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高尾山〜陣馬山 Part85

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高尾山〜陣馬山 Part85
129 :金高2[]:2019/04/06(土) 00:00:27.47 ID:YogthWuF
実際に私がきだの足跡を求めて、恩方村を訪ねたのは、つい最近2018年9月のことで
ある。はじめてきだを知った日から4年が経過していた。もちろん、その間には
『--周游紀行』も読んだし、折りに触れて思い出すたびに、きだの文章や昔懐かしい
岩波文庫のファーブル昆虫記まで一部読んでみた。中でも最晩年を記した嵐山光三郎
の評伝が参考になった。その結果、簡単に紹介されていたHPの略歴以上に、変わった
人物であり、奇人変人、わがままな一杯な老人だったことを知った。しかしどこか憎めない。
高尾山〜陣馬山 Part85
130 :金高3[]:2019/04/06(土) 00:02:32.60 ID:YogthWuF
きだ、本名山田吉彦は、鹿児島県奄美大島の出身ではあるが、ただの田舎者ではない。
父親は九州の医者だったか、地方行政官であり、親戚にも高名な人物が少なくない。
しかし、彼は少年時代に何か間違い(女性問題?)を起こして、親戚会議に掛けられた
末に、東京の叔父の許に放逐されるのである。開成中学に編入したらしいが、
裁判官だか大学教授だかを務める叔父の家は吝嗇で、きだは厄介者扱いされて家出を
繰り返す。北海道に旅した途上、死をも意識した中で、トラピスト修道院にいた
ジョゼフ・コット氏(のちのアテネ・フランセ創立者)と運命的な出会いを果たす。
コット氏も赴任した東大の教官たちとそりが合わず、家出同然の身の上だったのである。
のちに、きだは東京でこのコット氏の家に寄寓するようになり、フランス語の薫陶を
受けるとともに、彼を親代わりとしてここから慶応大学にも学生として通ったらしい。
もともと頭のよい男だし、本場の学者と同棲しているわけであるから、フランス語は
抜群にできたらしい。大学は中退ながら、アテネ・フランセや慶大の教壇にも立ち、
当時一流の仏文学者であった東大の林達夫と共に、ファーブル昆虫記全10巻を完訳
している。
高尾山〜陣馬山 Part85
131 :金高4[]:2019/04/06(土) 00:04:19.77 ID:YogthWuF
海外渡航することがまだむつかしかった戦前にフランスにも留学し、社会学を専攻したらしい。
太平洋戦争勃発近しの知らせを受けても帰国せず、悠々モロッコを旅したりなんぞ
した末、真珠湾攻撃の直前に帰国して、そのまま恩方に住み着いたらしい。
そして、そこからきだの暴走迷走が始まる。

(戦後については簡単に)
不思議なことに、これだけフランスを研究した男であるにも係らず、戦後のきだは
ほとんどフランスに関する著作や研究を止めてしまい、もっぱら日本の寒村や
僻地を訪ね、古い日本のしきたり、村の集団構造といった村落社会学的な著述を
専門にするようになる。自身の著書にもあるとおり、八王子恩方村の廃寺に住んで、
時折酒を持って先生、先生と訪ねて来る村人たちと何食わぬ顔で会話をかわし、
その一方で意地悪く村人たちの様子を観察していて、著書の中では恩方村民の
教養程度がおそろしく低いのを笑ったり、からかったりしたわけである。他方では、
きだは村の意思決定が全会一致を原則としているのに注目し、日本の村では多数決と
いった強制は努めて避け、不同意な者にもとことん説得を重ねる点に、戦後日本の
民主主義の原点と可能性を見出している。
高尾山〜陣馬山 Part85
132 :金高5[]:2019/04/06(土) 00:05:42.01 ID:YogthWuF
さらに、生活面について言うと、その部屋がゴミ溜めのように汚かったことからも
分かるように随分だらしない人物だったらしい。それは女性関係も同じで、戦前は
アテネ・フランセの教え子たちと数度結婚を繰り返し、戦後も関係をもつ女性は
絶えなかったらしい。身なりにも気を使わず、長身ながら腰にはベルトの代わりに
荒縄を巻いているといった風体であるにもかかわらず。戦後連れ回していた女児も
婚外子であり、どこかの人妻に生ませた子であったという。きだみるのは、
今日では全く忘れさられた名前であるが、戦後の一時期は、中央の論壇誌にも
度々登場する売れっ子であったらしい。編集者であった嵐山が行方不明同然だった
きだ老人を訪ね、全国の村を訪問する企画を立てたのもこの頃である。ちょうど、
きだが映画のせいもあって長年住んだ恩方村を追い出されて、同じ八王子市内に
ある新制作座という革新系劇団の寮に転がり込んでいた頃(昭和47年)である。

次回には、去年私が北高尾登山のあとに、この恩方村と新制作座を訪ねたときの
印象を記してみたい。


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