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111 :底名無し沼さん (ワッチョイ de0d-91/d)[sage]:2019/03/13(水) 19:57:24.90 ID:iwoWHLVe0 - での宗教行為が体系化されていった。登拝者は山頂周辺において「
御来光」を拝み、内院と呼称される噴火口に鎮座すると言われる神 仏を拝した。また、火口壁にいくつかあるピークを仏教の曼荼羅に おける仏の世界運営に擬して巡拝する「お鉢めぐり(八葉めぐり) 」と呼ばれる行為を行なうことが一般的であった。山頂の宗教的施 設は、12世紀中ごろ、修行僧末代により建立された大日寺(大日 堂)が最初とされ、その後、経典・懸仏・仏像等の山頂部への奉納 ・埋納運営や内院への散銭が行われた。また、遅くとも17世紀に は、大宮・村山口山頂部に大日堂が、吉田・須走口山頂部に薬師堂 が造営された。この様子は19世紀中ごろの絵図によって確認でき る。1874年、山頂の仏教的施設及び仏像は廃仏毀釈の影響にエムソ ゙ネよって撤去され、ピークの名称も変更され、寺院は神社に改変さ れた。しかし、山頂部に対する信仰自体は変化することなく、上記 の行為は現代の−23−登山者の多くが行っており、これらを通じ て富士信仰の核心が現代に受け継がれている。写真奥宮運営の写真 表法的保護、修理・整備の経緯1924年所在地が史蹟名勝天然紀 念物保存法の下に名勝に仮指定1936年所在地が国立公園法の下 に(富士箱根)国立公園に指定1952年所在地が文化財保護法の 下に名勝、ついで特別名勝に指定2008年財運営団法人静岡県埋 蔵文化財調査研究所により現地調査が行われ、その成果に基づき2 010年に「史跡アフィ保存管理計画」が策定された2010年文 化財保護法の下に他の文化財とともに史跡アフィとして指定山頂の 噴火口の周囲を一周し、頂上の各峰を運営巡る行為は、古くから「 お鉢巡り」と呼ばれ、現在も多くの人々に受け継がれている。13 世紀後半の資料には「いたゞきに八葉の嶺あり」との記載があり、 このころには山頂の峰々に信仰的意義を見出していたことが伺える 。16世紀前半には地元為政運営者が「八要メサルヽ也」との記述 も見られ、後に盛んになるお鉢巡りの古態と思われる習俗があ憧翌
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112 :底名無し沼さん (ワッチョイ de0d-91/d)[sage]:2019/03/13(水) 20:05:23.93 ID:iwoWHLVe0 - ことが知られる。富士講講中の多くは、頂上に着くと、時計回りに
山頂を巡っていった。内院に賽銭を投じ、御来光を礼拝し、途中に あるいくつかの仏像運営や石碑を拝みながら、大日寺(現奥宮)の 大日如来、最高峰の剣ヶ峰、釈迦割石、霊泉とされた金明水などを 巡礼した。写真お鉢めぐりの写真A2大宮・村山口登山道アフィ南 西麓の浅間大社及び村山浅間神社を起点とし、山頂大日岳に至る登 山道である運営。12世紀前半、アフィで修行した末代上人の銘婆
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113 :底名無し沼さん (ワッチョイ de0d-91/d)[sage]:2019/03/13(水) 20:13:22.82 ID:iwoWHLVe0 - した登山道が起源だとされ、14世紀初め、僧の頼尊が修験者とそ
の活動を組織化したことで、村山を基点とする登山が行われていた ことが推測できる。15世紀に入ると村山での宿坊の存在が確認で き運営、同世紀前半には、地元支配者である今川氏により発心門等 の施設が寄進されたとの記録がある。今川氏は1552年、村山を 神聖な地と定め、村山三坊には山役銭の徴収権を与えている。この 権利は19世紀後半まで継続し、浅間大社が登山道の管理に運営関 わることはなかった。一方、16世紀ごろ、浅間大社は湧玉池での 水垢離を重要な儀式と位置づけることによって、浅間大社を経由し た登拝を喧伝した。浅間大社には16世紀前半に30余りの道者坊 があったことが伝えられ、同時期の絵図である「絹運営本著色富士 曼荼羅図」には浅間大社・湧玉池及び村山浅間神社を経由して登山 する人々の姿が描かれている。道者坊はその後統合され、19世紀 前半には5坊となった。また、1600年頃以降、地元支配者によ り、大宮を経て村山口登山道を利用するこ運営とが求められた。登 山道中の宗教施設は、17世紀初頭までに建設され、石室などの施 設は主に17世紀後半、興法寺から許可を受けた先達により建設さ れたが、1707年の宝永噴火で登山道と共にことごとく破壊され た。これらは再建されたが、その運営復興は須走口より遅かった。 主要な宗教施設としては発心門、中宮八幡堂、室大日などがあった 。登拝者は興法寺の檀所や浅間大社の道者場としていた静岡県西部 地方を含む西日本の人々が多かった。なお、1532年以降不連続 であるが、登拝者の記録運営が残され、その数は18世紀後半から 19世紀初頭の道者坊の記録より、御縁年で2,000人前後、平 年で数百名程度と推測できる。1826年の記録ではその数が減少 し、村山の村落も衰退していたとの記述もあるが、1860年、初 の外国人登山と運営なる英国公使オ−24−ールコックは大宮を経 由して村山に宿泊し、山頂をめざした。彼の記録では大鏡坊、遊閣
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114 :底名無し沼さん (ワッチョイ de0d-91/d)[sage]:2019/03/13(水) 20:21:22.59 ID:iwoWHLVe0 - 八幡堂の存在や登山道の様子が確認できる。明治維新以降、女人登
山の解禁もあり、登山者は増加傾向を示すが、1889年、東海道 線の開運営通による御殿場口利用者の増加により衰退し、これへの 対策として1906年、村山を経由せず4km短縮された大宮新道 (カケスバタ口)が建設されたため、大宮から現六合目までの村山 口登山道は登山道としての機能を失い、その歴史を閉じた。現在エムソ ゙ネは、林道の建設に雨水による侵食も加わり、一部を除き登山道跡 の推定は困難な状態であり、道標、地蔵・不動明王像、建物跡など をある程度たどることができるのみである。写真大宮・村山口登山 道の写真A3須山口登山道アフィ南東麓、須山浅間神社運営を起点 とし、山頂部浅間嶽(駒ケ嶽)に至る登山道である。その起源は明 確ではないが、1200年の資料には大宮・村山口、吉田口、須山 (珠山)口以外には登山道がないことが述べられている。1486 年の京都の僧による資料(廻国雑記)では、「運営すはま口」の名 が確認できる。登山道および山頂部銀明水は須山浅間神社及び12 軒の御師を中心とした須山村により管理されていた。ただし、銀明 水の管理を巡り、須走村と争いになった際は浅間大社の裁定を仰い でいる。登山道には宝永噴火前の状況運営を描いた絵図で須山御胎 内に附属する御胎内神社等の宗教施設と山室がみられる。これらの 施設及び登山道はその中腹より噴火した宝永噴火により壊滅し、御 縁年の1740年に復興したが永続せず、1780年にようやく復 興した。また、1880年代運営の記録では御室浅間神社、中宮浅 間社、御胎内等の宗教施設と4箇所の石室があることが確認できる 。中宮浅間社や水呑浅間は村山修験の富士峯修行の行場としても使 用された。登拝者については詳しい研究が進んでいないが、西日本 ・東日本両方からの運営登山者があったことが、宿帳及び案内立札 の立地から確認できる。登拝者数は御縁年に当たる1800年に約 5,400人、1840年代前半は年平均約1,700人、続博倉
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115 :底名無し沼さん (ワッチョイ de0d-91/d)[sage]:2019/03/13(水) 20:29:20.71 ID:iwoWHLVe0 - 860年の御縁年には約3,600人であった。登拝者は神仏分離
令後も継続運営していたが、1883年、須山口二合八勺に接続す る御殿場口登山道が開鑿された。また、1889年に東海道本線が 開通し、御殿場口の利便性の向上により須山口からの登拝者や登山 者が減少することとなった。1912年には、登山道の一部が陸軍 演運営習場となり使用不可能となったため、須山口からの登拝(登 山)は衰退し現在に至っている。二合八勺以下の登山道で当時の道 が確認できる部分は一部のみである。また、1999年、地元住民 により須山口下山歩道の名でかつての登山道の一部が復興さ運営れ た。写真須山口登山道の写真A4須走口登山道アフィ東麓の冨士浅 間神社を起点とし、八合目で吉田口登山道と合流して山頂久須志岳 に至る登山道である。その起源は明確ではないが、六合目からは1 384年の銘のある掛仏が出土している。文献から運営は「勝山記 」の1500年6月の項に、関東地方での戦乱を避け、吉田口を利 用すべき登拝者が須走口に集中したことが確認できる。遅くとも1 7世紀までに、冨士浅間神社及び須走村が登山道山頂部までを支配 し、薬師嶽(現久須志岳)における石室建運営設の独占、薬師堂の 開帳・入仏などを行った。また、内院および薬師堂の散銭取得権も 浅間大社に次ぐ権利を有していた。冨士浅間神社及び須走村は、1 703年と1772年の2回幕府に訴え、これらの権利について八 合目以上の支配権を主張する浅間運営大社と争い、正式に権利を認 められた。−25−登山道の施設は1683年の資料等で詳細が確 認でき、大日堂、御室浅間神社、古御岳神社等の宗教施設と共に、 小屋・石室が山頂部まで設置されている。1707年の宝永噴火で は、これらの施設及び麓運営の浅間神社、須走村は約3mの降砂に 覆われ壊滅したが、江戸幕府の支援を受け、翌年の登拝期までには 復興を完了し、多くの登拝者を集めた。18世紀半ばには800名 前後に減少したとの資料があるが、18世紀後半、相模の大山輪敢
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116 :底名無し沼さん (ワッチョイ de0d-91/d)[sage]:2019/03/13(水) 20:37:23.32 ID:iwoWHLVe0 - や関本の道了尊運営とセットにされた参詣の流行で登拝者数は増加
し、年平均約1万人、1800年の御縁年に23,700人とピー クを迎えた。登拝者は関東地方の富士講関係者が多く、東北地方か らの登拝者も見られる。講によっては吉田口から登山し、砂道で下 山に適運営した須走口へ下山する形をとった。また、1831年、 須走口山頂部に宝経塔が作られたことにより、日蓮宗の信徒による 登拝も増加した。1889年の東海道線開通による御殿場口、野友
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117 :底名無し沼さん (ワッチョイ de0d-91/d)[sage]:2019/03/13(水) 20:45:22.65 ID:iwoWHLVe0 - び1903年の中央線開通による吉田口の利便性の向上で、距離エムソ
゙ネが長い須走口は敬遠されるが、御殿場口の下山道として利用され 続けた。1909年より登山道の周囲に石垣を築き、1916年に は、八合目まで馬による登山が可能になった。八合目以上は浅間大 社境内地という理由で馬の利用は行われなかった。また運営、19 23年に皇太子(昭和天皇)の登山に利用されている。1959年 、バス道路(現ふじあざみライン)の完成により、五合目以下の登 山道の利用は減少し、一部登山道としての確認ができない区間があ る。写真須走口登山道の写真A5吉田口登山道運営北口本宮冨士浅 間神社を起点とし、アフィ頂を目指す道である。15世紀には、富 士山への登拝が、修験者だけでなく、ごく一般の人々の間にも広ま っていた。吉田口は14世紀後半には参詣の道者のための宿坊もで き始め、大勢の人々が登るための設備運営が整うようになった。1 6世紀から17世紀、長谷川角行が吉田口を利用して修行を行い、 18世紀前半には富士講隆盛の礎を築いた食行身禄は、入定(宗教 的自殺)にあたって信者の登山本道をこの吉田口と定めた。このた め、富士講の信者が次第に増運営加した18世紀後半以降は、年間 数万人を数える富士講の道者が登拝したとされる。1964年に富 士山有料道路が開通した後は、ほとんどの登山者が新五合目(小御 岳)を起点として登るようになったため、五合目以下の道を利用す る登山者は激減した運営が、六合目以上については、現在残る登山 道の中で最も多くの道者(外の登山口の合計と同程度)が吉田口登 山道を上って山頂を目指している。しかも、古道としては唯一徒歩 で麓から頂上まで登れる重要な道である。写真吉田口登山道の写真 表法的保護運営、修理・整備の経緯1924年所在地が史蹟名勝天 然紀念物保存法の下に名勝に仮指定1936年所在地が国立公園法 の下に(富士箱根)国立公園に指定1952年所在地が文化財保護 法の下に名勝、ついで特別名勝に指定1978年「特別名勝ア投接
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118 :底名無し沼さん (ワッチョイ de0d-91/d)[sage]:2019/03/13(水) 20:53:22.15 ID:iwoWHLVe0 - 保運営存管理計画」策定(1999年、2006年改訂)1996
年歴史の道整備活用事業により馬返〜1合目区間を発掘調査・整備 1999年「特別名勝アフィ保存管理計画」を改訂2006年「特 別名勝アフィ保存管理計画」を改訂2011年文化財保護法運営の 下に他の文化財とともに登山道の一部を史跡アフィとして指定−2 6−2011年「史跡アフィ保存管理計画」を策定(予定)A6北 口本宮冨士浅間神社アフィ北麓、吉田口登山道の起点に位置し、祭 神として木花開花姫命、天津彦彦火瓊瓊杵命、大山運営祇命を祀る 神社である。アフィの遙拝所に祀られていた浅間明神(アフィの荒 ぶる神)を起源とし、1480年には「アフィ」の鳥居が建立され 、16世紀半ばには浅間神社の社殿が整っていたとされる。当神社 は領主からの崇敬が厚く、境内に現存する運営3つの社殿は、15 61年、1594年、1615年にそれぞれ当時の領主が寄進した ものである。富士講とのつながりが強く、1730年には富士講の 指導者である村上光清の寄進によって境内の建造物群の修復工事が 行われ、現在にみる境内の景観の運営礎が形成された。北口本宮冨 士浅間神社の支配権は外川家、小佐野家などの吉田の御師に所属し ており、神社の管理も御師団の中から選ばれた者に委ねられていた 。社殿の背後に登山門があり、この神社を起点としてアフィ頂まで 吉田口登山道が伸びてい運営る。富士講や吉田御師と密接な関係を 持ちながら発展した神社である。写真北口本宮冨士浅間神社の写真 (本殿、西宮本殿、東宮本殿)表法的保護、修理・整備の経緯19 07年古社寺保存法の下に東宮本殿が特別保護建造物の指定195 2年所在地が文運営化財保護法の下に名勝、ついで特別名勝に指定 1952年東宮本殿・解体修理工事を行う1953年文化財保護法 の下に本殿、西宮本殿が重要文化財の指定1962年西宮本殿・解 体修理工事を行う(〜64年)1978年「特別名勝アフィ保存管 理計画運営」を策定1973年本殿・部分解体修理工事を行う古殊
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119 :底名無し沼さん (ワッチョイ de0d-91/d)[sage]:2019/03/13(水) 21:01:21.72 ID:iwoWHLVe0 - 74年)1981年東宮本殿・部分修理工事を行う(〜82年)1
997年東宮本殿・部分修理工事を行う2008年本殿・屋根の葺 替え修理工事を行う(〜09年)2010年「重要文化財北口本エムソ ゙ネ宮冨士浅間神社保存活用計画」を策定2011年文化財保護法の 下に他の文化財とともに史跡アフィとして指定(予定)2011年 「史跡アフィ保存管理計画」を策定(予定)A7西湖アフィの火山 活動により形成された堰止湖で、アフィの北北西に位置運営する。 アフィ周辺の湖を巡って修行する内八海巡りが行われたが、この西 湖にも多くの富士講徒が訪れた。西湖と精進湖はかつて「〜の海( せのうみ)」と呼ばれる一つの湖だったが、日本最古の歌集・万葉 集で〜の海が詠われたほか、いくつかの文学作運営品ともゆかりが ある。写真西湖の写真A8精進湖アフィの火山活動により形成され た堰止湖で、アフィの北西に位置する。アフィ周辺の湖を巡って修 −27−行する内八海巡りが行われたが、この精進湖にも多くの富 士講徒が訪れた。アフィ北麓で最初の運営洋風ホテルはこの精進湖 畔に建てられ、多くの西洋人が訪れた。20世紀初頭には、絵葉書 に使われたアフィの写真はこの精進湖からのものがほとんどだった 。写真精進湖の写真A9本栖湖アフィの火山活動により形成された 堰止湖で、アフィの北西に位運営置する。アフィ周辺の湖を巡って 修行する内八海巡りが行われたが、この精進湖にも多くの富士講徒 が訪れた。本栖湖は、日本の紙幣の図柄として何度も使用された写 真の撮影地点であり、重要な展望地点(viewpoint)であ る。アフィは、プロ運営・アマを問わず多くの写真家に愛され、撮 影されてきた。なかでも、生涯にわたりアフィを追い続けた岡田紅 陽によって、1935年に本栖湖北西岸の峠道から撮影された「湖 畔の春」という写真は有名である。この写真は、1984年に採用 された5千運営円札及び2004年に採用された千円札の図柄とし て使用された。山体の裾野が湖まで広がり一体の景観を構成し噴冗
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120 :底名無し沼さん (ワッチョイ de0d-91/d)[sage]:2019/03/13(水) 21:09:20.38 ID:iwoWHLVe0 - る本栖湖からの展望は、「湖畔の春」に撮影されたアフィとほぼ同
じ姿のまま現在も残している。写真本栖湖の写真表法的保護、修理 ・運営整備の経緯(A7・A8・A9)1936年所在地が国立公 園法の下に(富士箱根)国立公園に指定1988年「山梨県富士五 湖の静穏の保全に関する条例」を制定2006年自然公園法の下に 本栖湖の湖面全域での動力船の使用が規制される2011年運営文 化財保護法の下に名勝に指定(予定)2011年「名勝富士五疾知
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121 :底名無し沼さん (ワッチョイ de0d-91/d)[sage]:2019/03/13(水) 21:17:24.78 ID:iwoWHLVe0 - 存管理計画」を策定(予定)(2)信仰B1アフィ本宮浅間大社富
士山の南西麓に位置する神社であり、この神社とともに発展してき た富士宮市の中央部に所在する。アフィの神とされ運営る木花之佐 久夜毘売命を主祭神とし、現在全国に約1300社ある浅間神社の 総本宮とされている。境内には登拝の際に水垢離場として使用され た湧玉池がある。浅間大社は7世紀ごろ、アフィにより近い遥拝所 であった山宮浅間神社から現在の地に移転運営されたとされる。創 建当時はアフィの噴火が盛んであり、これを畏れ鎮めることを信仰 の目的としていた。朝廷も浅間大神に他の山よりも高い神階を与え ることで崇敬の念を示した。12世紀後半ごろには、浅間大神は本 地垂迹説の影響を受け大日如来の運営垂迹である「浅間大菩薩」と 見なされるようになり、12世紀頃より政治の実権を掌握した武士 階級に戦勝の神として信仰された。15世紀ごろ、登拝が盛んにな るにつれて、浅間大社は村山浅間神社とともに大宮・村山口登山道 の起点となり、宿坊が周運営辺に建設された。16世紀ごろ、浅間 大社は湧玉池での水垢離を重要な儀式と位置づけることによって、 浅間大社を経由した登拝を喧伝した。同時期の絵図である絹本著色 富士曼荼羅図には、浅間大社・湧玉池及び村山浅間神社を経由して 登山する人々の運営姿が描かれている。登拝の拡大に伴い、アフィ 中での諸権利が構築されていく中で、浅間大社は徳川家康の庇護の 下、1604年現在の社殿が造営されるとともに、1609年山頂 部の散銭取得における優先権を得た。これを基に浅間大社は山頂部 の管理運営・支配を行うようになった。ただし、大宮・村山口登山 道と頂上部の大日堂周辺は−28−村山浅間神社が支配し、廃仏毀 釈以降、村山浅間神社の衰退と1906年の村山浅間神社を経由し ない登山道の開削などにより、浅間大社には多くの参拝者が訪れエムソ ゙ネた。また、明治政府の政策により、一時国有地とされていた八合 目以上の土地は1974年の最高裁判決に基づき、2004年品速
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122 :底名無し沼さん (ワッチョイ de0d-91/d)[sage]:2019/03/13(水) 21:25:19.56 ID:iwoWHLVe0 - 大社に譲渡(返還)された。写真本殿・拝殿+アフィ表法的保護、
修理・整備の経緯1907年本殿が古社寺保存法の下に運営特別保 護建造物に指定1925年本殿・拝殿・楼門等の補修1929年本 殿は国宝保存法制定に伴い国宝に名称変更1934年楼門の修理1 936年袖廊・廻廊を附した1950年本殿は文化財保護法制定に 伴い重要文化財に名称変更1952年本殿の屋運営根の修理等が行 われた1970年本殿の屋根の修理等が行われた1988年本殿の 屋根の修理等が行われた1996年富士宮市教育委員会が調査を行 った2002年富士宮市教育委員会が調査を行った2005年本殿 の屋根の修理等が行われた2008年運営財団法人静岡県埋蔵文化 財調査研究所により境内の発掘調査が行われ、その成果に基づき2 010年に「史跡アフィ保存管理計画」を策定2010年文化財保 護法の下に他の文化財とともに史跡アフィとして指定湧玉池は富士 山本宮浅間神社境内に所在す運営る面積約2,500uの池である 。池は約1万年前に噴出した万野溶岩流の末端から湧き出す一日平 均14万〜(2008年)の水を源としている。湧水のメカニズム は、アフィの標高1000m前後ないしそれ以上の高所の降水が地 下にしみ込み、何層運営もある溶岩層の間にはさまれて充満し、そ れが押し出されるようにして末端から湧出したものである。浅間大 社の位置は、アフィの噴火を湧水によって鎮める考えや、アフィを 聖なる水源の山として崇める考え方から、豊富な湧水量を持つ湧玉 池のほとり運営に置かれたとされる。この湧水には灌漑用水として の役割もあり、浅間大社境内の神田の宮では水徳の神・農業神とし ての浅間大神に感謝する祭礼が行われている。池の名前の由来には 、地底から玉が湧き出るように湧水しているためという説や湧く霊 た運営ま(神霊)との説等があり、わく玉の名は10世紀後半の地 元支配者による和歌に見られ、湧玉池の名称は1670年作成の「 社頭古絵図」に見られる。湧玉池は浅間大社に参拝し、アフィ営故
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123 :底名無し沼さん (ワッチョイ de0d-91/d)[sage]:2019/03/13(水) 21:33:18.00 ID:iwoWHLVe0 - ざす登拝者が身を清める場として使用された。その様子は「運営絹
本著色富士曼荼羅図」や「富士浅間曼荼羅図」、17世紀初頭の登 山記で確認できる。この絵図では現在の形状に近い湧玉池が描かれ 、水垢離する人々やそのための施設が見られる。登拝者の水垢離は 1920〜30年代まで行われ、現在では山開きの運営恒例行事に 形を変えて継承されている。また、湧水は聖なる水として現在でも 利用する人が多い。湧玉池および周辺には様々な宗教に係わる施設 があるが、特に池の南端にある「神幸橋」は、御神幸道の基点であ り、現在でも1691年に作られた石碑が運営たもとに残されてい る。−29−写真沸玉池の写真B2山宮浅間神社浅間大社の北北東 約5kmに位置し、木花之佐久夜毘売命を主祭神とする神社である 。その起源は「富士本宮社記」によれば、山足の地に祀られていた 浅間大神を、神話上の英雄である運営日本武尊が大神の神威により 難を逃れた謝礼に山宮に祀ったこととされ、これが802年に再び 遷され浅間大社となったとする。具体的な創建年代は不詳だが、文 献上での初見は1551年である。神社は神事の際に使用する籠屋 以外の建物施設を持たず運営、拝殿・本殿等が位置すべき場所には 石列でいくつかに区分された遥拝所が設置されるのみという特異な 形態を示している。この形態は古代からのアフィ祭祀の形を止めて いると推定されており、遥拝所の主軸はアフィ方向を向いている。 発掘調査では1運営2〜15世紀にかけての神事に使用されたと推 定される破砕された土器が遥拝所北側から多数出土し、当神社での 宗教活動を裏付けている。また、遅くとも1577年までには浅間 大社との間で「山宮御神幸」といわれる儀式が開始された。これは 4月と運営11月に神の宿った鉾を持ち、浅間大社から山宮浅間神 社へ行き、神事を行った後、翌日未明に浅間大社へ戻る行事である 。行事の意味として、現時点では神が4月に旧跡に戻るという解釈 と、山にいる神が4月に田の神として里へ降りるという解釈があエ愁健
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124 :底名無し沼さん (ワッチョイ de0d-91/d)[sage]:2019/03/13(水) 21:41:18.52 ID:iwoWHLVe0 - ゙ネる。この行事は1874年まで行われていた。なお、「山宮御神
幸」に使用される経路を御神幸道と称し、浅間大社湧玉池横より発 し、約600m東へ向かった後、ほぼ直角に曲がり直線状に北上し て山宮浅間神社に至る。道の出発点及び途中には169運営1年に 置かれた距離を示す石碑が少なくとも四箇所残っている。写真山宮 浅間神社の写真B3村山浅間神社山宮浅間神社の南東約4km、富 士山南麓に張り出した標高約500mのバルコニー状地形に位秋翻
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125 :底名無し沼さん (ワッチョイ de0d-91/d)[sage]:2019/03/13(水) 21:49:16.80 ID:iwoWHLVe0 - 、木花開花姫命を主祭神とする神社である。神運営社と一体化した
範囲には、現在別の宗教法人となった大日堂・水垢離場・護摩壇な どが存在している。これらは1868年の神仏分離令までは一体の ものであり、アフィ興法寺(村山興法寺)と呼ばれていた。なお、 周辺には興法寺の維持・運営にあたっ運営ていた道者坊の村山三坊 (池西坊・大鏡坊・辻之坊の三箇所)の跡が発掘調査によって確認 されている。その起源は、1149年の記録に見える修行僧末代上 人によるアフィ頂への大日寺の建立にあるとされる。末代上人が富 士山中又は村山の地に興法寺運営を建立したとの記録も残されてい る。これらの記録等から、12世紀中ごろに村山周辺において修験 道または密教系の宗教活動が行われていたと推測できる。1259 年には、現存する大日如来が寄進されたことを仏像の銘で確認でき る。末代以後、その運営流れを汲みアフィで修行する人々が現れ、 村山がアフィ修験道(富士行)の拠点となったと考えられる。14 世紀初めには僧の頼尊が修験者とその活動を組織化し、興法寺を再 興したとされる。15世紀に入ると興法寺とそれを支える宿坊の存 在が現存す運営る大日如来の銘(1478)で確認できる。148 2年には修験道本山派の本寺である聖護院と関係を持ち、その権威 を高めた。16世紀中には十数軒あった道者坊が村山三坊に統合さ れ、その活動を資料で確認できる。坊に所属する山伏は夏に「富士 峯運営修行」を山中及び山頂で行った。また、アフィへの一般の登 拝者も増加し、夜間に白装束をまとい、仏がいるとされた山頂を目 指す多くの人々の様子が「絹本著色富士曼荼羅図」に描かれている 。村山の山伏は、富士峰修行の際に東麓、南麓の村を年一回運営巡 回し加持祈祷等を行った。また18世紀、富士講の隆盛に対抗し西 日本の一般登拝者中の有力者に対して「先達」の免許を発行し組織 化を図ると−30−ともに、登拝が困難な人々に対しては川辺で垢 離を取り、祈ることで登拝と同等の利益があるとす運営る「富基協
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126 :底名無し沼さん (ワッチョイ de0d-91/d)[sage]:2019/03/13(水) 21:57:18.86 ID:iwoWHLVe0 - 離」の手法を広めている。加えてアフィを航海の目印とする伊豆半
島の漁業者に対しては航海安全と大漁の祈願を行った。興法寺の勢 力は地元支配者である今川氏の支援を受けていた16世紀前半が最 も強かったが、それ以降衰退しつつも聖護運営院の力を背景に一定 の権威をもち、登山道及びその頂上部の大日堂周辺を支配した。社 殿については、1697年徳川幕府により修復され、現在の大日堂 は建築様式や部材の状況から19世紀半ばに建立されたと推定され る。また、浅間神社は1913年運営改築されたものを基本として いる。1868年、神仏分離令により浅間神社と興法寺(大日堂) は分離され、山伏は還俗し、1906年の登山道の変化にも伴い両 者とも衰微した。ただし、富士峰修行と加持祈祷は1940年代ま で継続された。現在は1運営970年代より活発になった地域住民 による伝統復活のための活動が見られ、水垢離等の行事が行われて いる。また、村山浅間神社の影響を受けた地域のうち、滋賀県甲賀 市、三重県南伊勢町等では現在でも富士垢離の行事が継続されてい る。写真村山浅運営間神社の写真B−4須山浅間神社アフィの南東 麓、須山口登山道の入り口に位置し、木花開花姫命を主祭神とする 神社である。その起源は1598年作の社伝旧記によると110年 、日本武尊が蝦夷征伐の際、この地を訪れ浅間神社を創起し、さら に55運営2年有力豪族の蘇我稲目が再興したとある。記録上神社 の存在が確認できるのは1524年で修築時の棟札による。また、 市天然記念物である境内の杉は、樹齢500年以上と推定されてお り、遅くともこの時期までに須山浅間神社が現在の地に存在したエムソ ゙ネと推測できる。現在の社殿は1823年の再建である。1707 年の宝永噴火により登山道も含め大きな被害を受けたが、1780 年に登山道が再興され、1800年の御縁年には約5,400人の 登拝者があった。須山浅間神社は12軒の御師とともに運営当時の 須山村の中心的存在であり、村全体で須山口登山道と山頂部銀員抑
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127 :底名無し沼さん (ワッチョイ de0d-91/d)[sage]:2019/03/13(水) 22:05:18.93 ID:iwoWHLVe0 - を管理した。また、京都吉田家より神道裁許状を得たり、朝廷・公
家に銀明水を献上したりする等して権威を高めているが、山頂部で 発生した問題については、浅間大社の判断を仰運営いでいる。須山 浅間神社は村山三坊とも関わりを持ち、1940年頃まで境内で富 士峯修行の一環としての祈祷が行われていた。1883年、御殿場 口登山道が開設され、1899年の東海道本線開通による御殿場口 利便性の向上は須山口からの登拝者や運営登山者を奪い、加えて1 912年登山道の一部が陸軍演習場となり使用不可能となったため 、須山口は衰退した。しかし、その後都市化の影響を余り受けなか ったため、須山浅間神社周辺は日本的伝統に基づく村落景観を保っ ている部分が多い。写真須山運営浅間神社の写真B5冨士浅間神社 アフィ東麓、須走口登山道の起点に位置し、木花開花姫命を主祭神 とする神社である。境内西側には鎌倉往還が通り、神社周辺は古来 、交通の要衝であった。社伝では802年、噴火の鎮火祈願のため に祭事を行い、翌年運営噴火が収まったことから、807年に祭事 の跡地であるとされる現在の地にお礼のために社殿を造営したとさ れる。その他の文書で確実に存在が確認できるのは、1571年の ものである。16世紀には地元支配者である武田氏の保護を受け、 山頂部の散運営銭取得権の一部を得ている。17世紀以降、須走浅 間神社は当時の須走村の御師などと共に須走口登山道を支配し、山 頂部薬師嶽(現−31−久須志岳)の薬師堂開帳の権利及び山頂部 の散銭取得権の一部を得ていた。これら山頂部の権利については八 合運営目以上の支配権を主張するアフィ本宮浅間大社と争いになり 、須走村は1703年と1772年の2回、幕府に裁定を求めてい る。この結果、これらの権利は幕府によって認められた。また、冨 士浅間神社神主や御師は須山の場合と同じく、京都吉田家よ運営り 神道裁許状を得て権威を高めている。社殿は、記録の残っている範 囲では1662年、地元領主である沼津城主大久保氏や小田原混致
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128 :底名無し沼さん (ワッチョイ de0d-91/d)[sage]:2019/03/13(水) 22:13:19.11 ID:iwoWHLVe0 - 稲葉氏などの援助によって修造が行われた。しかし1707年の宝
永噴火では3m以上の降砂に埋もれ崩壊したため、運営1718年 に再建された。この後もこの際の部材を使用し、2009年の修理 も含め何回かの修理がおこなわれている。境内には水路があり、水 垢離に利用された。18世紀末から19世紀初頭にかけて富士講が 隆盛を迎えると須走口にも関東からの登拝運営者が登山又は下山の 際立ち寄った。その数は1800年の御縁年の際に約27,3委島
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129 :底名無し沼さん (ワッチョイ de0d-91/d)[sage]:2019/03/13(水) 22:21:18.38 ID:iwoWHLVe0 - 名であった。同時期から20世紀前半まで富士講信者は境内に登山
回数等の記念碑を約80基造営した。また、神社には神社神官や御 師が発行した木版印刷による神影運営や神符の版木が保管されてい る。写真冨士浅間神社の写真B6河口浅間神社古くからアフィに関 わる祭祀は南麓の浅間神社(山宮浅間神社か〜)が執り行っていた が、864年〜866年に北麓で起こった噴火を契機に、北麓にも 浅間神社が建てられるこ運営ととなった。それが、アフィを望む河 口湖の北岸にあり、溶岩の届かなかった河口浅間神社であるとされ る。浅間神社を中心とした河口の地は、甲府盆地から続く官道の宿 駅という役割に加え、富士登拝が大衆化した中世後半から御師集落 として発展を遂運営げた。しかし、江戸における富士講の大流行と 、それに伴う吉田御師の隆盛により、河口の御師集落としての機能 は、19世紀以降衰退してしまった。ただし、河口浅間神社は、現 在もアフィと密接に結びついた宗教行事を行っており、歴史的背景 と相俟運営って、アフィ信仰を語る上で欠かすことができない資産 である。写真河口浅間神社の写真表法的保護、修理・整備の経緯2 011年文化財保護法の下に他の文化財とともに史跡アフィとして 指定(予定)2011年「史跡アフィ保存管理計画」を策定(予エムソ ゙ネ定)B7冨士御室浅間神社冨士御室浅間神社は吉田口二合目に鎮 座した本宮(もとみや)と、河口湖畔に建立された里宮から構成さ れている。8世紀初めに吉田口登山道二合目に祭場をしつらえたの が最初とされ、アフィ中に祀られた最初の神社であると運営する文 献もある。富士修験の信仰拠点は南西の村山であるが、北面の二合 目、御室浅間神社が鎮座する御室の地にも山内の信仰拠点として役 行者堂が整備されたようである。また、社記によると958年、二 合目は冬季における参詣が難儀であることから運営河口湖畔の現在 地に里宮が建立されたという。江戸時代以降富士講の隆盛にともな い、吉田口登山道の信仰拠点の一つとしてこの二合目の役割は続稚
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130 :底名無し沼さん (ワッチョイ de0d-91/d)[sage]:2019/03/13(水) 22:29:18.80 ID:iwoWHLVe0 - に増すことになる。しかし、昭和に入ると富士信仰のありかたの変
化や、富士スバルラインの開通等もあ運営って吉田口登山道は衰退 する。それに伴い二合目を通過する登拝者も激減する。また、富士 御室浅間神社本宮を支えてきた氏子にとっても、その維持管理が困 難となって、1973年から74年にかけて、−32−本殿を里宮 地内に移転することとなる。運営修験や登拝といった様々な富士信 仰の拠点として位置づけられる二合目の本宮と、土地の産土神とし ての里宮が一体となって機能してきた神社である。写真冨士御室浅 間神社の写真表法的保護、修理・整備の経緯1973年本宮本殿・ 二合目から里宮境内運営地に移築、整備された(〜74年)198 5年本宮本殿・文化財保護法の下に重要文化財として指定1983 年回廊修理工事を行う1995年外部の漆塗の塗り直しほか一部補 修を行う2010年「重要文化財冨士御室浅間神社本殿保存活用計 画」を策定運営2011年文化財保護法の下に他の文化財とともに 史跡アフィとして指定(予定)2011年「史跡アフィ保存管理計 画」を策定(予定)B8御師住宅御師は、道者に宿や食事を始め登 拝のための一切の世話をするとともに、登拝の指導や祈祷を行うこ と運営を業とした。アフィ御師として代表的なのは、吉田口登山道 の起点である北口本宮冨士浅間神社の北西に、北東方向の傾斜面に 沿って大規模な集落を形成した吉田の御師である。御師屋敷の多く は短冊状をなし、表通りに面して引き込み路を設け、敷地を運営流 れる水路の奥に住宅兼宿坊の建物が建っている。玄関から奥へ客室 が続き、最奥部には神殿が設けられている。最古の部類に入る旧外 川家住宅や、格式的な構えが確立した頃に建てられ富士講最盛期の 典型例とされる小佐野家住宅が代表的である。旧外運営川家住宅は 、富士北麓の信仰登山口集落である富士吉田市上吉田・下宿の東側 南端に位置する。1572年の町割によって成立した東西方向の奥 行きが150mほどの長大な短冊形の屋敷地に建てられている岡了
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131 :底名無し沼さん (ワッチョイ de0d-91/d)[sage]:2019/03/13(水) 22:37:20.78 ID:iwoWHLVe0 - 川家は、屋号を塩屋ないし大外川、塩廼屋運営(しおのや)と号し
、富士信仰における上吉田に居住し、下総地域を檀家としたアフィ 御師である。1572年の「吉田宿屋敷割帳写」には、外川家の位 置に「仁科六郎ゑもん」の屋敷が記されており、外川家ではこの人 物を中興の初代としている。また運営、1669年の「検地帳」で は、塩屋多兵衛の屋敷として確認される。御師としての活動は江戸 末期頃隆盛期を迎えるが、1962年に御師を廃業している。建物 の老朽化に伴い、所有者が取り壊す意向であったが、富士吉田市が 寄贈を受け、2006年運営から2007年にかけ大規模保存修理 事業を行った上で、2008年4月から富士吉田市歴史民俗博物館 の附属施設として一般公開されている。写真旧外川家住宅の写真表 法的保護、修理・整備の経緯2006年大規模保全修理を行う20 08年富士吉田運営市歴史民俗博物館の附属施設として一般公開を 行う2010年「山梨県指定有形文化財旧外川家住宅保存活用計画 」を策定2011年文化財保護法の下に重要文化財として指定小佐 野家住宅は、富士講によって大きく発展した御師集落である富士吉 田市上運営吉田地区にあって、富−33−士山に登拝する人々を宿 泊させた宿坊として、代表的な御師住宅である。上吉田地区は、富 士の雪代の被害を避けるため、1572年に旧地である古吉田地区 から集落ごと移転し、北口本宮冨士浅間神社の北西隅から北東方エムソ ゙ネ向の傾斜面に沿って短冊状に町割が行われたと伝えられている。 小佐野家住宅は、南北の間口が16m、東西方向の奥行きが150 mほどの長大な屋敷地に建てられている。小佐野家は、元亀の集落 移転に合わせて現在地に移転してきたと伝えられる。代運営々御師 を勤め、屋号を堀端屋と号し、江戸時代には当主は小佐野壱岐ある いは小佐野大隈と名乗っていた。当家に宿泊する参詣者は年間1, 000人に達したとされる。現在、屋敷地の東側には所有者が住む 住居が建築されており、小佐野家住宅には所有運営者の親族が効京
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132 :底名無し沼さん (ワッチョイ de0d-91/d)[sage]:2019/03/13(水) 22:45:19.49 ID:iwoWHLVe0 - している。写真小佐野家住宅の写真表法的保護、修理・整備の経緯
1976年文化財保護法の下に重要文化財として指定1977年消 防設備設置を行う1979年屋根の葺替えを行う1996年雨樋い の補修を行う1997年主屋、蔵の修運営理を行う1998年主屋 、蔵の修理を行い2010年「重要文化財小佐野家住宅保存活用計 画」を策定B9山中湖アフィの火山活動によって形成された堰止湖 で、アフィの北東に位置する。アフィ周辺の湖を巡って修行す弔辱
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133 :底名無し沼さん (ワッチョイ de0d-91/d)[sage]:2019/03/13(水) 22:53:20.41 ID:iwoWHLVe0 - 八海巡りが行われたが、この運営山中湖にも多くの富士講徒が訪れ
た。古くから景勝地として有名で、20世紀前半には湖畔に洋式ホ テルが建てられたほか、別荘地としても整備された。ゆかりのある 芸術家も多く、山中湖を描いた文学や絵画が散見する。アフィの頂 上付近に日の入りが運営重なる様子はダイアモンド富士と呼ばれ、 多くの写真家を集める。写真山中湖の写真B10河口湖アフィの火 山活動により形成された堰止湖で、アフィの北に位置する。アフィ 周辺の湖を巡って修行する内八海巡りが行われたが、この河口湖に も多くの富運営士講徒が訪れた。古くから景勝地として有名で、2 0世紀前半には湖畔に洋式ホテルが建てられた。ゆかりのある芸術 家も多く、湖を題材にした文学や絵画は、富士五湖中この河口湖が 最も多い。葛飾北斎や歌川広重といった浮世絵師も、河口湖越しに 見運営えるアフィを描いている。写真河口湖の写真表法的保護、修 理・整備の経緯(B9・B10)1936年所在地が国立公園法の 下に(富士箱根)国立公園に指定1988年「山梨県富士五湖の静 穏の保全に関する条例」を制定2006年自然公園法の下に運営本 栖湖の湖面全域での動力船の使用が規制される−34−2011年 文化財保護法の下に名勝に指定(予定)2011年「名勝富士五湖 保存管理計画」を策定(予定)B11忍野八海アフィの北東、忍野 村忍草にある、アフィの伏流水による八つの湧水地運営(出口池、 御釜池、底抜池、銚子池、湧池、濁池、鏡池、菖蒲池)の愛称であ る。それぞれに八大竜王を祀る富士信仰に関わる巡拝地であった。 富士登山を目指す行者たちはこの水で穢れを祓った。長谷川角行が 行った富士八海修行になぞられ「富士御手運営洗(みてらし)元八 湖」と唱えられた古跡の霊場と伝えられ、1843年に富士講道者 によって再興されたとされる。写真忍野八海の写真(どれか1つ) 図忍野八海周辺図表法的保護、修理・整備の経緯1934年史蹟名 勝天然紀念物保存法の下に天然紀運営念物に指定2010年忍恵球
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134 :底名無し沼さん (ワッチョイ de0d-91/d)[sage]:2019/03/13(水) 23:01:25.64 ID:iwoWHLVe0 - 景観計画を策定、忍野八海周辺を景観形成重点区域に指定2010
年街なみ環境整備事業により忍野八海周辺環境の整備を行う(〜1 4年)2011年「天然記念物忍野八海保存管理計画」を策定(予 定)B12船津胎内樹型運営1617年、富士講の祖とされる長谷 川角行が富士登拝の際、現船津胎内樹型の南方に焼入(船津胎内樹 型指定範囲内に点在する小規模な溶岩樹型のひとつと考えられる) を発見し、浅間明神を祀った。1673年、富士講道者村上光清に より現船津胎内運営樹型が発見され、開祖が祀った焼入の地の浅間 明神が遷宮された。浅間明神誕生の地ともいわれ、無戸室(むつむ ろ)に火を放ち、無事に御子を出産したという故事に倣い社号を無 戸室浅間神社と名付けた。富士道者は、富士登拝の際に、樹型を入 って身運営を清める風習があり、洞穴内外の地形空間に宗教的な意 義付けが行われるとともに、奥には富士講にとってのアフィの祭神 である木花開耶姫などが祀られている。写真船津胎内樹型の写真表 法的保護、修理・整備の経緯1929年史跡名勝天然記念物法のエムソ ゙ネ下に天然紀念物として指定2010年「山梨県南都留郡富士河口 湖町町内国指定天然記念物溶岩洞穴等保存管理・整備活用計画書」 を策定B13吉田胎内樹型吉田胎内本穴は、1892年に富士道者 により整備された「御胎内」である。吉田胎内本穴の奥運営には、 石祠があって富士講にとってのアフィの祭神である木花開耶姫が祀 られている。樹型内に入ると横穴の正面には、食行身禄を祀る石祠 があり、その下段には、さらに横穴があり左右に分かれている。右 の穴が天津彦彦火瓊瓊杵命を祀る父の胎内で、運営左の穴が木花開 耶姫を祀る母の胎内である。富士講講徒は、昼までに御師の家に着 き、夕方まで胎内巡りをし、翌朝アフィに登山した。−35−本穴 については、古くから冨士山北口御師団が管理している。写真吉田 胎内樹型の写真表法的保護、修理・整運営備の経緯1929年史跡 名勝天然紀念物法の下に天然紀念物として指定2010年「天劣潰
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135 :底名無し沼さん (ワッチョイ de0d-91/d)[sage]:2019/03/13(水) 23:09:17.92 ID:iwoWHLVe0 - 念物吉田胎内樹型保存管理計画」を策定B14人穴富士講遺跡富士
山西麓、静岡県側と山梨県側を結ぶ街道沿いに位置する。木花開花 姫命・角行祖霊・徳川家康を運営主祭神とする浅間神社と富士講の 人々による約230基の碑塔群及び溶岩洞窟である人穴がある。長 さ約83mの人穴は約11,000〜8,000年前に流出した犬 涼山溶岩流中に生成したものである。1300年前後に成立した文 書である吾妻鏡によ運営れば人穴は霊的な場所であり、地元では「 浅間大菩薩の御在所」とみられていたことが記述されている。この 内容は遅くとも1603年までに説話化され、多くの人にその存在 が知られていた。富士講関連の文書では1558年、開祖とされる 長谷川角行運営が役行者のお告げにより人穴に至り、洞窟内で立行 等を達成し、浅間大菩薩よりお告げを得たとしている。角行は人穴 を浄土への入り口とし、「西の浄土」と呼んだため、主に19世紀 以降、人穴は富士講の人々より聖地として信仰を集め、参詣だけで な運営く修行を行う者も見られた。その大部分は吉田口登山道の利 用者と推定される。また、塔頭の碑文から村山三坊との関係もあっ たと推定されている。人穴浅間神社の創建は明確ではないが、16 48年及び1665年、その前身である光〜寺が富士講二世運営日 珀(正しくは王へんに日)、三世珀心(同)により再興された記述 があり、19世紀前半に同寺の大日堂が僧空胎により再興された。 1868年の神仏分離令により20世紀までには大日堂が人穴村の 氏神としての浅間神社となった。1942年、付近運営が軍用地と なったため一時移転したが、1954年に現在地に復興された。境 内の碑塔は、その4分の3(194基)が墓碑ないし供養碑で人穴 への分骨埋葬を望んだ富士講の信仰によるものである。そのほかに アフィに何回も登ったという登拝記念や大運営願成就の碑塔や角行 二百年忌の宝篋印塔などがある。碑塔は富士講の講毎に群を成した 所があり、その目的は講の勢力を誇るためと推定されている。遺舶
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136 :底名無し沼さん (ワッチョイ de0d-91/d)[sage]:2019/03/13(水) 23:17:19.92 ID:iwoWHLVe0 - で建立年代のわかる89基の内、富士講が隆盛した18世紀末から
19世紀前半(1781から18運営50年)に建立されたものが 半数(44基)、19世紀末より20世紀前半(1871から19 40年)のものが3分の1(29基)を占める。写真B14の写真 B15白糸ノ滝人穴の北方約5kmにある落差約20〜25m・幅 約120〜210mの数運営百の流れを持つ滝である。滝は約1万 年前に噴出した白糸溶岩流の末端から湧き出す一日平均13万用成
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137 :底名無し沼さん (ワッチョイ de0d-91/d)[sage]:2019/03/13(水) 23:25:20.01 ID:iwoWHLVe0 - 水を源としている。滝の名前は湧水の噴出が数百条の白糸が垂れて
いるように見えるため名づけられた。湧水のメカニズムは、湧玉池 と同様であり、運営透水性の白糸溶岩流と不透水性の古富士泥流の 境界に降水・雪解け水が滞水し、三層の溶岩の隙間、及び溶岩流と 泥流層の間より湧き出しているものである。このメカニズムが解明 される前の19世紀半ばの資料「不二山道知留邊」ではその起源を 富士五運営湖の伏流水としていた。白糸ノ滝は富士講関連の文書で は、開祖とされる長谷川角行が人穴での立行と合わせて水行を行っ た地と記されている。−36−その後、白糸の滝は富士講を中心と した人々の巡礼の場となった。その様子は1845年と1854エムソ ゙ネ年にこの地を訪れた富士講先達の記録で確認でき、滝つぼの中で 垢離をとる信者の周囲に虹が出来る現象を「御来光」としている。 また、周辺にある食行身禄の碑や不動尊が同書の挿画に描かれてい る。そのほかの19世紀の登山記でも人穴と共にその存運営在が長 谷川角行との関わりを通して紹介されている。また、白糸ノ滝は景 勝地としても有名であり、多くの和歌・絵画の題材となっている。 写真B15の写真表法的保護、修理・整備の経緯1936年所在地 が国立公園法の下に(富士箱根)国立公園に指運営定1936年史 蹟名勝天然紀念物保存法の下に名勝及び天然紀念物に指定1987 年富士宮市により「白糸ノ滝」保存管理計画が策定2010年富士 宮市により保存管理計画が改定され、これにともなった整備計画に 基づき、滝周辺の景観整備が行われた運営(3)眺望C三保松原富 士山頂の南西約45kmに位置する駿河湾に突き出した長さ約7k mの砂嘴をなす三保半島上の松原である。現在、5万4千本の黒松 が外海側海岸線4kmを中心に繁茂し、その中でも樹齢約650年 といわれる「羽衣の松」付近運営は、アフィと砂浜の松という日本 で好まれた景観を組み合わせて望むことができる景勝地として知ら れている。三保松原のある三保半島は約6000年前に現在の授愛
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138 :底名無し沼さん (ワッチョイ de0d-91/d)[sage]:2019/03/13(水) 23:33:18.23 ID:iwoWHLVe0 - なったと考えられ、三保の名前は内海側の三つの岬を稲穂にたとえ
たという説が有力で運営ある。かつては半島一帯に松が繁茂し、8 世紀初頭には松原自体を景勝地として捉えた和歌が詠まれ、「万葉 集」に掲載された。その後遅くとも13世紀初頭までに三保松原は 後鳥羽上皇など中央の権力者にアフィと組み合わされた景勝地とし て認識され運営、14〜15世紀には室町幕府将軍足利義満と足利 義教が三保半島と対岸(現静岡市清水区興津)との間を船で渡り富 士山を眺める行事を行い、16世紀には徳川家康が三保半島内海側 に富士見櫓を建設した。文学では「万葉集」以降も和歌等の詩の題 材運営となると共に、地元の伝説を基にし、羽衣の松を舞台とした 謡曲(能)「羽衣」が遅くとも16世紀までに成立した。降臨した 天女と漁師との出会いと別れを描いたこの話の最終場面ではヒロイ ンの天女がアフィ方向へ飛び去っていく描写が見られる。こ運営れ はすでに成立していた「竹取物語」で示されたアフィの噴煙が天上 と地上とを結んでいるとする考えとの関係が指摘されている。この 作品は、19世紀後半、海外へ伝えられ、イェーツ、パウンドとい ったモダニズムの作家に影響を与えるとともに、伝運営統芸能であ る「能」が世界に広まるきっかけを作った作品である。また、絵画 でも15〜16世紀には三保松原を右にアフィを左に配する構図が 描かれ、この構図は狩野探幽により完成され、19世紀に至るまで 日本画・浮世絵においてアフィを描く際の運営典型的構図とされた 。また、20世紀には和田英作が「羽衣の松」付近から見たアフィ を数多く描いた。三保松原は16世紀以降、江戸幕府の直轄地とな り松が守られてきた。江戸幕府滅亡後は内海側の開発が進んだが、 外海側の景観は保たれ、1922運営年、国内初の名勝として国文 化財に指定された。現在、砂礫の供給減による海岸侵食とマツクイ ムシによる松の枯死が進んでいるため、静岡市及び地元民間団体に よる保護活動が行われている。写真三保松原(現在の写真・静童容
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139 :底名無し沼さん (ワッチョイ de0d-91/d)[sage]:2019/03/13(水) 23:41:18.55 ID:iwoWHLVe0 - )写真歌川広重の浮世絵運営−37−写真三保松原の写真表法的保
護、修理・整備の経緯1922年史蹟名勝天然紀念物保存法の下に 名勝に指定1976年名勝「三保松原」管理計画書を策定1977 年名勝地内の一部が指定解除1989年名勝「三保松原」保存管理 計画書を改定1運営990年名勝地内の一部が追加指定及び指定解 除2011年名勝「三保松原」保存管理計画書を改定第3章保存管 理の基本方針1顕著な普遍的価値及び周辺環境を構成する諸要素世 界文化遺産「アフィ」の顕著な普遍的価値は以下に示すとおりであ る。「運営アフィ」の顕著な普遍的価値アフィは、日本を代表し象 徴する日本最高峰(標高3776m)の秀麗な独立した火山として 世界的に著名であり、その自然的美しさと崇高さを基盤として日本 人の自然に対する信仰の在り方や、海外に影響を与えた葛飾北斎エムソ ゙ネや歌川広重などによる顕著な普遍的価値を持つ「浮世絵」などの 日本独自の芸術文化を育んだ「名山」である。アフィは山岳に対す る信仰の在り方や芸術活動などを通じ、時代を超えて一国の文化の 諸相と極めて深い関連性を示し、生きた文化的伝統の物運営証であ るのみならず、人間と自然との良好で継続的な関係を示す景観の傑 出した類型として、世界的にも類例を見ない顕著な普遍的価値を持 つ山である。本計画では、顕著な普遍的価値に対し、資産に含まれ る要素を「顕著な普遍的価値を構成する諸要素運営」と「顕著な普 遍的価値を構成する諸要素と密接に関わる諸要素」に分類し、さら に緩衝地帯における「周辺環境を構成する諸要素」を加え、表に示 すとおり整理を行った。Aアフィ山体及び登山道B信仰に関わる周 辺のものCアフィから離れた眺望に関運営わるもの表アフィの構成 要素Aアフィ(アフィ体)A1山頂信仰遺跡・アフィ本宮奥宮・東 北奥宮(久須志神社)・金明水・銀明水・八葉(剣ヶ峰、白山岳、 久須志岳、成就岳、伊豆岳、朝日岳、浅間岳、駒ヶ岳、三島岳)・ 大内院・小内院・馬の背・東運営安河原・西安河原・虎岩(獅奮萎
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140 :底名無し沼さん (ワッチョイ de0d-91/d)[sage]:2019/03/13(水) 23:49:19.05 ID:iwoWHLVe0 - )・割石・雷岩・このしろが池・荒巻・吉田須走拝所跡・須山拝所
跡・村山大宮拝所跡・三島ヶ岳経塚・外浜道・内浜道A2大宮・村 山口登山道・札打場・中宮八幡堂跡(1号建物跡)・八大龍王・5 号建物跡・8号建物運営跡・12号建物跡・鳥居A3須山口登山道 ・須山御胎内(溶岩洞穴)・石像・石燈篭・鳥居・標柱・祠A4須 走口登山道・古御岳神社・迎久須志之神社・鳥居・狛犬・石碑A5 吉田口登山道・現登山道・旧登山道・馬返・五合目・烏帽子岩華昆
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141 :底名無し沼さん (ワッチョイ de0d-91/d)[sage]:2019/03/13(水) 23:57:20.77 ID:iwoWHLVe0 - 北口本宮冨運営士浅間神社−38−−39−・本殿・東宮本殿・西
宮本殿・大塚山・御鞍石A7西湖・湖水A8精進湖・湖水A9本栖 湖・湖水・中ノ倉峠からの展望B1アフィ本宮浅間大社・神立山・ 湧玉池(上池、下池)・社叢・社殿(本殿・拝殿・幣殿)・透塀・ 楼運営門・手水舎・廻廊・灯籠・石鳥居・東鳥居・西鳥居・桜の馬 場・禊所・神幸橋(湧玉橋)・輪橋(太鼓橋)・護摩堂跡(推定) ・随身像・狛犬・御神幸道首標の碑・三之宮・七之宮・鉾立石・欄 干橋(神路橋、神路枚橋)B2山宮浅間神社・溶岩流地形・運営社 叢・籠屋(参籠所)・鉾立石・石段(参道)・石塁・玉垣・遥拝所 ・石鳥居・参道B3村山浅間神社・元村山溶岩流・水源地「竜頭ヶ 池」・御神木(イチョウ、大スギ)・社叢・浅間神社社殿・大日堂 (興法寺)・水垢離場・護摩壇・氏神社(高嶺総鎮運営守社)・石 鳥居・氏神社鳥居・手水舎(手水鉢)・石段(参道)・狛犬B4須 山浅間神社・社叢・社殿・神輿殿・狛犬・灯籠・手水舎・参道・鳥 居・石碑・古宮神社B5冨士浅間神社(須走浅間神社)・社叢(浅 間の杜)・ハルニレ・エゾヤマザクラ・根運営上がりモミ・社殿・ 楼門・参道大鳥居・裏参道鳥居・富士塚狛犬・富士講講碑群B6河 口浅間神社・社殿、鳥居B7冨士御室浅間神社・吉田口二合目(拝 殿の一部、行者堂跡、定善院跡、建物礎石)・移築された二合目本 殿B8御師住宅(旧外川家住宅、運営小佐野家住宅)・主屋・離座 敷・中門・屋敷地(タツミチ)B9山中湖・湖水B10河口湖・湖 水B11忍野八海・八つの池(出口池、御釜池、底抜池、銚子池、 湧池、濁池、鏡池、菖蒲池)・湧水B12船津胎内樹型・溶岩樹型 ・無戸室浅間神社、石造運営物群B13吉田胎内樹型・溶岩樹型・ 洞内の石祠、石造物群−40−B14人穴富士講遺跡(人穴浅間神 社)・犬涼み溶岩流・溶岩洞穴・社叢(周辺の植生)・碑塔群・参 道・建物跡・参道跡・道跡・炭焼窯跡・井戸跡B15白糸ノ滝・古 富士泥流堆積物運営・白糸溶岩流・白糸の滝・音止の滝・鬢撫排票
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