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161 :底名無し沼さん (アウアウウー Sa1b-d3bv [106.133.47.95])[sage]:2019/01/23(水) 20:50:31.48 ID:6pRCKvqta - での宗教行為が体系化されていった。登拝者は山頂周辺において「
御来光」を拝み、内院と呼称される噴火口に鎮座すると言われる神 仏を拝した。また、火口壁にいくつかあるピークを仏教の曼荼羅に おける仏の世界運営に擬して巡拝する「お鉢めぐり(八葉めぐり) 」と呼ばれる行為を行なうことが一般的であった。山頂の宗教的施 設は、12世紀中ごろ、修行僧末代により建立された大日寺(大日 堂)が最初とされ、その後、経典・懸仏・仏像等の山頂部への奉納 ・埋納運営や内院への散銭が行われた。また、遅くとも17世紀に は、大宮・村山口山頂部に大日堂が、吉田・須走口山頂部に薬師堂 が造営された。この様子は19世紀中ごろの絵図によって確認でき る。1874年、山頂の仏教的施設及び仏像は廃仏毀釈の影響にエムソ ゙ネよって撤去され、ピークの名称も変更され、寺院は神社に改変さ れた。しかし、山頂部に対する信仰自体は変化することなく、上記 の行為は現代の−23−登山者の多くが行っており、これらを通じ て富士信仰の核心が現代に受け継がれている。写真奥宮運営の写真 表法的保護、修理・整備の経緯1924年所在地が史蹟名勝天然紀 念物保存法の下に名勝に仮指定1936年所在地が国立公園法の下 に(富士箱根)国立公園に指定1952年所在地が文化財保護法の 下に名勝、ついで特別名勝に指定2008年財運営団法人静岡県埋 蔵文化財調査研究所により現地調査が行われ、その成果に基づき2 010年に「史跡アフィ保存管理計画」が策定された2010年文 化財保護法の下に他の文化財とともに史跡アフィとして指定山頂の 噴火口の周囲を一周し、頂上の各峰を運営巡る行為は、古くから「 お鉢巡り」と呼ばれ、現在も多くの人々に受け継がれている。13 世紀後半の資料には「いたゞきに八葉の嶺あり」との記載があり、 このころには山頂の峰々に信仰的意義を見出していたことが伺える 。16世紀前半には地元為政運営者が「八要メサルヽ也」との記述 も見られ、後に盛んになるお鉢巡りの古態と思われる習俗があ威旗
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162 :底名無し沼さん (アウアウウー Sa1b-d3bv [106.133.47.95])[sage]:2019/01/23(水) 20:58:52.16 ID:6pRCKvqta - ことが知られる。富士講講中の多くは、頂上に着くと、時計回りに
山頂を巡っていった。内院に賽銭を投じ、御来光を礼拝し、途中に あるいくつかの仏像運営や石碑を拝みながら、大日寺(現奥宮)の 大日如来、最高峰の剣ヶ峰、釈迦割石、霊泉とされた金明水などを 巡礼した。写真お鉢めぐりの写真A2大宮・村山口登山道アフィ南 西麓の浅間大社及び村山浅間神社を起点とし、山頂大日岳に至る登 山道である運営。12世紀前半、アフィで修行した末代上人の登熱
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163 :底名無し沼さん (アウアウウー Sa1b-d3bv [106.133.47.95])[sage]:2019/01/23(水) 21:07:10.30 ID:6pRCKvqta - した登山道が起源だとされ、14世紀初め、僧の頼尊が修験者とそ
の活動を組織化したことで、村山を基点とする登山が行われていた ことが推測できる。15世紀に入ると村山での宿坊の存在が確認で き運営、同世紀前半には、地元支配者である今川氏により発心門等 の施設が寄進されたとの記録がある。今川氏は1552年、村山を 神聖な地と定め、村山三坊には山役銭の徴収権を与えている。この 権利は19世紀後半まで継続し、浅間大社が登山道の管理に運営関 わることはなかった。一方、16世紀ごろ、浅間大社は湧玉池での 水垢離を重要な儀式と位置づけることによって、浅間大社を経由し た登拝を喧伝した。浅間大社には16世紀前半に30余りの道者坊 があったことが伝えられ、同時期の絵図である「絹運営本著色富士 曼荼羅図」には浅間大社・湧玉池及び村山浅間神社を経由して登山 する人々の姿が描かれている。道者坊はその後統合され、19世紀 前半には5坊となった。また、1600年頃以降、地元支配者によ り、大宮を経て村山口登山道を利用するこ運営とが求められた。登 山道中の宗教施設は、17世紀初頭までに建設され、石室などの施 設は主に17世紀後半、興法寺から許可を受けた先達により建設さ れたが、1707年の宝永噴火で登山道と共にことごとく破壊され た。これらは再建されたが、その運営復興は須走口より遅かった。 主要な宗教施設としては発心門、中宮八幡堂、室大日などがあった 。登拝者は興法寺の檀所や浅間大社の道者場としていた静岡県西部 地方を含む西日本の人々が多かった。なお、1532年以降不連続 であるが、登拝者の記録運営が残され、その数は18世紀後半から 19世紀初頭の道者坊の記録より、御縁年で2,000人前後、平 年で数百名程度と推測できる。1826年の記録ではその数が減少 し、村山の村落も衰退していたとの記述もあるが、1860年、初 の外国人登山と運営なる英国公使オ−24−ールコックは大宮を経 由して村山に宿泊し、山頂をめざした。彼の記録では大鏡坊、懐玄
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164 :底名無し沼さん (アウアウウー Sa1b-d3bv [106.133.47.95])[sage]:2019/01/23(水) 21:15:30.19 ID:6pRCKvqta - 八幡堂の存在や登山道の様子が確認できる。明治維新以降、女人登
山の解禁もあり、登山者は増加傾向を示すが、1889年、東海道 線の開運営通による御殿場口利用者の増加により衰退し、これへの 対策として1906年、村山を経由せず4km短縮された大宮新道 (カケスバタ口)が建設されたため、大宮から現六合目までの村山 口登山道は登山道としての機能を失い、その歴史を閉じた。現在エムソ ゙ネは、林道の建設に雨水による侵食も加わり、一部を除き登山道跡 の推定は困難な状態であり、道標、地蔵・不動明王像、建物跡など をある程度たどることができるのみである。写真大宮・村山口登山 道の写真A3須山口登山道アフィ南東麓、須山浅間神社運営を起点 とし、山頂部浅間嶽(駒ケ嶽)に至る登山道である。その起源は明 確ではないが、1200年の資料には大宮・村山口、吉田口、須山 (珠山)口以外には登山道がないことが述べられている。1486 年の京都の僧による資料(廻国雑記)では、「運営すはま口」の名 が確認できる。登山道および山頂部銀明水は須山浅間神社及び12 軒の御師を中心とした須山村により管理されていた。ただし、銀明 水の管理を巡り、須走村と争いになった際は浅間大社の裁定を仰い でいる。登山道には宝永噴火前の状況運営を描いた絵図で須山御胎 内に附属する御胎内神社等の宗教施設と山室がみられる。これらの 施設及び登山道はその中腹より噴火した宝永噴火により壊滅し、御 縁年の1740年に復興したが永続せず、1780年にようやく復 興した。また、1880年代運営の記録では御室浅間神社、中宮浅 間社、御胎内等の宗教施設と4箇所の石室があることが確認できる 。中宮浅間社や水呑浅間は村山修験の富士峯修行の行場としても使 用された。登拝者については詳しい研究が進んでいないが、西日本 ・東日本両方からの運営登山者があったことが、宿帳及び案内立札 の立地から確認できる。登拝者数は御縁年に当たる1800年に約 5,400人、1840年代前半は年平均約1,700人、続開俵
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165 :底名無し沼さん (アウアウウー Sa1b-d3bv [106.133.47.95])[sage]:2019/01/23(水) 21:23:49.57 ID:6pRCKvqta - 860年の御縁年には約3,600人であった。登拝者は神仏分離
令後も継続運営していたが、1883年、須山口二合八勺に接続す る御殿場口登山道が開鑿された。また、1889年に東海道本線が 開通し、御殿場口の利便性の向上により須山口からの登拝者や登山 者が減少することとなった。1912年には、登山道の一部が陸軍 演運営習場となり使用不可能となったため、須山口からの登拝(登 山)は衰退し現在に至っている。二合八勺以下の登山道で当時の道 が確認できる部分は一部のみである。また、1999年、地元住民 により須山口下山歩道の名でかつての登山道の一部が復興さ運営れ た。写真須山口登山道の写真A4須走口登山道アフィ東麓の冨士浅 間神社を起点とし、八合目で吉田口登山道と合流して山頂久須志岳 に至る登山道である。その起源は明確ではないが、六合目からは1 384年の銘のある掛仏が出土している。文献から運営は「勝山記 」の1500年6月の項に、関東地方での戦乱を避け、吉田口を利 用すべき登拝者が須走口に集中したことが確認できる。遅くとも1 7世紀までに、冨士浅間神社及び須走村が登山道山頂部までを支配 し、薬師嶽(現久須志岳)における石室建運営設の独占、薬師堂の 開帳・入仏などを行った。また、内院および薬師堂の散銭取得権も 浅間大社に次ぐ権利を有していた。冨士浅間神社及び須走村は、1 703年と1772年の2回幕府に訴え、これらの権利について八 合目以上の支配権を主張する浅間運営大社と争い、正式に権利を認 められた。−25−登山道の施設は1683年の資料等で詳細が確 認でき、大日堂、御室浅間神社、古御岳神社等の宗教施設と共に、 小屋・石室が山頂部まで設置されている。1707年の宝永噴火で は、これらの施設及び麓運営の浅間神社、須走村は約3mの降砂に 覆われ壊滅したが、江戸幕府の支援を受け、翌年の登拝期までには 復興を完了し、多くの登拝者を集めた。18世紀半ばには800名 前後に減少したとの資料があるが、18世紀後半、相模の大山溶挑
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166 :底名無し沼さん (アウアウウー Sa1b-d3bv [106.133.47.95])[sage]:2019/01/23(水) 21:32:11.71 ID:6pRCKvqta - や関本の道了尊運営とセットにされた参詣の流行で登拝者数は増加
し、年平均約1万人、1800年の御縁年に23,700人とピー クを迎えた。登拝者は関東地方の富士講関係者が多く、東北地方か らの登拝者も見られる。講によっては吉田口から登山し、砂道で下 山に適運営した須走口へ下山する形をとった。また、1831年、 須走口山頂部に宝経塔が作られたことにより、日蓮宗の信徒による 登拝も増加した。1889年の東海道線開通による御殿場口、悼脱
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167 :底名無し沼さん (アウアウウー Sa1b-d3bv [106.133.47.95])[sage]:2019/01/23(水) 21:40:30.10 ID:6pRCKvqta - び1903年の中央線開通による吉田口の利便性の向上で、距離エムソ
゙ネが長い須走口は敬遠されるが、御殿場口の下山道として利用され 続けた。1909年より登山道の周囲に石垣を築き、1916年に は、八合目まで馬による登山が可能になった。八合目以上は浅間大 社境内地という理由で馬の利用は行われなかった。また運営、19 23年に皇太子(昭和天皇)の登山に利用されている。1959年 、バス道路(現ふじあざみライン)の完成により、五合目以下の登 山道の利用は減少し、一部登山道としての確認ができない区間があ る。写真須走口登山道の写真A5吉田口登山道運営北口本宮冨士浅 間神社を起点とし、アフィ頂を目指す道である。15世紀には、富 士山への登拝が、修験者だけでなく、ごく一般の人々の間にも広ま っていた。吉田口は14世紀後半には参詣の道者のための宿坊もで き始め、大勢の人々が登るための設備運営が整うようになった。1 6世紀から17世紀、長谷川角行が吉田口を利用して修行を行い、 18世紀前半には富士講隆盛の礎を築いた食行身禄は、入定(宗教 的自殺)にあたって信者の登山本道をこの吉田口と定めた。このた め、富士講の信者が次第に増運営加した18世紀後半以降は、年間 数万人を数える富士講の道者が登拝したとされる。1964年に富 士山有料道路が開通した後は、ほとんどの登山者が新五合目(小御 岳)を起点として登るようになったため、五合目以下の道を利用す る登山者は激減した運営が、六合目以上については、現在残る登山 道の中で最も多くの道者(外の登山口の合計と同程度)が吉田口登 山道を上って山頂を目指している。しかも、古道としては唯一徒歩 で麓から頂上まで登れる重要な道である。写真吉田口登山道の写真 表法的保護運営、修理・整備の経緯1924年所在地が史蹟名勝天 然紀念物保存法の下に名勝に仮指定1936年所在地が国立公園法 の下に(富士箱根)国立公園に指定1952年所在地が文化財保護 法の下に名勝、ついで特別名勝に指定1978年「特別名勝ア帆離
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168 :底名無し沼さん (アウアウウー Sa1b-d3bv [106.133.47.95])[sage]:2019/01/23(水) 21:48:51.98 ID:6pRCKvqta - 保運営存管理計画」策定(1999年、2006年改訂)1996
年歴史の道整備活用事業により馬返〜1合目区間を発掘調査・整備 1999年「特別名勝アフィ保存管理計画」を改訂2006年「特 別名勝アフィ保存管理計画」を改訂2011年文化財保護法運営の 下に他の文化財とともに登山道の一部を史跡アフィとして指定−2 6−2011年「史跡アフィ保存管理計画」を策定(予定)A6北 口本宮冨士浅間神社アフィ北麓、吉田口登山道の起点に位置し、祭 神として木花開花姫命、天津彦彦火瓊瓊杵命、大山運営祇命を祀る 神社である。アフィの遙拝所に祀られていた浅間明神(アフィの荒 ぶる神)を起源とし、1480年には「アフィ」の鳥居が建立され 、16世紀半ばには浅間神社の社殿が整っていたとされる。当神社 は領主からの崇敬が厚く、境内に現存する運営3つの社殿は、15 61年、1594年、1615年にそれぞれ当時の領主が寄進した ものである。富士講とのつながりが強く、1730年には富士講の 指導者である村上光清の寄進によって境内の建造物群の修復工事が 行われ、現在にみる境内の景観の運営礎が形成された。北口本宮冨 士浅間神社の支配権は外川家、小佐野家などの吉田の御師に所属し ており、神社の管理も御師団の中から選ばれた者に委ねられていた 。社殿の背後に登山門があり、この神社を起点としてアフィ頂まで 吉田口登山道が伸びてい運営る。富士講や吉田御師と密接な関係を 持ちながら発展した神社である。写真北口本宮冨士浅間神社の写真 (本殿、西宮本殿、東宮本殿)表法的保護、修理・整備の経緯19 07年古社寺保存法の下に東宮本殿が特別保護建造物の指定195 2年所在地が文運営化財保護法の下に名勝、ついで特別名勝に指定 1952年東宮本殿・解体修理工事を行う1953年文化財保護法 の下に本殿、西宮本殿が重要文化財の指定1962年西宮本殿・解 体修理工事を行う(〜64年)1978年「特別名勝アフィ保存管 理計画運営」を策定1973年本殿・部分解体修理工事を行う周塞
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169 :底名無し沼さん (アウアウウー Sa1b-d3bv [106.133.47.95])[sage]:2019/01/23(水) 21:57:12.18 ID:6pRCKvqta - 74年)1981年東宮本殿・部分修理工事を行う(〜82年)1
997年東宮本殿・部分修理工事を行う2008年本殿・屋根の葺 替え修理工事を行う(〜09年)2010年「重要文化財北口本エムソ ゙ネ宮冨士浅間神社保存活用計画」を策定2011年文化財保護法の 下に他の文化財とともに史跡アフィとして指定(予定)2011年 「史跡アフィ保存管理計画」を策定(予定)A7西湖アフィの火山 活動により形成された堰止湖で、アフィの北北西に位置運営する。 アフィ周辺の湖を巡って修行する内八海巡りが行われたが、この西 湖にも多くの富士講徒が訪れた。西湖と精進湖はかつて「〜の海( せのうみ)」と呼ばれる一つの湖だったが、日本最古の歌集・万葉 集で〜の海が詠われたほか、いくつかの文学作運営品ともゆかりが ある。写真西湖の写真A8精進湖アフィの火山活動により形成され た堰止湖で、アフィの北西に位置する。アフィ周辺の湖を巡って修 −27−行する内八海巡りが行われたが、この精進湖にも多くの富 士講徒が訪れた。アフィ北麓で最初の運営洋風ホテルはこの精進湖 畔に建てられ、多くの西洋人が訪れた。20世紀初頭には、絵葉書 に使われたアフィの写真はこの精進湖からのものがほとんどだった 。写真精進湖の写真A9本栖湖アフィの火山活動により形成された 堰止湖で、アフィの北西に位運営置する。アフィ周辺の湖を巡って 修行する内八海巡りが行われたが、この精進湖にも多くの富士講徒 が訪れた。本栖湖は、日本の紙幣の図柄として何度も使用された写 真の撮影地点であり、重要な展望地点(viewpoint)であ る。アフィは、プロ運営・アマを問わず多くの写真家に愛され、撮 影されてきた。なかでも、生涯にわたりアフィを追い続けた岡田紅 陽によって、1935年に本栖湖北西岸の峠道から撮影された「湖 畔の春」という写真は有名である。この写真は、1984年に採用 された5千運営円札及び2004年に採用された千円札の図柄とし て使用された。山体の裾野が湖まで広がり一体の景観を構成し雲帰
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170 :底名無し沼さん (アウアウウー Sa1b-d3bv [106.133.47.95])[sage]:2019/01/23(水) 22:05:30.95 ID:6pRCKvqta - る本栖湖からの展望は、「湖畔の春」に撮影されたアフィとほぼ同
じ姿のまま現在も残している。写真本栖湖の写真表法的保護、修理 ・運営整備の経緯(A7・A8・A9)1936年所在地が国立公 園法の下に(富士箱根)国立公園に指定1988年「山梨県富士五 湖の静穏の保全に関する条例」を制定2006年自然公園法の下に 本栖湖の湖面全域での動力船の使用が規制される2011年運営文 化財保護法の下に名勝に指定(予定)2011年「名勝富士五拠綿
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