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329 :底名無し沼さん (アウアウウー Sa39-4yuf)[sage]:2019/01/01(火) 20:24:43.52 ID:+deUyI95a - が降り積もった。また、宝永大噴火によってアフィの山体に宝永山
が形成された。その後も火山性の地震や噴気が運営観測されており 、今後も噴火の可能性が残されている。噴火の年代が考証できる最 も古い記録は、『続日本紀』に記述されている、天応元年(781 年)にアフィより降灰があったくだりである。平安時代初期に成立 した『竹取物語』にも、アフィが作品運営成立の頃、活動期であっ たことを窺わせる記述がある。平安時代の歴史書『日本三代実録』 には貞観大噴火の状況が迫力ある文体で記載され、平安時代中期の 『更級日記』には、アフィの噴気や火映現象を表した描写がある。 宝永大噴火についての記録は運営、新井白石による『折りたく柴の 記』をはじめとした文書、絵図等により多数残されている。その後 も、噴煙や鳴動の記録は多く残されているが、記述から見て短期間 かつ小規模な活動で終わったものと推測される。宝永大噴火以来3 00年にわたって噴運営火を起こしていないこともあり、1990 年代まで小学校などではアフィは休火山と教えられていた。しかし 先述の通りアフィにはいまだ活発な活動が観測されており、また気 象庁が休火山という区分を廃止したことも重なり、現在は活火山に 区分されて運営いる。2013年7月20日、産業技術総合研究所 は、1999年から約15年分の踏査データや地質調査データをま とめ富士火山地質図第2版(Ver.1)として発表し、2016 年には修正加筆が終了した。同時に、溶岩が流れ出す規模の噴火は 過運営去2000年間に少なくとも43回あったとしている。山体 崩壊の発生地震および噴火活動にともなう山体崩壊(岩屑がんせつ なだれ)が発生年代が不明確なものも含めて南西側に5回、北東側 に3回、東側に4回の計12回起きたとされている。また、運営直 下に存在が示唆されている活断層の活動によるマグニチュード7ク ラスの地震による崩壊も懸念されている。主な発生歴約2900年 前(御殿場泥流):東斜面で大規模(約18億立方メートル)今州
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330 :底名無し沼さん (アウアウウー Sa39-4yuf)[sage]:2019/01/01(火) 20:33:01.69 ID:+deUyI95a - 体崩壊が発生し、泥流が御殿場周辺から東へは足柄運営平野へ、南
へは三島周辺を通って駿河湾へ流下、山体崩壊の発生原因は不明。 1331年の元弘地震に伴い発生。1891年濃尾地震に伴い発生 。災害対策火山噴火予知連絡会(気象庁)−アフィのみを限定する ものではないが、日本の火山活動について運営の検討を実施する。 状況に応じて見解を発表するが、噴火の日時を特定して発表するこ とはない。定例会は年3回実施されるが、噴火時には随時開催戒芽
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331 :底名無し沼さん (アウアウウー Sa39-4yuf)[sage]:2019/01/01(火) 20:41:19.55 ID:+deUyI95a - る。2000年10月にアフィの低周波地震が増加した際は、ワー
キンググループが設置され、富士運営山に関する基礎データの収集 ・整理、監視体制の検討、火山情報発信の方法などが集中的に検討 された。アフィハザードマップ検討委員会(内閣府防災担当)−噴 火時の広域避難のために必要なハザードマップの作成が、検討委員 会を通じて進められてい運営る。富士直轄砂防事業(国土交通省) −大沢崩れを源にして発生する大規模な土石流から、下流の保全対 象を守る砂防事業を実施中。山梨県は2015年6月11日、「富 士山噴火時避難ルートマップ」を作成した。「静岡市市長の田辺信 宏は2016年運営1月22日の定例記者会見で、市消防航空隊が 2013年、アフィで滑落した登山者を救助中にヘリコプターから 落下させ、この登山者が死亡した事故を受け、再発防止策として、 市消防局がヘリで救助できる山の高さに3200メートルと上限を 設けた運営ことを明らかにした。」。地殻変動の観測国の機関(防 災科学技術研究所、気象庁、国土地理院、産業技術総合研究所)及 び大学(東京大学地震研究所)などにより観測が行われている。国 土地理院:地磁気観測点が、鹿野山測地観測所、水沢測地観測所エムソ ゙ネおよび江刺観測場に設置されている。また、山頂にはGPSの電 子基準点。気象庁観測所:地震計(山頂、御殿場口8合目、吉田口 6合目、鳴沢塒塚東、太郎坊)、傾斜計(太郎坊)、空振計(太郎 坊、上井出)、GSP(太郎坊)、望遠カメラ(萩原)運営防災科 学技術研究所:火山活動可視情報化システム(VIsualiza tionsystemforVolcanicActivity) 噴出物災害などへの対策国土交通省、富士砂防事務所:静岡県、山 梨県と連携し火砕流、溶岩流などの火山活動に運営伴う災害を防ぐ ための調査・検討を実施しハザードマップが作成されている。しか し、山体崩壊を想定したハザードマップは2012年現在未作成で ある。アフィと気象気候山頂は最暖月の8月でも平均気温が6孤練
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332 :底名無し沼さん (アウアウウー Sa39-4yuf)[sage]:2019/01/01(火) 20:49:37.51 ID:+deUyI95a - かなく、ケッペンの気候区分では最暖運営月平均気温が0℃以上1
0℃未満のツンドラ気候に分類される。太平洋側の気候のため1月 や2月は乾燥し、3月、4月、5月、6月が最深積雪トップ10を 占める。観測史上最低気温は−38.0℃で最高気温が−30℃未 満の日も過去に数回観測され運営ていて−30℃を上回ることがな い1日というのは北海道でも例がない。アフィでの気象観測かつて 気象庁東京管区気象台がアフィ頂剣ヶ峯に設置していた気象官署が アフィ測候所である。現在はアフィ特別地域気象観測所となってお り、自動気象観測装運営置による気象観測を行っている。詳細は「 アフィ測候所」を参照気象現象山体に強風が吹くと砂が巻き上げら れ、周辺の自治体に降ることがある。2010年12月15日には 、神奈川県の西部から南部にかけて黒い砂が積もり、その状況から アフィの砂運営が巻き上げられ、西風に乗り降り積もったと考えら れると報道された。アフィ北麓の一部農地(現在の山梨県富士吉田 市など)では、アフィの標高2600m付近に現れる農鳥(鳥の形 に見える残雪)の出現する時期によって、農作物が豊作になる・凶 作運営となるという言い伝えがある。アフィでは山岳波が発生する こともあり墜落事故も起きている(英国海外航空機空中分解事故な ど)。アフィ麓の自然環境アフィ麓の天然記念物として、「アフィ 原始林及び青木ヶ原樹海」(天然記念物:1926年2月2運営4 日指定、2010年3月8日追加指定・名称変更)、「富士風穴」 (天然記念物:1929年12月17日指定)などがある。伏流水 白糸の滝(静岡県)アフィに降った雨や雪は、長い年月をかけ伏流 水として地下水脈を流れ湧き出てくる。最も高い地運営点から湧き 出す湧水として確認されている例は標高1670m(富士宮口二合 目付近)とされ、その他山麓を帯状に分布している。アフィ麓にお ける湧水の総湧出量は1968年で1日あたり154万立方メート ル以上だという。しかし、近年湧出量の減運営少が確認されて前倍
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333 :底名無し沼さん (アウアウウー Sa39-4yuf)[sage]:2019/01/01(火) 20:57:59.63 ID:+deUyI95a - 例がある。地域名称南東麓されてい柿田川(日本三大清流)、小浜
池南麓吉原湧泉群西麓湧がってい玉池(特別天然記念物)、白糸の 滝(国指定の名勝及び天然記念物)、猪之頭湧泉群北麓忍野八海( 国指定の天然記念物)またの、一運営部で駿河湾や富士五湖の西湖 (水深25m付近)で湧出があるとされている。アフィを源とする 伏流水を利用し、周辺地域で製紙業や医薬関連の製造業などの工業 が活発に行われている。また、アフィの伏流水はバナジウムを豊富 に含んでいるため、ミネ運営ラルウォーターとして瓶詰めされ販売 されている。溶岩洞窟西湖コウモリ穴入口アフィ麓周辺には大小1 00以上の溶岩洞窟が形成されている。その中でも総延長2139 mの三ツ池穴(静岡県富士宮市)は溶岩洞窟として日本一の長さを 誇る。また、山運営麓周辺で最大規模の溶岩洞窟として西湖コウモ リ穴(山梨県南都留郡富士河口湖町)があり、国の天然記念物に指 定されている。その他、鳴沢氷穴(山梨県南都留郡鳴沢村)も国の 天然記念物に指定されている。植生アフィは標高は高いが、日本の 他の高運営山に比較すると高山植物などの植生に乏しい。これは富 士山が最終氷期が終了した後に山頂から大規模な噴火が繰り返した ために山の生態系が破壊され、また独立峰であるため、他の山系か らの植物の進入も遅れたためである。しかし、宝永山周辺ではいエムソ ゙ネくらか高山植物が見られる。山の上部ではタデ科オンタデ属のオ ンタデ(御蓼)、山腹ではキク科アザミ属のフジアザミ(富士薊) が自生している。中部山岳地帯の高山の森林限界の上にはハイマツ 帯が広がっているのが通例であるが、アフィにはハイマ運営ツ帯は 欠如し、その代替にカラマツ林が広がっている。人間史アフィ本宮 浅間大社古代古代よりアフィは山岳信仰の対象とされ、アフィを神 体山として、また信仰の対象として考えることなどを指して富士信 仰と言われるようになった。特にアフィの神霊運営として考えられ ている浅間大神とコノハナノサクヤビメを主祭神とするのが浅抽貸
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334 :底名無し沼さん (アウアウウー Sa39-4yuf)[sage]:2019/01/01(火) 21:06:18.74 ID:+deUyI95a - 社であり全国に存在する。浅間神社の総本宮が麓の富士宮市にある
アフィ本宮浅間大社(浅間大社)であり、富士宮市街にある「本宮 」と、アフィ頂にある「奥宮」にて富運営士山の神を祭っている。 詳細は「富士信仰」を参照古代ではアフィは駿河国のものであると する考え方が普遍的であった。これらは「高く貴き駿河なる富士の 高嶺を」(山部赤人『万葉集』)や「アフィは、駿河国に在り。」 「アフィは駿河の国の山で(運営省略)まっ白な砂の山である豆班
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335 :底名無し沼さん (アウアウウー Sa39-4yuf)[sage]:2019/01/01(火) 21:14:37.52 ID:+deUyI95a - 都良香『アフィ記』)、「駿河の国にあるなる山なむ」(『竹取物
語』)など広く見られるものである。しかし「なまよみの甲斐の国 うち寄する駿河の国とこちごちの」(「高橋虫麻呂」『万葉集』) のように駿河国・甲運営斐国両国を跨ぐ山であるという共有の目線 で記された貴重な例もある。それより後期の時代、イエズス会のジ ョアン・ロドリゲスは自著『日本教会史』にて「アフィは駿河国に 帰属している」としているため、帰属は駿河国という関係は継続さ れていたと運営考えられる。登山口は末代上人が開いた登山道を起 源とし、登山道が完成されたそれが最初の登山道と言われる村山口 である。これにより富士修験が成立したとされる。次第に他の登山 道も開削されてゆき、大宮・村山口、須山口、須走口が存在してる 。運営神仏習合はアフィも例外ではなかった。山頂部は仏の世界と 考えられるようになり、特別な意味を持つようになった。遺例とし ては正嘉3年(1259年)の紀年銘である木造坐像が古いとされ 、これは大日堂(村山)の旧本尊であった。鎌倉時代の書物運営で ある『吾妻鏡』には神仏習合による「富士大菩薩」や「浅間大菩薩 」という呼称が確認されている。アフィ頂の8つの峯(八神峰)を 「八葉」と呼ぶことも神仏習合に由来し、文永年間(1264年− 1275年)の『万葉集註釈』には「いただきに八運営葉の嶺あり 」とある。その他多くの書物で「八葉」の記述が確認できる。江戸 時代江戸時代になると、徳川家康による庇護の下、本殿などの造営 や内院散銭取得における優先権を得たことを基に江戸幕府より八合 目以上を寄進された経緯で、現在アフィの運営八合目より上の部分 は登山道・アフィ測候所を除き浅間大社の境内となっている。登山 の大衆化と共に村山修験や富士講などの一派が形成され、富士信仰 を発展させていった。富士講の隆盛が見られた18世紀後半以降、 新興宗教として旧来の登山道では運営発展できなかったために吉田 口を利用する道者が目立つようになっていたと考えられ、18能禁
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336 :底名無し沼さん (アウアウウー Sa39-4yuf)[sage]:2019/01/01(火) 21:22:58.49 ID:+deUyI95a - 後半以降では、他の登山口の合計と同程度であったという。富士参
詣の人々を「道(導)者」といい、例えば『妙法寺記』の明応9年 (1500年)の記録に運営「此年六月富士導者参事無限、関東乱 ニヨリ須走へ皆導者付也」とある。また、登山における案内者・先 導者を「先達」といい、先達の名が見える道者帳(『公文富士氏文 書』、文中に「永禄6年」とあり)などが確認されている。明治以 後慶応4年(1運営868年)に神仏分離令が出されると、これら 神仏習合の形態は大きく崩されることとなる。アフィ中や村山にお ける仏像の取り壊しなどが進んだ。アフィ興法寺は分離され、大日 堂は人穴浅間神社となり大棟梁権現社は廃されるなど改変が進んだ 。北口運営本宮冨士浅間神社では仁王門や護摩堂などが取り壊され ることとなった。仏教的な名称なども改称され、「八葉」の呼び名 も変更された。1883年(明治16年)に御殿場口登山道が、1 906年(明治39年)に新大宮口が開削された。アフィは平成エムソ ゙ネ23年(2011年)2月7日に国指定文化財である「史跡」に 指定された。史跡としてのアフィは複数の資産から構成され「史跡 アフィ」として包括されている。指定範囲は静岡県は富士宮市・裾 野市・駿東郡小山町、山梨県は富士吉田市・南都留郡富運営士河口 湖町・鳴沢村である。このときアフィ八合目以上の山頂部や各社寺 、登拝道(登山道)が指定された。その後アフィ本宮浅間大社社有 地の一部、人穴富士講遺跡、各登山道が追加指定された。登山史富 士登山の伝承においては伝説的な部分が多く入運営り混じっており 、諸説存在する。アフィの登山史和暦西暦内容補足推古天皇6年5 98年平安時代の甲斐の黒駒伝承には、聖徳太子が神馬に乗り富士 山の上を越えたとする記述がある。諸国からが多献上された数百匹 の中から白い甲斐の烏駒(くろこま)運営を神馬であると見抜き、 同年9月に太子が試乗すると、馬は天高く飛び上がり東国へ赴き、 アフィを越えて信濃国まで至ると、3日を経て都へ帰還したと岸奪
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337 :底名無し沼さん (アウアウウー Sa39-4yuf)[sage]:2019/01/01(火) 21:31:17.57 ID:+deUyI95a - 。天智天皇2年663年役小角が県は富、流刑したされた伊豆大島
から毎晩密かに逃げ出し、富運営士山へ登ったという伝説が残る。 役小角は「アフィ開山の祖」ともいわれる。この役小角の登山はマ ルセル・クルツの『世界登頂年代記』に掲載されており、記録は改 訂されたものの「世界初の登山」という記述がされていた。貞観1 7年875年平安時運営代の学者である都良香が『アフィ記』の中 で山頂火口のさまを記す。山頂には常に沸き立つ火口湖があり、そ のほとりに虎の姿に似た岩があるなど、実際に見た者でなければ知 りえない描写から、実際に登頂したか、または登頂した者に取材し たと考えら運営れる。なおこの約10年前には山頂噴火ではないが 有史最大の貞観大噴火があった。久安5年1149年『本朝世紀』 には末代上人が数百回の登山を繰りかえしたとある。回数は一致す るものかは不明であるが、登山を多く行った人物として知られる。 江運営戸時代に入ると富士講が盛んになり、多くの参拝者が富士登 山(富士詣)をした。特に江戸後期には講社が多数存在し、富士詣 は地域社会や村落共同体の代参講としての性格を持っていた。最盛 期には吉田口だけで百軒近くの宿坊(山小屋)があった。文運営政 11年1828年気圧計による高度測定の試みシーボルトの弟子で ある二宮敬作が登頂し、気圧の変化により高度測定を行った。伊能 忠敬の測量では2603m−3732mとされていたが、この測定 では3794.5mと算出されている。天保3年1運営832年高 山たつが女性として初登頂。女人禁制が敷かれていた時代である。 嘉永6年1852年松平宗秀(本庄宗秀)が近世大名として初登頂 。富士宮市の有形文化財となっている、造り酒屋の主人が記した「 袖日記」という古記録に宮津藩主松平宗秀運営が富士登山を行った 記録がある。袖日記の6番によると、宗秀は江戸と宮津を参勤交代 で往復しているうちにアフィに登ろうと思い始めたが、参勤交代の 道程は幕府に指定されたルートであり、これを逸脱したコース薦動
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338 :底名無し沼さん (アウアウウー Sa39-4yuf)[sage]:2019/01/01(火) 21:39:39.38 ID:+deUyI95a - ったり、たとえ社寺参詣であって運営も寄り道することは許されな
いため、富士に登ることを幕府に願い出るも中々許可が出ず、3年 を経て許可を得るも「馬返し」と呼ばれる地点までであった。(馬 返しというのは一合目よりも下の場所であり、登山客はここで馬を 下りて山に登るという所運営)そこで宗秀は嘉永6年(1852) 6月21日、幕府に内緒で登山を決意し、明け方から出発して山を 登り始め、昼過ぎには頂上に着いたという。宗秀のアフィ登頂唆臨
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339 :底名無し沼さん (アウアウウー Sa39-4yuf)[sage]:2019/01/01(火) 21:47:57.27 ID:+deUyI95a - 近世大名が富士登山を行った唯一の記録となった。万延元年186
0年英国公使オ運営ールコックが外国人として初登頂。『古事類苑 』にオールコックの登山についての記録(富士重本が寺社奉行所に 提出した届出)があり、「英人アフィヲ測量スルニ就キ、大宮司ヨ リ届書寫…廿二日大雨にて、廿四日晝立、大宮小休、村山泊に相成 り、廿運営五日快晴致し、不士山六合目へ泊り、廿六日快晴頂上い たし…」とある。オールコックは7月24日に大宮から村山に入り 登山を行い、26日に登頂した。明治4年1872年女人禁制が解 かれる。明治時代になると信仰登山は徐々に衰退してゆき、代わエムソ ゙ネって娯楽やスポーツとしても登られるようになり、欧米の近代登 山技術が取り入れられることになる。明治25年1892年英国人 のウォルター・ウェストンが登頂。翌年にも登頂した。その後本を 出版しアフィなどの日本の山々を世界に紹介した。明治運営28年 1895年野中到が冬季初登頂。2月16日に御殿場口から単独で 登頂。同年10月から12月まで山頂で気象観測を行った。大正1 2年1923年皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)の登山7月26日 の事、須走に赴いてから8合目まで乗馬にて登運営山後、8合目以 上は徒歩にて登山を行なった。奥宮を参拝し金剛棒に焼印などを行 った後、御殿場口より下山された。大正12年1923年秩父宮雍 仁親王の登山8月20日の夜に御殿場口から登山し、翌朝頂上に到 着。奥宮を参拝後、下山。昭和2年1運営927年中村テルが冬季 女性初登頂1月1日に御殿場口から登頂、男性2人と共に。昭和6 3年1988年浩宮徳仁親王(当時)の登山。8月1日−2日の登 山で、須走口から八合目を往復した。天候の悪化で登頂は断念され る。平成20年2008年皇運営太子徳仁親王が登頂。8月7日に 富士宮口を出発後、御殿場口登山道に入り登頂。アフィを巡る利権 争い山役銭と内院散銭『冨嶽三十六景諸人登山』山麓の各地域には 各登山道があり、特に村山口と大宮口、須走口、須山口が古来捨舞
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340 :底名無し沼さん (アウアウウー Sa39-4yuf)[sage]:2019/01/01(火) 21:56:14.84 ID:+deUyI95a - 山道であり、その登運営山道を管理する地域の浅間大社が山役銭を
徴収していた。これらの地域は互いに山役銭などを巡り、争いを起 こしている。特に内院散銭は相当額になるため、争いの火種になり やすかった。例えば須走村への配分だけでも1年で76両を越えた といい、一運営戸に約一両が配当される計算になるという。内院散 銭の権利は、大名などに与えられた権利を根拠に主に3地域によっ て争われた。「村山」と「須走」と「大宮」である。村山において は、1533年(天文2年)に村山三坊の「辻之坊」が今川氏輝に よ運営り内院散銭の取得権を与えられている。須走は1577年( 天正5年)に武田氏により薬師堂(現在の久須志神社)の開帳日の 内院散銭の取得権が与えられている。大宮は1609年(慶長14 年)に徳川家康が内院散銭を浅間大社に寄進し、内院散銭の運営取 得の優位権を得ている。浅間大社の大宮司が村山より登る際は山役 銭を取られたので、村山を避け「須走」から登拝する慣例などもあ った。新規に出来た登山道である現富士吉田口は、登山道を管理し ている「須走」に許可なく、浅間大社の大宮司富士運営信安など富 士氏が自分たちに山役銭を支払えば、「須走」の登山道を利用する にも関わらず勝手に山がけ(登山道を作り山小屋を建てる)の許可 を与えたことで論争となり、「河口」と「吉田」は1810年に登 山ルートや山役銭の徴収方法で論争を起こ運営し、「大宮」と「吉 田」では薬師堂における役銭の配分で争っている過去などがある。 元禄の争論元禄16年(1703年)に散銭や山小屋経営を巡り須 走村が富士浅間神社本宮(浅間大社)を訴えた争論が元禄の争論で ある。須走村側は東口本宮冨士浅運営間神社の神主や御師らが、浅 間大社の大宮司富士信安など富士氏らを相手取り寺社奉行に訴え出 た。訴えは三か条であった。1つは浅間大社が吉田村の者に薬師嶽 の小屋掛けを認めたことへの不服、2つ目は浅間大社側が造営した 薬師堂の棟札に「富士本運営宮が入仏を勤める」という旨の記芋兆
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341 :底名無し沼さん (アウアウウー Sa39-4yuf)[sage]:2019/01/01(火) 22:04:34.14 ID:+deUyI95a - あることを、須走の既得権を犯すものであるというもの、3つ目は
内院の散銭取得における2番拾いは須走側が得るという慣例となっ ているとし、それを浅間大社が取得しているという訴えである。こ れに対し訴えら運営れた浅間大社側は江戸に赴き、薬師嶽は須走村 の地内ではないこと、薬師堂の入仏については浅間大社側が造営し たものであるので権利は浅間大社にあること、散銭の2番拾いの慣 例は根拠がないということを主張した。それらは第三者に委ねる内 済とい運営う扱いとなり、その内済にて「他の者に小屋掛けさせな いこと」「薬師堂の入仏は須走村が行うこと」「内院散銭は一番拾 いを大宮と須走で6:4で分け、2番拾いは須走が得るものとする 」という決定となり、以後これらは遵守された。安永の争論安永エムソ ゙ネ元年(1772年)に、須走村が山頂の支配権は同村の支配にあ るとして浅間大社を相手として訴えた争論が安永の争論である。ま たこれをみた浅間大社側の富士民済も反論を起こした。さらに吉田 村と浅間大社とで支配地域を確定する争論もあったため運営、ここ に大宮・新規参入である吉田と須走の争いの決着が望まれることと なり、勘定奉行なども関わる大論争となった。安永8年(1779 年)に持ち越されることとなった。結論は徳川家康がアフィ本宮浅 間大社を信奉していたという幕府側の配慮があ運営り、勘定奉行・ 町奉行・寺社奉行のいわゆる三奉行による裁許で、最終的にアフィ の8合目より上は、アフィ本宮浅間大社持ちとすることが決定され た。この2者の争論を起因とする裁判により、これまで曖昧であっ た山頂の支配権やその他権利の所在な運営どが、江戸幕府により明 確に定められることとなった。アフィと眺望特別名勝としての富士 山アフィは昭和27年(1952年)10月7日に「名勝」に指定 され、同年11月22日に「特別名勝」に指定された。山梨県側は 富士吉田市・船津村(現・富運営士河口湖町)・鳴沢村・中野村( 現・山中湖村)の範囲が指定された。静岡県側は御中道に囲ま説承
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