山を基点とする登山が行われていた ことが推測できる。15世紀に入ると村山での宿坊の存在が確認で き運営、同世紀前半には、地元支配者である今川氏により発心門等 の施設が寄進されたとの記録がある。今川氏は1552年、村山を 神聖な地と定め、村山三坊には山役銭の徴収権を与えている。この 権利は19世紀後半まで継続し、浅間大社が登山道の管理に運営関 わることはなかった。一方、16世紀ごろ、浅間大社は湧玉池での 水垢離を重要な儀式と位置づけることによって、浅間大社を経由し た登拝を喧伝した。浅間大社には16世紀前半に30余りの道者坊 があったことが伝えられ、同時期の絵図である「絹運営本著色富士 曼荼羅図」には浅間大社・湧玉池及び村山浅間神社を経由して登山 する人々の姿が描かれている。道者坊はその後統合され、19世紀 前半には5坊となった。また、1600年頃以降、地元支配者によ り、大宮を経て村山口登山道を利用するこ運営とが求められた。登 山道中の宗教施設は、17世紀初頭までに建設され、石室などの施 設は主に17世紀後半、興法寺から許可を受けた先達により建設さ れたが、1707年の宝永噴火で登山道と共にことごとく破壊され た。これらは再建されたが、その運営復興は須走口より遅かった。 主要な宗教施設としては発心門、中宮八幡堂、室大日などがあった 。登拝者は興法寺の檀所や浅間大社の道者場としていた静岡県西部 地方を含む西日本の人々が多かった。なお、1532年以降不連続 であるが、登拝者の記録運営が残され、その数は18世紀後半から 19世紀初頭の道者坊の記録より、御縁年で2,000人前後、平 年で数百名程度と推測できる。1826年の記録ではその数が減少 し、村山の村落も衰退していたとの記述もあるが、1860年、初 の外国人登山と運営なる英国公使オ−24−ールコックは大宮を経 由して村山に宿泊し、山頂をめざした。彼の記録では大鏡坊、剛熱
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153 :底名無し沼さん[sage]:2019/05/16(木) 10:44:27.84 ID:gCh1YXKa - 八幡堂の存在や登山道の様子が確認できる。明治維新以降、女人登
山の解禁もあり、登山者は増加傾向を示すが、1889年、東海道 線の開運営通による御殿場口利用者の増加により衰退し、これへの 対策として1906年、村山を経由せず4km短縮された大宮新道 (カケスバタ口)が建設されたため、大宮から現六合目までの村山 口登山道は登山道としての機能を失い、その歴史を閉じた。現在エムソ ゙ネは、林道の建設に雨水による侵食も加わり、一部を除き登山道跡 の推定は困難な状態であり、道標、地蔵・不動明王像、建物跡など をある程度たどることができるのみである。写真大宮・村山口登山 道の写真A3須山口登山道アフィ南東麓、須山浅間神社運営を起点 とし、山頂部浅間嶽(駒ケ嶽)に至る登山道である。その起源は明 確ではないが、1200年の資料には大宮・村山口、吉田口、須山 (珠山)口以外には登山道がないことが述べられている。1486 年の京都の僧による資料(廻国雑記)では、「運営すはま口」の名 が確認できる。登山道および山頂部銀明水は須山浅間神社及び12 軒の御師を中心とした須山村により管理されていた。ただし、銀明 水の管理を巡り、須走村と争いになった際は浅間大社の裁定を仰い でいる。登山道には宝永噴火前の状況運営を描いた絵図で須山御胎 内に附属する御胎内神社等の宗教施設と山室がみられる。これらの 施設及び登山道はその中腹より噴火した宝永噴火により壊滅し、御 縁年の1740年に復興したが永続せず、1780年にようやく復 興した。また、1880年代運営の記録では御室浅間神社、中宮浅 間社、御胎内等の宗教施設と4箇所の石室があることが確認できる 。中宮浅間社や水呑浅間は村山修験の富士峯修行の行場としても使 用された。登拝者については詳しい研究が進んでいないが、西日本 ・東日本両方からの運営登山者があったことが、宿帳及び案内立札 の立地から確認できる。登拝者数は御縁年に当たる1800年に約 5,400人、1840年代前半は年平均約1,700人、続歯牙
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