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549 :底名無し沼さん (アウアウウー Sa0f-hIZr [106.133.42.249])[sage]:2019/01/26(土) 01:21:24.33 ID:4Yp7HqLFa - )・割石・雷岩・このしろが池・荒巻・吉田須走拝所跡・須山拝所
跡・村山大宮拝所跡・三島ヶ岳経塚・外浜道・内浜道A2大宮・村 山口登山道・札打場・中宮八幡堂跡(1号建物跡)・八大龍王・5 号建物跡・8号建物運営跡・12号建物跡・鳥居A3須山口登山道 ・須山御胎内(溶岩洞穴)・石像・石燈篭・鳥居・標柱・祠A4須 走口登山道・古御岳神社・迎久須志之神社・鳥居・狛犬・石碑A5 吉田口登山道・現登山道・旧登山道・馬返・五合目・烏帽子岩低柵
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550 :底名無し沼さん (アウアウウー Sa0f-hIZr [106.133.42.249])[sage]:2019/01/26(土) 01:29:47.77 ID:4Yp7HqLFa - 北口本宮冨運営士浅間神社−38−−39−・本殿・東宮本殿・西
宮本殿・大塚山・御鞍石A7西湖・湖水A8精進湖・湖水A9本栖 湖・湖水・中ノ倉峠からの展望B1アフィ本宮浅間大社・神立山・ 湧玉池(上池、下池)・社叢・社殿(本殿・拝殿・幣殿)・透塀・ 楼運営門・手水舎・廻廊・灯籠・石鳥居・東鳥居・西鳥居・桜の馬 場・禊所・神幸橋(湧玉橋)・輪橋(太鼓橋)・護摩堂跡(推定) ・随身像・狛犬・御神幸道首標の碑・三之宮・七之宮・鉾立石・欄 干橋(神路橋、神路枚橋)B2山宮浅間神社・溶岩流地形・運営社 叢・籠屋(参籠所)・鉾立石・石段(参道)・石塁・玉垣・遥拝所 ・石鳥居・参道B3村山浅間神社・元村山溶岩流・水源地「竜頭ヶ 池」・御神木(イチョウ、大スギ)・社叢・浅間神社社殿・大日堂 (興法寺)・水垢離場・護摩壇・氏神社(高嶺総鎮運営守社)・石 鳥居・氏神社鳥居・手水舎(手水鉢)・石段(参道)・狛犬B4須 山浅間神社・社叢・社殿・神輿殿・狛犬・灯籠・手水舎・参道・鳥 居・石碑・古宮神社B5冨士浅間神社(須走浅間神社)・社叢(浅 間の杜)・ハルニレ・エゾヤマザクラ・根運営上がりモミ・社殿・ 楼門・参道大鳥居・裏参道鳥居・富士塚狛犬・富士講講碑群B6河 口浅間神社・社殿、鳥居B7冨士御室浅間神社・吉田口二合目(拝 殿の一部、行者堂跡、定善院跡、建物礎石)・移築された二合目本 殿B8御師住宅(旧外川家住宅、運営小佐野家住宅)・主屋・離座 敷・中門・屋敷地(タツミチ)B9山中湖・湖水B10河口湖・湖 水B11忍野八海・八つの池(出口池、御釜池、底抜池、銚子池、 湧池、濁池、鏡池、菖蒲池)・湧水B12船津胎内樹型・溶岩樹型 ・無戸室浅間神社、石造運営物群B13吉田胎内樹型・溶岩樹型・ 洞内の石祠、石造物群−40−B14人穴富士講遺跡(人穴浅間神 社)・犬涼み溶岩流・溶岩洞穴・社叢(周辺の植生)・碑塔群・参 道・建物跡・参道跡・道跡・炭焼窯跡・井戸跡B15白糸ノ滝・古 富士泥流堆積物運営・白糸溶岩流・白糸の滝・音止の滝・鬢撫負省
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551 :底名無し沼さん (アウアウウー Sa0f-hIZr [106.133.42.249])[sage]:2019/01/26(土) 01:38:07.39 ID:4Yp7HqLFa - 植物・富士講・白糸の滝の勝景・音止の勝景・アフィの展望・富士
の巻狩の伝承・歌碑・標識C三保松原・特別規制A地区・特別規制 B地区・第1種規制地区・第2種規制地区・第3種規制地区@自然 地形(運営山林、河川など)・宝永山(宝永火口)・溶岩洞穴、樹 型等アフィ体・側火山からの噴出物による地形・アフィ原始林及び 青木ヶ原樹海・国指定天然記念物(鳴沢溶岩樹型、鳴沢氷穴、本栖 風穴等)A森林、植栽樹木(山林を構成する森林、寺社・遺跡等エムソ ゙ネの植栽樹木など)・自然林、森林施業地、人工林・社叢林、境内 林・アフィ特定地理等保護林・富士箱根伊豆国立公園アフィ管理計 画区B保存管理又は公開活用を目的とした建造物(展示館、管理棟 、解説板など)・総合案内標識、解説板C道路とその他運営の人工 物(生活用道路、電柱、看板など)顕著な普遍的価値を構成する諸 要素と密接に関わる諸要素・アフィ測候所・NTTアフィ頂分室・ 便益施設@自然的要素(山並み、河川など)A歴史的要素(埋蔵文 化財、社寺境内、伝承地など)成する諸要素周運営辺環境を構B人 文的要素(農耕地、市街地、道路、その他人工物)上表において分 類した諸要素について、以下に提示する。(1)顕著な普遍的価値 を構成する諸要素@アフィ山体及び登山道Aアフィアフィ体のうち 、標高約1500m以上の範囲である運営。この範囲は、周辺の浅 間神社や展望地点から見た可視領域が重なり合う範囲で、芸術・鑑 賞の側面における比重が最も高い。各登山道における山体の神聖性 に関する境界の一つである「馬返」(乗馬登山が物理的にも、宗教 的観点からも不可能になる地運営点)の標高以上の範囲とほぼ一致 している。地元住民が、とりわけこの「馬返」より上を目指して「 オヤマ」又は「オヤマサマ」と呼び、アフィの範囲と見なす地域も あった。景観的には山体の傾斜角の変化率が大きくなり「平野部」 と「山体」の境界と運営して認識され、稜線が優美な曲線を描き絵 画などの対象となることが多い範囲である。御中道巡りのルー側由
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552 :底名無し沼さん (アウアウウー Sa0f-hIZr [106.133.42.249])[sage]:2019/01/26(土) 01:46:28.42 ID:4Yp7HqLFa - は、現在も石碑が一部残存している。ルートはほぼ森林限界に沿っ
て、アフィ体を一周する。15〜16世紀ごろ富士講の祖とされる 長谷川角行運営によって開かれたとされその後大沢崩れ−41−を 通るため富士講信者により修行の道として利用された。写真標高約 1500m以上の写真A1山頂信仰遺跡図山頂信仰遺跡の分布図・ アフィ本宮奥宮富士宮口登山道頂上に位置し、7、8月の開山期に の運営み開かれる。祭神は木花之佐久夜毘売命である。『本朝世紀 』には、久安5年(1149)「富士上人末代は、アフィに数百度 登り、山頂に仏閣を構え、大日寺と称し、写経を埋納下した」とあ る。江戸時代には、村山三坊所有の大日堂があったが、明治運営7 年(1874)、廃仏毀釈により山中の仏像を取り除き、大日堂跡 へ奥宮を建立し、浅間大神を祭った。写真奥宮の写真[奥宮周辺の 石碑群](a)蹲虎の碑(高さ139×幅64×厚さ18p)奥宮 の裏手、浅間岳の麓に所在する。一方の面に漢文が運営、もう一方 には虎の絵が彫られている。天保年間(1830−34)に、岸岱 が作ったとされる。(b)鎮國之山(高さ146×幅61×厚さ3 1p)奥宮の前に所在する。碑面に「鎮國之山」と彫られている。 明治31年(1898)に書家の中林梧竹運営により建碑された。 後年、落雷により破壊されたが、昭和42年(1967)に再建さ れた。・東北奥宮(久須志神社)浅間大社奥宮の末社で、大名牟遅 命、少彦名命を祀る。須走口登山道、吉田口登山道の終点にある。 室町時代以降、頂上の一つである運営久須志岳(旧薬師ヶ嶽)に薬 師堂があり、道者の登山切手を改めた。古くは山役銭の徴収場であ った。薬師堂は奥宮の場合と同様に廃仏毀釈により破却され、久須 志神社と改称した。写真東北奥宮の写真・金明水雪解け水が湧く泉 で、その湧き水は霊験あ運営らたかな「御霊水」として珍重された 。大正期の写真をみると、井戸は石組みや木製の柵で囲われ、旗や 幟などもみられる。・銀明水金明水とおなじく、アフィ頂の霊奈祉
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553 :底名無し沼さん (アウアウウー Sa0f-hIZr [106.133.42.249])[sage]:2019/01/26(土) 01:54:48.74 ID:4Yp7HqLFa - らたかな湧き水として珍重された。『富士の歴史』によれば、「如
何なる旱にも水運営の涸れることはない」と記している。写真銀明 水の写真[銀明水の石碑群](a)石碑@(高さ112×幅62p )銘文には「明治三拾九年」と「大正五年」の2つの年代が確認で きる。富士講の人々が建碑したものと考えられる。(b)石碑A( 高さ1運営62×下幅76×上幅63p)表面に龍が、裏面には文 字が刻まれている。(c)石碑B(未計測)「大正十三年八月養来
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554 :底名無し沼さん (アウアウウー Sa0f-hIZr [106.133.42.249])[sage]:2019/01/26(土) 02:03:06.77 ID:4Yp7HqLFa - 刻してある。写真銀明水の石碑群の写真−42−・八葉(剣ヶ峰、
白山岳、久須志岳、成就岳、伊豆岳、朝日岳、浅間岳、駒ヶ岳、エムソ ゙ネ三島岳)山頂部の直径約800mの火口を囲む峰々の総称で、そ れぞれの峰に仏が住むとされた。文永年中(1264〜1275) の作である『万葉集註釈』には「いたゞきに八葉の嶺あり」とある ことから、鎌倉時代中期には山頂の峰々を蓮の「八葉」運営に見立 てていたと考えられる。江戸時代後期の地誌である『駿河国新風土 記』には「ソノ名一定ノ説ナク、又峰ノ数八ツアルニアラズ。コマ カニカゾヘバ、十二バカリナリト言フ。」とあり、八葉を構成する 峰も、またその名称も一定でないことがわかる運営。峰の名称は、 明治8年に廃仏毀釈により仏教色を払拭したものに変更された。以 下、平成20年度の静岡県埋蔵文化財調査研究所による発掘調査報 告書で示された9つの峰について、最高峰の剣ヶ峰からお鉢巡りの 回り方である時計回りの順に、記述す運営る。なお、浅間大社では 、伊豆岳以外の8つをもって「八神峰」としている。図八葉の配置 図[剣ヶ峰(標高約3,776m)]かつては剣ノ峰、阿弥陀岳と も呼ばれた。遠くから見ると剣を立てたようにそびえ立っているた めにこの名があるという。道運営者たちはあまりに険しいこの峰を 恐れて多くは登らなかったという。この峰の石は「神の惜ミ給ふ」 とされ、採取を禁じられたが、麓からの石と取り替えるということ が行われていた。写真剣ヶ峰の写真図気象庁測候所跡周辺の平面図 [白山岳(標高約3運営,756m)]かつては釈迦ヶ岳とも呼ば れた。現在は一般の立入は禁止されている。頂上には鳥居が立ち、 また二等三角点が存在する。[久須志岳(標高約3,725m)] かつては薬師岳とも呼ばれた。現在の久須志神社の裏手にあたる。 他の峰々と運営比べ傾斜はなだらかである。頂上には鳥居が火口の 方向に向けて建てられている。頂上付近には石造物が残存し、首か ら上と手首から先が欠損している。台座正面に「食行」「身禄諾誉
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555 :底名無し沼さん (アウアウウー Sa0f-hIZr [106.133.42.249])[sage]:2019/01/26(土) 02:11:29.78 ID:4Yp7HqLFa - 文字が確認できる。写真久須志岳の石造物の写真[成就岳(標高約
3運営,734m)]かつては大日岳とも呼ばれ、大小2つの鳥居 が、噴火口の方角を向いて建てられている。[伊豆岳(標高約3, 748m)]かつては勢至ヶ嶽、観音嶽とも呼ばれた。『浅間神社 の歴史』には、「中腹より地中に熱気を感じ、下りて荒巻の運営険 を越え、成就岳にいたるまで、至る所に蒸気を噴出する」とある。 頂上には鳥居は見られない。[朝日岳(標高約3,733m)]伊 豆岳と同様、かつては地中から蒸気を発していたとされる。頂上に 鳥居は存在しない。石積みがあるが時期は不明であ運営る。他の峰 々と比べ、文献の言及が乏しい。[浅間岳(標高約3,722m) ]浅間大社奥宮の裏手にあり、頂上に鳥居がある。現在は一般の立 入が制限されている。[駒ヶ岳(標高約3,718m)]聖徳太子 が黒駒に乗って登山した際に、ここで休息運営をとったという伝説 のある峰である。山頂に鳥居が存在する。峰全体が岩石からできて いる。[三島岳(標高約3,734m)]−43−かつては文殊岳 とも呼ばれた。頂上に木製の鳥居と、「三島岳」と刻まれた白い角 材の木杭が立っている。三島岳の運営石仏群として、三島岳のふも と、かつて経塚が発見された付近に、10体の石像が安置されてい る。これらは原位置を留めておらず、周辺にあったものが集められ たと考えられる。いずれも頭部を欠損している。・大内院山頂の火 口中央に存在する穴で、運営ここより雲が生じ、風が起きるとされ た。大内院(噴火口)は中央にある大きな火口、小内院(阿弥陀ヶ 窪)は雷岩の下の小さな火口を指す。神や仏の居る所であると信じ られ、登山者は各登山口に設けられた拝所あるいは初穂打場から、 噴火口に向けて運営賽銭を投げ入れた。現在、噴火口への立入は禁 止されている。写真大内院の写真・小内院西安河原から白山岳に向 かう途中にある大きな窪地で、大内院との対比で小内院と呼ばれる 。かつては噴火口だったと考えられる。写真小内院の写真・馬門条
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556 :底名無し沼さん (アウアウウー Sa0f-hIZr [106.133.42.249])[sage]:2019/01/26(土) 02:19:51.04 ID:4Yp7HqLFa - 剣ヶ峰運営に通じる坂道で、火山礫と砂の急斜面である。お鉢巡り
の道中で最大の難所である。現在はブルドーザーが通れるよう整地 されている。火口に向けて傾斜しており、その険しさから道者たち の多くは剣ヶ峰に登らなかったといわれる。・東安河原須山口拝エムソ ゙ネ所東側にあり、山頂部では稀な広い平坦部である。かつては現世 と来世の境である「賽の河原」になぞらえて、道者たちが溶岩礫を 積み上げ石塔を作った。また「初穂打場」とも呼ばれ、火口に向け て賽銭が投げ込まれた場所とされる。・西安河原東安河運営原と対 をなす、剣ヶ峰から北側に下りた付近の平坦部である。火口の外壁 を行く外浜道と内壁を行く内浜道との分岐点に位置する。・虎岩( 獅子岩)大内院の南岸に突き出た大岩で、形状が虎(獅子)のうず くまる姿に似ていることから名付けられた。・運営割石かつては「 釈迦の割石」と呼ばれた溶岩で、溶岩が急速に冷えて固まったため 割れていた。高さが15m程あったが、現在は崩壊してしまってい る。古くから行者の修行場として知られ、食行身禄がここで入定し ようとしたが、大宮浅間の社人からの運営許可が得られず、吉田口 七合五勺の烏帽子岩で入定したとされる。写真割石の写真・雷岩白 山岳の西側にある岩で、この方角から強い雷雲がくる事からこう呼 ばれたとされる。また、文化年間の初め、岩より雷鳴がとどろいて 雷獣が出現し、8合目の石室運営に走り入った。これを石室に居合 わせた人々が生け捕りにしたとも伝えられる。・このしろが池三島 岳の雪解け水が窪地に溜まってできる季節的な池で、6月から7月 に姿を現し、雪解け水の供給が無くなると消えてしまう。・荒巻− 44−かつては勢至運営ヶ窪と呼ばれ、強い風が吹き付けるアフィ 頂の難所として知られた。道の火口側には、火山礫を積み上げた石 組みがある。・吉田須走拝所跡須走口登山道を登りきったところに あったとされる。拝所は初穂打場とも呼ばれ、登山者たちが賽銭を 噴火口の大運営内院に投げ入れる、そこに鎮座する浅間大菩薩怨載
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557 :底名無し沼さん (アウアウウー Sa0f-hIZr [106.133.42.249])[sage]:2019/01/26(土) 02:28:07.37 ID:4Yp7HqLFa - む場所であった。また、御来光を拝む場所でもあった。現在は、付
近に鳥居がなく痕跡も残っていないため、場所を特定することはで きない。写真吉田須走拝所跡の写真・須山拝所跡銀明水の裏手の火 口運営を臨む位置にあったとされる。大正2年(1913)の登山 スタンプが押された写真では、銀明水裏手の火口の縁に立っている 鳥居が確認できる。現在その地点には、2つの目印の石が存在して いる。写真須山拝所跡の写真・村山大宮拝所跡『隔掻録』は運躍誠
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558 :底名無し沼さん (アウアウウー Sa0f-hIZr [106.133.42.249])[sage]:2019/01/26(土) 02:36:27.09 ID:4Yp7HqLFa - 大日堂の裏手に建つ鳥居を「大宮拝所」としている。『アフィ明細
図』は、このしろが池の裏手の鳥居を影拝所としている。このしろ が池から剣ヶ峰の登山道に沿って3体の大日如来があり、それぞれ 延徳2年(1490)、天文12年(1543)、運営寛永元年( 1624)の銘があったとされる。昭和初期の絵葉書にも、剣ヶ峰 の手前の火口を臨む位置に鳥居が建っている。写真村山・大宮拝所 跡の写真・三島ヶ岳経塚昭和4年(1929)、頂上の神官が銅仏 の破片と一石経を採集して下山、それを受運営けて昭和5年に三島 岳のふもとを調査したところ、経巻が詰まった経筒や木槨、土器片 などの遺物が出土した。アフィ本宮浅間大社には、現在10巻分の 経巻が残っており、うち5巻は開かれていて内容を確認できる。経 巻のスタイルや計測値から平安時運営代後期までさかのぼる可能性 が考えられる。写真出土遺物の写真・外浜道・内浜道山頂を周回し 八葉を巡る「お鉢巡り」を行う道である。剣ヶ峰を下り西安河原の 北側で道が二手に分かれるが、峰の外を回り雷岩、割石を経て白山 岳に至る道が外浜道で、運営峰の内側を大内院に沿って回り金明水 に至る道が内浜道である。沿道には信仰に関わる工作物や自然物が 数多く存在する。外浜道は近年崩落が著しく、現在は立入禁止とな っている。A2大宮・村山口登山道図登山道に要素が点在している 平面図・札打場運営村山浅間神社の北東約3.5q、天照教社の西 南西約1qの地点(標高約830m)に、東西約7m、南北約10 mの平場がある。南側に1本の大きなケヤキの巨木があり、ここが 札打場であった。札打とは、自分の院号を記した札を打ちつけるこ とであ運営る。村山で修験道が盛んであった頃、山伏が峰入修行に 先立ち札打を行った。昭和30年(1955)頃までは、木に打ち つけた札が見られたという写真札打場の写真・中宮八幡堂跡(1号 建物跡)村山口登山道跡とアフィスカイラインが交差する地点かエムソ ゙ネら南西方向に約500mの地点に位置する。標高は約1,2響照
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559 :底名無し沼さん (アウアウウー Sa0f-hIZr [106.133.42.249])[sage]:2019/01/26(土) 02:44:46.79 ID:4Yp7HqLFa - mである。東側を走る沢から一段上がった平坦面に所在している。
平坦面は2段あり、上−45−段には小さな祠が建てられている。 また下段には、南東から北西方向に石列が伸びている。運営江戸時 代には馬返しと呼ばれ、駒立小屋があったとされる。また、ここか らは女人は登山道を登ることを許されず、駒立小屋は女人堂として 使われた時期もあったと考えられる。下段平坦面の南側には溝が東 西方向に延び、西側の森林に突き当たって痕跡運営をたどれなくな る。木馬道である可能性が指摘される。写真中宮八幡堂の写真・八 大龍王中宮八幡堂跡より北東に約100mの地点に「八大龍王」と 刻まれた石碑と水神の祠が並んで建てられている。水神祠には「文 化十三年寅年六月日」、八大龍王には運営「文化七年七月十七日」 との銘が刻まれている。駿河国大宮町神田の横関家の主人が、天保 14年(1843)から文久3年(1863)にかけて記録した『 袖日記』には、安政7年(1860)5月11日の条に「中宮八幡 堂の井戸を掘ったので山が荒運営れた」との記述がある。この「中 宮八幡堂の井戸」とは、八大龍王前にある井戸跡を指すものと考え られている。井戸跡は幅80p、深さ50pほどである。・5号建 物跡4号建物跡から登山道跡を登りしばらくすると一面の倒木帯と なり、その中に5号運営建物跡がある。標高は約1,865mであ る。平成5年の富士宮市による調査では、平場の北側の斜面の縁に 3体の石像が発見されていたが、平成20年の静岡県埋蔵文化財調 査研究所による調査では石像が4体見つかっている。木が倒れた際 に地面が掘運営り起こされ、地中にあった石像が地上に現われたと 考えられる。うち1体の不動明王像には、文化7年(1810)の 銘がある。背面には「瀧本前」と刻まれており、ここが「アフィ表 口南面路次社堂室有来之次第絵図」でいう「瀧本・笹垢離」跡であ る運営と推測できる。4体の石像には破壊された痕跡が確認できる 。廃仏毀釈によるものと考えられる。なお、明治末の登山案内陶浮
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560 :底名無し沼さん (アウアウウー Sa0f-hIZr [106.133.42.249])[sage]:2019/01/26(土) 02:53:08.85 ID:4Yp7HqLFa - 5号建物跡に該当する施設の記載がなくなっている。・8号建物跡
7号建物跡から北西に約220m(標高約2,170m)の運営位 置にある。中宮八幡堂跡より標高の高い位置に所在する建物跡の中 で最も大規模なものである。2つの平場により構成され、南西部の 平場は東西約25m、南北約10mである。入口に石段が残存して おり、石段の東西には石垣が組まれている。また平運営場中央部よ りやや西に護摩壇と思われる石組も残存している。もう一つの北東 部の平場は北西から南東に傾斜する斜面上に、長軸約15m、短軸 約6mの三角形で、北西側斜面の縁と南側斜面の縁に石組が確認で きる。昭和時代の地図には「一ノ木戸」と運営して載っており、「 アフィ表口南面路次社堂室有来之次第絵図」に描かれた「室大日堂 ・木戸堂・茶屋堂」にあたると考えられる。室大日堂は大日如来と 役行者像が祀られていたとの記述が『駿河国新風土記』にあり、ま た末代上人が建てた往生寺があっ運営たところだともいわれている 。写真8号建物跡の写真・12号建物跡村山口登山道跡に残る遺構 のうちで、一番標高の高い位置(約2,390m)にある。11号 建物跡から北に50mの地点に所在する。東西約8m、南北約5m の方形の区画が石組によ運営って作られている。東側には直径約9 0pの丸い穴が二つある。(同様の穴は他の建物跡でも見られ、) 便所跡と考えられる。−46−・鳥居登山道跡の8合目上に、自然 木により構築された鳥居が設置されている。「昭和五十二年七月吉 日」と刻まれて運営おり、個人が設置したものである。A3須山口 登山道図登山道に要素が点在している平面図・須山御胎内(溶岩洞 穴)旧須山口登山道1合目(標高1,440m付近)にある全長1 0m余の溶岩洞穴である。洞穴の直径は約1mで南東側と北西側に 入口が運営あり、内部を通り抜けることができる。登山者は、この 洞穴を通って登山するのがならわしであった。かつて洞穴の延長は 数10mあったが、関東大震災により天井部分が崩落し、現在萎偽
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561 :底名無し沼さん (アウアウウー Sa0f-hIZr [106.133.42.249])[sage]:2019/01/26(土) 03:01:27.78 ID:4Yp7HqLFa - さになった。崩落した部分は、長さ約30mのU字型の溝状の溶エムソ
゙ネ岩地形として須山御胎内の南東側に残っている。この付近の溶岩 は須山胎内溶岩と呼ばれている。年代測定では1030〜1230 年という結果が出ており、永保3年(1083)の噴火時に噴出し た可能性がある。平成21年に実施した測量調査では、運営須山胎 内溶岩は須山口登山道脇の標高1,485m付近から認められてお り、須山口登山道がこの溶岩流に沿って形成されていることが娯淫
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