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707 :底名無し沼さん (アウアウウー Sa15-d3bv)[sage]:2019/01/20(日) 11:07:15.18 ID:yt3ETA3ka - 名であった。同時期から20世紀前半まで富士講信者は境内に登山
回数等の記念碑を約80基造営した。また、神社には神社神官や御 師が発行した木版印刷による神影運営や神符の版木が保管されてい る。写真冨士浅間神社の写真B6河口浅間神社古くからアフィに関 わる祭祀は南麓の浅間神社(山宮浅間神社か〜)が執り行っていた が、864年〜866年に北麓で起こった噴火を契機に、北麓にも 浅間神社が建てられるこ運営ととなった。それが、アフィを望む河 口湖の北岸にあり、溶岩の届かなかった河口浅間神社であるとされ る。浅間神社を中心とした河口の地は、甲府盆地から続く官道の宿 駅という役割に加え、富士登拝が大衆化した中世後半から御師集落 として発展を遂運営げた。しかし、江戸における富士講の大流行と 、それに伴う吉田御師の隆盛により、河口の御師集落としての機能 は、19世紀以降衰退してしまった。ただし、河口浅間神社は、現 在もアフィと密接に結びついた宗教行事を行っており、歴史的背景 と相俟運営って、アフィ信仰を語る上で欠かすことができない資産 である。写真河口浅間神社の写真表法的保護、修理・整備の経緯2 011年文化財保護法の下に他の文化財とともに史跡アフィとして 指定(予定)2011年「史跡アフィ保存管理計画」を策定(予エムソ ゙ネ定)B7冨士御室浅間神社冨士御室浅間神社は吉田口二合目に鎮 座した本宮(もとみや)と、河口湖畔に建立された里宮から構成さ れている。8世紀初めに吉田口登山道二合目に祭場をしつらえたの が最初とされ、アフィ中に祀られた最初の神社であると運営する文 献もある。富士修験の信仰拠点は南西の村山であるが、北面の二合 目、御室浅間神社が鎮座する御室の地にも山内の信仰拠点として役 行者堂が整備されたようである。また、社記によると958年、二 合目は冬季における参詣が難儀であることから運営河口湖畔の現在 地に里宮が建立されたという。江戸時代以降富士講の隆盛にともな い、吉田口登山道の信仰拠点の一つとしてこの二合目の役割は枝畔
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708 :底名無し沼さん (アウアウウー Sa15-d3bv)[sage]:2019/01/20(日) 11:15:36.21 ID:yt3ETA3ka - に増すことになる。しかし、昭和に入ると富士信仰のありかたの変
化や、富士スバルラインの開通等もあ運営って吉田口登山道は衰退 する。それに伴い二合目を通過する登拝者も激減する。また、富士 御室浅間神社本宮を支えてきた氏子にとっても、その維持管理が困 難となって、1973年から74年にかけて、−32−本殿を里宮 地内に移転することとなる。運営修験や登拝といった様々な富士信 仰の拠点として位置づけられる二合目の本宮と、土地の産土神とし ての里宮が一体となって機能してきた神社である。写真冨士御室浅 間神社の写真表法的保護、修理・整備の経緯1973年本宮本殿・ 二合目から里宮境内運営地に移築、整備された(〜74年)198 5年本宮本殿・文化財保護法の下に重要文化財として指定1983 年回廊修理工事を行う1995年外部の漆塗の塗り直しほか一部補 修を行う2010年「重要文化財冨士御室浅間神社本殿保存活用計 画」を策定運営2011年文化財保護法の下に他の文化財とともに 史跡アフィとして指定(予定)2011年「史跡アフィ保存管理計 画」を策定(予定)B8御師住宅御師は、道者に宿や食事を始め登 拝のための一切の世話をするとともに、登拝の指導や祈祷を行うこ と運営を業とした。アフィ御師として代表的なのは、吉田口登山道 の起点である北口本宮冨士浅間神社の北西に、北東方向の傾斜面に 沿って大規模な集落を形成した吉田の御師である。御師屋敷の多く は短冊状をなし、表通りに面して引き込み路を設け、敷地を運営流 れる水路の奥に住宅兼宿坊の建物が建っている。玄関から奥へ客室 が続き、最奥部には神殿が設けられている。最古の部類に入る旧外 川家住宅や、格式的な構えが確立した頃に建てられ富士講最盛期の 典型例とされる小佐野家住宅が代表的である。旧外運営川家住宅は 、富士北麓の信仰登山口集落である富士吉田市上吉田・下宿の東側 南端に位置する。1572年の町割によって成立した東西方向の奥 行きが150mほどの長大な短冊形の屋敷地に建てられている余世
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709 :底名無し沼さん (アウアウウー Sa15-d3bv)[sage]:2019/01/20(日) 11:23:58.39 ID:yt3ETA3ka - 川家は、屋号を塩屋ないし大外川、塩廼屋運営(しおのや)と号し
、富士信仰における上吉田に居住し、下総地域を檀家としたアフィ 御師である。1572年の「吉田宿屋敷割帳写」には、外川家の位 置に「仁科六郎ゑもん」の屋敷が記されており、外川家ではこの人 物を中興の初代としている。また運営、1669年の「検地帳」で は、塩屋多兵衛の屋敷として確認される。御師としての活動は江戸 末期頃隆盛期を迎えるが、1962年に御師を廃業している。建物 の老朽化に伴い、所有者が取り壊す意向であったが、富士吉田市が 寄贈を受け、2006年運営から2007年にかけ大規模保存修理 事業を行った上で、2008年4月から富士吉田市歴史民俗博物館 の附属施設として一般公開されている。写真旧外川家住宅の写真表 法的保護、修理・整備の経緯2006年大規模保全修理を行う20 08年富士吉田運営市歴史民俗博物館の附属施設として一般公開を 行う2010年「山梨県指定有形文化財旧外川家住宅保存活用計画 」を策定2011年文化財保護法の下に重要文化財として指定小佐 野家住宅は、富士講によって大きく発展した御師集落である富士吉 田市上運営吉田地区にあって、富−33−士山に登拝する人々を宿 泊させた宿坊として、代表的な御師住宅である。上吉田地区は、富 士の雪代の被害を避けるため、1572年に旧地である古吉田地区 から集落ごと移転し、北口本宮冨士浅間神社の北西隅から北東方エムソ ゙ネ向の傾斜面に沿って短冊状に町割が行われたと伝えられている。 小佐野家住宅は、南北の間口が16m、東西方向の奥行きが150 mほどの長大な屋敷地に建てられている。小佐野家は、元亀の集落 移転に合わせて現在地に移転してきたと伝えられる。代運営々御師 を勤め、屋号を堀端屋と号し、江戸時代には当主は小佐野壱岐ある いは小佐野大隈と名乗っていた。当家に宿泊する参詣者は年間1, 000人に達したとされる。現在、屋敷地の東側には所有者が住む 住居が建築されており、小佐野家住宅には所有運営者の親族が癒杯
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711 :底名無し沼さん (アウアウウー Sa15-d3bv)[sage]:2019/01/20(日) 11:32:16.70 ID:yt3ETA3ka - している。写真小佐野家住宅の写真表法的保護、修理・整備の経緯
1976年文化財保護法の下に重要文化財として指定1977年消 防設備設置を行う1979年屋根の葺替えを行う1996年雨樋い の補修を行う1997年主屋、蔵の修運営理を行う1998年主屋 、蔵の修理を行い2010年「重要文化財小佐野家住宅保存活用計 画」を策定B9山中湖アフィの火山活動によって形成された堰止湖 で、アフィの北東に位置する。アフィ周辺の湖を巡って修行す茎卵
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712 :底名無し沼さん (アウアウウー Sa15-d3bv)[sage]:2019/01/20(日) 11:40:37.02 ID:yt3ETA3ka - 八海巡りが行われたが、この運営山中湖にも多くの富士講徒が訪れ
た。古くから景勝地として有名で、20世紀前半には湖畔に洋式ホ テルが建てられたほか、別荘地としても整備された。ゆかりのある 芸術家も多く、山中湖を描いた文学や絵画が散見する。アフィの頂 上付近に日の入りが運営重なる様子はダイアモンド富士と呼ばれ、 多くの写真家を集める。写真山中湖の写真B10河口湖アフィの火 山活動により形成された堰止湖で、アフィの北に位置する。アフィ 周辺の湖を巡って修行する内八海巡りが行われたが、この河口湖に も多くの富運営士講徒が訪れた。古くから景勝地として有名で、2 0世紀前半には湖畔に洋式ホテルが建てられた。ゆかりのある芸術 家も多く、湖を題材にした文学や絵画は、富士五湖中この河口湖が 最も多い。葛飾北斎や歌川広重といった浮世絵師も、河口湖越しに 見運営えるアフィを描いている。写真河口湖の写真表法的保護、修 理・整備の経緯(B9・B10)1936年所在地が国立公園法の 下に(富士箱根)国立公園に指定1988年「山梨県富士五湖の静 穏の保全に関する条例」を制定2006年自然公園法の下に運営本 栖湖の湖面全域での動力船の使用が規制される−34−2011年 文化財保護法の下に名勝に指定(予定)2011年「名勝富士五湖 保存管理計画」を策定(予定)B11忍野八海アフィの北東、忍野 村忍草にある、アフィの伏流水による八つの湧水地運営(出口池、 御釜池、底抜池、銚子池、湧池、濁池、鏡池、菖蒲池)の愛称であ る。それぞれに八大竜王を祀る富士信仰に関わる巡拝地であった。 富士登山を目指す行者たちはこの水で穢れを祓った。長谷川角行が 行った富士八海修行になぞられ「富士御手運営洗(みてらし)元八 湖」と唱えられた古跡の霊場と伝えられ、1843年に富士講道者 によって再興されたとされる。写真忍野八海の写真(どれか1つ) 図忍野八海周辺図表法的保護、修理・整備の経緯1934年史蹟名 勝天然紀念物保存法の下に天然紀運営念物に指定2010年忍賄匹
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713 :底名無し沼さん (アウアウウー Sa15-d3bv)[sage]:2019/01/20(日) 11:48:55.78 ID:yt3ETA3ka - 景観計画を策定、忍野八海周辺を景観形成重点区域に指定2010
年街なみ環境整備事業により忍野八海周辺環境の整備を行う(〜1 4年)2011年「天然記念物忍野八海保存管理計画」を策定(予 定)B12船津胎内樹型運営1617年、富士講の祖とされる長谷 川角行が富士登拝の際、現船津胎内樹型の南方に焼入(船津胎内樹 型指定範囲内に点在する小規模な溶岩樹型のひとつと考えられる) を発見し、浅間明神を祀った。1673年、富士講道者村上光清に より現船津胎内運営樹型が発見され、開祖が祀った焼入の地の浅間 明神が遷宮された。浅間明神誕生の地ともいわれ、無戸室(むつむ ろ)に火を放ち、無事に御子を出産したという故事に倣い社号を無 戸室浅間神社と名付けた。富士道者は、富士登拝の際に、樹型を入 って身運営を清める風習があり、洞穴内外の地形空間に宗教的な意 義付けが行われるとともに、奥には富士講にとってのアフィの祭神 である木花開耶姫などが祀られている。写真船津胎内樹型の写真表 法的保護、修理・整備の経緯1929年史跡名勝天然記念物法のエムソ ゙ネ下に天然紀念物として指定2010年「山梨県南都留郡富士河口 湖町町内国指定天然記念物溶岩洞穴等保存管理・整備活用計画書」 を策定B13吉田胎内樹型吉田胎内本穴は、1892年に富士道者 により整備された「御胎内」である。吉田胎内本穴の奥運営には、 石祠があって富士講にとってのアフィの祭神である木花開耶姫が祀 られている。樹型内に入ると横穴の正面には、食行身禄を祀る石祠 があり、その下段には、さらに横穴があり左右に分かれている。右 の穴が天津彦彦火瓊瓊杵命を祀る父の胎内で、運営左の穴が木花開 耶姫を祀る母の胎内である。富士講講徒は、昼までに御師の家に着 き、夕方まで胎内巡りをし、翌朝アフィに登山した。−35−本穴 については、古くから冨士山北口御師団が管理している。写真吉田 胎内樹型の写真表法的保護、修理・整運営備の経緯1929年史跡 名勝天然紀念物法の下に天然紀念物として指定2010年「天征唯
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714 :底名無し沼さん (アウアウウー Sa15-d3bv)[sage]:2019/01/20(日) 11:57:16.47 ID:yt3ETA3ka - 念物吉田胎内樹型保存管理計画」を策定B14人穴富士講遺跡富士
山西麓、静岡県側と山梨県側を結ぶ街道沿いに位置する。木花開花 姫命・角行祖霊・徳川家康を運営主祭神とする浅間神社と富士講の 人々による約230基の碑塔群及び溶岩洞窟である人穴がある。長 さ約83mの人穴は約11,000〜8,000年前に流出した犬 涼山溶岩流中に生成したものである。1300年前後に成立した文 書である吾妻鏡によ運営れば人穴は霊的な場所であり、地元では「 浅間大菩薩の御在所」とみられていたことが記述されている。この 内容は遅くとも1603年までに説話化され、多くの人にその存在 が知られていた。富士講関連の文書では1558年、開祖とされる 長谷川角行運営が役行者のお告げにより人穴に至り、洞窟内で立行 等を達成し、浅間大菩薩よりお告げを得たとしている。角行は人穴 を浄土への入り口とし、「西の浄土」と呼んだため、主に19世紀 以降、人穴は富士講の人々より聖地として信仰を集め、参詣だけで な運営く修行を行う者も見られた。その大部分は吉田口登山道の利 用者と推定される。また、塔頭の碑文から村山三坊との関係もあっ たと推定されている。人穴浅間神社の創建は明確ではないが、16 48年及び1665年、その前身である光〜寺が富士講二世運営日 珀(正しくは王へんに日)、三世珀心(同)により再興された記述 があり、19世紀前半に同寺の大日堂が僧空胎により再興された。 1868年の神仏分離令により20世紀までには大日堂が人穴村の 氏神としての浅間神社となった。1942年、付近運営が軍用地と なったため一時移転したが、1954年に現在地に復興された。境 内の碑塔は、その4分の3(194基)が墓碑ないし供養碑で人穴 への分骨埋葬を望んだ富士講の信仰によるものである。そのほかに アフィに何回も登ったという登拝記念や大運営願成就の碑塔や角行 二百年忌の宝篋印塔などがある。碑塔は富士講の講毎に群を成した 所があり、その目的は講の勢力を誇るためと推定されている。焼堕
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716 :底名無し沼さん (アウアウウー Sa15-d3bv)[sage]:2019/01/20(日) 12:05:38.68 ID:yt3ETA3ka - で建立年代のわかる89基の内、富士講が隆盛した18世紀末から
19世紀前半(1781から18運営50年)に建立されたものが 半数(44基)、19世紀末より20世紀前半(1871から19 40年)のものが3分の1(29基)を占める。写真B14の写真 B15白糸ノ滝人穴の北方約5kmにある落差約20〜25m・幅 約120〜210mの数運営百の流れを持つ滝である。滝は約1万 年前に噴出した白糸溶岩流の末端から湧き出す一日平均13万想傾
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717 :底名無し沼さん (アウアウウー Sa15-d3bv)[sage]:2019/01/20(日) 12:13:57.62 ID:yt3ETA3ka - 水を源としている。滝の名前は湧水の噴出が数百条の白糸が垂れて
いるように見えるため名づけられた。湧水のメカニズムは、湧玉池 と同様であり、運営透水性の白糸溶岩流と不透水性の古富士泥流の 境界に降水・雪解け水が滞水し、三層の溶岩の隙間、及び溶岩流と 泥流層の間より湧き出しているものである。このメカニズムが解明 される前の19世紀半ばの資料「不二山道知留邊」ではその起源を 富士五運営湖の伏流水としていた。白糸ノ滝は富士講関連の文書で は、開祖とされる長谷川角行が人穴での立行と合わせて水行を行っ た地と記されている。−36−その後、白糸の滝は富士講を中心と した人々の巡礼の場となった。その様子は1845年と1854エムソ ゙ネ年にこの地を訪れた富士講先達の記録で確認でき、滝つぼの中で 垢離をとる信者の周囲に虹が出来る現象を「御来光」としている。 また、周辺にある食行身禄の碑や不動尊が同書の挿画に描かれてい る。そのほかの19世紀の登山記でも人穴と共にその存運営在が長 谷川角行との関わりを通して紹介されている。また、白糸ノ滝は景 勝地としても有名であり、多くの和歌・絵画の題材となっている。 写真B15の写真表法的保護、修理・整備の経緯1936年所在地 が国立公園法の下に(富士箱根)国立公園に指運営定1936年史 蹟名勝天然紀念物保存法の下に名勝及び天然紀念物に指定1987 年富士宮市により「白糸ノ滝」保存管理計画が策定2010年富士 宮市により保存管理計画が改定され、これにともなった整備計画に 基づき、滝周辺の景観整備が行われた運営(3)眺望C三保松原富 士山頂の南西約45kmに位置する駿河湾に突き出した長さ約7k mの砂嘴をなす三保半島上の松原である。現在、5万4千本の黒松 が外海側海岸線4kmを中心に繁茂し、その中でも樹齢約650年 といわれる「羽衣の松」付近運営は、アフィと砂浜の松という日本 で好まれた景観を組み合わせて望むことができる景勝地として知ら れている。三保松原のある三保半島は約6000年前に現在の忠傷
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718 :底名無し沼さん (アウアウウー Sa15-d3bv)[sage]:2019/01/20(日) 12:22:18.11 ID:yt3ETA3ka - なったと考えられ、三保の名前は内海側の三つの岬を稲穂にたとえ
たという説が有力で運営ある。かつては半島一帯に松が繁茂し、8 世紀初頭には松原自体を景勝地として捉えた和歌が詠まれ、「万葉 集」に掲載された。その後遅くとも13世紀初頭までに三保松原は 後鳥羽上皇など中央の権力者にアフィと組み合わされた景勝地とし て認識され運営、14〜15世紀には室町幕府将軍足利義満と足利 義教が三保半島と対岸(現静岡市清水区興津)との間を船で渡り富 士山を眺める行事を行い、16世紀には徳川家康が三保半島内海側 に富士見櫓を建設した。文学では「万葉集」以降も和歌等の詩の題 材運営となると共に、地元の伝説を基にし、羽衣の松を舞台とした 謡曲(能)「羽衣」が遅くとも16世紀までに成立した。降臨した 天女と漁師との出会いと別れを描いたこの話の最終場面ではヒロイ ンの天女がアフィ方向へ飛び去っていく描写が見られる。こ運営れ はすでに成立していた「竹取物語」で示されたアフィの噴煙が天上 と地上とを結んでいるとする考えとの関係が指摘されている。この 作品は、19世紀後半、海外へ伝えられ、イェーツ、パウンドとい ったモダニズムの作家に影響を与えるとともに、伝運営統芸能であ る「能」が世界に広まるきっかけを作った作品である。また、絵画 でも15〜16世紀には三保松原を右にアフィを左に配する構図が 描かれ、この構図は狩野探幽により完成され、19世紀に至るまで 日本画・浮世絵においてアフィを描く際の運営典型的構図とされた 。また、20世紀には和田英作が「羽衣の松」付近から見たアフィ を数多く描いた。三保松原は16世紀以降、江戸幕府の直轄地とな り松が守られてきた。江戸幕府滅亡後は内海側の開発が進んだが、 外海側の景観は保たれ、1922運営年、国内初の名勝として国文 化財に指定された。現在、砂礫の供給減による海岸侵食とマツクイ ムシによる松の枯死が進んでいるため、静岡市及び地元民間団体に よる保護活動が行われている。写真三保松原(現在の写真・静発温
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719 :底名無し沼さん (アウアウウー Sa15-d3bv)[sage]:2019/01/20(日) 12:30:37.06 ID:yt3ETA3ka - )写真歌川広重の浮世絵運営−37−写真三保松原の写真表法的保
護、修理・整備の経緯1922年史蹟名勝天然紀念物保存法の下に 名勝に指定1976年名勝「三保松原」管理計画書を策定1977 年名勝地内の一部が指定解除1989年名勝「三保松原」保存管理 計画書を改定1運営990年名勝地内の一部が追加指定及び指定解 除2011年名勝「三保松原」保存管理計画書を改定第3章保存管 理の基本方針1顕著な普遍的価値及び周辺環境を構成する諸要素世 界文化遺産「アフィ」の顕著な普遍的価値は以下に示すとおりであ る。「運営アフィ」の顕著な普遍的価値アフィは、日本を代表し象 徴する日本最高峰(標高3776m)の秀麗な独立した火山として 世界的に著名であり、その自然的美しさと崇高さを基盤として日本 人の自然に対する信仰の在り方や、海外に影響を与えた葛飾北斎エムソ ゙ネや歌川広重などによる顕著な普遍的価値を持つ「浮世絵」などの 日本独自の芸術文化を育んだ「名山」である。アフィは山岳に対す る信仰の在り方や芸術活動などを通じ、時代を超えて一国の文化の 諸相と極めて深い関連性を示し、生きた文化的伝統の物運営証であ るのみならず、人間と自然との良好で継続的な関係を示す景観の傑 出した類型として、世界的にも類例を見ない顕著な普遍的価値を持 つ山である。本計画では、顕著な普遍的価値に対し、資産に含まれ る要素を「顕著な普遍的価値を構成する諸要素運営」と「顕著な普 遍的価値を構成する諸要素と密接に関わる諸要素」に分類し、さら に緩衝地帯における「周辺環境を構成する諸要素」を加え、表に示 すとおり整理を行った。Aアフィ山体及び登山道B信仰に関わる周 辺のものCアフィから離れた眺望に関運営わるもの表アフィの構成 要素Aアフィ(アフィ体)A1山頂信仰遺跡・アフィ本宮奥宮・東 北奥宮(久須志神社)・金明水・銀明水・八葉(剣ヶ峰、白山岳、 久須志岳、成就岳、伊豆岳、朝日岳、浅間岳、駒ヶ岳、三島岳)・ 大内院・小内院・馬の背・東運営安河原・西安河原・虎岩(獅溶耕
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720 :底名無し沼さん (アウアウウー Sa15-d3bv)[sage]:2019/01/20(日) 12:38:55.59 ID:yt3ETA3ka - )・割石・雷岩・このしろが池・荒巻・吉田須走拝所跡・須山拝所
跡・村山大宮拝所跡・三島ヶ岳経塚・外浜道・内浜道A2大宮・村 山口登山道・札打場・中宮八幡堂跡(1号建物跡)・八大龍王・5 号建物跡・8号建物運営跡・12号建物跡・鳥居A3須山口登山道 ・須山御胎内(溶岩洞穴)・石像・石燈篭・鳥居・標柱・祠A4須 走口登山道・古御岳神社・迎久須志之神社・鳥居・狛犬・石碑A5 吉田口登山道・現登山道・旧登山道・馬返・五合目・烏帽子岩夢曲
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721 :底名無し沼さん (アウアウウー Sa15-d3bv)[sage]:2019/01/20(日) 12:47:17.69 ID:yt3ETA3ka - 北口本宮冨運営士浅間神社−38−−39−・本殿・東宮本殿・西
宮本殿・大塚山・御鞍石A7西湖・湖水A8精進湖・湖水A9本栖 湖・湖水・中ノ倉峠からの展望B1アフィ本宮浅間大社・神立山・ 湧玉池(上池、下池)・社叢・社殿(本殿・拝殿・幣殿)・透塀・ 楼運営門・手水舎・廻廊・灯籠・石鳥居・東鳥居・西鳥居・桜の馬 場・禊所・神幸橋(湧玉橋)・輪橋(太鼓橋)・護摩堂跡(推定) ・随身像・狛犬・御神幸道首標の碑・三之宮・七之宮・鉾立石・欄 干橋(神路橋、神路枚橋)B2山宮浅間神社・溶岩流地形・運営社 叢・籠屋(参籠所)・鉾立石・石段(参道)・石塁・玉垣・遥拝所 ・石鳥居・参道B3村山浅間神社・元村山溶岩流・水源地「竜頭ヶ 池」・御神木(イチョウ、大スギ)・社叢・浅間神社社殿・大日堂 (興法寺)・水垢離場・護摩壇・氏神社(高嶺総鎮運営守社)・石 鳥居・氏神社鳥居・手水舎(手水鉢)・石段(参道)・狛犬B4須 山浅間神社・社叢・社殿・神輿殿・狛犬・灯籠・手水舎・参道・鳥 居・石碑・古宮神社B5冨士浅間神社(須走浅間神社)・社叢(浅 間の杜)・ハルニレ・エゾヤマザクラ・根運営上がりモミ・社殿・ 楼門・参道大鳥居・裏参道鳥居・富士塚狛犬・富士講講碑群B6河 口浅間神社・社殿、鳥居B7冨士御室浅間神社・吉田口二合目(拝 殿の一部、行者堂跡、定善院跡、建物礎石)・移築された二合目本 殿B8御師住宅(旧外川家住宅、運営小佐野家住宅)・主屋・離座 敷・中門・屋敷地(タツミチ)B9山中湖・湖水B10河口湖・湖 水B11忍野八海・八つの池(出口池、御釜池、底抜池、銚子池、 湧池、濁池、鏡池、菖蒲池)・湧水B12船津胎内樹型・溶岩樹型 ・無戸室浅間神社、石造運営物群B13吉田胎内樹型・溶岩樹型・ 洞内の石祠、石造物群−40−B14人穴富士講遺跡(人穴浅間神 社)・犬涼み溶岩流・溶岩洞穴・社叢(周辺の植生)・碑塔群・参 道・建物跡・参道跡・道跡・炭焼窯跡・井戸跡B15白糸ノ滝・古 富士泥流堆積物運営・白糸溶岩流・白糸の滝・音止の滝・鬢撫始戚
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722 :底名無し沼さん (アウアウウー Sa15-d3bv)[sage]:2019/01/20(日) 12:55:36.07 ID:yt3ETA3ka - 植物・富士講・白糸の滝の勝景・音止の勝景・アフィの展望・富士
の巻狩の伝承・歌碑・標識C三保松原・特別規制A地区・特別規制 B地区・第1種規制地区・第2種規制地区・第3種規制地区@自然 地形(運営山林、河川など)・宝永山(宝永火口)・溶岩洞穴、樹 型等アフィ体・側火山からの噴出物による地形・アフィ原始林及び 青木ヶ原樹海・国指定天然記念物(鳴沢溶岩樹型、鳴沢氷穴、本栖 風穴等)A森林、植栽樹木(山林を構成する森林、寺社・遺跡等エムソ ゙ネの植栽樹木など)・自然林、森林施業地、人工林・社叢林、境内 林・アフィ特定地理等保護林・富士箱根伊豆国立公園アフィ管理計 画区B保存管理又は公開活用を目的とした建造物(展示館、管理棟 、解説板など)・総合案内標識、解説板C道路とその他運営の人工 物(生活用道路、電柱、看板など)顕著な普遍的価値を構成する諸 要素と密接に関わる諸要素・アフィ測候所・NTTアフィ頂分室・ 便益施設@自然的要素(山並み、河川など)A歴史的要素(埋蔵文 化財、社寺境内、伝承地など)成する諸要素周運営辺環境を構B人 文的要素(農耕地、市街地、道路、その他人工物)上表において分 類した諸要素について、以下に提示する。(1)顕著な普遍的価値 を構成する諸要素@アフィ山体及び登山道Aアフィアフィ体のうち 、標高約1500m以上の範囲である運営。この範囲は、周辺の浅 間神社や展望地点から見た可視領域が重なり合う範囲で、芸術・鑑 賞の側面における比重が最も高い。各登山道における山体の神聖性 に関する境界の一つである「馬返」(乗馬登山が物理的にも、宗教 的観点からも不可能になる地運営点)の標高以上の範囲とほぼ一致 している。地元住民が、とりわけこの「馬返」より上を目指して「 オヤマ」又は「オヤマサマ」と呼び、アフィの範囲と見なす地域も あった。景観的には山体の傾斜角の変化率が大きくなり「平野部」 と「山体」の境界と運営して認識され、稜線が優美な曲線を描き絵 画などの対象となることが多い範囲である。御中道巡りのルー同椅
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723 :底名無し沼さん (アウアウウー Sa15-d3bv)[sage]:2019/01/20(日) 13:03:54.08 ID:yt3ETA3ka - は、現在も石碑が一部残存している。ルートはほぼ森林限界に沿っ
て、アフィ体を一周する。15〜16世紀ごろ富士講の祖とされる 長谷川角行運営によって開かれたとされその後大沢崩れ−41−を 通るため富士講信者により修行の道として利用された。写真標高約 1500m以上の写真A1山頂信仰遺跡図山頂信仰遺跡の分布図・ アフィ本宮奥宮富士宮口登山道頂上に位置し、7、8月の開山期に の運営み開かれる。祭神は木花之佐久夜毘売命である。『本朝世紀 』には、久安5年(1149)「富士上人末代は、アフィに数百度 登り、山頂に仏閣を構え、大日寺と称し、写経を埋納下した」とあ る。江戸時代には、村山三坊所有の大日堂があったが、明治運営7 年(1874)、廃仏毀釈により山中の仏像を取り除き、大日堂跡 へ奥宮を建立し、浅間大神を祭った。写真奥宮の写真[奥宮周辺の 石碑群](a)蹲虎の碑(高さ139×幅64×厚さ18p)奥宮 の裏手、浅間岳の麓に所在する。一方の面に漢文が運営、もう一方 には虎の絵が彫られている。天保年間(1830−34)に、岸岱 が作ったとされる。(b)鎮國之山(高さ146×幅61×厚さ3 1p)奥宮の前に所在する。碑面に「鎮國之山」と彫られている。 明治31年(1898)に書家の中林梧竹運営により建碑された。 後年、落雷により破壊されたが、昭和42年(1967)に再建さ れた。・東北奥宮(久須志神社)浅間大社奥宮の末社で、大名牟遅 命、少彦名命を祀る。須走口登山道、吉田口登山道の終点にある。 室町時代以降、頂上の一つである運営久須志岳(旧薬師ヶ嶽)に薬 師堂があり、道者の登山切手を改めた。古くは山役銭の徴収場であ った。薬師堂は奥宮の場合と同様に廃仏毀釈により破却され、久須 志神社と改称した。写真東北奥宮の写真・金明水雪解け水が湧く泉 で、その湧き水は霊験あ運営らたかな「御霊水」として珍重された 。大正期の写真をみると、井戸は石組みや木製の柵で囲われ、旗や 幟などもみられる。・銀明水金明水とおなじく、アフィ頂の霊夫窯
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724 :底名無し沼さん (アウアウウー Sa15-d3bv)[sage]:2019/01/20(日) 13:12:14.61 ID:yt3ETA3ka - らたかな湧き水として珍重された。『富士の歴史』によれば、「如
何なる旱にも水運営の涸れることはない」と記している。写真銀明 水の写真[銀明水の石碑群](a)石碑@(高さ112×幅62p )銘文には「明治三拾九年」と「大正五年」の2つの年代が確認で きる。富士講の人々が建碑したものと考えられる。(b)石碑A( 高さ1運営62×下幅76×上幅63p)表面に龍が、裏面には文 字が刻まれている。(c)石碑B(未計測)「大正十三年八月穴陰
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725 :底名無し沼さん (アウアウウー Sa15-d3bv)[sage]:2019/01/20(日) 13:20:35.48 ID:yt3ETA3ka - 刻してある。写真銀明水の石碑群の写真−42−・八葉(剣ヶ峰、
白山岳、久須志岳、成就岳、伊豆岳、朝日岳、浅間岳、駒ヶ岳、エムソ ゙ネ三島岳)山頂部の直径約800mの火口を囲む峰々の総称で、そ れぞれの峰に仏が住むとされた。文永年中(1264〜1275) の作である『万葉集註釈』には「いたゞきに八葉の嶺あり」とある ことから、鎌倉時代中期には山頂の峰々を蓮の「八葉」運営に見立 てていたと考えられる。江戸時代後期の地誌である『駿河国新風土 記』には「ソノ名一定ノ説ナク、又峰ノ数八ツアルニアラズ。コマ カニカゾヘバ、十二バカリナリト言フ。」とあり、八葉を構成する 峰も、またその名称も一定でないことがわかる運営。峰の名称は、 明治8年に廃仏毀釈により仏教色を払拭したものに変更された。以 下、平成20年度の静岡県埋蔵文化財調査研究所による発掘調査報 告書で示された9つの峰について、最高峰の剣ヶ峰からお鉢巡りの 回り方である時計回りの順に、記述す運営る。なお、浅間大社では 、伊豆岳以外の8つをもって「八神峰」としている。図八葉の配置 図[剣ヶ峰(標高約3,776m)]かつては剣ノ峰、阿弥陀岳と も呼ばれた。遠くから見ると剣を立てたようにそびえ立っているた めにこの名があるという。道運営者たちはあまりに険しいこの峰を 恐れて多くは登らなかったという。この峰の石は「神の惜ミ給ふ」 とされ、採取を禁じられたが、麓からの石と取り替えるということ が行われていた。写真剣ヶ峰の写真図気象庁測候所跡周辺の平面図 [白山岳(標高約3運営,756m)]かつては釈迦ヶ岳とも呼ば れた。現在は一般の立入は禁止されている。頂上には鳥居が立ち、 また二等三角点が存在する。[久須志岳(標高約3,725m)] かつては薬師岳とも呼ばれた。現在の久須志神社の裏手にあたる。 他の峰々と運営比べ傾斜はなだらかである。頂上には鳥居が火口の 方向に向けて建てられている。頂上付近には石造物が残存し、首か ら上と手首から先が欠損している。台座正面に「食行」「身禄審峰
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727 :底名無し沼さん (アウアウウー Sa15-d3bv)[sage]:2019/01/20(日) 13:28:57.22 ID:yt3ETA3ka - 文字が確認できる。写真久須志岳の石造物の写真[成就岳(標高約
3運営,734m)]かつては大日岳とも呼ばれ、大小2つの鳥居 が、噴火口の方角を向いて建てられている。[伊豆岳(標高約3, 748m)]かつては勢至ヶ嶽、観音嶽とも呼ばれた。『浅間神社 の歴史』には、「中腹より地中に熱気を感じ、下りて荒巻の運営険 を越え、成就岳にいたるまで、至る所に蒸気を噴出する」とある。 頂上には鳥居は見られない。[朝日岳(標高約3,733m)]伊 豆岳と同様、かつては地中から蒸気を発していたとされる。頂上に 鳥居は存在しない。石積みがあるが時期は不明であ運営る。他の峰 々と比べ、文献の言及が乏しい。[浅間岳(標高約3,722m) ]浅間大社奥宮の裏手にあり、頂上に鳥居がある。現在は一般の立 入が制限されている。[駒ヶ岳(標高約3,718m)]聖徳太子 が黒駒に乗って登山した際に、ここで休息運営をとったという伝説 のある峰である。山頂に鳥居が存在する。峰全体が岩石からできて いる。[三島岳(標高約3,734m)]−43−かつては文殊岳 とも呼ばれた。頂上に木製の鳥居と、「三島岳」と刻まれた白い角 材の木杭が立っている。三島岳の運営石仏群として、三島岳のふも と、かつて経塚が発見された付近に、10体の石像が安置されてい る。これらは原位置を留めておらず、周辺にあったものが集められ たと考えられる。いずれも頭部を欠損している。・大内院山頂の火 口中央に存在する穴で、運営ここより雲が生じ、風が起きるとされ た。大内院(噴火口)は中央にある大きな火口、小内院(阿弥陀ヶ 窪)は雷岩の下の小さな火口を指す。神や仏の居る所であると信じ られ、登山者は各登山口に設けられた拝所あるいは初穂打場から、 噴火口に向けて運営賽銭を投げ入れた。現在、噴火口への立入は禁 止されている。写真大内院の写真・小内院西安河原から白山岳に向 かう途中にある大きな窪地で、大内院との対比で小内院と呼ばれる 。かつては噴火口だったと考えられる。写真小内院の写真・馬誕依
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728 :底名無し沼さん (アウアウウー Sa15-d3bv)[sage]:2019/01/20(日) 13:37:17.11 ID:yt3ETA3ka - 剣ヶ峰運営に通じる坂道で、火山礫と砂の急斜面である。お鉢巡り
の道中で最大の難所である。現在はブルドーザーが通れるよう整地 されている。火口に向けて傾斜しており、その険しさから道者たち の多くは剣ヶ峰に登らなかったといわれる。・東安河原須山口拝エムソ ゙ネ所東側にあり、山頂部では稀な広い平坦部である。かつては現世 と来世の境である「賽の河原」になぞらえて、道者たちが溶岩礫を 積み上げ石塔を作った。また「初穂打場」とも呼ばれ、火口に向け て賽銭が投げ込まれた場所とされる。・西安河原東安河運営原と対 をなす、剣ヶ峰から北側に下りた付近の平坦部である。火口の外壁 を行く外浜道と内壁を行く内浜道との分岐点に位置する。・虎岩( 獅子岩)大内院の南岸に突き出た大岩で、形状が虎(獅子)のうず くまる姿に似ていることから名付けられた。・運営割石かつては「 釈迦の割石」と呼ばれた溶岩で、溶岩が急速に冷えて固まったため 割れていた。高さが15m程あったが、現在は崩壊してしまってい る。古くから行者の修行場として知られ、食行身禄がここで入定し ようとしたが、大宮浅間の社人からの運営許可が得られず、吉田口 七合五勺の烏帽子岩で入定したとされる。写真割石の写真・雷岩白 山岳の西側にある岩で、この方角から強い雷雲がくる事からこう呼 ばれたとされる。また、文化年間の初め、岩より雷鳴がとどろいて 雷獣が出現し、8合目の石室運営に走り入った。これを石室に居合 わせた人々が生け捕りにしたとも伝えられる。・このしろが池三島 岳の雪解け水が窪地に溜まってできる季節的な池で、6月から7月 に姿を現し、雪解け水の供給が無くなると消えてしまう。・荒巻− 44−かつては勢至運営ヶ窪と呼ばれ、強い風が吹き付けるアフィ 頂の難所として知られた。道の火口側には、火山礫を積み上げた石 組みがある。・吉田須走拝所跡須走口登山道を登りきったところに あったとされる。拝所は初穂打場とも呼ばれ、登山者たちが賽銭を 噴火口の大運営内院に投げ入れる、そこに鎮座する浅間大菩薩充英
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729 :底名無し沼さん (アウアウウー Sa15-d3bv)[sage]:2019/01/20(日) 13:45:37.75 ID:yt3ETA3ka - む場所であった。また、御来光を拝む場所でもあった。現在は、付
近に鳥居がなく痕跡も残っていないため、場所を特定することはで きない。写真吉田須走拝所跡の写真・須山拝所跡銀明水の裏手の火 口運営を臨む位置にあったとされる。大正2年(1913)の登山 スタンプが押された写真では、銀明水裏手の火口の縁に立っている 鳥居が確認できる。現在その地点には、2つの目印の石が存在して いる。写真須山拝所跡の写真・村山大宮拝所跡『隔掻録』は運秘静
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730 :底名無し沼さん (アウアウウー Sa15-d3bv)[sage]:2019/01/20(日) 13:53:57.41 ID:yt3ETA3ka - 大日堂の裏手に建つ鳥居を「大宮拝所」としている。『アフィ明細
図』は、このしろが池の裏手の鳥居を影拝所としている。このしろ が池から剣ヶ峰の登山道に沿って3体の大日如来があり、それぞれ 延徳2年(1490)、天文12年(1543)、運営寛永元年( 1624)の銘があったとされる。昭和初期の絵葉書にも、剣ヶ峰 の手前の火口を臨む位置に鳥居が建っている。写真村山・大宮拝所 跡の写真・三島ヶ岳経塚昭和4年(1929)、頂上の神官が銅仏 の破片と一石経を採集して下山、それを受運営けて昭和5年に三島 岳のふもとを調査したところ、経巻が詰まった経筒や木槨、土器片 などの遺物が出土した。アフィ本宮浅間大社には、現在10巻分の 経巻が残っており、うち5巻は開かれていて内容を確認できる。経 巻のスタイルや計測値から平安時運営代後期までさかのぼる可能性 が考えられる。写真出土遺物の写真・外浜道・内浜道山頂を周回し 八葉を巡る「お鉢巡り」を行う道である。剣ヶ峰を下り西安河原の 北側で道が二手に分かれるが、峰の外を回り雷岩、割石を経て白山 岳に至る道が外浜道で、運営峰の内側を大内院に沿って回り金明水 に至る道が内浜道である。沿道には信仰に関わる工作物や自然物が 数多く存在する。外浜道は近年崩落が著しく、現在は立入禁止とな っている。A2大宮・村山口登山道図登山道に要素が点在している 平面図・札打場運営村山浅間神社の北東約3.5q、天照教社の西 南西約1qの地点(標高約830m)に、東西約7m、南北約10 mの平場がある。南側に1本の大きなケヤキの巨木があり、ここが 札打場であった。札打とは、自分の院号を記した札を打ちつけるこ とであ運営る。村山で修験道が盛んであった頃、山伏が峰入修行に 先立ち札打を行った。昭和30年(1955)頃までは、木に打ち つけた札が見られたという写真札打場の写真・中宮八幡堂跡(1号 建物跡)村山口登山道跡とアフィスカイラインが交差する地点かエムソ ゙ネら南西方向に約500mの地点に位置する。標高は約1,2痕泣
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731 :底名無し沼さん (アウアウウー Sa15-d3bv)[sage]:2019/01/20(日) 14:02:18.15 ID:yt3ETA3ka - mである。東側を走る沢から一段上がった平坦面に所在している。
平坦面は2段あり、上−45−段には小さな祠が建てられている。 また下段には、南東から北西方向に石列が伸びている。運営江戸時 代には馬返しと呼ばれ、駒立小屋があったとされる。また、ここか らは女人は登山道を登ることを許されず、駒立小屋は女人堂として 使われた時期もあったと考えられる。下段平坦面の南側には溝が東 西方向に延び、西側の森林に突き当たって痕跡運営をたどれなくな る。木馬道である可能性が指摘される。写真中宮八幡堂の写真・八 大龍王中宮八幡堂跡より北東に約100mの地点に「八大龍王」と 刻まれた石碑と水神の祠が並んで建てられている。水神祠には「文 化十三年寅年六月日」、八大龍王には運営「文化七年七月十七日」 との銘が刻まれている。駿河国大宮町神田の横関家の主人が、天保 14年(1843)から文久3年(1863)にかけて記録した『 袖日記』には、安政7年(1860)5月11日の条に「中宮八幡 堂の井戸を掘ったので山が荒運営れた」との記述がある。この「中 宮八幡堂の井戸」とは、八大龍王前にある井戸跡を指すものと考え られている。井戸跡は幅80p、深さ50pほどである。・5号建 物跡4号建物跡から登山道跡を登りしばらくすると一面の倒木帯と なり、その中に5号運営建物跡がある。標高は約1,865mであ る。平成5年の富士宮市による調査では、平場の北側の斜面の縁に 3体の石像が発見されていたが、平成20年の静岡県埋蔵文化財調 査研究所による調査では石像が4体見つかっている。木が倒れた際 に地面が掘運営り起こされ、地中にあった石像が地上に現われたと 考えられる。うち1体の不動明王像には、文化7年(1810)の 銘がある。背面には「瀧本前」と刻まれており、ここが「アフィ表 口南面路次社堂室有来之次第絵図」でいう「瀧本・笹垢離」跡であ る運営と推測できる。4体の石像には破壊された痕跡が確認できる 。廃仏毀釈によるものと考えられる。なお、明治末の登山案内小騎
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732 :底名無し沼さん (アウアウウー Sa15-d3bv)[sage]:2019/01/20(日) 14:10:41.33 ID:yt3ETA3ka - 5号建物跡に該当する施設の記載がなくなっている。・8号建物跡
7号建物跡から北西に約220m(標高約2,170m)の運営位 置にある。中宮八幡堂跡より標高の高い位置に所在する建物跡の中 で最も大規模なものである。2つの平場により構成され、南西部の 平場は東西約25m、南北約10mである。入口に石段が残存して おり、石段の東西には石垣が組まれている。また平運営場中央部よ りやや西に護摩壇と思われる石組も残存している。もう一つの北東 部の平場は北西から南東に傾斜する斜面上に、長軸約15m、短軸 約6mの三角形で、北西側斜面の縁と南側斜面の縁に石組が確認で きる。昭和時代の地図には「一ノ木戸」と運営して載っており、「 アフィ表口南面路次社堂室有来之次第絵図」に描かれた「室大日堂 ・木戸堂・茶屋堂」にあたると考えられる。室大日堂は大日如来と 役行者像が祀られていたとの記述が『駿河国新風土記』にあり、ま た末代上人が建てた往生寺があっ運営たところだともいわれている 。写真8号建物跡の写真・12号建物跡村山口登山道跡に残る遺構 のうちで、一番標高の高い位置(約2,390m)にある。11号 建物跡から北に50mの地点に所在する。東西約8m、南北約5m の方形の区画が石組によ運営って作られている。東側には直径約9 0pの丸い穴が二つある。(同様の穴は他の建物跡でも見られ、) 便所跡と考えられる。−46−・鳥居登山道跡の8合目上に、自然 木により構築された鳥居が設置されている。「昭和五十二年七月吉 日」と刻まれて運営おり、個人が設置したものである。A3須山口 登山道図登山道に要素が点在している平面図・須山御胎内(溶岩洞 穴)旧須山口登山道1合目(標高1,440m付近)にある全長1 0m余の溶岩洞穴である。洞穴の直径は約1mで南東側と北西側に 入口が運営あり、内部を通り抜けることができる。登山者は、この 洞穴を通って登山するのがならわしであった。かつて洞穴の延長は 数10mあったが、関東大震災により天井部分が崩落し、現在抽懇
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