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202 :底名無し沼さん (JP 0Hab-uWgP [91.207.174.171])[sage]:2019/02/15(金) 00:02:43.53 ID:N47M/vX9H - らたかな湧き水として珍重された。『富士の歴史』によれば、「如
何なる旱にも水運営の涸れることはない」と記している。写真銀明 水の写真[銀明水の石碑群](a)石碑@(高さ112×幅62p )銘文には「明治三拾九年」と「大正五年」の2つの年代が確認で きる。富士講の人々が建碑したものと考えられる。(b)石碑A( 高さ1運営62×下幅76×上幅63p)表面に龍が、裏面には文 字が刻まれている。(c)石碑B(未計測)「大正十三年八月他藩
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203 :底名無し沼さん (JP 0Hab-uWgP [91.207.174.171])[sage]:2019/02/15(金) 00:10:43.42 ID:N47M/vX9H - 刻してある。写真銀明水の石碑群の写真−42−・八葉(剣ヶ峰、
白山岳、久須志岳、成就岳、伊豆岳、朝日岳、浅間岳、駒ヶ岳、エムソ ゙ネ三島岳)山頂部の直径約800mの火口を囲む峰々の総称で、そ れぞれの峰に仏が住むとされた。文永年中(1264〜1275) の作である『万葉集註釈』には「いたゞきに八葉の嶺あり」とある ことから、鎌倉時代中期には山頂の峰々を蓮の「八葉」運営に見立 てていたと考えられる。江戸時代後期の地誌である『駿河国新風土 記』には「ソノ名一定ノ説ナク、又峰ノ数八ツアルニアラズ。コマ カニカゾヘバ、十二バカリナリト言フ。」とあり、八葉を構成する 峰も、またその名称も一定でないことがわかる運営。峰の名称は、 明治8年に廃仏毀釈により仏教色を払拭したものに変更された。以 下、平成20年度の静岡県埋蔵文化財調査研究所による発掘調査報 告書で示された9つの峰について、最高峰の剣ヶ峰からお鉢巡りの 回り方である時計回りの順に、記述す運営る。なお、浅間大社では 、伊豆岳以外の8つをもって「八神峰」としている。図八葉の配置 図[剣ヶ峰(標高約3,776m)]かつては剣ノ峰、阿弥陀岳と も呼ばれた。遠くから見ると剣を立てたようにそびえ立っているた めにこの名があるという。道運営者たちはあまりに険しいこの峰を 恐れて多くは登らなかったという。この峰の石は「神の惜ミ給ふ」 とされ、採取を禁じられたが、麓からの石と取り替えるということ が行われていた。写真剣ヶ峰の写真図気象庁測候所跡周辺の平面図 [白山岳(標高約3運営,756m)]かつては釈迦ヶ岳とも呼ば れた。現在は一般の立入は禁止されている。頂上には鳥居が立ち、 また二等三角点が存在する。[久須志岳(標高約3,725m)] かつては薬師岳とも呼ばれた。現在の久須志神社の裏手にあたる。 他の峰々と運営比べ傾斜はなだらかである。頂上には鳥居が火口の 方向に向けて建てられている。頂上付近には石造物が残存し、首か ら上と手首から先が欠損している。台座正面に「食行」「身禄惰頓
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204 :底名無し沼さん (JP 0Hab-uWgP [91.207.174.171])[sage]:2019/02/15(金) 00:18:45.24 ID:N47M/vX9H - 文字が確認できる。写真久須志岳の石造物の写真[成就岳(標高約
3運営,734m)]かつては大日岳とも呼ばれ、大小2つの鳥居 が、噴火口の方角を向いて建てられている。[伊豆岳(標高約3, 748m)]かつては勢至ヶ嶽、観音嶽とも呼ばれた。『浅間神社 の歴史』には、「中腹より地中に熱気を感じ、下りて荒巻の運営険 を越え、成就岳にいたるまで、至る所に蒸気を噴出する」とある。 頂上には鳥居は見られない。[朝日岳(標高約3,733m)]伊 豆岳と同様、かつては地中から蒸気を発していたとされる。頂上に 鳥居は存在しない。石積みがあるが時期は不明であ運営る。他の峰 々と比べ、文献の言及が乏しい。[浅間岳(標高約3,722m) ]浅間大社奥宮の裏手にあり、頂上に鳥居がある。現在は一般の立 入が制限されている。[駒ヶ岳(標高約3,718m)]聖徳太子 が黒駒に乗って登山した際に、ここで休息運営をとったという伝説 のある峰である。山頂に鳥居が存在する。峰全体が岩石からできて いる。[三島岳(標高約3,734m)]−43−かつては文殊岳 とも呼ばれた。頂上に木製の鳥居と、「三島岳」と刻まれた白い角 材の木杭が立っている。三島岳の運営石仏群として、三島岳のふも と、かつて経塚が発見された付近に、10体の石像が安置されてい る。これらは原位置を留めておらず、周辺にあったものが集められ たと考えられる。いずれも頭部を欠損している。・大内院山頂の火 口中央に存在する穴で、運営ここより雲が生じ、風が起きるとされ た。大内院(噴火口)は中央にある大きな火口、小内院(阿弥陀ヶ 窪)は雷岩の下の小さな火口を指す。神や仏の居る所であると信じ られ、登山者は各登山口に設けられた拝所あるいは初穂打場から、 噴火口に向けて運営賽銭を投げ入れた。現在、噴火口への立入は禁 止されている。写真大内院の写真・小内院西安河原から白山岳に向 かう途中にある大きな窪地で、大内院との対比で小内院と呼ばれる 。かつては噴火口だったと考えられる。写真小内院の写真・馬苗末
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205 :底名無し沼さん (JP 0Hab-uWgP [91.207.174.171])[sage]:2019/02/15(金) 00:26:44.67 ID:N47M/vX9H - 剣ヶ峰運営に通じる坂道で、火山礫と砂の急斜面である。お鉢巡り
の道中で最大の難所である。現在はブルドーザーが通れるよう整地 されている。火口に向けて傾斜しており、その険しさから道者たち の多くは剣ヶ峰に登らなかったといわれる。・東安河原須山口拝エムソ ゙ネ所東側にあり、山頂部では稀な広い平坦部である。かつては現世 と来世の境である「賽の河原」になぞらえて、道者たちが溶岩礫を 積み上げ石塔を作った。また「初穂打場」とも呼ばれ、火口に向け て賽銭が投げ込まれた場所とされる。・西安河原東安河運営原と対 をなす、剣ヶ峰から北側に下りた付近の平坦部である。火口の外壁 を行く外浜道と内壁を行く内浜道との分岐点に位置する。・虎岩( 獅子岩)大内院の南岸に突き出た大岩で、形状が虎(獅子)のうず くまる姿に似ていることから名付けられた。・運営割石かつては「 釈迦の割石」と呼ばれた溶岩で、溶岩が急速に冷えて固まったため 割れていた。高さが15m程あったが、現在は崩壊してしまってい る。古くから行者の修行場として知られ、食行身禄がここで入定し ようとしたが、大宮浅間の社人からの運営許可が得られず、吉田口 七合五勺の烏帽子岩で入定したとされる。写真割石の写真・雷岩白 山岳の西側にある岩で、この方角から強い雷雲がくる事からこう呼 ばれたとされる。また、文化年間の初め、岩より雷鳴がとどろいて 雷獣が出現し、8合目の石室運営に走り入った。これを石室に居合 わせた人々が生け捕りにしたとも伝えられる。・このしろが池三島 岳の雪解け水が窪地に溜まってできる季節的な池で、6月から7月 に姿を現し、雪解け水の供給が無くなると消えてしまう。・荒巻− 44−かつては勢至運営ヶ窪と呼ばれ、強い風が吹き付けるアフィ 頂の難所として知られた。道の火口側には、火山礫を積み上げた石 組みがある。・吉田須走拝所跡須走口登山道を登りきったところに あったとされる。拝所は初穂打場とも呼ばれ、登山者たちが賽銭を 噴火口の大運営内院に投げ入れる、そこに鎮座する浅間大菩薩臼京
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206 :底名無し沼さん (JP 0Hab-uWgP [91.207.174.171])[sage]:2019/02/15(金) 00:34:45.04 ID:N47M/vX9H - む場所であった。また、御来光を拝む場所でもあった。現在は、付
近に鳥居がなく痕跡も残っていないため、場所を特定することはで きない。写真吉田須走拝所跡の写真・須山拝所跡銀明水の裏手の火 口運営を臨む位置にあったとされる。大正2年(1913)の登山 スタンプが押された写真では、銀明水裏手の火口の縁に立っている 鳥居が確認できる。現在その地点には、2つの目印の石が存在して いる。写真須山拝所跡の写真・村山大宮拝所跡『隔掻録』は運総業
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207 :底名無し沼さん (JP 0Hab-uWgP [91.207.174.171])[sage]:2019/02/15(金) 00:42:45.23 ID:N47M/vX9H - 大日堂の裏手に建つ鳥居を「大宮拝所」としている。『アフィ明細
図』は、このしろが池の裏手の鳥居を影拝所としている。このしろ が池から剣ヶ峰の登山道に沿って3体の大日如来があり、それぞれ 延徳2年(1490)、天文12年(1543)、運営寛永元年( 1624)の銘があったとされる。昭和初期の絵葉書にも、剣ヶ峰 の手前の火口を臨む位置に鳥居が建っている。写真村山・大宮拝所 跡の写真・三島ヶ岳経塚昭和4年(1929)、頂上の神官が銅仏 の破片と一石経を採集して下山、それを受運営けて昭和5年に三島 岳のふもとを調査したところ、経巻が詰まった経筒や木槨、土器片 などの遺物が出土した。アフィ本宮浅間大社には、現在10巻分の 経巻が残っており、うち5巻は開かれていて内容を確認できる。経 巻のスタイルや計測値から平安時運営代後期までさかのぼる可能性 が考えられる。写真出土遺物の写真・外浜道・内浜道山頂を周回し 八葉を巡る「お鉢巡り」を行う道である。剣ヶ峰を下り西安河原の 北側で道が二手に分かれるが、峰の外を回り雷岩、割石を経て白山 岳に至る道が外浜道で、運営峰の内側を大内院に沿って回り金明水 に至る道が内浜道である。沿道には信仰に関わる工作物や自然物が 数多く存在する。外浜道は近年崩落が著しく、現在は立入禁止とな っている。A2大宮・村山口登山道図登山道に要素が点在している 平面図・札打場運営村山浅間神社の北東約3.5q、天照教社の西 南西約1qの地点(標高約830m)に、東西約7m、南北約10 mの平場がある。南側に1本の大きなケヤキの巨木があり、ここが 札打場であった。札打とは、自分の院号を記した札を打ちつけるこ とであ運営る。村山で修験道が盛んであった頃、山伏が峰入修行に 先立ち札打を行った。昭和30年(1955)頃までは、木に打ち つけた札が見られたという写真札打場の写真・中宮八幡堂跡(1号 建物跡)村山口登山道跡とアフィスカイラインが交差する地点かエムソ ゙ネら南西方向に約500mの地点に位置する。標高は約1,2振腐
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208 :底名無し沼さん (JP 0Hab-uWgP [91.207.174.171])[sage]:2019/02/15(金) 00:50:44.28 ID:N47M/vX9H - mである。東側を走る沢から一段上がった平坦面に所在している。
平坦面は2段あり、上−45−段には小さな祠が建てられている。 また下段には、南東から北西方向に石列が伸びている。運営江戸時 代には馬返しと呼ばれ、駒立小屋があったとされる。また、ここか らは女人は登山道を登ることを許されず、駒立小屋は女人堂として 使われた時期もあったと考えられる。下段平坦面の南側には溝が東 西方向に延び、西側の森林に突き当たって痕跡運営をたどれなくな る。木馬道である可能性が指摘される。写真中宮八幡堂の写真・八 大龍王中宮八幡堂跡より北東に約100mの地点に「八大龍王」と 刻まれた石碑と水神の祠が並んで建てられている。水神祠には「文 化十三年寅年六月日」、八大龍王には運営「文化七年七月十七日」 との銘が刻まれている。駿河国大宮町神田の横関家の主人が、天保 14年(1843)から文久3年(1863)にかけて記録した『 袖日記』には、安政7年(1860)5月11日の条に「中宮八幡 堂の井戸を掘ったので山が荒運営れた」との記述がある。この「中 宮八幡堂の井戸」とは、八大龍王前にある井戸跡を指すものと考え られている。井戸跡は幅80p、深さ50pほどである。・5号建 物跡4号建物跡から登山道跡を登りしばらくすると一面の倒木帯と なり、その中に5号運営建物跡がある。標高は約1,865mであ る。平成5年の富士宮市による調査では、平場の北側の斜面の縁に 3体の石像が発見されていたが、平成20年の静岡県埋蔵文化財調 査研究所による調査では石像が4体見つかっている。木が倒れた際 に地面が掘運営り起こされ、地中にあった石像が地上に現われたと 考えられる。うち1体の不動明王像には、文化7年(1810)の 銘がある。背面には「瀧本前」と刻まれており、ここが「アフィ表 口南面路次社堂室有来之次第絵図」でいう「瀧本・笹垢離」跡であ る運営と推測できる。4体の石像には破壊された痕跡が確認できる 。廃仏毀釈によるものと考えられる。なお、明治末の登山案内栄包
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209 :底名無し沼さん (JP 0Hab-uWgP [91.207.174.171])[sage]:2019/02/15(金) 00:58:48.84 ID:N47M/vX9H - 5号建物跡に該当する施設の記載がなくなっている。・8号建物跡
7号建物跡から北西に約220m(標高約2,170m)の運営位 置にある。中宮八幡堂跡より標高の高い位置に所在する建物跡の中 で最も大規模なものである。2つの平場により構成され、南西部の 平場は東西約25m、南北約10mである。入口に石段が残存して おり、石段の東西には石垣が組まれている。また平運営場中央部よ りやや西に護摩壇と思われる石組も残存している。もう一つの北東 部の平場は北西から南東に傾斜する斜面上に、長軸約15m、短軸 約6mの三角形で、北西側斜面の縁と南側斜面の縁に石組が確認で きる。昭和時代の地図には「一ノ木戸」と運営して載っており、「 アフィ表口南面路次社堂室有来之次第絵図」に描かれた「室大日堂 ・木戸堂・茶屋堂」にあたると考えられる。室大日堂は大日如来と 役行者像が祀られていたとの記述が『駿河国新風土記』にあり、ま た末代上人が建てた往生寺があっ運営たところだともいわれている 。写真8号建物跡の写真・12号建物跡村山口登山道跡に残る遺構 のうちで、一番標高の高い位置(約2,390m)にある。11号 建物跡から北に50mの地点に所在する。東西約8m、南北約5m の方形の区画が石組によ運営って作られている。東側には直径約9 0pの丸い穴が二つある。(同様の穴は他の建物跡でも見られ、) 便所跡と考えられる。−46−・鳥居登山道跡の8合目上に、自然 木により構築された鳥居が設置されている。「昭和五十二年七月吉 日」と刻まれて運営おり、個人が設置したものである。A3須山口 登山道図登山道に要素が点在している平面図・須山御胎内(溶岩洞 穴)旧須山口登山道1合目(標高1,440m付近)にある全長1 0m余の溶岩洞穴である。洞穴の直径は約1mで南東側と北西側に 入口が運営あり、内部を通り抜けることができる。登山者は、この 洞穴を通って登山するのがならわしであった。かつて洞穴の延長は 数10mあったが、関東大震災により天井部分が崩落し、現在歯鑑
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210 :底名無し沼さん (JP 0Hab-uWgP [91.207.174.171])[sage]:2019/02/15(金) 01:06:43.41 ID:N47M/vX9H - さになった。崩落した部分は、長さ約30mのU字型の溝状の溶エムソ
゙ネ岩地形として須山御胎内の南東側に残っている。この付近の溶岩 は須山胎内溶岩と呼ばれている。年代測定では1030〜1230 年という結果が出ており、永保3年(1083)の噴火時に噴出し た可能性がある。平成21年に実施した測量調査では、運営須山胎 内溶岩は須山口登山道脇の標高1,485m付近から認められてお り、須山口登山道がこの溶岩流に沿って形成されていることが温塩
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211 :底名無し沼さん (JP 0Hab-uWgP [91.207.174.171])[sage]:2019/02/15(金) 01:14:42.96 ID:N47M/vX9H - した。写真須山御胎内の写真・石像須山御胎内の洞穴内部に、「木
花咲耶姫」の石像が安置されている。地元在住運営の彫刻家、杉山 拓氏の作品。須山口登山道復興後の平成12年に作られたものであ る。・石燈篭須山御胎内の南東側入口の両脇に、石燈篭が設置され ている。・鳥居須山御胎内の南東側入口前に高さ3m前後の木製の 鳥居が建てられている。・標柱鳥居脇運営に、「旧須山口登山道一 合目(須山御胎内)」と記された標柱が、アフィ須山口登山道保存 会によって設置されている。・祠須山御胎内から南東に続くU字状 の溶岩地形脇に、石造りの祠が設置されている。写真祠の写真A4 須走口登山道図登山道に要素運営が点在している平面図・古御岳神 社冨士浅間神社の境外末社で、5合目の登山道登り口にある。現在 の社殿は、昭和54年(1979)に建立され、間口九尺、奥行九 尺の規模である。その際、御室浅間神社を合祀した。神社の前には 鳥居がある。かつて運営は3000坪の境内地を持ち、本殿、拝殿 、庁舎を備えていたという。写真古御岳神社の写真・迎久須志之神 社冨士浅間神社の境外末社で、9合目(3,570m付近)に建て られている。かつては向薬師、向ヒ薬師、手引薬師と呼ばれ、石室 の中に薬師運営如来が祀られ冨士浅間神社の神主が管理していた。 元禄16年(1703)−47−の文書「大宮司富士信安等返答下 書」に「前薬師之小屋」の記述があることから、江戸時代初期以降 にはすでに祀られていたものと考えられる。道者はここで薬師に線 香運営を手向けたという。廃仏毀釈によって仏像は山を降ろされ迎 久須志神社と改められた。祭神は大己貴命と少彦名命である。以前 は登山道が建物の西側を通るルートであったが、現在は建物の東側 を通るようになっている。迎久須志神社の直下には、「日ノ運営見 御前」「日ノ御子」と呼ばれる日の出を遥拝する場所があり、江戸 時代には「日ノ御子石」というアフィ型の石が置かれていた。富士 講の講中が大きな平石の上で朝日を拝したという。現在「日ノ簡鎮
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212 :底名無し沼さん (JP 0Hab-uWgP [91.207.174.171])[sage]:2019/02/15(金) 01:22:40.69 ID:N47M/vX9H - 石」はないが、祠と鳥居が建てられている。写真迎運営久須志之神
社の写真・鳥居登山道の浅間大社東北奥宮(久須志神社)前(登山 道終点)、9合目、本8合目、本7合目、7合目、本5合目、古御 嶽神社前に自然木などにより構築された鳥居が設置されている。・ 狛犬登山道終点の鳥居前に狛犬2体が設置運営されている。この場 所は「鳥居御橋」(とりいおはし)と呼ばれていた。・石碑7合目 付近の登山道脇に富士講関連の石碑がある。以前はもっと標高の高 い場所にあったが、雪崩によって流されて別の場所に転がっていた ものを山小屋関係者で運び、現在運営の場所に設置したという。日 付は「七月吉日」とあるのみで、上部が欠損している。A5吉田口 登山道図登山道に要素が点在している平面図・登山道吉田口登山道 は、北口本宮冨士浅間神社を起点とし、アフィ頂を目指す道である 。18世紀後半以降は、運営最も多くの道者が吉田口登山道を目指 している。しかも、古道としては唯一徒歩で麓から頂上まで登れる 重要な道である。顕著な普遍的価値を構成する要素として、現存す る吉田口登山道や沿道の宗教施設や山小屋等信仰の拠点などがある 。・旧登山道・運営馬返ここから急坂となり馬が使えなくなること からこの名がついた。この一体は草山から木山への境でもあり、こ こからが御山の聖地ということにもなる。アフィ有料道路が開通す る以前の馬返の周辺は、本格的な登り勾配の坂道が始まる直前の平 地であ運営り、登拝者たちがいったん休憩を取る場所として賑わっ た。登山期間には4軒の茶屋が営業され、登拝者の便に供された。 写真馬返周辺の写真・五合目ここは木山と焼山の境界でもあるこの 地は天地境(てんちのさかい)とも言われる場所である。役場、エムソ ゙ネ中宮の社、小屋等がおかれていた。ここの役場は、古くは中宮三 社の神供料として役銭を納めた場所である。後年は登山切手改め所 となった。小屋については、江戸後期には4軒があったが、すでに 武田信玄の1566年の文書に「中宮之室」という名称運営が剰駐
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213 :底名無し沼さん (JP 0Hab-uWgP [91.207.174.171])[sage]:2019/02/15(金) 01:31:18.72 ID:N47M/vX9H - 、戦国時代からこの地に小屋が設けられ−48−ていたことがわか
る。最盛期には18軒が所在したと伝えられている。写真五合目周 辺の写真・烏帽子岩七合五勺に烏帽子の形をした岩があり、これを 烏帽子岩という。ここにて富士講中興の祖と称運営される食行身禄 が、1733年に31日間の断食修行を経て入定した。「甲斐国志 」にも「享保十八六月十三日富士行者身禄ガ入定ノ地ナリ小屋アリ 身禄ノ木像ヲ安置ス流レヲ汲者年々此に登拝ス」とあり、江戸後期 にはすでに身禄の聖地として信者が登運営拝していたことがわかる 。現在も富士講の聖地として重要な地である。写真烏帽子岩の写真 A6北口本宮冨士浅間神社図以下に示す要素が点在している平面図 北口本宮冨士浅間神社は、富士講とのつながりが強く1730年代 に富士講の指導者である村上運営光清の寄進によって境内の建造物 群の修復工事が行われ、現在にみる境内の景観の礎が形成された。 社殿の背後には登山門があり、この神社を起点としてアフィ頂まで 吉田口登山道が延びている。富士講や吉田御師と密接な関係を持ち ながら発展した神社運営である。顕著な普遍的価値を構成する諸要 素として、富士信仰の拠点でもある本殿などの建造物群や境内地、 吉田口登山道の起点などがある。・本殿本殿は、1615年、都留 郡の領主鳥居土佐守成次によって建立された。桁行一間・梁間二間 の規模で、運営入母屋造の建物を身舎としてその前面に唐破風造の 向拝一間をつけた形式をとり、独自な本殿形式が採用されている。 各部に漆塗り、極彩色をほどこし、彫刻・金具を配して豪華絢爛な 装飾を展開し、桃山式建築の装飾的技法の多様性を示すとともに、 す運営ぐれた意匠をみせる顕著な建物である。写真本殿の写真図本 殿の図・東宮本殿東宮本殿は、1223年北条義時の創建とも伝え られるが、現社殿は1561年武田信玄が浅間本社として造営した ものである。本殿は身舎梁間一間、桁行一間で正面に一間の運営向 拝をつける一間社流造の形式である。東宮本殿は、本社本殿は模賜
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215 :底名無し沼さん (JP 0Hab-uWgP [91.207.174.171])[sage]:2019/02/15(金) 02:19:17.88 ID:N47M/vX9H - ている。・輪橋(太鼓橋)本殿へと向かう参道に、鏡池を渡る輪橋
が架けられている。寛文10運営年の絵図には既に描かれているが 、大正4年(1915)に石造りに改められた。写真輪橋の写真図 輪橋の平面図絵図寛文10年の絵図・護摩堂跡(推定)平成20年 の発掘調査により、護摩堂跡と考えられる溶岩礫で構成された石垣 と建物跡が検出され運営た。石垣は樵石積みで組まれ、平面形は正 方形となっている。また、石垣で正方形に囲繞された敷地内で建物 跡の礎石が確認された。桁行3間・梁間4間で、南側に入口を有し ていたと考えられる。発掘調査後に、江戸時代終わり頃の地誌でこ の建物跡を運営「本地堂」とする記載が確認されており、最終的に 護摩堂から本地堂へ造作し直された可能性がある。写真護摩堂の発 掘調査時の完掘写真(平面写真)図平面図・随身像慶長19年(1 614)2月に建立された。背銘には、左側の像は「甲州河内下山 住運営番匠石川清助作」、右−52−側の像は「大工山城國上原住 櫻井三蔵作」と記され、市指定有形文化財として保護されている。 写真随身像全体の写真・狛犬参道の石鳥居両側に、狛犬が建てられ ている。大正7年5月に奉献されたものである。・御神幸道運営首 標の碑明治以前に行われていた「山宮御神幸」における、御神幸道 の首標が、池畔に立てられている。造立年は元禄年(1691)未 年十一月とされ、「自当社山宮御神幸道五十丁証碑首也」と刻まれ ている。昭和59年(1984)に浅間大社境内の運営土中から発 見され、現在地に再建された。・三之宮本殿横西側に、淺間第三御 子神を祀る境内社「三之宮浅間神社」が建てられている。・七之宮 本殿横東側に、淺間第七御子神を祀る境内社「七之宮浅間神社」が 建てられている。・鉾立石楼門前の石段に運営は、鉾立石が置かれ ている。明治の初めまで行われていた山宮御神幸の際、神の宿った 鉾を立てて休めた自然石である。・欄干橋(神路橋、神路枚橋)池 畔と川中島を結ぶ橋が2本架けられている。島の西側が神路橋擦通
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216 :底名無し沼さん (JP 0Hab-uWgP [91.207.174.171])[sage]:2019/02/15(金) 02:27:16.74 ID:N47M/vX9H - 側が神路枚橋であるが、寛文10運営年(1670)の絵図では西
側にのみ架けられている。写真橋全体の写真絵図寛文10年の絵図 B2山宮浅間神社図以下に示す要素が点在している平面図・溶岩流 地形山宮浅間神社の石鳥居から参道を経て参籠所に至るまでの区域 は北山溶岩流上に展開し運営ている。また、遥拝所が位置する小高 い丘陵は青沢溶岩流の先端部である。さらに、涸れ沢の西岸には、 天母山(二子山)溶岩流、万野風穴溶岩流で構成される丘陵地が展 開する。よって、山宮浅間神社周辺には、籠屋付近の北山溶岩流を 含め、4つの異運営なる溶岩流地形が広がっていることになる。遥 拝所の基盤となっている青沢溶岩流は、約2,000年前の噴火に よって流出した比較的新しい溶岩流であるため、この部分は他の区 域と比べて植生の回復は遅れていたと考えられる。そのために、樹 木等に運営遮られることなくアフィの山頂まで見渡せていたため、 この場所で山を遥拝する行為が行われたと考えられる。写真溶岩流 地形の写真図溶岩流の拡散している模式図・社叢目通りの幹周が3 mを超える巨木4本を含むスギ林が、約9,780uの社叢を形エムソ ゙ネ成しており、富士宮市の保存樹林に指定されている。・籠屋(参 籠所)遥拝所へ登る手前の平坦な土地に籠屋が建てられている。籠 屋は、神の宿った御鉾が浅間大社と山宮浅間神社を往復する祭儀「 山宮御神幸」において、これに同行した大宮司以下の諸運営職が一 夜参籠した場所である。−53−・鉾立石籠屋をくぐり遥拝所へ続 く参道に、「山宮御神幸」で神の宿った鉾を休めるための「鉾立石 」が置かれている。石は火山弾であり、籠屋をくぐってすぐの位置 に1つ、石段の手前に1つの計2つが置かれて運営いる。・石段( 参道)遥拝所が位置する丘陵へ登るための石段が組まれている。現 在あるものは戦中もしくは戦後に改築されたものと考えられる。・ 石塁遥拝所の周辺約45m四方が石塁により方形に区切られている 。青沢溶岩流の溶岩塊上に溶岩礫を積運営み上げて構築され、兆塔
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217 :底名無し沼さん (JP 0Hab-uWgP [91.207.174.171])[sage]:2019/02/15(金) 02:35:15.78 ID:N47M/vX9H - 的に遺物を含む土層上に構築されている。石塁下から祭祀に用いら
れたと思われる土師器が出土しているため、それらが用いられた1 2世紀から15世紀、もしくは後の時代に築造されたものと推定さ れる。写真石塁の写真図石塁運営の平面図・断面図・玉垣遥拝所の 周囲にはコンクリート製の玉垣が設置されている。戦中もしくは戦 後に設けられたものと考えられる。また、遥拝所入口には鉄製の門 扉が取り付けられている。・遥拝所アフィを直接拝礼し、祭儀を行 うことを目的として運営築造されたと推定される施設である。南北 約15.2m、東西約7.6mの長方形で、30〜40p程度の溶 岩を用いて石列等によって組まれている。アフィを拝む方向に祭壇 が位置し、祭壇に向かって左側に祭儀を行う際の大宮司席、公文・ 案主席、献運営饌所が、向かって右側に別当・供僧席が設けられて いる。写真遥拝所の写真図遥拝所の平面図・石鳥居境内地の南端に 、石鳥居が建てられている。昭和6年(1931)に建立されたも のである。・参道石鳥居から籠屋まで参道が続いている。B3村山 浅運営間神社図以下に示す要素が点在している平面図・元村山溶岩 流村山浅間神社は、新富士旧期溶岩の元村山溶岩流末端部付近にあ たる。見付の間は平地で、両見付から先は急傾斜地となっている。 村山地区は標高が高く、他の集落と急傾斜地で隔絶された一運営段 高い場所に位置する。・水源地(竜頭ヶ池)社叢東側に「竜頭ヶ池 」と呼ばれる湧水池があり、水垢離や生活用水として利用されてき た。またこの湧水を水源とする村山沢は南流して渓谷を刻み神社西 側から大沢川となる。これらの水源は、村山の集落運営を成立させ た要因の一つである。・御神木(イチョウ、大スギ)[イチョウ] −54−昭和43年(1968)7月2日に県天然記念物に指定さ れた。目通り8m、根回り9.15m、樹高26m、枝張り東西1 9m南北14mで、樹勢よく乳状下垂気根運営の発達も著しい。気 根が数多く垂下する。気根の先端に針を刺して祈願すると妊産斬藻
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218 :底名無し沼さん (JP 0Hab-uWgP [91.207.174.171])[sage]:2019/02/15(金) 02:43:14.70 ID:N47M/vX9H - 乳の出がよくなると伝えられ、女性の信仰を集めていた。また以前
はウロの中に大日如来が祀られていたといわれ、現在でも祭祀でし め縄を張る。[大スギ]昭和31運営年5月24日に県天然記念物 に指定された。村山浅間神社の御神木と称される巨木である。境内 の多くのスギの中で最大のもので目通り9.9m、枝張り東西17 .5m、南北31m、樹高47mもある。中心部には高さ8mに及 ぶ空洞がある。案内板で運営は約1,000年の樹齢とされる灰淡
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219 :底名無し沼さん (JP 0Hab-uWgP [91.207.174.171])[sage]:2019/02/15(金) 02:51:15.08 ID:N47M/vX9H - 実際にはおよそ400〜600年と推定される。・社叢境内には胸
高直径0.7m以上のスギが39本ある。アカガシ3本、スダジイ 1本などの大樹も見られるが、裏山の大半は戦後植樹されたヒノキ やスギである。運営富士宮市の保存樹林に指定されている。・浅間 神社社殿村山浅間神社社殿は、神仏分離令によって境内社富士浅間 七社を相殿として造られ、中座に木花開耶姫命、左座に大山祗命、 彦火々出見命、瓊々杵命、右座に大日霊貴(天照大神)・伊弉諾尊 ・伊弉運営冉尊を祀っている。現在の社殿は大正2年(1913) に改築されたものだが、幣殿と拝殿は老朽化したため、その後さら に鉄筋コンクリート一部木造に建替えられている。写真社殿の写真 図社殿の図面・大日堂(興法寺)鎌倉時代の文保年間(1317エムソ ゙ネ〜1318)に、末代上人の流れをくむ頼尊が村山に興法寺を開 いたと伝えられている。その興法寺の建物として現存する唯一の堂 で、アフィの本尊である大日如来を主尊とする。現在の建物は、部 材の状況や絵様彫刻の特徴などから江戸時代末期の建造運営と考え られるが、外壁は波鉄板板張りに変えられている。桁行5間・梁間 7間、入母屋造、鉄板葺きで、南面に出入り口を開き、前面と両側 面に幅一間の回り縁を巡らしている。写真社殿の写真図社殿の図面 ・水垢離場山伏修行者及び修験者が、富士登拝運営の道者が垢離を とって身を浄めた場所で、間口約6.5m、奥行き約4mの長方形 で、深さ約0.6mに掘り込み、底に石を敷きつめ周囲は石積みと なっている。造成年代は不明。水垢離場へは社叢裏手の沢に湧く龍 頭池湧水を引き、上の段から樋で落と運営し垢離を取るようにして ある。水の落ち口には山伏修行のときの主尊とされる不動明王の石 像が安置されている。写真水垢離場の写真・護摩壇大日堂東側にあ り、正面には不動明王の石像が祀られている。護摩壇は、四囲を石 で囲んだ一辺5.3mの丸い運営石組となっている。丸い石組の前 に置かれた葛石には、「干時安政四年九月」と刻まれ、安政4哀残
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220 :底名無し沼さん (JP 0Hab-uWgP [91.207.174.171])[sage]:2019/02/15(金) 02:59:16.69 ID:N47M/vX9H - 1857)造立と考えられる。周囲の正方形の石組みと中央の丸い
石組みは石材に違いが見られ、造成時期が異なっているものと思わ れる。写真護摩壇の運営写真・氏神社(高嶺総鎮守社)−55−護 摩壇裏手の一段高くなったところに末代上人を祀る大棟梁権現社が あったとされる。しかし、神仏分離令により廃され、代わりに村山 浅間神社社殿と大日堂の間から裏山に登ったところに大棟梁権現社 を遷し「富運営士大神社(祭神大己貴命)」として祀られた。現在 は「高根総鎮守」と呼ばれ、元村山集落の氏神社となっている。「 明治十八年五月十七日奉再建冨士大神社」と記された棟札が残され ている。現在の社殿は、平成15年に再建された。・石鳥居村山浅 間運営神社へと登る石段の途中に、石鳥居が建てられている。昭和 28年(1953)に建立されたものである。・氏神社鳥居氏神社 (高嶺総鎮守社)へと登る参道の入口に、鳥居が建てられている。 平成15年の再建に合わせて建てられたものである。・手水運営舎 (手水鉢)村山浅間神社へと続く参道入口の左側に、手水舎が設置 されている。明治16年(1883)に設置されたものである。・ 石段(参道)段の入り口が、村山浅間神社へ続くものと、大日堂へ 続くものの2本が平行して造られている。・狛犬昭運営和5年に奉 納された狛犬2体が、参道脇に設置されている。B4須山浅間神社 図以下に示す要素が点在している平面図・社叢樹齢500年を超え るスギの巨木が22本あり、中には樹高37m、目通りの太さが7 mを超えるものも見られる。社叢全体が市運営指定天然記念物とし て保護されている。・社殿大禰宜・渡邊対馬守安吉の社伝旧記によ れば、天元4年(961)に駿河国司・平兼盛が社殿を修理したと の記録がある。その後の記録として社殿の存在が確認できるのは、 大永4年(1524)と記された運営修築時の棟札による。現在の 社殿は、文政6年(1823)に再建されたとされている。写真社 殿の写真図社殿の図面・神輿殿須山浅間神社の例大祭で使用さ目算
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221 :底名無し沼さん (JP 0Hab-uWgP [91.207.174.171])[sage]:2019/02/15(金) 03:07:15.11 ID:N47M/vX9H - 神輿を納めた神輿殿が、境内地西側に建てられている。・狛犬境内
には、社殿前と石段手前運営の参道脇に計二対の狛犬が設置されて いる。社殿前の一対は平成12年に、参道脇の一対は平成13年に 奉納されたものである。・灯籠参道の両脇に灯籠が建てられている 。登り口のものは平成13年に、階段を登ったところにあるものは 、それぞれ寛保運営2年(1742)、文政6年に奉納されたもの である。・手水舎石段に至る参道の脇と、社務所西側の2箇所に、 手水舎が建てられている。社務所そばには、文政7−56−年と刻 まれた水盤も置かれている。・参道鳥居から10mほどは石畳が敷 かれ、運営その後社殿の位置する高台へ登るためにコンクリート製 の階段が続いている。・鳥居参道入口には、朱塗りのコンクリート 製の鳥居が建てられている。昭和41年(1966)に奉納された ものである。・石碑鳥居の東側に、郷社として奉幣を受けていたエムソ ゙ネことを示す碑が建てられている。・古宮神社八坂大神、八幡大神 、愛鷹大神、子安大神、疱瘡守護神を祀る境内社である。覆屋の中 にあり、旧本殿と推測される建物である。B5冨士浅間神社図以下 に示す要素が点在している平面図・社叢(浅間の杜)社運営殿周囲 と、参道の南側に社叢が広がっている。特に参道南側の部分を浅間 の杜と呼び、静岡県や小山町の天然記念物である大樹が生育してい る。・ハルニレ昭和38年(1963)2月19日に静岡県の天然 記念物に指定された。根回り約6m、目通り4運営m、樹高24. 50m、枝張東西28.10m、南北23.50m、樹齢約500 年。北日本の山地に多い落葉高木で、静岡県では極めて少なく当社 以外の小山町内では数本しか見当たらないが、境内には10本が生 育している。・エゾヤマザクラ昭和5運営8年5月1日に小山町の 天然記念物に指定された。樹齢約130年で、根回り2.08m、 目通り1.75m、樹高約10m、枝張東西13.8m、南北9. 5m。別名をオオヤマザクラと称するヤマザクラの北方型で、競稚
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222 :底名無し沼さん (JP 0Hab-uWgP [91.207.174.171])[sage]:2019/02/15(金) 03:15:15.33 ID:N47M/vX9H - 県が南限である。県内ではま運営れな樹種である。・根上がりモミ
平成3年5月1日に小山町の天然記念物に指定された。樹齢約30 0年で、根回り4.61m、目通り3.07m、樹高27m。この 根上り群は約150年生のモミの根本にブナ、イヌシデの種子が生 え、宝永噴火の火山運営灰土が、降雨により流亡しながらモミが成 長したため、根が爪を立てた状態で生育し、根上がりになったと考 えられる。縁結びの木とも呼ばれている。・社殿平成18年8他曇
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223 :底名無し沼さん (JP 0Hab-uWgP [91.207.174.171])[sage]:2019/02/15(金) 03:23:13.91 ID:N47M/vX9H - 4日に小山町の文化財(建造物)に指定された。宝永噴火により大
きな損害を運営受けたが、享保3年(1718)に再建された。そ の後蟻害や老朽化により改修したものの、部材は享保年間(171 6〜36)のものが今なお使用されている。社殿は本殿・幣殿・拝 殿が連結した権現造である。拝殿は入母屋造で千鳥破風を据え、本 殿運営は享保年間の遺構を残した流造りとなっている。−57−構 造は、拝殿が桁行5間・梁間2間の入母屋造で、向拝1間、正面千 鳥破風付。幣殿が桁行3間・梁間2間の両下造。本殿が三間社流造 、向拝1間、屋根は全て銅板葺きとなっている。写真社殿の運営写 真図社殿の図面・楼門二階建ての随神門で、上層の周囲に高欄付き の縁を巡らしている。北の櫛岩窓神、南の豊岩窓神が随神として配 神されている。宝永噴火により社殿とともに大破しており、現在の ものは明和4年(1767)随神が寄贈された当時運営に再建され たものと考えられる。楼門の構造は、三間一戸楼門、茅葺型入母屋 造、銅板葺き。軒廻りは二軒繁垂木に組物は出組で、腰組も二手先 としている。・参道大鳥居参道入口には、花崗岩の石鳥居が建てら れている。春日造で、額束には「不二山」運営と刻まれている。明 治33年(1900)に奉納された。・裏参道鳥居西側駐車場から 本殿へ至る裏参道の入口に石鳥居が建てられている。・富士塚狛犬 楼門前参道の両側に、富士塚が築かれ、その上に狛犬が置かれてい る。・富士講講碑群明治より昭和運営にかけて、各地の富士講より 寄進された記念碑が多く残されている。多くは、数多く富士登山が 成就されたことを感謝し、先達や講名を高く掲げ信仰の証としたも ので、境内地の西側部分裏参道周辺に、多くの碑塔が建てられてい る。写真富士講講碑群の運営写真図富士講講碑群の配置図B6河口 浅間神社図以下に示す要素が点在している平面図河口浅間神社は、 864〜866年に北麓で起こった噴火を契機に、北麓でも浅間神 社が建てられることになったが、その神社である可能性が高い冊築
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224 :底名無し沼さん (JP 0Hab-uWgP [91.207.174.171])[sage]:2019/02/15(金) 03:31:12.80 ID:N47M/vX9H - 在もアフィと密運営接に結びついた宗教行事を行っており、歴史的
背景と相俟って、アフィ信仰を語る上で欠かすことのできない資産 である。顕著な普遍的価値を構成する諸要素として、富士信仰の拠 点でもある本殿などの建造物群や境内地などがある。・社殿、鳥居 河口浅運営間神社創建は、平安時代の865年に遡る可能性がある 。建立目的はアフィの噴火を鎮めるためであり、当時のアフィ及び 噴火ということに対する当時の考え方を理解することができる。鳥 居は1697年に谷村藩主秋本喬知の再建。銅製の扁額に記されエムソ ゙ネた「三国第一山」の書は輪王寺宮公弁親王の筆とされる。写真社 殿の写真図社殿の図面B7冨士御室浅間神社図以下に示す要素が点 在している平面図−58−冨士御室浅間神社は、8世紀初めに吉田 口登山道二合目に祭場をしつらえたのが最初とされ、富運営士山中 に祀られた最初の神社であるとする文献もある。二合目本宮(もと みや)へは冬季の参拝に苦渋するため、958年、河口湖畔に現在 の里宮が建立されたという。現在は二合目にあった社殿も里宮の広 い境内に敷地内に移設されている。修行や登拝運営といった様々な 富士信仰の拠点として位置づけられる二合目の本宮と、土地の産土 神としての里宮が一体となって機能してきた。顕著な普遍的価値を 構成する諸要素としては、信仰拠点である二合目や本殿などがある 。・吉田口二合目吉田口登山道二合目運営に御室浅間名字(本宮) が鎮座した。御室浅間神社は木花開耶姫を祭神とし、創立年代は詳 らかでないが、社殿には和銅元年(708)に祭場をしつらえたの が最初とされる。冨士山中最初の社という。なお、平安末期には浅 間神の信仰に修験道が習合し運営て、アフィが霊験所の一として広 く知られていた。冨士修験の信仰拠点は南口の村山であるが、北口 の二合目、御室の地にも山内の信仰拠点として行者堂が設置されて いた。・本殿本殿は、1612年に当時の甲斐国都留郡領主であっ た鳥居土佐守成次に運営よって桃山時代建築様式の神社建物に寿序
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225 :底名無し沼さん (JP 0Hab-uWgP [91.207.174.171])[sage]:2019/02/15(金) 03:39:14.39 ID:N47M/vX9H - されたことが棟札から明らかにされている。大規模な入母屋造りの
一間社で棟の高さは9.3m、屋根は檜皮葺形の銅板葺である。蟇 股や軒唐破風妻などにも彫刻を飾るなど、桃山建築様式の特色が見 られる。内運営部の色彩も当初のものを良く残しており、建築年代 の確実なこの時期の遺構としては大変貴重な建造物である。写真本 殿の写真図本殿の図面B8御師住宅図御師住宅の位置図御師住宅は 、富士講徒の案内をし、宿泊の世話や祈祷を行った御師の住宅兼宿 坊運営である。御師屋敷の多くは短冊状をなし、表通りに面して引 き込み路を設け、敷地を流れる水路の奥に建物がある。顕著な普遍 的価値を構成する諸要素として、最古の部類に入る旧外川家住宅な どがある。・旧外川家主屋、離座敷、中門主屋は妻入り形式運営の 典型的な御師住宅であり、棟札から1768年に建設されたもので あることが判明している。また、主屋は「平面座敷型」をとってお り、近世になって御師住宅の様式が確立される以前の御師住宅とし て最古の部類の建築物である。離座敷は、富士講が運営盛んになる ととともに主屋だけでは収容人数に限りがあるなどの理由から主屋 の東側に増設されたとみられる。ただし、御神殿が上段・下段の続 きの手前に配置され、上吉田の一般的な御師住宅に比して独自の構 成を有している。写真主屋等の写真図旧外運営川家住宅現状平面図 等・小佐野家主屋、蔵主屋は一部二階、切妻造、妻入の居室及び座 敷部の前面北寄りに台所部を背面南寄りに神殿部を付設した形式に なる。居室及び座敷部は間口11.8m、奥行き15.5m、正面 南寄りに式台、背面北寄りに庇、運営北側面には下屋を設ける。蔵 は主屋台所の前方に建つ。土蔵造りであるが、東西に庇を付けた切 妻造、板張りの覆屋をかけてい−59−る。この住宅は、部分的な 改変や増設がみられるほか保存がよく、富士講御師の住宅としての 形態を、屋敷地も含めて運営そのまま残している。全国でも比較的 少ない社家の一遺例として重要である。写真主屋外観写真図小定循
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226 :底名無し沼さん (JP 0Hab-uWgP [91.207.174.171])[sage]:2019/02/15(金) 03:47:14.06 ID:N47M/vX9H - 家住宅現状平面図B9山中湖図以下に示す要素が点在している平面
図アフィ周辺の湖を巡って修行する内八海巡りが多くの富士講徒に よって行われた運営が、いつの時代も変わらず巡拝の対象として数 えられている。また、景勝の地でもあり、多くの芸術作品とゆかり が深い。顕著な普遍的価値を構成する諸要素として、自然地形(湖 水)などがある。写真山中湖の写真B10河口湖図以下に示す要素 が点在運営している平面図アフィ周辺の湖を巡って修行する内朕式
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227 :底名無し沼さん (JP 0Hab-uWgP [91.207.174.171])[sage]:2019/02/15(金) 03:55:13.25 ID:N47M/vX9H - 巡りが多くの富士講徒によって行われたが、いつの時代も変わらず
巡拝の対象として数えられている。また、景勝の地でもあり、多く の芸術作品とゆかりが深い。顕著な普遍的価値を構成する諸要素エムソ ゙ネとして、自然地形(湖水)などがある。写真河口湖の写真B11 忍野八海図以下に示す要素が点在している平面図忍野八海は、富士 山の伏流水による八つの湧水地で、それぞれに八大竜王を祀る冨士 信仰に関わる巡拝地(霊場)であった。顕著な普遍的価運営値を構 成する諸要素として、自然地形(湧水)がある。B12船津胎内樹 型図以下に示す要素が点在している平面図船津胎内樹型は、167 3年に富士講の指導者である村上光清により発見され、富士講の開 祖である長谷川角行が洞穴に祀った浅間明神が運営遷宮された溶岩 樹型である。顕著な普遍的価値を構成する諸要素には、宗教的な意 義付けがされている地形空間(溶岩樹型)などがある。・胎内樹型 船津胎内樹型は、承平噴火(937)で流出した剣丸尾第1溶岩流 の西縁に所在する。本穴自体も大小様運営々な樹型が複雑に交叉し て形作られている。本穴の側面では垂れ下がった溶岩が肋骨のよう に見え、そのうえ溶岩は鉄分のため赤色を帯び、あたかも内臓を摘 出したあとの胸控の如く見える。胎内の名称はこれに基づくもので あり、極めて貴重な形態と言運営える。・無戸室浅間神社・石造物 群1673年、富士講道者村上光清により現船津胎内樹型が発見さ れ、開祖が祀った焼入の地の浅間明神が遷宮された。浅間明神誕生 の地ともいわれ、無戸室(むつむろ)に火を放ち、無事に御子を出 産したという故事に運営倣い社号を無戸室浅間神社と名付けた。− 60−B13吉田胎内樹型図以下に示す要素が点在している平面図 吉田胎内樹型は、1892年に富士道者によって整備された「お胎 内」(溶岩樹型)である。顕著な普遍的価値を構成する諸要素には 、宗教的な運営意義付けがされている地形空間(溶岩樹型)などが ある。・胎内樹型吉田胎内樹型は、承平噴火(937)で流出蹴校
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228 :底名無し沼さん (JP 0Hab-uWgP [91.207.174.171])[sage]:2019/02/15(金) 04:03:11.50 ID:N47M/vX9H - 剣丸尾第1溶岩流の東縁に所在する。本穴の側面では垂れ下がった
溶岩が肋骨のように見え、母の胎内に似ているため、浅間大菩薩( 木運営花開耶姫)出世の御胎内として信仰の対象となった。・洞内 の石祠、石造物群吉田胎内の本穴の奥には、石祠があって富士講に とってのアフィの祭神である木花開耶姫が祀られている。樹型内に 入ると横穴の正面には、食行身禄を祀る石祠がある。B14運営人 穴富士講遺跡(人穴浅間神社)図以下に示す要素が点在している平 面図・犬涼み溶岩流人穴付近は、新富士火山旧期溶岩(約11,0 00年前から約5,000年前)に属する犬涼み溶岩流の末端部近 くに位置している。犬涼み溶岩流は、標高1,20運営6mの犬涼 み山から噴出し、西方に約5q、標高差にして約700mの扇状地 をつくる溶岩流である。写真溶岩流の写真図溶岩流の詳細図・溶岩 洞穴人穴溶岩洞穴は、天正年間に富士講の開祖、長谷川角行が千日 の行を行ったとされる洞穴である。犬涼み運営溶岩流の中に存在す る19箇所の溶岩洞穴のうち、西端部の最も低い位置にあり、溶岩 が流れ下るとき溶岩表面が冷やされて固化した後、内部の溶けた溶 岩が抜けて空洞ができたものである。洞穴の南西の端が進入口とな り、洞穴中央部でくの字型に曲が運営っている。入口から約30m の屈曲部手前中央には、直径約5mの溶岩柱がある。全体として幅 広く、奥に入ると広々として平坦な空間となっている。最奥部まで は約80mで、そのまま閉塞していると考えられる。写真溶岩洞穴 の写真図洞穴の図面・社運営叢(周辺の植生)人穴集落では主に製 炭と農業を中心とした生活が営まれたため、薪炭材のコナラ・クヌ ギ等を中心に育林していた。しかし、昭和30年代に薪炭の消費が 減少し、境内地とその周辺は建材としてのヒノキ・スギに改植され た。御神木に相運営当する大樹等は存在しない。・碑塔群人穴浅間 神社の境内地には、富士講信者が建立した232基の碑塔が存在す る。そのうち碑塔に建立年が刻まれたもの89基についてみる墳看
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229 :底名無し沼さん (JP 0Hab-uWgP [91.207.174.171])[sage]:2019/02/15(金) 04:11:09.46 ID:N47M/vX9H - 一番古い碑塔は寛文4年(1664)建立のものである。建立目的
によっ運営て大きく分類すると、個人の戒名や行名を記した墓碑・ 供養碑である「墓碑供養碑」、修行による大願成就を祈願する「祈 願奉納碑」、個人の富士登拝や講の人穴参拝を記念する「顕彰記念 碑」の3種とそれ以外に整理される。「墓碑供養碑」が最も多いエムソ ゙ネ。−61−写真碑塔群の写真図碑塔群の配置図・参道洞穴入口や 浅間神社社殿のある平場へ至る参道が、境内地内を南から北へ伸び ている。現在はコンクリートで覆われている。・建物跡大小2つの 建物跡が人穴洞穴直上の平場で検出されている。西側に運営規模の 大きな1棟と、その東側にやや小規模の1棟があり、大規模なもの の方がより古い遺構とみられる。また建物跡の周辺には石積みが施 されている。・参道跡建物跡へ向かう参道跡が、建物跡南側の平場 から斜面を下り、井戸跡の所在する平地まで約運営34m続いてい る。溶岩角礫や露出している溶岩を利用して21段の石段が構築さ れている。・道跡2本の道跡と思われる石列が参道跡の上り口、石 垣の西側に位置する。建物跡と洞穴や碑塔群などを結ぶ機能を有し ていたと考えられる。・炭焼窯跡指定運営地の北側を通る林道に沿 って、5箇所の炭焼窯跡が検出されている。昭和初期まで使用され ていたものであるが、富士講に関わる遺構は検出されていない。・ 井戸跡参道跡の南側に位置する。内部が溶岩角礫や土砂によって埋 没し、涸れ井戸となっている運営。B15白糸ノ滝図以下に示す要 素が点在している平面図・古富士泥流堆積物山体が崩壊した際に崩 れた土砂が堆積した地層であり、古富士火山の一部を形成するもの である。この地層は、塊状礫岩と平行層理を持つ砂岩が不規則に互 層しているものであ運営る。写真写真・白糸溶岩流新富士火山の土 台となっている溶岩流のひとつであり、白糸ノ滝付近0.3平方キ ロメートル程度にある。白糸溶岩流は4枚の溶岩流層からなると考 えられており、白糸ノ滝では2枚の溶岩流層が確認できる。溶設硬
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230 :底名無し沼さん (JP 0Hab-uWgP [91.207.174.171])[sage]:2019/02/15(金) 04:19:11.16 ID:N47M/vX9H - 層の境目に運営はマグマの急冷時に形成された粉砕部(クリンカー
)が発達している。また、溶岩流内部には、マグマが冷え固まった 際の収縮により形成された縦方向の割れ目(柱状節理)が存在する 。白糸ノ滝は、地質の特徴上、次のようなメカニズムで崩落を繰り 返運営していると考えられている。白糸の滝は、最近10年間の平 均で日量約15.6万トンの湧水量が見積もられており、この多量 の水の落下は、白糸溶岩流に比して軟弱な古富士泥流堆積物を覇諭
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231 :底名無し沼さん (JP 0Hab-uWgP [91.207.174.171])[sage]:2019/02/15(金) 04:27:10.72 ID:N47M/vX9H - に浸食する。やがて、下部が抉り取られることで上部の溶岩運営流
はオーバーハング状態となり、自重に耐えられなくなった時点で自 然崩落する。この作用が繰り返され、崖線が後退し続けていると考 えられる。また、白糸溶岩流内の柱状節理は浸食に弱く、滝の後退 を早める一因と指摘されている。白糸ノ滝は、1年運営に約2セン チメートルの割合で北側に後退しているという計算もある。音止の 滝も、白糸ノ滝と同様の地質であり、同様のメカニズムで崩落−6 2−を繰り返していると考えられている。写真溶岩流の写真図溶岩 流の拡散図・白糸ノ滝白糸の滝は、高さ約運営20メートル、長さ 約120メートルに渡り馬蹄状に広がる崖面の各所から湧出した水 が、数多の白い糸を垂らしたように流れ落ち、滝となったものであ る。白糸ノ滝周辺の地質は、下部に不透水層である古富士泥流堆積 物があり、上部に透水性のある白運営糸溶岩流があると考えられて いる。アフィ麓に降った雨水は、上部の溶岩流を透過し、下部の不 透水層との境目を流れ下っていると考えられている。白糸の滝は、 両層が崖面として露出しており、両層の境目や上部の溶岩流の間か ら水が湧出している様子運営が確認できる。写真滝の写真(音止の 滝も同時に掲載)・音止の滝音止の滝は、「音無の滝」とも呼ばれ 、白糸の滝と台地を隔てた東側に位置する。主瀑は落差約25メー トルを流れ落ちる芝川の本流であり、轟音を轟かせている。崖面で は、白糸の滝同運営様の地層が観察され、湧水が見られるが、白糸 の滝に比して水量は少ない。・鬢撫水鬢撫水は、「お鬢水」とも呼 ばれ、白糸の滝の崖上にある。鬢撫水は、湧水が池となったもので あり、その水は白糸の滝の一部として流れ落ちている。また、ここ には「運営駒繋石」、「弁当(行厨)石」、「杓子石」等の名前の ついた石があったとされるが、現在は不詳である。・植物白糸の滝 の両岸の崖上には樹木が生い茂っている。また指定地内には、メヤ ブソテツ、ユリワサビ等特色ある植物相がある。・富士講「白糸エ墓捕
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232 :底名無し沼さん (JP 0Hab-uWgP [91.207.174.171])[sage]:2019/02/15(金) 04:35:10.89 ID:N47M/vX9H - ゙ネノ滝」には、江戸時代中期以降江戸で隆盛した富士講の祖長谷川
角行にまつわる伝承がある。角行は白糸の滝で垢離をとり修行を行 ったとされ、富士講の信者の中には白糸の滝を訪れる者や、白糸の 滝で修行を行う者がいたことが知られている。幕末の資運営料には 、白糸の滝で垢離をとり修行を行った富士講の信者の記録がある。 指定地内には富士講の信者が建てた石碑があり、「仙元大神」と記 されたもの(市道沿い)や、「食行身禄」と記されたもの(白糸の 滝滝つぼ右岸)等がある。・白糸の滝の勝景白運営糸の滝の、数多 の白い糸を垂らしたように落ちる優美な勝景がある。写真景勝の写 真・音止の勝景音止の滝の、轟音をたてて落ちる雄大な勝景がある 。写真景勝の写真・アフィの展望指定地では、白糸の滝と音止の滝 の勝景とともに、見事なアフィが望ま運営れる。写真展望の写真・ 富士の巻狩の伝承「白糸ノ滝」には、建久4年(1193)に源頼 朝が行ったいわゆる富士の巻狩にまつわる伝承がある。音止の滝の 名前は、富士の巻狩に関係する曽我兄弟の仇討ち伝承に由来するも ので、兄弟が仇討ちの相−6運営3−談をしている間は水音を止め たことから名づけられたという。また、鬢撫水には、富士の巻狩の 折に源頼朝がここで鬢のほつれを直したという伝承がある。・歌碑 「白糸ノ滝」の勝景は古くから詩歌に詠まれてきており、白糸の滝 滝つぼ右岸には白糸運営の滝の勝景を詠んだ歌碑がある。・標識名 勝及び天然記念物であることを明示する標識がある。B眺望C三保 松原図以下に示す要素が点在している平面図三保松原は、静岡市清 水区南東部に位置する三保半島にあり、半島の東岸真崎から海岸線 に沿い、南運営北に約4キロメートルに及ぶ松林と内陸部に散在す る松林が主体をなしている。真崎から海岸線に沿う松林は、国有地 又は市有地が大半を占めているが、内陸部の松林と松林の景観を維 持している背後地については、ほとんどが民有地となっている。松 林運営には、300年を経た老木から幼令木が約54,000救救
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233 :底名無し沼さん (JP 0Hab-uWgP [91.207.174.171])[sage]:2019/02/15(金) 04:43:09.35 ID:N47M/vX9H - 幅広く分布している。図三保松原の地区区分図表地区区分詳細表地
区境界@特別規制A地区真崎灯台の内海側の第2種規制地区との境 界は、隣接する特別規制B地区と第2種規制地区との境界(運営松 が途切れる所)の延長線上とする。A特別規制B地区特別規制A地 区との境界は防潮堤外側とし、その他の規制地区との境界は、羽衣 参道は道路外側、それ以外は平成元年4月1日現在において松原を 形成している地区、ただし、真崎先端の境界は真崎運営灯台と建設 省財産、運輸省財産及び民地側の境界を結んだ線とする。B第1種 規制地区真崎付近の第2種規制地区及び第3種規制地区との境界は 、都市計画道路の中心線とし、字広道の第2種規制地区との境界、 字羽衣脇の三保第一小学校を中心とする第運営2種規制地区との境 界及び大字折戸地区における第2種規制地区との境界は、隣接する 道路の中心を境界とする。ただし、羽衣参道西側の第2種規制地区 との境界は、羽衣参道中心より25mの位置とする。C第2種規制 地区真崎付近第3種規制地区との運営境界は、市道本村海岸58号 線の中心の延長を境界とする。その他の地区との境界は、@ABを 参照。D第3種規制地区各地区との境界はABCを参照。(2)顕 著な普遍的価値を構成する諸要素と密接に関わる諸要素@自然地形 構成資産の土地には、山運営並み、湧水やアフィ及び側火山の噴火 等の火山活動によって形成された溶岩樹型などの自然地形が見られ 、構成資産を成立させる重要な要素となって存在しているものもあ る。アアフィ山体及び登山道Aアフィ−64−・テフラ噴火の際、 山頂火口から粘運営性の小さい玄武岩質のテフラと溶岩を繰り返し 多量に噴出したため、山頂付近はテフラに覆われている。・大沢崩 れ「八百八沢」と呼ばれる多くの浸食谷の中で最も大きなもので、 アフィ西斜面の山梨県との県境に位置する。山頂直下から標高2, 200運営m付近まで延長2.1q、最大幅約500m、最大深さ 約150mに渡る。崩壊は現在も進行中で年平均約15万〜の職稲
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234 :底名無し沼さん (JP 0Hab-uWgP [91.207.174.171])[sage]:2019/02/15(金) 04:51:07.53 ID:N47M/vX9H - ・土砂を流出し、大沢川流域に扇状地を形成している。写真大沢崩
れの写真図大沢崩れの図面A1山頂信仰遺跡なしA2大宮・村山エムソ ゙ネ口登山道・日沢(浸食谷)日沢はアフィの浸食谷の1つで、村山 口登山道跡とほぼ並行に山腹を南下していく。村山口登山道跡とは 、中宮八幡堂跡の東側(標高1,280m付近)及び、6号建物跡 と7号建物跡の間(標高2,015m付近)で交差する運営。2, 015m付近には、日沢の上に巨石があり、自然の橋のような静虹
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235 :底名無し沼さん (JP 0Hab-uWgP [91.207.174.171])[sage]:2019/02/15(金) 04:59:08.78 ID:N47M/vX9H - になっており、横渡と呼ばれる。登山道はここで日沢の左岸から右
岸に渡る。写真日沢の写真A3須山口登山道起伏に富んだ自然地形 をなし、粘性の小さい玄武岩質のテフラと溶岩運営を繰り返し多量 に噴出したため、テフラに覆われている。A4須走口登山道起伏に 富んだ自然地形をなし、粘性の小さい玄武岩質のテフラと溶岩を繰 り返し多量に噴出したため、テフラに覆われている。A5吉田口登 山道二合目から三合目にかけて見られ運営る古富士火山からの泥流 堆積物、二合目付近で見られる玄武岩溶岩の滑床及び縄状溶岩など 様々な地質・地形が火山活動により形成されている。A6北口本宮 冨士浅間神社A7西湖A8精進湖A9本栖湖地質学的にみると湖の 北側、西側、南側は御坂基盤運営層により構成されているが、東側 新富士火山の旧期の溶岩、さらにそれらを覆う形で青木ヶ原溶岩が 分布している。この溶岩流については水中に流入して形成された水 底溶岩の可能性も指摘されている。(久野久(1968)水中自破 砕溶岩)また本栖湖運営畔のボーリング調査において43mより上 位は新富士火山の特徴が示され、それより深いところは古富士火山 の特徴を示している。その時期は概ね30,000年前以降の溶岩 主体のアフィ起源の火山活動が確認−65−されている。イ信仰B 1アフィ本運営宮浅間大社・鏡池楼門前の池で一名眼鏡池とも言わ れる。参道を挟んで両側に丸く池が広がっている。寛文10年(1 670)の絵図では、ここから流れる水が御手洗川に流れ込んでい る。写真鏡池の写真B2山宮浅間神社構成資産の土地には丘陵や河 川運営などの自然地形が見られ、構成資産を成立させる重要な要素 となって存在しているものがある。B3村山浅間神社構成資産の土 地には丘陵や河川などの自然地形が見られ、構成資産を成立させる 重要な要素となって存在しているものがある。B4須山浅間運営神 社構成資産の土地には丘陵や河川などの自然地形が見られ、構成資 産を成立させる重要な要素となって存在しているものがある。研委
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236 :底名無し沼さん (JP 0Hab-uWgP [91.207.174.171])[sage]:2019/02/15(金) 05:07:07.35 ID:N47M/vX9H - 須走浅間神社・信しげの滝(清めの滝)境内地の池で汲み上げた水
が、石鳥居南側の「信しげの滝」まで流れている。運営B6河口浅 間神社B7冨士御室浅間神社B8御師住宅中門をくぐると川(水路 )が流れており、かつては当家に宿泊する富士講の禊ぎの場となっ ていた。B9山中湖B10河口湖B11忍野八海B12船津胎内樹 型・構成岩石質、地質学的形状(平面的、運営立体的)等B13吉 田胎内樹型溶岩流の流出時の表面の状態がほぼ保たれている。地域 を覆う玄武岩溶岩流をはじめ、スコリアなどの火山活動に伴う噴出 物が顕著に見られる。B14人穴富士講遺跡(人穴浅間神社)−6 6−構成資産の土地には丘陵や河運営川などの自然地形が見られ、 構成資産を成立させる重要な要素となって存在しているものがある 。B15白糸の滝構成資産の土地には丘陵や河川などの自然地形が 見られ、構成資産を成立させる重要な要素となって存在しているも のがある。ウ眺望C三保運営松原なしA森林、植栽樹木構成資産の 土地には、アフィの景観を構成している天然林、アフィ原始林及び 青木ヶ原樹海、人工林などからなる森林が存在しているほか、社叢 林・境内林などが存在している。アアフィ山体及び登山道Aアフィ 標高3,300運営m付近より上方の地域にコケ類・地衣類が生育 している。A1山頂信仰遺跡なしA2大宮・村山口登山道・草山部 分の植物村山浅間神社から中宮八幡堂跡の下までにあたり、植物の 垂直分布では、丘陵帯から山地帯にあたる。戦後、スギ・ヒノキ・ モミな運営どの植林が行われ、道沿いはほとんどが人工林であるが 、天照教社からアフィ麓山の村を経て中宮八幡堂跡に至る道沿いに は、ブナ・ミズナラ・カエデなどの落葉広葉樹の自然林が残ってい る。林の下にはササ(スズタケ)が視界を遮るほど生い茂っていエムソ ゙ネる。・木山部分の植物中宮八幡堂跡付近から新5合目の森林限界 (2,400m付近)までにあたり、植物の垂直分布では、山地帯 から亜高山帯にあたる。高所に上がるにつれてブナ・カエデな事原
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237 :底名無し沼さん (JP 0Hab-uWgP [91.207.174.171])[sage]:2019/02/15(金) 05:15:06.89 ID:N47M/vX9H - 広葉樹からウラジロモミ・シラビソなどの針葉樹に変わ運営り、標
高1,600m付近で落葉樹とササがなくなる。・焼山部分の植物 森林限界である標高2,400m付近から上で、植物の垂直分布で は高山帯にあたる。この付近の植物は7月下旬から9月上旬にかけ ていっせいに花を咲かせる。オンタデ、ムラサ運営キモメンヅル、 ミヤマオトコヨモギなどが見られる。A3須山口登山道・木山部分 の植物植物の垂直分布では、須山御胎内(標高1,440m付近) 付近は夏緑樹林帯(ブナ・ミズナラ・カエデ類)にあたり、林床に はササ類が密生している。幕岩上部(運営標高1,680m付近) 付近は、針葉樹のシラビソ・−67−オオシラビソ・コメツガなど が多くなるが、森林限界(標高1,700〜1,750m)に近く なるにつれて樹高が低くまばらになる。宝永噴火の際に噴出したス コリアが厚く堆積しているた運営め、須山口登山道付近の森林限界 は、他の登山道よりもかなり低い。・焼山部分の植物須山口登山道 2合8勺(標高2,050m付近)から頂上までは、植物の垂直分 布で高山帯にあたる。オンタデ、イタドリ、フジハタザオ、フジア ザミなどが、まばら運営に分布する。A4須走口登山道・木山部分 の植物植物の垂直分布では、須走口登山道5合目(標高2,000 m)付近は、亜高山針葉樹林帯でシラビソ・オオシラビソ・コメツ ガなどが分布する。須走口登山道の森林限界は約2,700mで、 他の登山道運営よりも高い。・焼山部分の植物森林限界を過ぎると 高山帯となり、オンタデ、イタドリ、フジハタザオ、フジアザミな どが、まばらに分布する。A5吉田口登山道標高1600m付近よ り下方の区域は、山地帯に属する。自然林はごく少なく、ほとんど が運営アカマツ・カラマツなどの植林地である。わずかに残る自然 林では、ミズナラ・ウラジロモミや自生のアカマツ等が生えている 。天然記念物「躑躅原のレンゲツツジ及びフジザクラ群落」が存在 するのもこの地域である。標高1600mから2500m付運護澄
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238 :底名無し沼さん (JP 0Hab-uWgP [91.207.174.171])[sage]:2019/02/15(金) 05:23:04.75 ID:N47M/vX9H - までの区域が亜高山帯にあたり、コメツガ・シラベ・オオシラビソ
の森林を形成している。火山礫の露出した日当たりの良いところに は、ダケカンバが生えている。・焼山部分の植物標高2500m付 近から上の区域は高山帯に当たり、森林は形成され運営ない。植物 はほとんどみられない地域であることから、かつては「焼山」と呼 ばれた。植物の遷移の過程を見ることが出来る場所としても、学術 的価値が高い。ここには、カラマツが匍匐状に生育し、乾燥に舷尽
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239 :底名無し沼さん (JP 0Hab-uWgP [91.207.174.171])[sage]:2019/02/15(金) 05:31:03.71 ID:N47M/vX9H - ミヤマハンノキ・オンタデ・メゲツソウ・運営フジアザミ・ムラサ
キモメンズルなどが生育する。A6北口本宮冨士浅間神社A7西湖 A8精進湖A9本栖湖水辺植物群、沈水植物群にそれぞれ特徴が挙 げられる。イ信仰B1アフィ本宮浅間大社構成資産の土地には、丘 陵を構成する社叢林・境内林など運営のほか、敷地内において植栽 された樹木等が存在している。−68−B2山宮浅間神社構成資産 の土地には、丘陵を構成する社叢林・境内林などのほか、敷地内に おいて植栽された樹木等が存在している。B3村山浅間神社構成資 産の土地には、丘陵を構運営成する社叢林・境内林などのほか、敷 地内において植栽された樹木等が存在している。B4須山浅間神社 構成資産の土地には、丘陵を構成する社叢林・境内林などのほか、 敷地内において植栽された樹木等が存在している。B5須走浅間神 社構成資産の土運営地には、丘陵を構成する社叢林・境内林などの ほか、敷地内において植栽された樹木等が存在している。B6河口 浅間神社B7冨士御室浅間神社B8御師住宅B9山中湖B10河口 湖B11忍野八海B12船津胎内樹型B13吉田胎内樹型B14人 穴富士運営講遺跡(人穴浅間神社)構成資産の土地には、丘陵を構 成する社叢林・境内林などのほか、敷地内において植栽された樹木 等が存在している。B15白糸の滝イロハカエデ、ヤブツバキ等の 自然林や植栽等の植物がある。ウ眺望C三保松原松の生立木が植エムソ ゙ネ栽及び自然植生している。B保存管理又は公開活用を目的とした 建造物構成資産の土地には、保存管理、公開活用のための各種展示 施設・管理棟・防災施設のほか、解説板・誘導案内板等が存在して いる。アアフィ山体及び登山道Aアフィ−69−アフィ運営におけ る標識類総合ガイドラインに沿ったデザインで統一された案内標識 等の整備が進められている。A1山頂信仰遺跡アフィにおける標識 類総合ガイドラインに沿ったデザインで統一された案内標識等の整 備が進められている。A2大宮・村山口登山道運営アフィにお青彫
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240 :底名無し沼さん (JP 0Hab-uWgP [91.207.174.171])[sage]:2019/02/15(金) 05:39:05.56 ID:N47M/vX9H - 標識類総合ガイドラインに沿ったデザインで統一された案内標識等
の整備が進められている。A3須山口登山道なしA4須走口登山道 アフィにおける標識類総合ガイドラインに沿ったデザインで統一さ れた案内標識等の整備が進められてい運営る。A5吉田口登山道富 士山における標識類総合ガイドラインに沿ったデザインで統一され た案内標識等の整備が進められている。A6北口本宮冨士浅間神社 A7西湖A8精進湖A9本栖湖・2006年3月22日より、自然 環境や適切な利用環境の保全運営を図るため、本栖湖水面は動力船 の乗り入れ禁止区域に指定された。こうした規制内容を説明するた めの説明板や水上バイク等動力船乗り入れ禁止看板が湖畔の川尻地 区などに設置されている。・中之倉トンネル脇の山腹は旧五千円札 (現千円札)の裏面運営に使用されているアフィと本栖湖のイラス トのモデルとなった岡田紅陽の写真の撮影地である。国道300号 線沿いの中之倉トンネル脇には四阿を有する展望地がある。自然公 園法の第2種特別地域として、観光施設等も景観に配慮されている 。イ信仰B運営1アフィ本宮浅間大社・渋沢用水(横溝川)神立山 の北側部を流れる渋沢用水(横溝川)は、淀師地区渋沢の湧水地に 源を発し、神立山の北半部を蛇行しながら南東方向へ流れ、富士宮 市中心部を灌漑する用水路である。開削時期は不明であるが水田開 発運営を目的として開削されたと考えられ、開発が進むにつれ生活 用水や防火用水として使われるようになった。現在は水質悪化によ り生活用水としては利用されなくなっている。・社務所−70−楼 門から続く東廻廊の東側に、神社を管理し神社の社務を取り運営扱 う社務所が建てられている。・祈祷殿楼門から続く西廻廊の西側に 、各種祈祷や御祓いを行うための祈祷殿が建てられている。・浅間 大社参集所現在の参集所は昭和53年(1978)に建てられたも ので、直会や各種会合に利用されている。・神田川運営ふれあい広 場施設昭和39年に富士宮市が浅間大社境内地の一部を児童公尋匂
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241 :底名無し沼さん (JP 0Hab-uWgP [91.207.174.171])[sage]:2019/02/15(金) 05:47:04.33 ID:N47M/vX9H - して整備され、さらに平成6年から7年にかけて親水広場を備えた
「神田川ふれあい広場」として再整備された。現在は、同時期に改 修された神田川護岸も含め、中心市街地の運営親水空間として市民 の憩いの場となっている。広場内には、トイレ、各種遊具、ベンチ 、時計、水飲み場等の施設・設備が設置されている。・御手洗橋神 田川ふれあい広場の南東側には、長さ7.3m、幅11.5mの御 手洗橋が架けられている。『大宮運営町誌』には、明治26年(1 893)に架けられたとの記述がある。・弓道場第1駐車場西側に 、弓道場が整備されている。・消防団詰所鉄骨2階立ての富士宮市 消防団第1方面隊第3分団の詰所が、神立山南西の端に建てられて いる。・案内板・説明板運営本殿や湧玉池などが、文化財に指定さ れていることを案内・説明する高札が建てられている。・古神札納 所拝殿東側に、古い神札を納めるための屋根付きの箱が置かれてい る。・大金剛杖古神札納所西側に、大金剛杖が置かれている。開山 祭に使用されて運営いた。・藤棚水屋神社の南側に、藤棚が設けら れている。・駐車場指定地の南西部分には、自動発券機(料金収受 機)を設置した第1駐車場が整備されている。B2山宮浅間神社・ 案内板・説明板籠屋の南側に、案内板等が建てられている。山宮浅 間神社運営の由緒を記したもの、山宮浅間神社の概要と、市指定文 化財であることを記したもの、山宮浅間神社の概要と、富士宮市「 歩く博物館」のコースであることを示すものの3本である。・手す り籠屋から遥拝所へ向かう石段の脇に、手すりが設置されているエムソ ゙ネ。・鉄柱籠屋から遥拝所へ向かう参道と石段の両脇に、祭祀で利 用する鉄柱が設置されている。・トイレ籠屋西側に、水洗トイレが 設置されている。・水道籠屋南側に、コンクリート製の水道施設が 設置されている。−71−・水飲み場水道施設の南側に運営、コン クリート製の水飲み場が設置されている。・ベンチ休憩用のベンチ が設置されている。・鳥居駐車場横の参道に、コンクリート製沼沈
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242 :底名無し沼さん (JP 0Hab-uWgP [91.207.174.171])[sage]:2019/02/15(金) 05:55:03.57 ID:N47M/vX9H - 居が建てられている。・燈篭コンクリート製の鳥居から籠屋へ至る
参道の両側に氏子等が奉納した燈篭が並んで設運営置されている。 また、籠屋北側鉾立石の左右にも1基ずつ設置されている。・駐車 場乗用車3台程を駐車できる駐車場が、県道から入って境内地を横 切る道沿いに設けられている。・石碑山宮浅間神社の由緒を記した 石碑が、駐車場の北側に設置されてい運営る。・石造物参道沿いに は、道祖神、青面金剛、観音等の石造物が置かれている。B3歯困
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243 :底名無し沼さん (JP 0Hab-uWgP [91.207.174.171])[sage]:2019/02/15(金) 06:03:01.58 ID:N47M/vX9H - 浅間神社・社務所境内西側に、社務所が建てられている。・宝物殿
社殿の南西側に、宝物殿が建てられている。・村山公会堂社務所の 西側には、元村山地区の住民運営が、会合等で利用する公会堂が建 てられている。・トイレ社務所北側に、トイレが設置されている。 ・参道手すり氏神社へと登る参道脇には、アルミ製の手すりが設置 されている。・御神木柵県指定天然記念物のイチョウの周囲には、 樹木保護のための柵運営が設置されている。・御神木指定証県天然 記念物に指定されているイチョウと大スギが、御神木に指定された 旨を示す札が、イチョウ周囲の柵と大スギの幹に掲げられている。 ・石柱村山浅間神社が、大正14年(1925)に縣社に昇格した ことを示す運営石柱が、参道入口左側に設置されている。また、昭 和62年(1987)に寄贈された「富士根本宮村山浅間神社」と 刻まれた石柱が、参道入口右側に設置されている。・児童公園六道 坂入り口付近に、すべり台等の遊具を備え、またプールを併設した 児運営童公園が整備されている。・駐車場境内地西端に、参詣者用 の駐車場が整備されている。−72−・村山水道完成記念碑社務所 裏側に、村山水道の完成を記念する碑が建てられている。昭和33 年に建立された。・説明板(アフィ表口真面之図)麓の吉原運営か ら山頂へ至る登山道と、途中のポイントとなる地名、集落を繋ぐ道 等を示した地図が、村山公会堂の北側に設置されている。B4須山 浅間神社・御胎内説明板須山口御胎内の由緒等についての説明版が 、アフィ須山口登山道保存会により、鳥居脇に設置運営されている 。・洞窟内説明板「須山胎内」と書かれた金属板が、洞穴内部壁面 に設置されている。・梯子須山御胎内の北西側入口に、ジュラルミ ン製の梯子が架けられている。・ベンチ・テーブル須山御胎内から 登山道を80mほど進んだ場所に、木製の運営ベンチ2脚とテーブ ル1台が設置されている。・蝋燭台須山御胎内の南東側入口に、木 製の蝋燭台が設けられている。・標識須山御胎内から幕岩まで章誕
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244 :底名無し沼さん (JP 0Hab-uWgP [91.207.174.171])[sage]:2019/02/15(金) 06:11:01.54 ID:N47M/vX9H - 山道脇に、須山口登山道及び須山御胎内を示す標識が設置されてい
る。木製と金属製のものがある。運営御殿場口との合流点より上部 については、茶色と緑色の地に白い文字で統一された登山道案内標 識が設置されている。この標識はアフィにおける標識類総合ガイド ライン(仮称)に沿ったデザイン案で統一されている。B5須走浅 間神社・神馬舎楼門の西運営側に神馬舎が建てられている。・神輿 庫恵比寿大黒社の東側には、例大祭で使用される神輿の格納庫が建 てられている。・あずまや祖霊社の北側には、あずま屋が建てられ ている。・神橋(太鼓橋)県道138号線から、川を渡って参道へ と通じる橋が架運営けられている。・説明板・案内板浅間神社の由 緒、天然記念物の樹木の概要等を記した説明板、参拝路を表示した 案内板等が立てられている。・駐車場社務所東側には、参拝者用の 駐車場乗用車6台分が設けられている。・トイレ神輿庫の東側には 、参拝運営者用のトイレが建てられている。・ベンチ−73−浅間 の杜内には、散策する際に休憩するためのベンチが、6基置かれて いる。・社務所・記念資料館参道入口脇に、神社を管理し社務を取 り扱う社務所と、冨士浅間神社や須走地区の歴史的な資料を保管エムソ ゙ネする記念資料館が併設されている。・須走護国神社西南の役から 太平洋戦争に至る間の、須走の戦没者24名が祀られている。B6 河口浅間神社B7冨士御室浅間神社B8御師住宅旧外川家住宅は、 主屋や離座敷などに旧外川家が有する民俗資料等を展示運営し、定 期的に入れ替えながら御師や御師住宅、富士講などに関する理解を 深めるよう活用されている。B9山中湖B10河口湖B11忍野八 海B12船津胎内樹型船津胎内樹型の管理を行う施設として河口湖 フィールドセンターがある。溶岩樹型に関わる運営資料や自然、生 物等の展示施設をもち自然共生室という研究機関も兼ね備え、洞穴 や周辺環境の価値の普及、洞内環境の保護、入洞者の安全確保に寄 与している。B13吉田胎内樹型吉田胎内樹型に関する解説板拝珠
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245 :底名無し沼さん (JP 0Hab-uWgP [91.207.174.171])[sage]:2019/02/15(金) 06:19:03.23 ID:N47M/vX9H - 梨県・富士吉田市教育委員会により設運営置されている。B14人
穴富士講遺跡(人穴浅間神社)・説明板、案内板洞穴の入口に、人 穴の由緒や市指定文化財であることを記した説明板、碑塔群や洞穴 内の危険に対して注意を促す旨の案内板が4本建てられている。B 15白糸ノ滝なしウ眺望C三運営保松原なしC道路とその他人工物 構成資産の土地には、日常生活を営む地域住民が使用する生活道路 や、富士スバルラインやアフィスカイラインなどの観光道路をはじ めてとして、電柱、看板、誘導標識などをはじめとする各種の建築 物及び工作物が存在運営している−74−アアフィ山体及び登山道 Aアフィ・救急搬送・荷物搬送区域救急用・緊急避難道としての役 割を持つ道路等の施設である。搬送には、ブルドーザーが使われる 。歩道との交差部には、進入禁止柵・注意表示板が設置されている 。A1山頂運営信仰遺跡なしA2大宮・村山口登山道6合目以上で は、登山者の安全確保のため、登山道に沿って鉄杭、ロープ等が設 置されている。A3須山口登山道須山御胎内から幕岩までの登山道 脇に、須山口登山道及び須山御胎内を示す標識が設置されている。 木運営製と金属製のものがある。御殿場口との合流点より上部につ いては、茶色と緑色の地に白い文字で統一された登山道案内標識が 設置されている。この標識はアフィにおける標識類総合ガイドライ ンに沿ったデザインで統一されている。A4須走口登山道登運営山 者の安全確保のため、登山道に沿って鉄杭、ロープ等が設置されて いる。須走口登山道は、茶色地に赤色の帯が入り、白い文字で統一 された登山道案内標識が設置されている。この標識はアフィにおけ る標識類総合ガイドラインに沿ったデザインで統一運営されている 。吉田口登山道が合流する八合目より上部は、さらに黄色の帯が加 わる。A5吉田口登山道アフィにおける標識類総合ガイドラインに 沿ったデザインで統一された案内標識等の整備が進められている。 A6北口本宮冨士浅間神社A7西湖A8精運営進湖A9本栖湖板暇
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246 :底名無し沼さん (JP 0Hab-uWgP [91.207.174.171])[sage]:2019/02/15(金) 06:27:01.80 ID:N47M/vX9H - 側に位置する水力発電用取水口は、(株)日本軽金属蒲原製造所の
工場群に電力を供給する自家用水力発電所の一つ、本栖発電所のも のである。イ信仰B1アフィ本宮浅間大社指定地の南西部分には、 自動発券機(料金収受機)を設置運営した第1駐車場が整備されて いる。B2山宮浅間神社乗用車3台程を駐車できる駐車場が、県道 から入って境内地を横切る道沿いに設けられている。−75−B3 村山浅間神社境内地西端に、参詣者用の駐車場が整備されてい請嘱
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247 :底名無し沼さん (JP 0Hab-uWgP [91.207.174.171])[sage]:2019/02/15(金) 06:35:00.11 ID:N47M/vX9H - B4須山浅間神社裾野市運営と須山振興会によって、須山口からの
登山道の案内図が設置されている。B5須走浅間神社社務所東側に は、参拝者用の駐車場乗用車6台分が設けられている。B6河口浅 間神社B7冨士御室浅間神社B8御師住宅国道139号に面した敷 地入口には、御運営師住宅(旧外川家住宅、小佐野家住宅)の内容 を示す解説板が設置されている。B9山中湖B10河口湖B11忍 野八海B12船津胎内樹型河口湖フィールドセンターの開設に伴い 整備されたトレイル(遊歩道)が設けられている。遊歩道には石造 物の分運営布が確認でき、自然散策路としての要素以外に歴史散策 路的要素も兼ね備えている。B13吉田胎内樹型・参詣道吉田口登 山道の「中ノ茶屋」から、吉田胎内本穴に向かうものである。古く から富士講の信者等に利用され、「甲斐国誌」には「胎内道」とエムソ ゙ネして記述されている。B14人穴富士講遺跡(人穴浅間神社)2 本の道跡と思われる石列が参道跡の上り口、石垣の西側に位置する 。建物跡と洞穴や碑塔群などを結ぶ機能を有していたと考えられる 。B15白糸ノ滝市道・私道等の道路、階段、曽我橋、運営滝見橋 等がある。また、それらの付属施設がある。危険を伴う区域には、 護岸や落石防護ネットが整備され、また、立入禁止の札が立てられ ている。県道沿い及び芝川本流左岸等には駐車場があり、管理小屋 等の付帯施設がある。また、県道沿いの駐車場運営には公衆トイレ がある。ウ眺望C三保松原−76−なし(3)周辺環境を構成する 諸要素@自然的要素構成資産の周辺には、山並み、河川をはじめと する各種自然地形が存在している。また、統一感のある山並み景観 を構成している天然林及び施業林から運営なる森林が存在している 。アアフィ山体及び登山道Aアフィ・宝永火口静岡県側からの富士 山の景観を特色付ける噴火口で山頂信仰遺跡の南東側にある。宝永 4年(1707)に発生したテフラの爆発的噴火により、白い灰の デイサイト質軽石・黒曜石(運営烏石)・凝灰石など新第三紀璽築
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248 :底名無し沼さん (JP 0Hab-uWgP [91.207.174.171])[sage]:2019/02/15(金) 06:43:01.05 ID:N47M/vX9H - 盤岩類、斑レイ岩、黒い玄武岩質スコリアなどを降らせた。記録に
よれば約100q離れた江戸にまで火山灰が到達したが、溶岩の流 下はなかった。活火山であり、今後も噴火活動の可能性がある。・ アフィ特定地理等保運営護林8合目から標高約2,400m付近に かけて展開する約927haの保護林である。アフィの国有林にお いては第3次国有林野施業実施計画、自然環境の維持、動植物の保 護が図られ、あわせて遺伝資源の保存を図ることを目的として設定 されている運営。アフィ独特の地形・地質を持つ区域の植生として 貴重な区域である。・富士箱根伊豆国立公園アフィ管理計画区自然 公園法の特別保護地区あたる概ね5合目以上の火山高原を主体とし た山頂部までの区域である。アフィの火山景観の核心部を呈する区 域運営であり、アフィの秀麗な山容、植物の遷移過程等が保全の対 象となっている。A1山頂信仰遺跡なしA2大宮・村山口登山道・ 鳥類相アフィ域で観察された鳥類は約160種である。固有種は存 在しない。・陸生哺乳類アフィの山域には、6目14科35運営種 程の陸生哺乳類が生息する。その中には、特別天然記念物に指定さ れているニホンカモシカや天然記念物に指定されているヤマネが含 まれる。また、ツキノワグマも生息するが、落葉広葉樹林が少なく 、生息できる環境が限られ、生息数は少ない。A3運営須山口登山 道・幕岩登山道の東側50m、標高1,650m付近にあり、新富 士火山の中期溶岩の切り立った岩壁で、比高は15mを超える。岩 肌には樹木が生い茂り、崖の下には直径1〜2cmのスコリアが一 面に堆積している。その存在は宝永噴火前運営の古絵図にも記録さ れている。古絵図には「まこ岩」「孫岩」の名で記述されることも ある。役行者が7世紀後半に伊豆に流された折、この地で修行した という言い伝えが残っている−77−(日本霊異記)。登山道から 幕岩の直下に降りる道がある。・運営側火山登山道沿いには宝永山 (標高2,698m)、二ツ塚(標高1,926m、1,80隔畔
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249 :底名無し沼さん (JP 0Hab-uWgP [91.207.174.171])[sage]:2019/02/15(金) 06:50:59.75 ID:N47M/vX9H - )、アザミ塚(1,626m)などの側火山が見られる。宝永4年
(1707)の宝永の噴火により須山口旧登山道は崩壊し、その後 、宝永山を東に迂回する運営形で復興した。・鳥類相アフィ域で観 察された鳥類は約160種である。固有種は存在しない。・陸生哺 乳類アフィの山域には、6目14科35種程の陸生哺乳類が生息す る。その中には、特別天然記念物に指定されているニホンカモシカ や天然記念物に運営指定されているヤマネが含まれる。また、ツキ ノワグマも生息するが、落葉広葉樹林が少なく、生息できる環境が 限られ、生息数は少ない。A4須走口登山道・御胎内(溶岩洞穴) 須走口登山道6合目の北側(標高2,630m付近)にある溶岩洞 穴。開運営口部は腰をかがめなければ進めないほど狭いが、内部は 数名が立つことのできる空間が広がっている。・小富士標高1,9 59mの側火山で、須走口登山道5合目からほぼ北に600mほど 離れた場所にある。延暦19年(800)とそれに続く噴火によエムソ ゙ネり形成されたとされている。須走口5合目から高低差の少ない小 富士遊歩道が整備され、気軽に訪れることができる。周辺は針葉樹 林(シラビソ・コメツガ・トウヒ)に覆われているが、頂上部分は スコリアに覆われて樹木がなく、山中湖・箱根など東の運営眺望が 楽しめる。小山町観光協会によるコンクリート製の標識と、大正1 3年(1924)に扶桑教によって建立された祠がある。祠内部に 仏像が三体あったというが、現在は残っていない。・鳥類相アフィ 域で観察された鳥類は約160種である。固有運営種は存在しない 。・陸生哺乳類アフィの山域には、6目14科35種程の陸生哺乳 類が生息する。その中には、特別天然記念物に指定されているニホ ンカモシカや天然記念物に指定されているヤマネが含まれる。また 、ツキノワグマも生息するが、落葉広運営葉樹林が少なく、生息で きる環境が限られ、生息数は少ない。A5吉田口登山道A6北口本 宮冨士浅間神社A7西湖A8精進湖A9本栖湖北側・西側・南了殴
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250 :底名無し沼さん (JP 0Hab-uWgP [91.207.174.171])[sage]:2019/02/15(金) 06:59:01.62 ID:N47M/vX9H - 山は御坂層基盤により構成されている。北側から西側にかけては、
標高1100m〜1300m運営前後の山が連なっている。また南 側には標高1485mの竜ヶ岳が位置している。イ信仰B1アフィ 本宮浅間大社・神田川−78−湧玉池の湧水を水源とする神田川が 、約1,000mを流れ潤井川に注いでいる。かつては禊所より下 流(下池)の部分も運営含めて御手洗川と呼ばれていた。現在、護 岸の一部は、神田川ふれあい広場から下りる親水護岸として整為薬
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251 :底名無し沼さん (JP 0Hab-uWgP [91.207.174.171])[sage]:2019/02/15(金) 07:07:01.60 ID:N47M/vX9H - れている。B2山宮浅間神社なしB3村山浅間神社なしB4須山浅
間神社なしB5須走浅間神社なしB6河口浅間神社B7冨士御室浅 間神社B8運営御師住宅なしB9山中湖B10河口湖B11忍野八 海B12船津胎内樹型・溶岩洞穴等の主体となる地形・溶岩洞穴等 を構成する地質(剣丸尾溶岩流と火砕物により構成)B13吉田胎 内樹型・溶岩洞穴等の主体となる地形・溶岩洞穴等を構成する地質 (運営剣丸尾溶岩流と火砕物により構成)B14人穴富士講遺跡( 人穴浅間神社)なしB15白糸ノ滝なしウ眺望C三保松原なしA歴 史的要素構成資産の周辺地域の地下には、関連の遺構、遺物が良好 に残されている区域があり、それらは文化財保護法に基づき運営埋 蔵文化財包蔵地として周知されている。また、かつて登山者に利用 された御師の家並みなど、文献史料に記載された多数の伝承地や名 所等が存在している。アアフィ山体及び登山道−79−Aアフィな しA1山頂信仰遺跡なしA2大宮・村山口登山道・運営馬頭観音1 村山浅間神社脇の舗装された道を登って南西から北東に進んでいく と、舗装道が大きく北西方向にそれていく。村山口登山道跡はここ を北西に行かずに、直進し北東方向へ進む。その交差点に馬頭観音 の碑が建っている(標高約590m)。昭運営和8年(1933) に上原伸郎によって建てられたものである。・馬頭観音2静岡県立 アフィ麓山の村を抜けた場所にある。ここはやや道幅が広い、比較 的直伸している経路と、屈曲した経路の2つが存在する。前者につ いては明治以降に木材の切り出し運営・運搬に使われた木馬道であ ると推測される。ここで以前に馬が死んだので、供養のために馬頭 観音を建てたと伝えられている。・2号建物跡平成5年の富士宮市 の調査では、中宮八幡堂跡手前で日沢を渡り、50mほど登ったと ころに2号建物跡がある運営とされる。『アフィ村山口登山道遺跡 調査報告書』では、「道の南側に12m×8mの平坦面があり、道 の北側にも平らな場所がある」と報告している。平成20年の賃艇
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252 :底名無し沼さん (JP 0Hab-uWgP [91.207.174.171])[sage]:2019/02/15(金) 07:15:00.54 ID:N47M/vX9H - では平場らしき地形を確認したが、平成5年当時の景観と著しく異
なっており、両運営者が同一のものか判断できない。写真建物跡の 写真図建物跡の図面・3号建物跡登山道跡と県道富士宮富士公園線 が交差する地点から約60m南に下りた位置にある。周囲はなだら かな傾斜の天然林で、地面は落葉に覆われている。むき出しになっ た岩石運営には一面に苔がむしている。東西4m弱・南北6m弱の 方形の石列があり、その北東側に小さなくぼみを確認した。『富士 山村山口登山道遺跡調査報告書』は、このくぼみを便所跡としてい る。写真建物跡の写真図建物跡の図面・4号建物跡アフィスカイエムソ ゙ネラインと村山登山道が交差する地点から北北東の方角に約600 mの位置にある。登山道の西側には日沢が南北に走っており、北側 と東側には斜面が迫る。周辺は天然林で、下草にスズタケが生い茂 っている。平場は東西約8m、南北は約6mで、南側の運営縁には 一部石組が確認された。南側中央部には石段が確認された。『富士 山村山口登山道遺跡調査報告書』はここを「矢立・新小屋」にあた るとしているが、後世まで木の切り出しなどの休憩小屋として使わ れていた可能性をも指摘している。・6号建物運営跡5号建物跡か ら北北東に約450mの位置(標高約1,985m)にある。周囲 は西向きに傾斜するやや急な斜面である。登山道の西側は、日沢に 向けて急激に落ち込んでいる。登山道の東側には、東西約12m、 南北約10mの平場がある。平場の南運営縁には石組が見られ、登 山道を挟んで東西12mにわたって延びている。平場の北側の斜面 にも石組が確認できる。・岩屋不動岩屋不動は、役行者からの伝法 で村山三坊が毎年年番で行っていた札打ちや勤行等を行う富士峯修 行の修行所の1つであった。運営江戸時代の絵図には、高所にある 洞穴と、その脇を流れる滝の情景で描かれ−80−ることが多い。 洞穴内には不動明王が安置されていたという。慶長7年(1602 )に書かれた「アフィ持場之事」に記述があるが、宝永4年(発桑
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