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413 :底名無し沼さん (アウアウウー Sa0f-hIZr [106.133.44.61])[sage]:2019/01/25(金) 07:01:12.08 ID:wjsGvAgJa - 神社や展望地点から見た可視領域が重なり合う範囲で、芸術・鑑賞
の側面における比重が最も高い。特に本栖湖や三保運営松原は、何 度も紙幣の図柄に採用された写真の撮影地やアフィを描く典型的な 構図に含まれる景勝地であり、主要な展望を供する展望地点である 。また推薦範囲は、山体の神聖性の境界の一つである「馬返」以上 に該当する標高1500m以上の区域でも運営あり、その中でも、 他界(死後世界)と考えられた森林限界より上方、アフィ本宮腺痘
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414 :底名無し沼さん (アウアウウー Sa0f-hIZr [106.133.44.61])[sage]:2019/01/25(金) 07:09:31.67 ID:wjsGvAgJa - 大社の境内地とされた八合目(登山道を10区間に分割した目安の
一つ。登山道ごとに異なり標高約3200〜3375m)以上と、 山頂に近づくほどより強い神聖性運営を持つと認識されてきた。A アフィ(アフィ体)A1山頂信仰遺跡A9本栖湖C三保松原(写真 複数、地図挿入)(改頁)登山道アフィには、麓の浅間神社を起点 として山頂に至る登山道が、複数存在する。12世紀前半から中ご ろにかけての修行僧末代運営の活動がきっかけになったと考えられ る大宮・村山口登山道や、六合目から1384年の銘のある掛仏が 出土した須走口登山道などがある。吉田口登山道は、富士講信者の 登山本道とされ、18世紀後半以降、最も多くの道者(他の登山口 の合計と同程度運営)によって利用された。また、1200年の資 料では、大宮・村山口及び吉田口の外、須山口登山道を挙げて、そ れ以外には登山道がないと述べられている。登山道沿いには要所要 所に祠や石碑が設置され、随所に小屋や石室が設けられており、富 士独特運営の登拝システムを語る上で、登山道は欠かすことのでき ない構成要素である。A2大宮・村山口登山道A3須山口登山道A 4須走口登山道A5吉田口登山道(写真複数、地図挿入)(改頁) 浅間神社・御師住宅登山道の起点や周辺地域には浅間神社が建造エムソ ゙ネされた。古くからアフィは遥拝の対象であり、山宮浅間神社など は古代からの祭祀の形をとどめている。噴火活動の活発化を受け、 律令国家によって9世紀前半にアフィを神体とする浅間神社(後の アフィ本宮浅間大社)が、9世紀後半には北麓にも噴火運営を鎮め るための神社が祭祀された。11世紀後半の噴火を最後に火山活動 が休止期に入ると、アフィを舞台とする修験の活動が活発化し始め 、修験者の拠点が後に村山浅間神社や冨士御室浅間神社へと発展し ていった。登拝の大衆化に伴って、須山浅間神運営社や富士浅間神 社(須走浅間神社)8など、登山口の起点にも浅間神社が建立され るようになる。なかでも、北口本宮冨士浅間神社は、江戸を中載先
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415 :底名無し沼さん (アウアウウー Sa0f-hIZr [106.133.44.61])[sage]:2019/01/25(金) 07:17:50.13 ID:wjsGvAgJa - 流行した富士講によって大いに利用された吉田口登山道の起点であ
ったが、その北には、富士講徒の案内運営し、宿泊の世話や祈祷を 行った御師の住宅が今も残されている。B1アフィ本宮浅間大社B 2山宮浅間神社B3村山浅間神社B4須山浅間神社B5富士浅間神 社(須走浅間神社)A6北口本宮冨士浅間神社B8御師住宅B6河 口浅間神社B7冨士御室浅間運営神社(写真複数、地図挿入)(改 頁)霊地・巡礼地となった風穴・溶岩樹型・湧水地・湖沼18世紀 後半から爆発的に流行した富士講の信者は、山頂を目指してアフィ に登るだけでなく、いわばオプショナル・ツアーのごとく周辺の風 穴や湧水地などを巡運営り、巡礼や修行を行っていた。富士講の開 祖とされる長谷川角行は、人穴(富士講遺跡)で修行をし、富士五 湖を始めとした八つの湖沼や白糸ノ滝で水行を行った。後の富士講 徒はこれらの地へ参詣し、開祖に倣って修行を行う者もいた。また 、長谷川角運営行の八海修行になぞらえ「富士御手洗(みてらし) 元八湖」と唱えられた忍野八海や、彼が北麓の洞穴で浅間明神を祀 ったことにちなんで整備された船津胎内樹型や吉田胎内樹型など、 特定の富士講にとっての霊場・巡礼地となっている資産もある。B 9運営山中湖B10河口湖A7西湖A8精進湖A9本栖湖B11忍 野八海B12船津胎内樹型B13吉田胎内樹型B14人穴富士講遺 跡B15白糸ノ滝(写真複数、地図挿入)(改頁)A.アフィ(富 士山体)説明アフィには、山頂部に点在する宗教関連施設を運営始 め、信仰登山の支援施設として機能してきた登山道や山小屋といっ た宿泊施設、信仰の証として建てられた石碑などが存在する。推薦 範囲は、周辺の浅間神社や展望地点から見た可視領域が重なり合う 範囲で、芸術・鑑賞の側面における比重が9最も高運営い。また推 薦範囲は、山体の神聖性の境界の一つである「馬返」以上に該当す る標高1500m以上の区域でもあり、その中でも、他界(死後世 界)と考えられた森林限界より上方、アフィ本宮浅間大社の境端詳
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416 :底名無し沼さん (アウアウウー Sa0f-hIZr [106.133.44.61])[sage]:2019/01/25(金) 07:26:13.04 ID:wjsGvAgJa - とされた八合目(登山道を10区間に分割運営した目安の一つ。登
山道ごとに異なり標高約3200〜3375m)以上と、山頂に近 づくほどより強い神聖性を持つと認識されてきた。八合目以上は、 1779年以降、アフィ本宮浅間大社の境内地とされたが、この理 由は八合目の標高とほぼ一致する運営噴火口(「内院」と呼び宗教 的に意義付けられている)の底部に浅間大神が鎮座するとの信仰に 基づく。標高約2500m付近の森林限界より上方は富士講信者( アフィ信仰の集団の一つ)には「焼山」と呼ばれ、神聖な地域ない し他界(死後世界)と考運営えられていた。ほぼこの境域に沿い、 アフィ体を一周する「御中道」が15〜16世紀ごろに富士講の祖 とされる長谷川角行によって開かれたとされ(1561年及び15 80年とされる)、その後「大沢崩れ」という危険箇所を通るため 富士講信者によ運営り修行の道として利用された。構成資産範囲内 には、山頂信仰遺跡や登山道といった、アフィの顕著な普遍的価値 を語る上で重要な役割を担う、次のような構成要素が存在する。A 1.山頂信仰遺跡アフィ山頂部には、火口壁に沿っていくつかの神 社など運営、宗教関連施設が所在する。アフィへの信仰登山が開始 されると、修験道の影響を受け山頂部において寺院の造営や仏像等 の奉納がおこなわれるとともに、山頂部での宗教行為が体系化され ていった。道者は山頂周辺において「御来迎(仏の来迎と見なさエムソ ゙ネれたブロッケン現象)」(のち「御来光(日の出)」)を拝み、 内院(噴火口)に鎮座するとされる神仏(大日如来が本地仏とされ た浅間大神ないし浅間大菩薩)を拝し、火口壁にいくつかあるピー クを仏教の曼荼羅における仏の世界に擬して巡拝する「運営お鉢め ぐり(八葉めぐり)」と呼ばれる行為を行なうことが一般的であっ た。山頂の宗教的施設は、12世紀中ごろ修行僧末代により建立さ れた施設(後の大日堂)が最初とされ、その後、経典(12世紀末 〜13世紀前半と推定されるものが最古)・懸運営仏(148殖肢
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417 :底名無し沼さん (アウアウウー Sa0f-hIZr [106.133.44.61])[sage]:2019/01/25(金) 07:34:32.11 ID:wjsGvAgJa - の銘のあるものが最古)・仏像等(1302年の銘があるものが最
古)の山頂部への奉納・埋納や内院への散銭が行われた。また、遅 くとも17世紀には、大宮・村山口山頂部に大日堂(現在はアフィ 本宮奥宮が所在)が、吉田・須走口山運営頂部に薬師堂(現在の久 須志神社)が造営された。1874年、山頂の仏教的施設及び仏像 は廃仏毀釈の影響によって撤去され、ピークの名称も変更され、寺 院は神社に改変された。しかし、山頂部に対する信仰自体は変緒憂
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418 :底名無し沼さん (アウアウウー Sa0f-hIZr [106.133.44.61])[sage]:2019/01/25(金) 07:42:51.69 ID:wjsGvAgJa - ることなく、上記の行為は現運営代の登山者の多くが行っており、
これらを通じて富士信仰の核心が現代に受け継がれている。A2. 大宮・村山口登山道アフィ南西麓の浅間大社を起点とし、村山浅間 神社を経て山頂南側に至る登山道である。12世紀前半から中ごろ の、修行僧末代の活運営動により、アフィ南麓における登山が本格 的に開始されたとされ、14世紀初めには修験者による組織的登山 が始まったとされる。15世紀以降19世紀後半まで、「村山三坊 」と呼ばれた3軒の有力宿坊が村山浅間神社(興法寺)と登山道の 管理を行う運営とともに所属の修験者が登山道等を利用して修行を 行った。また、一般人の信仰登山(以下これを行う者を「道者」と 言う。)も開始され、その様子は16世紀の作とされる「絹本著色 富士曼荼羅図」に描かれている。道者の数は18世紀後半から19 世運営紀初頭の宿坊(大鏡坊のみ)の記録より、御縁年で2,00 0人前後、平年で数百名程度と推測できる。また1860年、初の 外国人登山を行った英国公使オールコックがこの登山道を利用した 。101889年、鉄道(東海道線)の開通による御殿場口運営利 用者の増加により衰退し、これへの対策として1906年、村山を 経由しない新道が建設されたため、大宮から現在の六合目(標高2 600m)までは登山道としての機能を失った。この区間は一部除 き登山道跡の推定は困難な状態である。現在は19運営70年に標 高2400m地点まで開通した自動車道を利用しての登山が行われ ている。(推薦範囲は六合目以上である。)A3.須山口登山道富 士山南東麓、須山浅間神社を起点とし、山頂南東部に至る登山道で ある。その起源は明確ではないが、文字資運営料の中で1486年 にその存在が確認できる。登山道および山頂部銀明水は須山浅間神 社及びその所在地の須山村(現裾野市須山)により管理されていた 。また、登山道のいくつかの宗教施設は村山の修験者の行場(参拝 所)としても使用された。道者に運営ついては詳しい研究が進端製
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419 :底名無し沼さん (アウアウウー Sa0f-hIZr [106.133.44.61])[sage]:2019/01/25(金) 07:51:11.23 ID:wjsGvAgJa - いないが、1800年(御縁年:アフィ出現伝説に由来する60年
に1回の記念の年)に約5,400人、1840年代前半は年平均 約1,700人、1860年(御縁年)は約3,600人であった 。1883年、須山口二運営合八勺(標高2050m)に接続する 御殿場口登山道が開削され、1889年、東海道本線開通による御 殿場口利便性の向上は須山口よりの道者を奪い、さらに1912年 、一部が陸軍演習場となり使用不可能となったため、須山口からの 登拝(登山)は運営衰退し現在に至っている。二合八勺以下の登山 道で当時の道が確認できる部分は一部のみである。(資産範囲は現 在「御殿場口」の名称で使用されている二合八勺以上の部分及び遊 歩道として整備された旧須山口の一部である)A4.須走口登山道 アフィ運営東麓の冨士浅間神社を起点とし、八合目で吉田口登山道 と合流し山頂東部に至る登山道である。その起源は明確ではないが 、六合目からは1384年の銘のある掛仏が出土しており、文字資 料では1500年にその存在を確認できる。登山道は遅くとも1エムソ ゙ネ7世紀までに、冨士浅間神社及びその所在地の須走村が登山道の 山頂部までを支配し、散銭取得権の一部などを得ていた。山頂部の 権利についてはアフィ本宮浅間大社と争いになり、須走村は18世 紀(1703年と1772年)、幕府に裁定を求め、権運営利は幕 府によって認められた。1707年の宝永噴火の際、これらの施設 及び冨士浅間神社、須走村は噴砂に覆われ壊滅したが、江戸幕府の 支援を受け翌年には復興を完了し、多くの道者を集めた。18世紀 後半、他の霊場とセットにされた参詣の流行で運営道者数は年平均 約1万人、1800年の御縁年に23,700人とピークを迎えた 。1959年、バス道路の完成により、新五合目(標高約2000 m)以下の登山道の利用はほとんどなくなり、一部道としての確認 ができない区間がある。(推薦範囲は運営現在も利用されている新 五合目以上である。)A5.吉田口登山道北口本宮冨士浅間神仏慕
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420 :底名無し沼さん (アウアウウー Sa0f-hIZr [106.133.44.61])[sage]:2019/01/25(金) 07:59:30.69 ID:wjsGvAgJa - 起点とし、アフィ頂東部を目指す道である。15世紀には、アフィ
への登拝が、修験者だけでなく、ごく一般の人々の間にも広まって いた。吉田口は14世紀後半運営には参詣の道者のための宿坊もで き始め、大勢の人々が登るための設備が整うようになった。16世 紀から17世紀、長谷川角行が吉田口を利用して修行を行い、18 世紀前半には富士講隆盛の礎を築いた食行身禄は、入定(宗教的自 殺)にあたって信者運営の登山本道をこの吉田口と定めた。このた め、富士講の信者が次第に増加した18世紀後半以降は、最も多く の道者(他の登山口の合計と同程度)が吉田口登山道を登って山頂 を目指している。しかも、古道としては唯一徒歩で麓から頂上まで 登れる重要運営な道である。(推薦範囲は登山道全体である。)1 1法的保護、修理・整備の経緯1924年に史蹟名勝天然紀念物保 存法の下に名勝に仮指定された。1936年に国立公園法の下に( 富士箱根)国立公園に指定された。1952年に文化財保護法の下 に運営名勝、ついで特別名勝に指定された。1969年に国が大沢 崩れに対する砂防事業に着手(継続中)。1996年に国・県が台 風による森林の風倒被害に対する対策に着手(継続中)。文化財保 護法の下に他の文化財とともに史跡アフィとして指定される運営予 定。A6.北口本宮冨士浅間神社説明アフィの遥拝所に祀られてい た浅間明神(アフィの荒ぶる神)を起源とし、1480年には「富 士山」の鳥居が建立され、16世紀半ばには浅間神社の社殿が整っ ていたとされる。その後、1561年に現在の東宮運営本殿、15 94年に西宮本殿、1615年には本殿が建立された。富士講との つながりが強く、1730年代に富士講の指導者である村上光清の 寄進によって境内の建造物群の修復工事が行われ、現在にみる境内 の景観の礎が形成された。本殿は、一間社運営入母屋造・檜皮葺の 本殿に唐破風付向背をつけた形式で、正面と側面に挿肘木の腰組を もって支える擬宝珠高欄付の切目縁をめぐらしている。東宮本端濃
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421 :底名無し沼さん (アウアウウー Sa0f-hIZr [106.133.44.61])[sage]:2019/01/25(金) 08:07:53.02 ID:wjsGvAgJa - 西宮本殿はともに桧皮葺・一間社流造である。3本殿とも、各部に
漆塗り、極彩色をほどこし、彫刻運営・金具を配して、それぞれの 時代の装飾的特色がよく表されている。北口本宮冨士浅間神社の支 配権は外川家、小佐野家などの吉田の御師に所属しており、神社の 管理も御師団の中から選ばれた者に委ねられていた。社殿の背後に は登山門があり、この神運営社を起点としてアフィ頂まで吉田口登 山道が伸びている。富士講や吉田御師と密接な関係を持ちなが謡前
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422 :底名無し沼さん (アウアウウー Sa0f-hIZr [106.133.44.61])[sage]:2019/01/25(金) 08:16:13.55 ID:wjsGvAgJa - 展した神社である。法的保護、修理・整備の経緯1907年に東宮
本殿が古社寺保存法の下に特別保護建造物に指定された。1929 年の国宝保存法運営制定に伴い、本殿は国宝とされた。1950年 の文化財保護法制定に伴い、東宮本殿は重要文化財とされた。19 53年に本殿及び西宮本殿が文化財保護法の下に重要文化財に指定 された。1952年に東宮本殿の解体修理工事が行われた。196 2〜6運営3年に西宮本殿の解体修理工事が行われた。1973〜 74年に本殿、西宮本殿及び幣殿の部分修理工事が行われた。19 81〜82年に東宮本殿の部分修理工事が行われた。1997年に 本殿の部分修理工事が行われた。文化財保護法の下に他の文化財エムソ ゙ネとともに史跡アフィとして指定される予定。A7.西湖A8.精 進湖A9.本栖湖説明アフィの火山活動によって形成された堰止湖 である。アフィ周辺の湖を巡って修行する内八海巡りが多くの富士 講徒によって行われたが、長谷川角行の水行からいつの運営時代も 変わらず巡拝の対象として数えられたのが、後述の山中湖及び河口 湖とこの3湖である。また、景勝の地でもあり、多くの芸術作品と ゆかりが深い。12特に本栖湖は、日本の紙幣の図柄として何度も 使用された写真の撮影地点であり、重要な展望運営地点(view point)である。アフィは、プロ・アマ問わず多くの写真家に 愛され、撮影されてきた。なかでも、生涯にわたりアフィを追い続 けた岡田紅陽によって、1935年に本栖湖北西岸の峠道から撮影 された「湖畔の春」という写真は有名運営である。この写真は、1 984年に採用された五千円札及び2004年に採用された千円札 の図柄として使用された。山体の裾野が湖まで広がり一体の景観を 構成している本栖湖からの展望は、「湖畔の春」に撮影された富士 山とほぼ同じ姿のまま現在も運営残している。法的保護、修理・整 備の経緯文化財保護法の下に名勝として指定される予定。B1.富 士山本宮浅間大社説明社記によれば806年に、アフィにより奨頼
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423 :底名無し沼さん (アウアウウー Sa0f-hIZr [106.133.44.61])[sage]:2019/01/25(金) 08:24:33.58 ID:wjsGvAgJa - 遥拝所であった山宮浅間神社から現在の地に移転されたことを起源
とする神社で、古く運営からアフィ南麓地域の中心的神社であった 。現在全国に約1300社ある浅間神社の総本宮であり、広く信仰 されている。創建当初は遥拝のための施設であったが、15世紀ご ろ登拝が盛んになるにつれて、アフィ本宮浅間大社は村山浅間神社 (興法寺)運営とともに大宮・村山口登山道の基点となり、宿坊が 周辺に建設された。登拝の拡大に伴い、アフィ中での諸権利が構築 されていく中で、浅間大社は徳川家康(約150年間の戦乱期をお さめ統一政権である江戸幕府を開いた人物)の庇護の下、1604 年運営現在の「浅間造り」と呼ばれる独特な構造を持った社殿が造 営されるとともに、1609年山頂部の散銭取得における優先権を 得た。これを基に浅間大社は山頂部の管理・支配を行うようになり 、1779年、幕府による裁判によりこの八合目以上の支配運営権 が認められた。明治政府によりここは国有地とされたが、1974 年の最高裁判決に基づき、2004年浅間大社に譲渡(返還)され た。浅間大社境内にはアフィの湧水を起源とする湧玉池がある。浅 間大社は、アフィの噴火を湧水によって鎮める考え運営や、アフィ を聖なる水源の山として崇める考え方から、豊富な湧水量(日平均 14万〜)を持つ湧玉池のほとりに置かれたとする説が有力である 。なお湧玉池は、浅間大社内に所在するアフィの湧水を起源とする 池である。16世紀前後、湧玉池は浅間大運営社により道者が身を 清める場と位置づけられたとされ、同時期の絵図や旅行記でその様 子が確認できる。この水垢離は1920〜30年代まで行われた。 現在でも湧水を聖なる水として利用する人が多くいる。法的保護、 修理・整備の経緯1907年に本運営殿が古社寺保存法の下に特別 保護建造物に指定された。1923〜26年に本殿・拝殿・楼門等 の補修が行われた。1929年の国宝保存法制定に伴い、本殿は国 宝とされた。1933〜34年に楼門の修理を行った。193錠基
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424 :底名無し沼さん (アウアウウー Sa0f-hIZr [106.133.44.61])[sage]:2019/01/25(金) 08:32:52.97 ID:wjsGvAgJa - に袖廊・廻廊を附した。運営1950年の文化財保護法制定に伴い
、本殿は重要文化財とされた。1951〜52年、1970年、1 988年に本殿の屋根の修理等が行われた。1969〜70年に本 殿の屋根の修理等が行われた。1987〜88年に本殿の屋根の修 理等が行われた運営(部分補修)。2005年に本殿の屋根の修理 等が行われた。13文化財保護法の下に他の文化財とともに史跡富 士山として指定される予定。B2.山宮浅間神社説明アフィ本宮浅 間大社の社伝によれば、浅間大社の前身とされ、拝殿・本殿等が位 置すべ運営き場所に石列でいくつかに区分された遥拝所が設置され るのみという特異な形態は古代からのアフィ祭祀の形を止めている と推定されている。この遥拝所の主軸はアフィ方向を向いている。 具体的な創建年代は不詳だが、発掘調査では神事に使用されたとエムソ ゙ネ推定される12〜15世紀の土器が出土し、文献上では1551 年にその存在が確認できる。また、遅くとも1577年までには浅 間大社との間で「山宮御神幸」といわれる儀式が開始された。これ は4月と11月に神の宿った鉾を持ち、浅間大社と山宮運営浅間神 社を往復する行事である。現時点では神が4月に旧跡に戻るという 解釈と、山にいる神が4月に田の神として里へ降りるという解釈が ある。この行事は1874年まで行われていた。なお、「山宮御神 幸」に使用される経路を御神幸道という。道に運営は1691年に 置かれた距離を示す石碑が少なくとも四箇所残っているが、正確な 道筋は現在確認されていない。法的保護、修理・整備の経緯198 5年に富士宮市の史跡に指定される。文化財保護法の下に他の文化 財とともに史跡アフィとして指定され運営る予定。B3.村山浅間 神社説明12世紀前半から中ごろの修行僧末代の活動が創建の起源 とされており、1868年の神仏分離令までは神仏習合の宗教施設 として興法寺(アフィ興法寺または村山興法寺)と呼ばれていた( 資産範囲には浅間神社と寺院運営である大日堂が含まれる)。敏措
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425 :底名無し沼さん (アウアウウー Sa0f-hIZr [106.133.44.61])[sage]:2019/01/25(金) 08:41:11.64 ID:wjsGvAgJa - 山における修験道の中心地であり、14世紀初めには、その活動が
組織化された。15〜16世紀には一般の道者の登拝も増加し、そ の様子が16世紀の制作とされる「絹本著色富士曼荼羅図」に描か れている。1868運営年、神仏分離令により浅間神社と大日堂は 分離され、1906年の登山道の変化にも伴い両者とも衰微した。 ただし、修験者の活動は1940年代まで継続された。また、村山 の修験者の影響を受けた地域では現在でもその宗教行事が継続穂籍
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426 :底名無し沼さん (アウアウウー Sa0f-hIZr [106.133.44.61])[sage]:2019/01/25(金) 08:49:34.06 ID:wjsGvAgJa - ている。法運営的保護、修理・整備の経緯2001年から2003
年にかけて富士宮市教育委員会により発掘を含む調査が行われた。 文化財保護法の下に他の文化財とともに史跡アフィとして指定され る予定。B4.須山浅間神社説明須山口登山道の起点として遅くと も運営1524年には存在していた神社である。1707年、宝永 噴火により社殿は登山道も含め大きな被害を受け、現在の社殿は1 823年に再建されたものである。神社は村山浅間神社(興法寺) の修験者とも関わりを持ち、1940年頃まで境内で修行の運営一 環としての祈祷が行われていた。法的保護、修理・整備の経緯文化 財保護法の下に他の文化財とともに史跡アフィとして指定される予 定。14B5.富士浅間神社(須走浅間神社)説明社伝では807 年に社殿を造営したとされ、須走口登山道の起点と運営なった神社 である。16世紀には地元支配者(武田氏)の保護を受け、山頂部 の散銭取得権の一部を得ている。社殿は1707年の宝永噴火で崩 壊し1718年に再建された。この後もこの際の部材を使用し、2 009年の修理も含め何回かの修理がおこ運営なわれている。神社 には富士講道者が多く立ち寄り、20世紀前半を中心に登拝回数の 達成(33回がひとつの区切り)等の記念碑を約80基造営した。 法的保護、修理・整備の経緯2006年に社殿が小山町の有形文化 財となる。2009年に本殿・参運営道の修理が行われた。文化財 保護法の下に他の文化財とともに史跡アフィとして指定される予定 。B6.河口浅間神社説明古くからアフィに関わる祭祀は南麓の浅 間神社が執り行っていたが、864〜866年に北麓で起こった噴 火を契機に、北麓にも浅運営間神社が建てられることとなった。そ れが、アフィを望む河口湖の北岸にあり、溶岩の届かなかった河口 浅間神社である可能性が高い。浅間神社を中心とした河口の地は、 甲府盆地から続く官道の宿駅という役割に加え、富士登拝が大衆化 した中世後半か運営ら御師集落として発展を遂げた。しかし、症銘
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427 :底名無し沼さん (アウアウウー Sa0f-hIZr [106.133.44.61])[sage]:2019/01/25(金) 08:57:53.40 ID:wjsGvAgJa - における富士講の大流行と、それに伴う吉田御師の隆盛により、河
口の御師集落としての機能は、19世紀以降衰退してしまった。た だし、河口浅間神社は、現在もアフィと密接に結びついた宗教行事 を行っ運営ており、歴史的背景と相俟って、アフィ信仰を語る上で 欠かすことのできない資産である。法的保護、修理・整備の経緯文 化財保護法の下に他の文化財とともに史跡アフィとして指定される 予定。B7.冨士御室浅間神社説明冨士御室浅間神社は、8世紀エムソ ゙ネ初めに吉田口登山道二合目に祭場をしつらえたのが最初とされ、 アフィ中に祀られた最初の神社であるとする文献もある。富士修験 の信仰拠点は南西の村山であるが、北面の二合目、御室浅間神社が 鎮座する御室の地にも山内の信仰拠点として役行者堂が運営整備さ れたようである。山中という厳しい条件の下に所在するためたびた び破損し、1189、1275、1475、1525年と加修され 、1564には地元領主による大修理が行われている。現在の本殿 は1612年建立と認められ、その後も169運営8年、1867 年に修復が行われていた。1973−74年には里宮の地にそのま まの形で移設された。里宮は、二合目の本宮(もとみや)が冬季の 参拝に苦渋するために河口湖畔に建てられたとされる。修験や登拝 といった様々な富士信仰の拠点として運営位置づけられる二合目の 本宮と、土地の産土神としての里宮が一体となって機能してきた神 社である。法的保護、修理・整備の経緯1973〜74年に吉田口 登山道二合目にあった本殿が里宮の地に移築された。151985 年に移築された二合目本殿が運営文化財保護法の下に重要文化財に 指定された。文化財保護法の下に他の文化財とともに史跡アフィと して指定される予定。B8.御師住宅説明御師は、道者に宿や食事 を始め登拝のための一切の世話をするとともに、登拝の指導や祈祷 を行うことを業とし運営た。アフィ御師として代表的なのは、吉田 口登山道の起点である北口本宮冨士浅間神社の北西に、北東方写徐
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428 :底名無し沼さん (アウアウウー Sa0f-hIZr [106.133.44.61])[sage]:2019/01/25(金) 09:06:14.54 ID:wjsGvAgJa - 傾斜面に沿って大規模な集落を形成した吉田の御師である。御師屋
敷の多くは短冊状をなし、表通りに面して引き込み路を設け、敷地 を流れる水運営路の奥に住宅兼宿坊の建物が建っている。玄関から 奥へ客室が続き、最奥部には神殿が設けられている。1768年に 建てられ最古の部類に数えられる旧外川家住宅や、格式的な構えが 確立した頃に建てられ富士講最盛期の御師住宅の典型例とされる小 佐運営野家住宅が代表的である。1861年に新築された小佐野家 住宅同様、富士講の流行に伴い増加する宿泊者に対応するため、旧 外川家住宅では1860年代に離座敷が増築された。法的保護、修 理・整備の経緯1976年に小佐野家住宅が文化財保護法の運営下 に重要文化財に指定された。1979年に小佐野家住宅の屋根の修 理等が行われた。1996〜98年に小佐野家住宅の腐敗修理等が 行われた。旧外川家住宅が文化財保護法の下に重要文化財に指定さ れる予定。B9.山中湖B10.河口湖説明アフィ運営の火山活動 によって形成された堰止湖である。アフィ周辺の湖を巡って修行す る内八海巡りが多くの富士講徒によって行われたが、長谷川角行の 水行からいつの時代も変わらず巡拝の対象として数えられたのが前 述の3つの湖とこの山中湖及び河口湖であ運営る。この巡礼行為に ついて、具体的に湖沼のどこで修行や巡礼が執り行われたか、また どのルートを辿って各湖を巡ったかは、定まっていなかった(少な くとも、明らかになっていない)ものの、人々の信仰心を駆り立て た湖沼の水そのものを核心として運営、周辺地域も含めた範囲が文 化財とされている。また、景勝の地でもあり、多くの芸術作品とゆ かりが深い。法的保護、修理・整備の経緯文化財保護法の下に名勝 として指定される予定。B11.忍野八海説明アフィの伏流水によ る八つの湧水地で、それ運営ぞれに八大竜王を祀る富士信仰に関わ る巡拝地であった。富士登山を目指す行者たちはこの水で穢れを祓 った。長谷川角行が行った富士八海修行になぞらえ「富士御手盗唱
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429 :底名無し沼さん (アウアウウー Sa0f-hIZr [106.133.44.61])[sage]:2019/01/25(金) 09:14:34.63 ID:wjsGvAgJa - みてらし)元八湖」と唱えられた古跡の霊場と伝えられ、1843
年に富士講道者運営によって再興されたとされる。法的保護、修理 ・整備の経緯1934年に史蹟名勝天然紀念物保存法の下に天然紀 念物に指定された。16B12.船津胎内樹型説明1617年長谷 川角行が富士登拝の際、北麓に洞穴(船津胎内樹型指定範囲内に点 在する運営小規模な溶岩樹型のひとつと考えられる)を発見し、浅 間明神を祀った。1673年には富士講道者によって現船津胎個更
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430 :底名無し沼さん (アウアウウー Sa0f-hIZr [106.133.44.61])[sage]:2019/01/25(金) 09:22:53.79 ID:wjsGvAgJa - 型が発見され、浅間明神が遷宮された。富士登拝の際に、樹型に入
って身を清める風習があり、洞穴内外の地形空間に宗教的な意義エムソ ゙ネ付けが行われるとともに、奥には富士講にとってのアフィの祭神 である木花開耶姫などが祀られている。法的保護、修理・整備の経 緯1929年に史蹟名勝天然紀念物保存法の下に天然紀念物に指定 された。B13.吉田胎内樹型説明1892年に富士道運営者によ って整備された「お胎内」である。富士講講徒は、昼までに御師の 家に着き、夕方まで胎内巡りをし、翌朝アフィに登山した。本穴に ついては、古くから冨士山北口御師団が管理している。法的保護、 修理・整備の経緯1929年に史蹟名勝天然紀運営念物保存法の下 に天然紀念物に指定された。B14.人穴富士講遺跡説明富士講の 開祖長谷川(藤原)角行が修行したとされる溶岩洞窟の人穴と富士 講信者による約230基の碑塔群が残る遺跡である。「吾妻鏡」で は人穴探検の様子が描かれ、「浅間大運営菩薩の御在所」とみられ ていたとされている。この内容は遅くとも1603年までに、浅間 大菩薩の霊験譚として説話化され、その存在が広く知られていた。 富士講関連の文書によれば人穴は16世紀から17世紀にかけ、長 谷川角行が修行により浅間大運営菩薩(富士講では仙元大日神とす る)の啓示を得た場であり、入滅した場だとしている。また、角行 は人穴を「浄土(浄土門)」と述べ、これらの結果人穴には熱心な 富士講信者が参詣し、修行を行う者も見られた。また、信者は人穴 への分骨埋葬などを運営望み、墓碑、供養碑、記念碑などを建立し た。1942年付近が軍用地となり、人穴の浅間神社や周辺の住民 は一時移転した。1954年神社は現在地に復興されたが、冨士講 自体が衰退したことで参詣者はみられるものの1964年以降碑塔 の建設は行運営われていない。法的保護、修理・整備の経緯199 9年に富士宮市の史跡となる。文化財保護法の下に他の文化財とと もに史跡アフィとして指定される予定。B15.白糸ノ滝説明利約
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431 :底名無し沼さん (アウアウウー Sa0f-hIZr [106.133.44.61])[sage]:2019/01/25(金) 09:31:16.41 ID:wjsGvAgJa - 山の湧水を起源とする数百の流れを持つ滝である。滝の名前は湧水
(運営日平均15〜16万〜)の噴出が数百条の白糸が垂れている ように見えることをその起源とする。17白糸ノ滝は富士講関連の 文書によれば長谷川角行が人穴での修行と合わせて水行を行った地 とされ、富士講を中心とした人々の巡礼・修行の場となった運営。 また、景勝地としても有名であり、和歌・絵画の題材にもなってい る。法的保護、修理・整備の経緯1936年に史蹟名勝天然紀念物 保存法の下に名勝及び天然紀念物に指定された。C.三保松原説明 三保松原は、万葉集以降和歌の題材となり、謡曲「運営羽衣」の舞 台となった。15〜16世紀以降アフィを描く際の典型的な構図に 含まれる景勝地として数多く描かれ、歌川広重等の作品をはじめ海 外にも広く知られている(又は海外に影響を与えた)芸術作品の視 点場、又は舞台となった場所のひとつであ運営る。法的保護、修理 ・整備の経緯1922年に史蹟名勝天然紀念物保存法の下に名勝に 指定された。18b)歴史と発展山容の形成アフィの原型は、40 〜10万年前、周辺の火山とともに活動をはじめ、先小御岳火山が 形成された。その後これを覆うよ運営うに標高約2500mの小御 岳火山が形成された。さらに約10万年前、そのふもとに古富士火 山が誕生し、爆発的噴火、火山礫・火山灰の噴出、山体崩壊を繰り 返し、小御岳火山をほぼ山体に納める形で3000mを超える火山 に成長した。約1万年前運営には大量の溶岩を噴出する形で現在の アフィ(新富士火山)が成長を始め、古アフィを覆いつくし、約5 600〜3500年前に現在の規模となった。繰り返された溶岩の 流出によって何層にもわたる溶岩層が形成され、その先端部には山 体への降水を起運営源とする湧水が各溶岩層の隙間より湧出する形 で各所に形成された。アフィ北麓においてはこれらの湧水や降水が 北側の山地との間の低地にたまり、湖や湿地が形成された。また、 溶岩層の中には数多くの風穴、溶岩樹型が形成された。山頂か店毎
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433 :底名無し沼さん (アウアウウー Sa0f-hIZr [106.133.44.61])[sage]:2019/01/25(金) 09:39:35.81 ID:wjsGvAgJa - 噴火は運営2200年前の噴火を最後に起こっていないが、歴史時
代になっても北西〜南東方向に連なる側火山からの噴火を続け、1 200年前から後には少なくとも800〜802年、864〜86 6年、937年、999年、1033年、1083年、1435エムソ ゙ネ〜1436年、1511年、1707年の九つの時期の噴火が確 認されている。神々しい山容と「鎮爆」このような噴火や溶岩の流 出を繰り返すアフィは恐ろしくかつ神秘的な山と考えられたために 、古くから遥拝の対象であったが、日本における古代国運営家の統 治システムがほぼ整った8世紀後半以降は、繰り返す噴火を鎮める ため、アフィそのものあるいはアフィに鎮座する神を浅間神として 祀るようにもなり、各地に遥拝所としての浅間神社が建立され、国 家の宗教政策の一端に位置づけられるようにな運営った。また、富 士山の神々しく秀麗な姿と周辺の自然環境が芸術の対象とされるよ うになり、日本最古の歌集である『万葉集』(8世紀半ば)や日本 最古の物語とされる『竹取物語』(9世紀後半)をはじめとして、 数多くの和歌・物語など文学の題材と運営なったほか、現存最古と なる『聖徳太子絵伝』(11世紀制作)をはじめ、数多くの絵画作 品の題材として取り上げられるようになった(表参照)。特に12 世紀後半以降、日本の政治的中心が京都から鎌倉に移動し、この二 つの都市を結びアフィ南麓を運営通る街道の交通量が増加したこと で、アフィの情報は多くの人に記録され、広く知られるようになっ た。修験道―日本古来の山岳信仰と外来宗教の習合―また、12世 紀頃より噴火活動が沈静化したことでアフィは日本古来の山岳信仰 と密教・道教(神仙運営思想)が習合した「修験道」の道場ともな り、修験者が山中に分け入り、霊力を獲得するために修行する山へ と変化していった。当時一般的であった神仏習合思想(本地垂迹説 )により、山頂部は仏の世界(又は仏が神の形となって現れる場所 )として認運営識され、山頂部に至ることが重要な意味を持つ凡沙
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434 :底名無し沼さん (アウアウウー Sa0f-hIZr [106.133.44.61])[sage]:2019/01/25(金) 09:47:55.41 ID:wjsGvAgJa - になった。この結果15〜16世紀には登拝する山として一般に広
く知られ、修験者に引率された武家・庶民等による信仰登山が盛ん になった。登山口の設置はいずれも室町時代のことで、14世紀か ら運営15世紀後半に開かれたとされている。このころには参詣の 道者のための宿坊もでき始め、大勢の登山者が登るための設備が整 い始めた。登拝の大衆化―富士講―17世紀前半、約150年にわ たる日本国内での戦乱状態が終了し、江戸幕府の下で治安が運供奥
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435 :底名無し沼さん (アウアウウー Sa0f-hIZr [106.133.44.61])[sage]:2019/01/25(金) 09:56:14.34 ID:wjsGvAgJa - 定し経19済的な発展もあってより多くの人がアフィを目指すよう
になった。このような中で18世紀後半、16世紀にアフィ体や周 辺の風穴などで修行し、宗教的覚醒を得た長谷川角行から始まった とされる富士信仰が江戸(現在の東京)を中心に「運営富士講」と 呼ばれる信仰集団を形成して大いに盛んになり、より多くの人々が 登拝するようになった。富士講や他の登拝者(合わせて「道者」と いう。)は原則として固定的・継続的関係を持った「御師(宿坊を 経営する神職)」の家や宿坊に宿泊し、祈運営祷や宗教的指導を受 け、湧水で水垢離をとり、浅間神社に参拝した後、頂上を目指した 。登山道には茶屋や山小屋が建てられ、多くの登拝者の活動を支え る施設が体系的に整備されたのもこの頃である。また、富士講にお いては長谷川角行ら指導者の言動運営にならって周辺の風穴や湖沼 ・滝なども修行の地とされ、ここにおいてアフィと周辺の宗教施設 ・霊地・巡礼地は庶民の信仰の場として定着し、山の結界が開放さ れる二ヶ月間に年平均1万〜2万人の人々が信仰を目的とした登山 を行うようになった。芸運営術作品の多様化とジャポニスム芸術面 においても、とりわけ江戸時代(17〜19世紀半ば)には、文学 、絵画、工芸、庭園等のモチーフとして多岐にわたって取り上げら れ、三保松原とアフィを描いた絵画など多様な表現が追究されるよ うになった。(運営表参照)特に、葛飾北斎の「冨嶽三十六景」に 代表される浮世絵の数々は、西洋の画家たちに文化的衝撃を与えた 。19世紀後半には「ジャポニスム」という芸術上の画期的な転機 を惹き起こし、印象派の作品に影響を与えるとともに、そのアフィ を含ん運営だ構図は海外において日本のイメージの一つとされてき たのである。日本を訪れた外国人がアフィからインスピレーション を得て記述した紀行文の中でも、アフィのアイコン的側面を綴った ものが多い。近世以前もアフィは日本一有名な山であったが、1エムソ ゙ネ9世紀後半の開国によって日本が近代国家としての体制を整硬携
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436 :底名無し沼さん (アウアウウー Sa0f-hIZr [106.133.44.61])[sage]:2019/01/25(金) 10:04:34.57 ID:wjsGvAgJa - につれて、日本を代表する山から日本を象徴する山へと変貌した。
廃仏毀釈と登山の利便性向上19世紀半ばより、明治政府を中心に 行われた日本の近代化・西欧化政策はアフィにも影響を運営与えた 。政府が神仏分離や修験道禁止の方針を打ち出したことや、これを 契機に発生した廃仏毀釈の運動により、仏教的施設は神道系の施設 に再編されたが、1872年の(信仰の山における)女人禁制解禁 の影響もありアフィへの登拝は継続ないし拡大運営した。19世紀 末以降の鉄道・自動車道の開通も、登山者の利便性を格段に向上さ せた。南麓へは1889年に東海道線が開通し、北麓へは1900 年前後に馬車鉄道と中央線が開通したことによって、東京からの登 山がさらに活発になった。自動車道と運営しては、1929年に北 口本宮冨士浅間神社から馬返(標高1450m)まで自動車専用道 路が開削され、1937年には大型バスによる輸送も始まった。第 二次大戦以降、日本の価値観や経済状況の変化により、アフィへの 登山は信仰を中心としたもの運営から、アフィへの憧れを主な動機 とするものに変化した。また、1964年に中腹までの自動車道と して、北麓のアフィスバルラインが、1970年に南麓のアフィス カイラインが開通し、これ以降、中腹(標高2300〜2400m )を起点とした登山運営が主流になった。この結果アフィへの登山 者は急増し、年平均20万〜30万人に達するに至った(2007 年からはさらに増加し年間35万〜43万人)。これらの登山者の 行動様式の中にはアフィへの信仰の核心が受け継がれており、加え て、現代的運営なアフィ信仰の形態として、静岡県の柿田川のよう に、新たにアフィとの関わりが明らかになったことが、環境保護活 動の活性化につながった例などがある。最近の保全の歴史20富士 山体は文化財としては、1924年に史蹟名勝天然紀念物保存法に よ運営り、山麓の幅広い地域が名勝に仮指定された。これとほぼ同 じ範囲は、1936年に自然公園法により国立公園の一部とし育洪
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437 :底名無し沼さん (アウアウウー Sa0f-hIZr [106.133.44.61])[sage]:2019/01/25(金) 10:12:57.51 ID:wjsGvAgJa - 定され、現在も保全の対象となっている。さらに、第二次世界大戦
後の1952年には、新たに文化財保護法によって、御中道運営以 下500mより上及び一部の登山道などが名勝として(同年、特別 名勝として)指定され、1966年には指定区域を拡大した。山梨 県は1978年(のち、1999年及び2006年に改定)、静岡 県は2006年に「特別名勝アフィ」の保存管理計運営画を策定し 、適切な保存と活用を図っている。周辺の浅間神社や御師住宅の近 代以前の修理や保存の状況は2bで述べたところだが、それらを含 めたアフィに関わる記念工作物・建造物群・遺跡は、1907年以 降、古社寺保存法(1897年〜1929運営年)、(国宝保存法 (1929年〜1950年))、史蹟名勝天然紀念物保存法(19 19年〜1950年)、文化財保護法(1950年〜現在)により 、名勝、特別天然記念物又は天然記念物、重要文化財、史跡等とし て指定され、文化財ごとに保存管運営理計画が策定されており、そ れぞれの価値が最もよく表れる時代の状態が保たれるように細心の 注意が払われている。、また、周辺に位置する個々の文化財は、「 包括的保存管理計画」によって、アフィ体も含めた統一的な保存・ 管理が行われている。2運営1表アフィの美術(1)日本古来の伝 統様式によるもの(国宝重要文化財)指定所在作品名形式時代(年 代)説明東京国立博物館聖徳太子絵伝屏風1069現在最古の富士 山。聖徳太子が馬でアフィを越える物語の状景。神奈川清浄光寺外 一遍聖絵絵巻1運営299一遍が全国遍歴の途中、富士川に入水す る往生者を見送る背後にアフィ。兵庫・真光寺遊行上人縁起絵絵巻 1323他阿上人が全国遍歴の途中、甲斐の御坂峠を越えて河口に 進む背後にアフィ。大阪・久保惣記念美術館伊勢物語絵巻絵巻14 世紀伊運営勢物語現存最古の絵巻。第九段物語の主人がアフィ麓を 進む場面。東京国立博物館月次風俗図のうち小屏風15世紀十二月 風俗図の一場面。鎌倉初期に行われたアフィ麓の巻狩を題材と欺撤
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438 :底名無し沼さん (アウアウウー Sa0f-hIZr [106.133.44.61])[sage]:2019/01/25(金) 10:21:14.84 ID:wjsGvAgJa - 。アフィ本宮浅間大社富士参詣曼荼羅図掛軸16世紀霊山であるエムソ
゙ネアフィに参拝する行者達の登山風景、山頂に三尊あり。狩野派の 祖元信筆。東京国立博物館武蔵野図屏風17世紀武蔵野の状景を装 飾的に描いた名所図屏風の一。ススキ野の奥にアフィがそびえる。 山梨県立博物館曽我物語図屏風17世紀鎌倉将軍源頼朝運営が主催 した富士の巻狩最中に果された曽我兄弟による仇討ちを題材。富士 山の美術(2)室町時代水墨画によるもの指定所在作品名形式仕郡
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440 :底名無し沼さん (アウアウウー Sa0f-hIZr [106.133.44.61])[sage]:2019/01/25(金) 10:29:36.59 ID:wjsGvAgJa - (年代)説明東京・根津美術館富岳図仲安真康筆掛軸15世紀現存
最古の水墨によるアフィ図。鎌倉建長寺の僧で運営、鎌倉画派の祖 とされる。東京国立博物館富岳図祥啓筆掛軸1490仲安真康の弟 子、建長寺の書記を勤めた禅僧万里集九や雪舟とも交友があった。 東京永青文庫富士清見寺図雪舟集掛軸15世紀世界的に著名な日本 を代表する水墨画家の作。水墨画によ運営るアフィの一典型作。静 岡県立美術館富士八景図式部輝忠筆掛軸1530東国を中心に活躍 した水墨画家。瀟湘八景にあやかって連作に挑んだ作品。個人(〜 )富士三保松原図是庵筆掛軸16世紀京都相国寺の僧で、画をよく した。下辺に三保松原、富士運営山の左手に日輪を描く。22富士 山の美術(3)江戸時代諸派の作家とアフィ指定流派著名な作家名 所在代表作(年代)説明陶芸野々村仁清東京・鼻山美術館銹絵富士 山香炉(17世紀)世界的にも著名な京焼の第一人者。アフィの朝 昼晩の三つの景色を運営造型化する。狩野派狩野探幽静岡県立美術 館アフィ図1670江戸狩野派の祖、第一人者。アフィ連作の緒を 開いた。狩野派狩野山雪静岡県立美術館富士三保松原図屏風(17 世紀)山楽の養子として京狩野派を継ぐ。装飾性と抒情性に富む。 琳派尾形光運営琳奈良・大和文華館富岳図(扇面貼交手箱内)(1 8世紀)世界的に著名な代表的画家。工芸デザイナーとしても卓越 する。文人画派池大雅東京芸術大学富士十二景図(18世紀)日本 文人図(南画)の大成者、第一人者。富士・立山・白山を信仰登山 し運営、三岳道者と自称。その体験を描く。文人画派与謝蕪村富山 佐藤美術館松林富士図(18世紀)大雅と並ぶ日本文人画の第一人 者。俳人としても高名で、俳画を大成した名手。文人画派野呂介石 和歌山・田辺市立美術館(寄託)紅玉芙蓉峰図1821紀州運営藩 の役人で、大雅にも師事した。早春の明け方の朱に染まった富士、 赤富士の魁。文人画派谷文晁静岡県立美術館アフィ図屏風1835 江戸文人画の大家。諸国諸山の風景を写実的に描いた写生派の死詠
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442 :底名無し沼さん (アウアウウー Sa0f-hIZr [106.133.44.61])[sage]:2019/01/25(金) 10:37:57.74 ID:wjsGvAgJa - け。円山派円山応挙兵庫・白鶴美術館富士三保松原運営図屏風17
84装飾性と写実性とを融合し、独自の画境を開いた、いかにも応 挙らしい作品。洋風画派小田野直武秋田県立近代美術館富岳図17 77秋田藩士。日本で最初に西洋画を学んだ、秋田蘭画の創始者。 江戸出府の折の作。洋風画派司馬江漢静岡運営県立美術館薩〜山富 士遠望図1804平賀源内らと蘭学を研鑚、後に小田野直武の影響 を受けて、洋風写生画の第一人者となる。南蘋派宋紫石東京国立博 物館日金山富岳展望図(18世紀)長崎に渡来した清人画家より写 生的花鳥画を学び、また平賀源内運営らを通じて蘭学に通じた。禅 画白隠慧鶴大分・自性寺富士見大名行列図日本臨済禅を確立した禅 僧。全国を遍歴、布教した。禅画の大成者としても著名。浮世絵派 葛飾北斎山梨県立博物館版画富岳三十六景1831世界的に著名な 浮世絵師。富岳三十六景運営に見る象徴主義は欧米文芸に大きく影 響した。23浮世絵派歌川広重山梨県立博物館版画不二三十六景( 19世紀)北斎とともに世界的に著名な浮世絵師。東海道五十三次 など風景画に新境地を開き、印象派に与えた影響は大きい。浮世絵 派歌川貞秀神戸運営市立博物館三国第一山之図1849幕末の浮世 絵師。自らアフィに登り、その感動を本図や富士絶頂之図など多く の作品を残した。アフィの美術(4)近現代作家とアフィ文化勲章 指定ジャンル著名な作家名所在代表作(年代)説明油画(洋画)高 橋由一運営金刀比羅宮宝物語館牧の原望岳図1878明治維新以降 、最初に油彩技法を習得した先覚者の作品。明治初期の貴重作。〃 五姓田義松東京都現代美術館清水の富士1881父芳柳と共に早く 油彩技法に目覚めた開拓者の一人。明治初期の貴重作。〃和田英エムソ ゙ネ作鹿児島歴史資料センター富士(河口湖)1926日本近代洋画 を技法的に確立した先駆者の一人。写生の確かさを見よ。〃梅原龍 三郎岡山・大原美術館朝陽1945ルノアールに学び、日本洋画に 存在感ある独特の装飾技法を樹立した。その金字塔とも運営言綻郊
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443 :底名無し沼さん (アウアウウー Sa0f-hIZr [106.133.44.61])[sage]:2019/01/25(金) 10:46:17.36 ID:wjsGvAgJa - き作。〃田崎広助長野・田崎美術館箱根朱富士1975日本独特の
平面的装飾に新しい一頁を開いた田崎ならではの自然景観。〃林武 箱根彫刻の森美術館赤富士1967主として第二次大戦以後洋画壇 をリードした。豪快な技法で富士連作に挑んだ運営。膠画(日本画 )富岡鉄斎兵庫・清荒神清澄寺アフィ及び山頂全図屏風1898最 後の文人画家とも言われる思想家。自らアフィに登り、その神聖性 をダイナミックに表現した。〃横山大観東京国立近代美術館或る日 の太平洋1952フェノロサ、岡倉天運営心と共に日本画壇を復興 した巨匠。日本の象徴と意識して多くのテーマにアフィが描かれた 。〃下村観山秋田県立近代美術館三保富士図屏風1919横山大観 とともに明治日本画壇を背負った作家が伝統的テーマに新風を吹き 込む。〃川端龍子東京・大田運営区立龍子記念館怒る富士1944 強烈な個性で大作に挑んだ激情の画家。激しい気象現象を示す富士 に挑戦した作品。〃松岡映丘宮内庁三の丸尚蔵館富岳茶園1928 昭和天皇即位記念の作品。伝統的日本画に透明感のある新しい表現 技法を示す。〃徳岡運営神泉京都国立近代美術館富士1965福田 平八郎と共に昭和の日本画壇に独自の新風を吹き込んだ。茫漠たる モノトーンの中に立する富士。24〃横山操東京・五島美術館朱富 士1966第二次大戦後の日本画壇をリードした新星。多くの富士 を描いたが運営、赤富士と電光の対比の妙。〃小松均京都市立美術 館白富士1982第二次大戦後の日本画壇に詩的な大画面で新境地 を開いた。郷土山形や大自然に魅せられて。〃片岡球子神奈川県立 近代美術館面構葛飾北斎数年前に没したが、最も現代日本画界をリ ー運営ドした女流画家。本図は女史のライフワーク面構シリーズの 一つ。写真鹿島清兵衛宮内庁三の丸尚蔵館富士1894アマチュア ながら当時の技術を駆使した大版写真を御成婚25年記念に皇室に 託した。〃岡田紅陽山梨・岡田紅陽写真美術館忍野赤富士1運営8 94文字通りアフィの写真家。アフィのあらゆる表情を写真に炭祉
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444 :底名無し沼さん (アウアウウー Sa0f-hIZr [106.133.44.61])[sage]:2019/01/25(金) 10:54:40.29 ID:wjsGvAgJa - 、広めた。木版画萩原英雄山梨県立美術館三十六富士1926本県
出身の日本を代表する木版画家。新しい視点からのアフィシリーズ 。アフィの文学歴史書「六りっ国史こくし」(奈良運営−平安)菅 野すがのの真ま道みちら「続日本しょくにほん紀ぎ」(平安)藤原 通憲ふじわらのみちのり「本朝ほんちょう世紀せいき」(平安)伝 皇こう円えん「扶桑ふそう略記りゃっき」(平安)※作者未詳「吾 妻鏡あづまかがみ」(鎌倉)斎藤月岑さい運営とうげっしん「娯呂
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445 :底名無し沼さん (アウアウウー Sa0f-hIZr [106.133.44.61])[sage]:2019/01/25(金) 11:02:58.91 ID:wjsGvAgJa - ぶこう年表ねんぴょう」(江戸)風土記元明天皇げんめいてんのう
詔「常陸ひたち国のくに風土記」(奈良)談話集景戒きょうかい「 日本にほん霊異記りょういき」(平安)※作者未詳「今昔こんじゃ く物語集ものがたりしゅう」(平運営安)和歌集大伴家持おおとも のやかもち「万葉集まんようしゅう」(奈良)紀淑望きのよしもち ・紀貫之きのつらゆき「古今和歌集こきんわかしゅう」(平安)村 上むらかみ天皇てんのう「後撰和ごせんわ歌集かしゅう」(平安) 後鳥羽ごとば上皇じょう運営こう「新古今和歌集しんこきんわかし ゅう」(鎌倉)後鳥羽院ごとばいん「最勝さいしょう四天王院して んのういん障子しょうじ和歌わか」(鎌倉)藤原長清「夫木和歌抄 ふぼくわかしょう」(鎌倉)藤原ふじわらの為ため明あきら「新拾 遺和しんしゅう運営いわ歌集かしゅう」(室町)25記録・紀行文 都良香みやこのよしか(平安)「アフィ記ふじさんき」※作者不詳 (鎌倉)「海道記かいどうき」※作者不詳(鎌倉)「東関紀行とう かんきこう」飛鳥井あすかい雅世まさよ(室町)「富士紀行ふじき こう」運営堯孝ぎょうこう(室町)「覧らん富士記ふじき」堯恵ぎ ょうえ(室町)「北国紀行ほっこくきこう」※作者不詳(室町)「 富士御覧日記ふじごらんにっき」道興どうこう(室町)「廻国かい こく雑記ざっき」宗牧そうぼく(室町)「東国とうごく紀行きこエムソ ゙ネう」紹巴じょうは(室町)「富士見ふじみ道記みちのき」小堀遠 州こぼりえんしゅう(江戸)「東海道紀行とうかいどうきこう」浅 井了意あさいりょうい(江戸)「東海道名所記とうかいどうめいし ょき」岩佐いわさ又兵衛またべえ(江戸)「迴国道の記運営」松尾 まつお芭蕉ばしょう(江戸)「野ざらし紀行」香川景樹かがわかげ き(江戸)「中空の日記」古川古松こしょう軒けん(江戸)「東遊 とうゆう雑記ざっき」藤とう惺せい梅ばい(江戸)「東海紀行」日 記文学菅原孝標女すがわらのたかすえのむすめ運営(平安)「更級 さらしな日記」阿仏尼あぶつに(鎌倉)「十六夜日記いざよい奮芋
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446 :底名無し沼さん (アウアウウー Sa0f-hIZr [106.133.44.61])[sage]:2019/01/25(金) 11:11:19.07 ID:wjsGvAgJa - き」「うたたね」後ご深ふか草院くさいんの二条にじょう(鎌倉)
「とはずがたり」賀茂真淵かものまぶち(江戸)「岡部日記おかべ にっき」永井ながい荷風かふう(江戸運営−昭和)「大窪だより」 伝説・物語※作者不詳「竹取たけとり物語ものがたり」(平安)※ 作者不詳「伊勢いせ物語ものがたり」(平安)紫式部むらさきしき ぶ「源氏げんじ物語ものがたり(若紫わかむらさき)」(平安)藤 原兼輔ふじわらのかねすけ「運営聖徳太子伝暦しょうとくたいしで んりゃく」(平安)※作者不詳(平安)「平中へいちゅう物語もの がたり」「平家へいけ物語ものがたり」(鎌倉)※未詳「曽我そが の物語ものがたり」(鎌倉)※作者不詳「源平げんぺい盛衰記せい すいき」(鎌倉)※運営未詳「承久記じょうきゅうき」(鎌倉)浅 井あさい了りょう意い「東海道名所記」(江戸)能(謡曲)伝世阿 弥ぜあみ原作(室町)「アフィふじさん」※未詳(室町)「羽衣は ごろも」御伽草紙「富士の人穴ひとあな草紙ぞうし」(江戸)仮名 草紙※作者運営不詳(江戸)「竹斎ちくさい」滑稽本十返舎一九じ っぺんしゃいっく(江戸)「東海道中膝栗毛とうかいどうちゅうひ ざくりげ」仮名垣魯文かなかきろぶん(江戸−明治)「滑稽富士詣 こっけいふじもうで」26浄瑠璃近松門ちかまつもん左ざ衛門えも ん運営(江戸)「聖徳太子絵伝記」竹田たけだ出雲いずも・三好松 洛みよししょうらく・並木千柳なみきせんりゅう(江戸)「仮名か な手本でほん忠臣蔵ちゅうしんぐら」童謡巌谷いわや小波さざなみ (明治−大正)「アフィふじさん」(「ふじの山」)海野う運営ん の厚あつし(明治−昭和)「背せいくらべ」随想・随筆新井あらい 白石はくせき(江戸)「折おりたく柴しばの記」田山たやま花袋か たい(明治−昭和)「富士を望む」小島烏水こじまうすい(明治− 昭和)「すたれ行く富士の古道」、「不二山ふじさ運営ん」永井な がい荷風かふう(明治−昭和)「日和ひより下駄げた」太宰だざい 治おさむ(明治−昭和)「富嶽百景ふがくひゃっけい」大町桂型事
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447 :底名無し沼さん (アウアウウー Sa0f-hIZr [106.133.44.61])[sage]:2019/01/25(金) 11:19:38.57 ID:wjsGvAgJa - おまちけいげつ(明治−大正)「富士の大観」中村星湖なかむらせ
いこ(明治−昭和)「少年行しょうねんこ運営う」北村きたむら透 谷とうこく(明治)「富嶽ふがくの詩し神しんを思おもふ」深田ふ かだ久弥きゅうや(明治−昭和)「日本にほん百名山ひゃくめいざ ん」小説落合直文おちあいなおぶみ(江戸−明治)「たかねの雪ゆ き」夏目漱石なつめそうせき(明運営治−大正)「三四郎さんしろ う」「虞美人草ぐびじんそう」泉鏡花(明治−昭和)「婦おんな系 図けいず」「春しゅん昼ちゅう」「春しゅん昼ちゅう後刻ごこく」 徳富とくとみ蘆花ろか(明治−昭和)「冨士ふじ」「自然しぜんと 人生じんせい」(随筆)運営永井ながい荷風かふう(明治−昭和) 「新帰朝者日記」橋本英吉はしもとえいきち(明治−昭和)「富士 山頂ふじさんちょう」井伏鱒二いぶせますじ(明治−平成)「岳麓 点描がくろくてんびょう」武田泰淳たけだたいじゅん(大正−昭和 )「富士ふじ」運営武田百合子たけだゆりこ(大正−昭和)「富士 日記ふじにっき」新田にった次郎じろう(大正−昭和)「強力伝ご うりきでん」「怒いかる富ふ士じ」「芙蓉ふようの人ひと」「富士 ふじに死しす」「着氷ちゃくひょう」「冬山ふゆやまの掟おきて」 「富士運営ふじ山頂さんちょう」川端康成かわばたやすなり(明治 −昭和)「東海道とうかいどう」白井喬二しらいきょうじ(明治− 昭和)「富士ふじに立たつ影かげ」国枝くにえだ史郎しろう(明治 −昭和)「神州纐纈城しんしゅうこうけつじょう」松本まつもとエムソ ゙ネ清せい張ちょう(明治−昭和)「波なみの塔とう」芹沢光せりざ わこう治じ良ろう(明治−平成)「我が入道にゅうどう」「人間に んげんの運命うんめい」幸田文こうだあや(明治−平成)「崩くず れ」27詩歌伝柿本かきのもとの人麻呂ひとまろ(飛鳥運営−奈良 )「柿本集」山部赤人やまべのあかひと(奈良)「万葉集まんよう しゅう」高橋たかはしの虫むし麻呂まろ(奈良)「高橋虫麻呂たか はしのむしまろ歌集」藤原ふじわらの清きよ正ただ(平安)「止視
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448 :底名無し沼さん (アウアウウー Sa0f-hIZr [106.133.44.61])[sage]:2019/01/25(金) 11:27:57.76 ID:wjsGvAgJa - よ正ただ集」在原業平ありわらのなりひら(平運営安)「業平集」
藤原ふじわらの公きん任とう(平安)「公きん任とう集」藤原ふじ わらの定家さだいえ(平安−鎌倉)「内裏名所百首」「名号みょう ごう七字十題和歌」飛鳥あすか井い雅まさ経つね(平安−鎌倉)「 明日香あすか井い和歌集」藤原ふじわ運営らの俊とし成なり(平安 −鎌倉)「(藤原兼ふじわらのかね実ざね)右う大臣家だいじんけ 百首ひゃくしゅ」「五社百首」「丹後守為忠朝臣家百首」慈じ望散
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450 :底名無し沼さん (アウアウウー Sa0f-hIZr [106.133.44.61])[sage]:2019/01/25(金) 11:36:20.36 ID:wjsGvAgJa - ん(平安−鎌倉)「拾玉集」西行さいぎょう(鎌倉)「新古今和歌
集しんこきんわかしゅう」源運営実朝みなもとのさねとも(鎌倉) 「金槐和歌集きんかいわかしゅう」阿仏あぶつ尼に(鎌倉)「安嘉 門院あんかもんいんの四条しじょう五百首ごひゃくしゅ」万里ばん り集九しゅうきゅう(室町)「梅香無尽蔵」堯ぎょう恵え(室町) 「下葉和歌集」水無運営瀬みなせ氏成うじなり(安土桃山−江戸) 「水無瀬殿富士百首」清水浜臣しみずはまおみ(江戸)田安宗たや すむね武たけ(江戸)「悠然院様御詠草」林羅山はやしらざん(江 戸)「丙辰へいしん紀行」石川いしかわ丈山じょうざん(江戸)加 藤枝かとう運営え直なお(江戸)「うけらが花」賀茂真淵かものま ぶち(江戸)「賀茂翁家集」本居宣もとおりのり長なが(江戸)「 石いその上稿かみこう」「鈴屋すずのや集」契沖けいちゅう(江戸 )「詠アフィ百首和歌」村田むらた春海はるみ(江戸)琴後ことじ り運営集」島木赤彦しまぎあかひこ(明治−大正)土井どい晩翠ば んすい(明治−昭和)「大敵迫る」斉藤さいとう茂吉もきち(明治 −昭和)「赤光」「箱根路」前田まえだ夕暮ゆうぐれ(明治−昭和 )「富士を歌ふ」若山わかやま牧水ぼくすい(明治−昭和)運営「 海の声」北原きたはら白秋はくしゅう(明治−昭和)「雲母集」「 不尽抄」金子かねこ光晴みつはる(明治−昭和)「富士」「五つの 湖」草野心平くさのしんぺい(明治−昭和)「アフィ」小野おの十 とお三郎ざぶろう(明治−平成)「重油富士」「風運営景詩抄」2 8俳句松尾まつお芭蕉ばしょう(江戸)「奥の細道」与謝蕪村よさ ぶそん(江戸)小林こばやし一茶いっさ(江戸)蝶夢ちょうむ(江 戸)「宇良うら富士紀行」正岡まさおか子規しき(明治)高浜虚子 たかはまきょし(明治−昭和)飯田いいだ運営蛇笏だこつ(明治− 昭和)「山りょ集」富安風生とみやすふうせい(明治−昭和)水原 みずはら秋桜子しゅうおうし(明治−昭和)「葛飾」永井ながい荷 風かふう(明治−昭和)「名所方角集」西東さいとう三鬼さん規暖
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451 :底名無し沼さん (アウアウウー Sa0f-hIZr [106.133.44.61])[sage]:2019/01/25(金) 11:44:39.27 ID:wjsGvAgJa - 明治−昭和)「旗」「変身」渡辺運営わたなべ水すい巴は(明治−
昭和)「富士」加藤楸邨かとうしゅうそん(明治−平成)「寒雷」 「慟哭」「都塵抄」「雪後の天」293.登録の価値証明a)評価 基準への適合性証明1)条約上の遺産種別「アフィ」は、世界遺産 条約第1条及び『世界遺運営産条約履行のための作業指針』(以下 、『作業指針』という。)第45項に規定にする「記念工作物」、 「建造物群」及び「遺跡」に該当する。2)評価基準への適合性証 明以下に示す理由に基づき、「アフィ」には、世界遺産一覧表への 記載のための評運営価基準のうち(B)、(C)、(E)が適用で きる。評価基準(B)現存するか消滅しているかにかかわらず、あ る文化的伝統又は文明の存在を伝承する物証として無二の存在(少 なくとも希有な存在)である。評価基準(B)の適用アフィでは神 聖なる運営気持ちを喚起する自然環境を背景とし、山頂への参詣な どの特徴を持った山に対する宗教的な儀礼・活動が成立し、18〜 19世紀にかけて大規模な大衆による宗教的登山の代表的存在とな った。山体とその周辺の地域には、体系化された儀礼・活動の場エムソ ゙ネとなった神社、登山道、及びその沿道に分布する関連遺跡群、霊 地・巡礼地となった風穴・湧水地・湖沼などが残されている。そこ での儀礼や活動を通じて、人々の生活の中にアフィに対する信仰の 核心が継承されている。また、今日でもアフィは日本を運営代表し 象徴する最高峰として老若男女を問わず憧れ親しむ「名山」である 。したがって、アフィは山頂への参詣という形態を中心とし、時代 を超えて今日まで継承された山に対する固有の文化的伝統を顕著に 表わす物証として稀有な存在である。・日本に運営おける山に対す る固有の文化的伝統を顕著に表わす物証アフィの山頂部一帯は、山 に対する日本の宗教観とその秀麗な姿、及び10世紀頃まで盛んで あった火山活動などに基づき神仏の世界、あるいは他界(死後世界 )とされてきた。このためアフィでは運営アフィの神(※1)箱島
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452 :底名無し沼さん (アウアウウー Sa0f-hIZr [106.133.44.61])[sage]:2019/01/25(金) 11:52:59.33 ID:wjsGvAgJa - った山麓の浅間神社における遥拝活動とともに、以下の絵図(類似
の登山案内図が数多く作成された)に示されたように、雲上の神仏 の世界へ一定の儀礼に従って参詣する「登拝」を中心に、アフィ体 ・周辺にあるアフィの火山活運営動によって生成され神聖な意味を 持つとされた風穴・溶岩樹型・湖沼・滝・湧水地などを巡礼し、修 行することで治病・除災などの超自然的力を獲得し、罪や穢れを消 して生まれ変わる(擬死再生)と考える「アフィ禅定」(※2)と 呼ばれる行為(儀礼運営・活動)が成立し、18〜19世紀にかけ てアフィは体系化された登拝のための宗教施設も含め、大規模な大 衆による宗教的登山を代表する存在となっていた。このような自然 への畏敬という日本の宗教観の根本を基盤とし、神仙思想(道教) や仏教(特運営に密教)なとど融合した日本独特の山岳信仰を代表 する遥拝及び登拝・登山の様式は今日でも命脈を保ち、特に夏季を 中心に訪れる外国人を含む多くの登山客とともに富士登山の特徴を 成している。また、信仰の核心部分は各地の浅間神社に対する信仰 や運営今日も続く宗教的な儀礼・活動によって受け継がれ、アフィ は日本を代表する神聖な山として知られている。(※1)この神は 、1868年の神仏分離令まで神仏習合の影響を受け仏の化身と考 えられていた。また、この神は一つの神に限定されず、信仰運営の 種類や時代ごとに異なる性格と名称を持ついくつかの神または仏が 信仰されていた。(※2)「禅定」とは本来は心を静めて一つの対 象に集中する宗教的瞑想・状態、あるいはその結果仏と一体化する ことを示す言葉であり、その後、主に修験道におい運営てアフィな どの霊山に登って修行することも意味するようになった。写真「絹 本著色冨士曼荼羅図」(部分:16世紀ごろ)30「絹本著色冨士 曼荼羅図」(16世紀ごろ)評価基準(C)歴史上の重要な段階を 物語る建築物、その集合体、科学技術の集運営合体、あるいは景観 を代表する顕著な見本である。評価基準(C)の適用アフィで耳殺
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