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44 :底名無し沼さん (ワッチョイ 5e0c-bFqk [175.177.5.59])[sage]:2018/05/16(水) 00:00:01.60 ID:/40lUafa0 - ル。北岳−日本で2番目に高い山。標高3,193メートルエムゾネ。
日和山(仙台市)−日本で最も低い山。標高3メートル。エベレス ト−世界最高峰。標高8,844メートル。文字この節には、一部 のコンピュータや閲覧ソフトで表示できない文字(Unicode 6.0の絵文字)が含まれています。和文通話表でエムゾネ、「ふ」を 送る際に「富士山のフ」という。文字コードのUnicode6. 0では、携帯電話などで使われていた絵文字も追加されたが、その 中に「MOUNTFUJI」として富士山も含まれている。続けら れている。これは「近江の土を掘り富士山エムゾネを作りその穴が琵琶 湖になった」という伝説からである。富士山頂の湧水を琵琶湖へ注 ぐことを「お水返し」といい、琵琶湖の水を富士山頂へ注ぐことを 「お水取り」という[82][83]。2014年には日本富士山 協会と中華民国山岳協会との間でエムゾネ、富士山と玉山の友好山提携 が締結されている[84]。標高3,952メートルの玉山は台湾 の日本統治時代に新高山と呼ばれ、日本の最高峰であった。その他 [編集]他山の標高[編集]玉山(台湾)−日本統治時代は新高山 と呼ばれ、日本最高峰でエムゾネあった。標高3,952メートル。雪 山(台湾)−日本統治時代は次高山と呼ばれ、日本で2番目に高い 山であった。標高3,886メートル。北岳−日本で2番目に高い 山。標高3,193メートル。日和山(仙台市)−日本で最も低い 山。標高3メーエムゾネトル。エベレスト−世界最高峰。標高8,84 4メートル。文字[編集]この節には、一部のコンピュータや閲覧 ソフトで表示できない文字(Unicode6.0の絵文字)が含 まれています(詳細)。和文通話表で、「ふ」を送る際に「富士山 のフ」エムゾネという。文字コードのUnicode6.0では、携帯 電話などで使われていた絵文字も追加されたが、その中に「MOU NTFUJI」として富士山も含まれている。富士山世界文化遺産 平成22年度第1回静岡県学術日本政府が世界遺産一覧表への記エ管化
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45 :底名無し沼さん (ワッチョイ 5e0c-bFqk [175.177.5.59])[sage]:2018/05/16(水) 00:00:21.57 ID:/40lUafa0 - ゙ネ載を推薦する「富士山」は、東アジアの東端に当たる日本列島の
本州島の中央部、日本の東海地方の東部及び関東地方の西部に位置 する。推薦する資産は17個の構成資産(26個の構成要素(後述 ))から成り、現行の行政区分に基づく各構成資産の所エムゾネ在地に ついては以下に記すとおりである。構成資産所在地No.所在地座 標計測位置緯度経度A静岡県(富士宮市・富士市・裾野市・御殿場 市・小山町)山梨県(富士吉田市・身延町・鳴沢村・富士河口据注
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46 :底名無し沼さん (ワッチョイ 5e0c-bFqk [175.177.5.59])[sage]:2018/05/16(水) 00:00:40.94 ID:/40lUafa0 - )県境未確定地富士山(山頂剣ヶ峰)資産範囲エムゾネ及び緩衝地帯の
範囲図資産と緩衝地帯の位置及び範囲を示す図面、並びに資産近傍 における法的保護区分を示す図面は以下のとおりである。f)資産 面積及び緩衝地帯の面積各構成資産の面積及びその緩衝地帯の面積 、資産の総面積及びその緩衝地帯の総エムゾネ面積については、以下に 記すとおりである。構成資産面積:緩衝地帯面積:合計:No.構 成資産の面積(ha)緩衝地帯の面積(ha)合計説明a)資産の 説明1)資産全体の説明富士山は、標高3776mと日本一の高さ を誇る独立峰である。高度をエムゾネ増すごとに山腹の傾斜が急になる 美しい懸垂曲線を呈し、類まれな優美さを持つ円錐形の山容を有し た玄武岩質成層火山である。その山体は南の駿河湾の海浜にまで及 び、海面からの実質的な高さは世界的にも有数である。富士山は、 日本列島のほぼ中央エムゾネに位置し、フィリピン海プレート、ユーラ シアプレート、北アメリカプレートの三つのプレートが会合し、さ らにその下に東側から巨大な太平洋プレートが沈み込んでいる特異 な地点に存在する。富士山は、新生代第三紀中新世のおもに海底火 山噴出物かエムゾネらなる地層の上に第四紀更新世に造り上げられた先 小御岳火山とそれに重なる小御岳火山を土台として、古富士、さら にそれを覆う新富士山の4層構造で構成されている。山頂部の火口 はおよそ2200年前を最後に噴火していないが、フィリピン海プ レエムゾネートが北進しユーラシアプレートを南南東方向から押し続け ているため割れ目が発生することによって、山頂を通って北北西に 向かう方向にほぼ直線的に側火山が並び、有史以降も火山活動を行 ってきた。富士山が過去に流出した溶岩などの火山噴出物はエムゾネ、 適度な粘度を持つために美しいコニーデ型の山容を形成しながら、 山頂を中心として約15〜20km(最大約30km)の範囲に広 がった。山麓には数多くの風穴・溶岩樹型等の地形が見られ、溶岩 流の末端部では富士山の中腹以上への降水を起源とエムゾネする豊雇堪
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47 :底名無し沼さん (ワッチョイ 5e0c-bFqk [175.177.5.59])[sage]:2018/05/16(水) 00:01:01.60 ID:/40lUafa0 - 湧水(日量約450〜680万t、現在最大の湧水は日量約100
万tの柿田川)が見られる。富士山北麓ではこれらの湧水や降水を 起源とする湖沼が点在している。上記のような自然的環境を持つ富 士山は、古来自然物、特に山岳に対する信エムゾネ仰の伝統を持ってい た日本人に畏敬の念を抱かせ、日本における様々な宗教の融合した 信仰の対象とされた。遥拝や山中での修行のみならず、神仏の在所 と考えられた山頂への登山という宗教行為が一般化するとともに、 山体及び山麓周辺に神社などの宗エムゾネ教施設や風穴・湧水といった 自然物・自然現象を起源とする霊地・巡礼地が設けられ、登山のた めの道や施設及びそれを支援する包括的なシステムが作られた。標 高約2500m付近の森林限界より上方は富士講(富士山信仰の集 団の一つ)信者には「焼エムゾネ山」と呼ばれ、神聖な地域ないし他界 (死後世界)と考えられていた。北麓地域ではさらに、山体を上方 から順に「焼山」(森林限界以上)、「木山」(森林地帯)、「草 山」(草原地帯)と呼び習わし、俗界(「草山」)と死の世界(「 焼山」)を往復エムゾネすることでこの世の罪と穢れを消すという富士 登拝の区分と関連付けていた。森林地帯は神聖な地域の入口の一つ とされる一方で木材の伐採等生活のために利用される地域でもあっ た。また、富士山山麓に見られる湧水は登山前に身を清めるために 必須のエムゾネものであり、現代においても柿田川をはじめ各所で「霊 水」として取り扱われている。また、富士山の稜線、冬季に一般的 に見られる雪を戴いた姿、周辺の湖や海岸線などの展望地から眺め た景観などが時代を超えて多くの人々に神秘的な美しさとして賞エムソ ゙ネ賛され、芸術的な創造意欲を掻き立てた。富士山体のうち、標高 約1500m以上の範囲は、周辺の浅間神社や展望地点から見た可 視領域が重なり合う範囲で、芸術・鑑賞の側面における比重が最も 高い。各登山道における山体の神聖性に関する境界の一エムゾネつであ る「馬返」(乗馬登山が物理的にも、宗教的観点からも不可能開即
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48 :底名無し沼さん (ワッチョイ 5e0c-bFqk [175.177.5.59])[sage]:2018/05/16(水) 00:01:20.17 ID:/40lUafa0 - る地点)の標高以上の範囲とほぼ一致している。地元住民が、とり
わけこの「馬返」より上を指して「オヤマ」又は「オヤマサマ」と 呼び、富士山の範囲とみなす地域もあった。景エムゾネ観的には山体の 傾斜角の変化率が大きくなり「平野部」と「山体」の境界として認 識され、稜線が優美な曲線を描き絵画などの対象とされることが多 い範囲である。2)資産の構成推薦資産は、日本列島のほぼ中央に 位置する富士山体と、周辺の浅間神社エムゾネや御師住宅、霊地・巡礼 地である風穴・溶岩樹型・湖沼、芸術作品の視点場(又は舞台)と なった地点から構成される。富士山体の中には山頂信仰遺跡や登山 道などの重要な要素が含まれている。これらの構成資産が一体とな った推薦資産「富士山」は、エムゾネ山に対する固有の文化的伝統を表 す物証であり、山と人間との精神的な関係を生み出した景観の見本 であるとともに、芸術的作品との関連がある山岳である。表構成資 産/構成要素の分類No.世界遺産条約上の分類遺跡A1山頂信仰 遺跡遺跡A2大宮・エムゾネ村山口登山道遺跡A3須山口登山道遺跡A 4須走口登山道遺跡A5吉田口登山道遺跡A6北口本宮冨士浅間神 社遺跡、記念工作物、建造物A7西湖遺跡A8精進湖遺跡A9本栖 湖遺跡B1遺跡、記念工作物、建造物B2遺跡B3遺跡B4遺跡B 5遺跡B6エムゾネ遺跡B7遺跡、記念工作物、建造物B8建造物B9 遺跡B10遺跡B11遺跡B12遺跡B13遺跡B14遺跡B15 遺跡C遺跡A富士山(富士山体)富士山本宮浅間大社山宮浅間神社 河口湖村山浅間神社須山浅間神社富士浅間神社(須走浅間神社)河 口エムゾネ浅間神社白糸ノ滝三保松原構成資産/構成要素忍野八海船津 胎内樹型吉田胎内樹型人穴富士講遺跡冨士御室浅間神社御師住宅山 中湖673)構成資産の説明富士山(富士山体)・展望地点富士山 には、山頂部に点在する宗教関連施設を始め、信仰登山の支エムゾネ援 施設として機能してきた登山道や山小屋といった宿泊施設、信仰の 証として建てられた石碑などが存在する。推薦範囲は、周辺の汁裁
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49 :底名無し沼さん (ワッチョイ 5e0c-bFqk [175.177.5.59])[sage]:2018/05/16(水) 00:01:39.07 ID:/40lUafa0 - 神社や展望地点から見た可視領域が重なり合う範囲で、芸術・鑑賞
の側面における比重が最も高い。特に本栖湖や三保エムゾネ松原は、何 度も紙幣の図柄に採用された写真の撮影地や富士山を描く典型的な 構図に含まれる景勝地であり、主要な展望を供する展望地点である 。また推薦範囲は、山体の神聖性の境界の一つである「馬返」以上 に該当する標高1500m以上の区域でもエムゾネあり、その中でも、 他界(死後世界)と考えられた森林限界より上方、富士山本宮祖暗
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50 :底名無し沼さん (ワッチョイ 5e0c-bFqk [175.177.5.59])[sage]:2018/05/16(水) 00:01:56.91 ID:/40lUafa0 - 大社の境内地とされた八合目(登山道を10区間に分割した目安の
一つ。登山道ごとに異なり標高約3200〜3375m)以上と、 山頂に近づくほどより強い神聖性エムゾネを持つと認識されてきた。A 富士山(富士山体)A1山頂信仰遺跡A9本栖湖C三保松原(写真 複数、地図挿入)(改頁)登山道富士山には、麓の浅間神社を起点 として山頂に至る登山道が、複数存在する。12世紀前半から中ご ろにかけての修行僧末代エムゾネの活動がきっかけになったと考えられ る大宮・村山口登山道や、六合目から1384年の銘のある掛仏が 出土した須走口登山道などがある。吉田口登山道は、富士講信者の 登山本道とされ、18世紀後半以降、最も多くの道者(他の登山口 の合計と同程度エムゾネ)によって利用された。また、1200年の資 料では、大宮・村山口及び吉田口の外、須山口登山道を挙げて、そ れ以外には登山道がないと述べられている。登山道沿いには要所要 所に祠や石碑が設置され、随所に小屋や石室が設けられており、富 士独特エムゾネの登拝システムを語る上で、登山道は欠かすことのでき ない構成要素である。A2大宮・村山口登山道A3須山口登山道A 4須走口登山道A5吉田口登山道(写真複数、地図挿入)(改頁) 浅間神社・御師住宅登山道の起点や周辺地域には浅間神社が建造エムソ ゙ネされた。古くから富士山は遥拝の対象であり、山宮浅間神社など は古代からの祭祀の形をとどめている。噴火活動の活発化を受け、 律令国家によって9世紀前半に富士山を神体とする浅間神社(後の 富士山本宮浅間大社)が、9世紀後半には北麓にも噴火エムゾネを鎮め るための神社が祭祀された。11世紀後半の噴火を最後に火山活動 が休止期に入ると、富士山を舞台とする修験の活動が活発化し始め 、修験者の拠点が後に村山浅間神社や冨士御室浅間神社へと発展し ていった。登拝の大衆化に伴って、須山浅間神エムゾネ社や富士浅間神 社(須走浅間神社)8など、登山口の起点にも浅間神社が建立され るようになる。なかでも、北口本宮冨士浅間神社は、江戸を中権払
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51 :底名無し沼さん (ワッチョイ 5e0c-bFqk [175.177.5.59])[sage]:2018/05/16(水) 00:02:16.62 ID:/40lUafa0 - 流行した富士講によって大いに利用された吉田口登山道の起点であ
ったが、その北には、富士講徒の案内エムゾネし、宿泊の世話や祈祷を 行った御師の住宅が今も残されている。B1富士山本宮浅間大社B 2山宮浅間神社B3村山浅間神社B4須山浅間神社B5富士浅間神 社(須走浅間神社)A6北口本宮冨士浅間神社B8御師住宅B6河 口浅間神社B7冨士御室浅間エムゾネ神社(写真複数、地図挿入)(改 頁)霊地・巡礼地となった風穴・溶岩樹型・湧水地・湖沼18世紀 後半から爆発的に流行した富士講の信者は、山頂を目指して富士山 に登るだけでなく、いわばオプショナル・ツアーのごとく周辺の風 穴や湧水地などを巡エムゾネり、巡礼や修行を行っていた。富士講の開 祖とされる長谷川角行は、人穴(富士講遺跡)で修行をし、富士五 湖を始めとした八つの湖沼や白糸ノ滝で水行を行った。後の富士講 徒はこれらの地へ参詣し、開祖に倣って修行を行う者もいた。また 、長谷川角エムゾネ行の八海修行になぞらえ「富士御手洗(みてらし) 元八湖」と唱えられた忍野八海や、彼が北麓の洞穴で浅間明神を祀 ったことにちなんで整備された船津胎内樹型や吉田胎内樹型など、 特定の富士講にとっての霊場・巡礼地となっている資産もある。B 9エムゾネ山中湖B10河口湖A7西湖A8精進湖A9本栖湖B11忍 野八海B12船津胎内樹型B13吉田胎内樹型B14人穴富士講遺 跡B15白糸ノ滝(写真複数、地図挿入)(改頁)A.富士山(富 士山体)説明富士山には、山頂部に点在する宗教関連施設をエムゾネ始 め、信仰登山の支援施設として機能してきた登山道や山小屋といっ た宿泊施設、信仰の証として建てられた石碑などが存在する。推薦 範囲は、周辺の浅間神社や展望地点から見た可視領域が重なり合う 範囲で、芸術・鑑賞の側面における比重が9最も高エムゾネい。また推 薦範囲は、山体の神聖性の境界の一つである「馬返」以上に該当す る標高1500m以上の区域でもあり、その中でも、他界(死後世 界)と考えられた森林限界より上方、富士山本宮浅間大社の境芋腹
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52 :底名無し沼さん (ワッチョイ 5e0c-bFqk [175.177.5.59])[sage]:2018/05/16(水) 00:02:36.07 ID:/40lUafa0 - とされた八合目(登山道を10区間に分割エムゾネした目安の一つ。登
山道ごとに異なり標高約3200〜3375m)以上と、山頂に近 づくほどより強い神聖性を持つと認識されてきた。八合目以上は、 1779年以降、富士山本宮浅間大社の境内地とされたが、この理 由は八合目の標高とほぼ一致するエムゾネ噴火口(「内院」と呼び宗教 的に意義付けられている)の底部に浅間大神が鎮座するとの信仰に 基づく。標高約2500m付近の森林限界より上方は富士講信者( 富士山信仰の集団の一つ)には「焼山」と呼ばれ、神聖な地域ない し他界(死後世界)と考エムゾネえられていた。ほぼこの境域に沿い、 富士山体を一周する「御中道」が15〜16世紀ごろに富士講の祖 とされる長谷川角行によって開かれたとされ(1561年及び15 80年とされる)、その後「大沢崩れ」という危険箇所を通るため 富士講信者によエムゾネり修行の道として利用された。構成資産範囲内 には、山頂信仰遺跡や登山道といった、富士山の顕著な普遍的価値 を語る上で重要な役割を担う、次のような構成要素が存在する。A 1.山頂信仰遺跡富士山山頂部には、火口壁に沿っていくつかの神 社などエムゾネ、宗教関連施設が所在する。富士山への信仰登山が開始 されると、修験道の影響を受け山頂部において寺院の造営や仏像等 の奉納がおこなわれるとともに、山頂部での宗教行為が体系化され ていった。道者は山頂周辺において「御来迎(仏の来迎と見なさエムソ ゙ネれたブロッケン現象)」(のち「御来光(日の出)」)を拝み、 内院(噴火口)に鎮座するとされる神仏(大日如来が本地仏とされ た浅間大神ないし浅間大菩薩)を拝し、火口壁にいくつかあるピー クを仏教の曼荼羅における仏の世界に擬して巡拝する「エムゾネお鉢め ぐり(八葉めぐり)」と呼ばれる行為を行なうことが一般的であっ た。山頂の宗教的施設は、12世紀中ごろ修行僧末代により建立さ れた施設(後の大日堂)が最初とされ、その後、経典(12世紀末 〜13世紀前半と推定されるものが最古)・懸エムゾネ仏(148脇妨
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53 :底名無し沼さん (ワッチョイ 5e0c-bFqk [175.177.5.59])[sage]:2018/05/16(水) 00:02:56.75 ID:/40lUafa0 - の銘のあるものが最古)・仏像等(1302年の銘があるものが最
古)の山頂部への奉納・埋納や内院への散銭が行われた。また、遅 くとも17世紀には、大宮・村山口山頂部に大日堂(現在は富士山 本宮奥宮が所在)が、吉田・須走口山エムゾネ頂部に薬師堂(現在の久 須志神社)が造営された。1874年、山頂の仏教的施設及び仏像 は廃仏毀釈の影響によって撤去され、ピークの名称も変更され、寺 院は神社に改変された。しかし、山頂部に対する信仰自体は変君浸
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54 :底名無し沼さん (ワッチョイ 5e0c-bFqk [175.177.5.59])[sage]:2018/05/16(水) 00:03:15.99 ID:/40lUafa0 - ることなく、上記の行為は現エムゾネ代の登山者の多くが行っており、
これらを通じて富士信仰の核心が現代に受け継がれている。A2. 大宮・村山口登山道富士山南西麓の浅間大社を起点とし、村山浅間 神社を経て山頂南側に至る登山道である。12世紀前半から中ごろ の、修行僧末代の活エムゾネ動により、富士山南麓における登山が本格 的に開始されたとされ、14世紀初めには修験者による組織的登山 が始まったとされる。15世紀以降19世紀後半まで、「村山三坊 」と呼ばれた3軒の有力宿坊が村山浅間神社(興法寺)と登山道の 管理を行うエムゾネとともに所属の修験者が登山道等を利用して修行を 行った。また、一般人の信仰登山(以下これを行う者を「道者」と 言う。)も開始され、その様子は16世紀の作とされる「絹本著色 富士曼荼羅図」に描かれている。道者の数は18世紀後半から19 世エムゾネ紀初頭の宿坊(大鏡坊のみ)の記録より、御縁年で2,00 0人前後、平年で数百名程度と推測できる。また1860年、初の 外国人登山を行った英国公使オールコックがこの登山道を利用した 。101889年、鉄道(東海道線)の開通による御殿場口エムゾネ利 用者の増加により衰退し、これへの対策として1906年、村山を 経由しない新道が建設されたため、大宮から現在の六合目(標高2 600m)までは登山道としての機能を失った。この区間は一部除 き登山道跡の推定は困難な状態である。現在は19エムゾネ70年に標 高2400m地点まで開通した自動車道を利用しての登山が行われ ている。(推薦範囲は六合目以上である。)A3.須山口登山道富 士山南東麓、須山浅間神社を起点とし、山頂南東部に至る登山道で ある。その起源は明確ではないが、文字資エムゾネ料の中で1486年 にその存在が確認できる。登山道および山頂部銀明水は須山浅間神 社及びその所在地の須山村(現裾野市須山)により管理されていた 。また、登山道のいくつかの宗教施設は村山の修験者の行場(参拝 所)としても使用された。道者にエムゾネついては詳しい研究が進警毀
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55 :底名無し沼さん (ワッチョイ 5e0c-bFqk [175.177.5.59])[sage]:2018/05/16(水) 00:03:34.52 ID:/40lUafa0 - いないが、1800年(御縁年:富士山出現伝説に由来する60年
に1回の記念の年)に約5,400人、1840年代前半は年平均 約1,700人、1860年(御縁年)は約3,600人であった 。1883年、須山口二エムゾネ合八勺(標高2050m)に接続する 御殿場口登山道が開削され、1889年、東海道本線開通による御 殿場口利便性の向上は須山口よりの道者を奪い、さらに1912年 、一部が陸軍演習場となり使用不可能となったため、須山口からの 登拝(登山)はエムゾネ衰退し現在に至っている。二合八勺以下の登山 道で当時の道が確認できる部分は一部のみである。(資産範囲は現 在「御殿場口」の名称で使用されている二合八勺以上の部分及び遊 歩道として整備された旧須山口の一部である)A4.須走口登山道 富士山エムゾネ東麓の冨士浅間神社を起点とし、八合目で吉田口登山道 と合流し山頂東部に至る登山道である。その起源は明確ではないが 、六合目からは1384年の銘のある掛仏が出土しており、文字資 料では1500年にその存在を確認できる。登山道は遅くとも1エムソ ゙ネ7世紀までに、冨士浅間神社及びその所在地の須走村が登山道の 山頂部までを支配し、散銭取得権の一部などを得ていた。山頂部の 権利については富士山本宮浅間大社と争いになり、須走村は18世 紀(1703年と1772年)、幕府に裁定を求め、権エムゾネ利は幕 府によって認められた。1707年の宝永噴火の際、これらの施設 及び冨士浅間神社、須走村は噴砂に覆われ壊滅したが、江戸幕府の 支援を受け翌年には復興を完了し、多くの道者を集めた。18世紀 後半、他の霊場とセットにされた参詣の流行でエムゾネ道者数は年平均 約1万人、1800年の御縁年に23,700人とピークを迎えた 。1959年、バス道路の完成により、新五合目(標高約2000 m)以下の登山道の利用はほとんどなくなり、一部道としての確認 ができない区間がある。(推薦範囲はエムゾネ現在も利用されている新 五合目以上である。)A5.吉田口登山道北口本宮冨士浅間神白深
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56 :底名無し沼さん (ワッチョイ 5e0c-bFqk [175.177.5.59])[sage]:2018/05/16(水) 00:03:55.22 ID:/40lUafa0 - 起点とし、富士山頂東部を目指す道である。15世紀には、富士山
への登拝が、修験者だけでなく、ごく一般の人々の間にも広まって いた。吉田口は14世紀後半エムゾネには参詣の道者のための宿坊もで き始め、大勢の人々が登るための設備が整うようになった。16世 紀から17世紀、長谷川角行が吉田口を利用して修行を行い、18 世紀前半には富士講隆盛の礎を築いた食行身禄は、入定(宗教的自 殺)にあたって信者エムゾネの登山本道をこの吉田口と定めた。このた め、富士講の信者が次第に増加した18世紀後半以降は、最も多く の道者(他の登山口の合計と同程度)が吉田口登山道を登って山頂 を目指している。しかも、古道としては唯一徒歩で麓から頂上まで 登れる重要エムゾネな道である。(推薦範囲は登山道全体である。)1 1法的保護、修理・整備の経緯1924年に史蹟名勝天然紀念物保 存法の下に名勝に仮指定された。1936年に国立公園法の下に( 富士箱根)国立公園に指定された。1952年に文化財保護法の下 にエムゾネ名勝、ついで特別名勝に指定された。1969年に国が大沢 崩れに対する砂防事業に着手(継続中)。1996年に国・県が台 風による森林の風倒被害に対する対策に着手(継続中)。文化財保 護法の下に他の文化財とともに史跡富士山として指定されるエムゾネ予 定。A6.北口本宮冨士浅間神社説明富士山の遥拝所に祀られてい た浅間明神(富士山の荒ぶる神)を起源とし、1480年には「富 士山」の鳥居が建立され、16世紀半ばには浅間神社の社殿が整っ ていたとされる。その後、1561年に現在の東宮エムゾネ本殿、15 94年に西宮本殿、1615年には本殿が建立された。富士講との つながりが強く、1730年代に富士講の指導者である村上光清の 寄進によって境内の建造物群の修復工事が行われ、現在にみる境内 の景観の礎が形成された。本殿は、一間社エムゾネ入母屋造・檜皮葺の 本殿に唐破風付向背をつけた形式で、正面と側面に挿肘木の腰組を もって支える擬宝珠高欄付の切目縁をめぐらしている。東宮本制書
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57 :底名無し沼さん (ワッチョイ 5e0c-bFqk [175.177.5.59])[sage]:2018/05/16(水) 00:04:15.60 ID:/40lUafa0 - 西宮本殿はともに桧皮葺・一間社流造である。3本殿とも、各部に
漆塗り、極彩色をほどこし、彫刻エムゾネ・金具を配して、それぞれの 時代の装飾的特色がよく表されている。北口本宮冨士浅間神社の支 配権は外川家、小佐野家などの吉田の御師に所属しており、神社の 管理も御師団の中から選ばれた者に委ねられていた。社殿の背後に は登山門があり、この神エムゾネ社を起点として富士山頂まで吉田口登 山道が伸びている。富士講や吉田御師と密接な関係を持ちなが剤産
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58 :底名無し沼さん (ワッチョイ 5e0c-bFqk [175.177.5.59])[sage]:2018/05/16(水) 00:04:36.11 ID:/40lUafa0 - 展した神社である。法的保護、修理・整備の経緯1907年に東宮
本殿が古社寺保存法の下に特別保護建造物に指定された。1929 年の国宝保存法エムゾネ制定に伴い、本殿は国宝とされた。1950年 の文化財保護法制定に伴い、東宮本殿は重要文化財とされた。19 53年に本殿及び西宮本殿が文化財保護法の下に重要文化財に指定 された。1952年に東宮本殿の解体修理工事が行われた。196 2〜6エムゾネ3年に西宮本殿の解体修理工事が行われた。1973〜 74年に本殿、西宮本殿及び幣殿の部分修理工事が行われた。19 81〜82年に東宮本殿の部分修理工事が行われた。1997年に 本殿の部分修理工事が行われた。文化財保護法の下に他の文化財エムソ ゙ネとともに史跡富士山として指定される予定。A7.西湖A8.精 進湖A9.本栖湖説明富士山の火山活動によって形成された堰止湖 である。富士山周辺の湖を巡って修行する内八海巡りが多くの富士 講徒によって行われたが、長谷川角行の水行からいつのエムゾネ時代も 変わらず巡拝の対象として数えられたのが、後述の山中湖及び河口 湖とこの3湖である。また、景勝の地でもあり、多くの芸術作品と ゆかりが深い。12特に本栖湖は、日本の紙幣の図柄として何度も 使用された写真の撮影地点であり、重要な展望エムゾネ地点(view point)である。富士山は、プロ・アマ問わず多くの写真家に 愛され、撮影されてきた。なかでも、生涯にわたり富士山を追い続 けた岡田紅陽によって、1935年に本栖湖北西岸の峠道から撮影 された「湖畔の春」という写真は有名エムゾネである。この写真は、1 984年に採用された五千円札及び2004年に採用された千円札 の図柄として使用された。山体の裾野が湖まで広がり一体の景観を 構成している本栖湖からの展望は、「湖畔の春」に撮影された富士 山とほぼ同じ姿のまま現在もエムゾネ残している。法的保護、修理・整 備の経緯文化財保護法の下に名勝として指定される予定。B1.富 士山本宮浅間大社説明社記によれば806年に、富士山により愚目
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59 :底名無し沼さん (ワッチョイ 5e0c-bFqk [175.177.5.59])[sage]:2018/05/16(水) 00:04:55.51 ID:/40lUafa0 - 遥拝所であった山宮浅間神社から現在の地に移転されたことを起源
とする神社で、古くエムゾネから富士山南麓地域の中心的神社であった 。現在全国に約1300社ある浅間神社の総本宮であり、広く信仰 されている。創建当初は遥拝のための施設であったが、15世紀ご ろ登拝が盛んになるにつれて、富士山本宮浅間大社は村山浅間神社 (興法寺)エムゾネとともに大宮・村山口登山道の基点となり、宿坊が 周辺に建設された。登拝の拡大に伴い、富士山中での諸権利が構築 されていく中で、浅間大社は徳川家康(約150年間の戦乱期をお さめ統一政権である江戸幕府を開いた人物)の庇護の下、1604 年エムゾネ現在の「浅間造り」と呼ばれる独特な構造を持った社殿が造 営されるとともに、1609年山頂部の散銭取得における優先権を 得た。これを基に浅間大社は山頂部の管理・支配を行うようになり 、1779年、幕府による裁判によりこの八合目以上の支配エムゾネ権 が認められた。明治政府によりここは国有地とされたが、1974 年の最高裁判決に基づき、2004年浅間大社に譲渡(返還)され た。浅間大社境内には富士山の湧水を起源とする湧玉池がある。浅 間大社は、富士山の噴火を湧水によって鎮める考えエムゾネや、富士山 を聖なる水源の山として崇める考え方から、豊富な湧水量(日平均 14万〜)を持つ湧玉池のほとりに置かれたとする説が有力である 。なお湧玉池は、浅間大社内に所在する富士山の湧水を起源とする 池である。16世紀前後、湧玉池は浅間大エムゾネ社により道者が身を 清める場と位置づけられたとされ、同時期の絵図や旅行記でその様 子が確認できる。この水垢離は1920〜30年代まで行われた。 現在でも湧水を聖なる水として利用する人が多くいる。法的保護、 修理・整備の経緯1907年に本エムゾネ殿が古社寺保存法の下に特別 保護建造物に指定された。1923〜26年に本殿・拝殿・楼門等 の補修が行われた。1929年の国宝保存法制定に伴い、本殿は国 宝とされた。1933〜34年に楼門の修理を行った。193絞訟
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60 :底名無し沼さん (ワッチョイ 5e0c-bFqk [175.177.5.59])[sage]:2018/05/16(水) 00:05:15.12 ID:/40lUafa0 - に袖廊・廻廊を附した。エムゾネ1950年の文化財保護法制定に伴い
、本殿は重要文化財とされた。1951〜52年、1970年、1 988年に本殿の屋根の修理等が行われた。1969〜70年に本 殿の屋根の修理等が行われた。1987〜88年に本殿の屋根の修 理等が行われたエムゾネ(部分補修)。2005年に本殿の屋根の修理 等が行われた。13文化財保護法の下に他の文化財とともに史跡富 士山として指定される予定。B2.山宮浅間神社説明富士山本宮浅 間大社の社伝によれば、浅間大社の前身とされ、拝殿・本殿等が位 置すべエムゾネき場所に石列でいくつかに区分された遥拝所が設置され るのみという特異な形態は古代からの富士山祭祀の形を止めている と推定されている。この遥拝所の主軸は富士山方向を向いている。 具体的な創建年代は不詳だが、発掘調査では神事に使用されたとエムソ ゙ネ推定される12〜15世紀の土器が出土し、文献上では1551 年にその存在が確認できる。また、遅くとも1577年までには浅 間大社との間で「山宮御神幸」といわれる儀式が開始された。これ は4月と11月に神の宿った鉾を持ち、浅間大社と山宮エムゾネ浅間神 社を往復する行事である。現時点では神が4月に旧跡に戻るという 解釈と、山にいる神が4月に田の神として里へ降りるという解釈が ある。この行事は1874年まで行われていた。なお、「山宮御神 幸」に使用される経路を御神幸道という。道にエムゾネは1691年に 置かれた距離を示す石碑が少なくとも四箇所残っているが、正確な 道筋は現在確認されていない。法的保護、修理・整備の経緯198 5年に富士宮市の史跡に指定される。文化財保護法の下に他の文化 財とともに史跡富士山として指定されエムゾネる予定。B3.村山浅間 神社説明12世紀前半から中ごろの修行僧末代の活動が創建の起源 とされており、1868年の神仏分離令までは神仏習合の宗教施設 として興法寺(富士山興法寺または村山興法寺)と呼ばれていた( 資産範囲には浅間神社と寺院エムゾネである大日堂が含まれる)。血具
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61 :底名無し沼さん (ワッチョイ 5e0c-bFqk [175.177.5.59])[sage]:2018/05/16(水) 00:05:34.76 ID:/40lUafa0 - 山における修験道の中心地であり、14世紀初めには、その活動が
組織化された。15〜16世紀には一般の道者の登拝も増加し、そ の様子が16世紀の制作とされる「絹本著色富士曼荼羅図」に描か れている。1868エムゾネ年、神仏分離令により浅間神社と大日堂は 分離され、1906年の登山道の変化にも伴い両者とも衰微した。 ただし、修験者の活動は1940年代まで継続された。また、村山 の修験者の影響を受けた地域では現在でもその宗教行事が継続町渇
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62 :底名無し沼さん (ワッチョイ 5e0c-bFqk [175.177.5.59])[sage]:2018/05/16(水) 00:05:53.28 ID:/40lUafa0 - ている。法エムゾネ的保護、修理・整備の経緯2001年から2003
年にかけて富士宮市教育委員会により発掘を含む調査が行われた。 文化財保護法の下に他の文化財とともに史跡富士山として指定され る予定。B4.須山浅間神社説明須山口登山道の起点として遅くと もエムゾネ1524年には存在していた神社である。1707年、宝永 噴火により社殿は登山道も含め大きな被害を受け、現在の社殿は1 823年に再建されたものである。神社は村山浅間神社(興法寺) の修験者とも関わりを持ち、1940年頃まで境内で修行のエムゾネ一 環としての祈祷が行われていた。法的保護、修理・整備の経緯文化 財保護法の下に他の文化財とともに史跡富士山として指定される予 定。14B5.富士浅間神社(須走浅間神社)説明社伝では807 年に社殿を造営したとされ、須走口登山道の起点とエムゾネなった神社 である。16世紀には地元支配者(武田氏)の保護を受け、山頂部 の散銭取得権の一部を得ている。社殿は1707年の宝永噴火で崩 壊し1718年に再建された。この後もこの際の部材を使用し、2 009年の修理も含め何回かの修理がおこエムゾネなわれている。神社 には富士講道者が多く立ち寄り、20世紀前半を中心に登拝回数の 達成(33回がひとつの区切り)等の記念碑を約80基造営した。 法的保護、修理・整備の経緯2006年に社殿が小山町の有形文化 財となる。2009年に本殿・参エムゾネ道の修理が行われた。文化財 保護法の下に他の文化財とともに史跡富士山として指定される予定 。B6.河口浅間神社説明古くから富士山に関わる祭祀は南麓の浅 間神社が執り行っていたが、864〜866年に北麓で起こった噴 火を契機に、北麓にも浅エムゾネ間神社が建てられることとなった。そ れが、富士山を望む河口湖の北岸にあり、溶岩の届かなかった河口 浅間神社である可能性が高い。浅間神社を中心とした河口の地は、 甲府盆地から続く官道の宿駅という役割に加え、富士登拝が大衆化 した中世後半かエムゾネら御師集落として発展を遂げた。しかし、魅録
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63 :底名無し沼さん (ワッチョイ 5e0c-bFqk [175.177.5.59])[sage]:2018/05/16(水) 00:06:11.94 ID:/40lUafa0 - における富士講の大流行と、それに伴う吉田御師の隆盛により、河
口の御師集落としての機能は、19世紀以降衰退してしまった。た だし、河口浅間神社は、現在も富士山と密接に結びついた宗教行事 を行っエムゾネており、歴史的背景と相俟って、富士山信仰を語る上で 欠かすことのできない資産である。法的保護、修理・整備の経緯文 化財保護法の下に他の文化財とともに史跡富士山として指定される 予定。B7.冨士御室浅間神社説明冨士御室浅間神社は、8世紀エムソ ゙ネ初めに吉田口登山道二合目に祭場をしつらえたのが最初とされ、 富士山中に祀られた最初の神社であるとする文献もある。富士修験 の信仰拠点は南西の村山であるが、北面の二合目、御室浅間神社が 鎮座する御室の地にも山内の信仰拠点として役行者堂がエムゾネ整備さ れたようである。山中という厳しい条件の下に所在するためたびた び破損し、1189、1275、1475、1525年と加修され 、1564には地元領主による大修理が行われている。現在の本殿 は1612年建立と認められ、その後も169エムゾネ8年、1867 年に修復が行われていた。1973−74年には里宮の地にそのま まの形で移設された。里宮は、二合目の本宮(もとみや)が冬季の 参拝に苦渋するために河口湖畔に建てられたとされる。修験や登拝 といった様々な富士信仰の拠点としてエムゾネ位置づけられる二合目の 本宮と、土地の産土神としての里宮が一体となって機能してきた神 社である。法的保護、修理・整備の経緯1973〜74年に吉田口 登山道二合目にあった本殿が里宮の地に移築された。151985 年に移築された二合目本殿がエムゾネ文化財保護法の下に重要文化財に 指定された。文化財保護法の下に他の文化財とともに史跡富士山と して指定される予定。B8.御師住宅説明御師は、道者に宿や食事 を始め登拝のための一切の世話をするとともに、登拝の指導や祈祷 を行うことを業としエムゾネた。富士山御師として代表的なのは、吉田 口登山道の起点である北口本宮冨士浅間神社の北西に、北東方終絶
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64 :底名無し沼さん (ワッチョイ 5e0c-bFqk [175.177.5.59])[sage]:2018/05/16(水) 00:06:30.63 ID:/40lUafa0 - 傾斜面に沿って大規模な集落を形成した吉田の御師である。御師屋
敷の多くは短冊状をなし、表通りに面して引き込み路を設け、敷地 を流れる水エムゾネ路の奥に住宅兼宿坊の建物が建っている。玄関から 奥へ客室が続き、最奥部には神殿が設けられている。1768年に 建てられ最古の部類に数えられる旧外川家住宅や、格式的な構えが 確立した頃に建てられ富士講最盛期の御師住宅の典型例とされる小 佐エムゾネ野家住宅が代表的である。1861年に新築された小佐野家 住宅同様、富士講の流行に伴い増加する宿泊者に対応するため、旧 外川家住宅では1860年代に離座敷が増築された。法的保護、修 理・整備の経緯1976年に小佐野家住宅が文化財保護法のエムゾネ下 に重要文化財に指定された。1979年に小佐野家住宅の屋根の修 理等が行われた。1996〜98年に小佐野家住宅の腐敗修理等が 行われた。旧外川家住宅が文化財保護法の下に重要文化財に指定さ れる予定。B9.山中湖B10.河口湖説明富士山エムゾネの火山活動 によって形成された堰止湖である。富士山周辺の湖を巡って修行す る内八海巡りが多くの富士講徒によって行われたが、長谷川角行の 水行からいつの時代も変わらず巡拝の対象として数えられたのが前 述の3つの湖とこの山中湖及び河口湖であエムゾネる。この巡礼行為に ついて、具体的に湖沼のどこで修行や巡礼が執り行われたか、また どのルートを辿って各湖を巡ったかは、定まっていなかった(少な くとも、明らかになっていない)ものの、人々の信仰心を駆り立て た湖沼の水そのものを核心としてエムゾネ、周辺地域も含めた範囲が文 化財とされている。また、景勝の地でもあり、多くの芸術作品とゆ かりが深い。法的保護、修理・整備の経緯文化財保護法の下に名勝 として指定される予定。B11.忍野八海説明富士山の伏流水によ る八つの湧水地で、それエムゾネぞれに八大竜王を祀る富士信仰に関わ る巡拝地であった。富士登山を目指す行者たちはこの水で穢れを祓 った。長谷川角行が行った富士八海修行になぞらえ「富士御手頭弐
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65 :底名無し沼さん (ワッチョイ 5e0c-bFqk [175.177.5.59])[sage]:2018/05/16(水) 00:06:49.82 ID:/40lUafa0 - みてらし)元八湖」と唱えられた古跡の霊場と伝えられ、1843
年に富士講道者エムゾネによって再興されたとされる。法的保護、修理 ・整備の経緯1934年に史蹟名勝天然紀念物保存法の下に天然紀 念物に指定された。16B12.船津胎内樹型説明1617年長谷 川角行が富士登拝の際、北麓に洞穴(船津胎内樹型指定範囲内に点 在するエムゾネ小規模な溶岩樹型のひとつと考えられる)を発見し、浅 間明神を祀った。1673年には富士講道者によって現船津胎嵐銘
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66 :底名無し沼さん (ワッチョイ 5e0c-bFqk [175.177.5.59])[sage]:2018/05/16(水) 00:07:09.06 ID:/40lUafa0 - 型が発見され、浅間明神が遷宮された。富士登拝の際に、樹型に入
って身を清める風習があり、洞穴内外の地形空間に宗教的な意義エムソ ゙ネ付けが行われるとともに、奥には富士講にとっての富士山の祭神 である木花開耶姫などが祀られている。法的保護、修理・整備の経 緯1929年に史蹟名勝天然紀念物保存法の下に天然紀念物に指定 された。B13.吉田胎内樹型説明1892年に富士道エムゾネ者によ って整備された「お胎内」である。富士講講徒は、昼までに御師の 家に着き、夕方まで胎内巡りをし、翌朝富士山に登山した。本穴に ついては、古くから冨士山北口御師団が管理している。法的保護、 修理・整備の経緯1929年に史蹟名勝天然紀エムゾネ念物保存法の下 に天然紀念物に指定された。B14.人穴富士講遺跡説明富士講の 開祖長谷川(藤原)角行が修行したとされる溶岩洞窟の人穴と富士 講信者による約230基の碑塔群が残る遺跡である。「吾妻鏡」で は人穴探検の様子が描かれ、「浅間大エムゾネ菩薩の御在所」とみられ ていたとされている。この内容は遅くとも1603年までに、浅間 大菩薩の霊験譚として説話化され、その存在が広く知られていた。 富士講関連の文書によれば人穴は16世紀から17世紀にかけ、長 谷川角行が修行により浅間大エムゾネ菩薩(富士講では仙元大日神とす る)の啓示を得た場であり、入滅した場だとしている。また、角行 は人穴を「浄土(浄土門)」と述べ、これらの結果人穴には熱心な 富士講信者が参詣し、修行を行う者も見られた。また、信者は人穴 への分骨埋葬などをエムゾネ望み、墓碑、供養碑、記念碑などを建立し た。1942年付近が軍用地となり、人穴の浅間神社や周辺の住民 は一時移転した。1954年神社は現在地に復興されたが、冨士講 自体が衰退したことで参詣者はみられるものの1964年以降碑塔 の建設は行エムゾネわれていない。法的保護、修理・整備の経緯199 9年に富士宮市の史跡となる。文化財保護法の下に他の文化財とと もに史跡富士山として指定される予定。B15.白糸ノ滝説明晴今
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67 :底名無し沼さん (ワッチョイ 5e0c-bFqk [175.177.5.59])[sage]:2018/05/16(水) 00:07:27.74 ID:/40lUafa0 - 山の湧水を起源とする数百の流れを持つ滝である。滝の名前は湧水
(エムゾネ日平均15〜16万〜)の噴出が数百条の白糸が垂れている ように見えることをその起源とする。17白糸ノ滝は富士講関連の 文書によれば長谷川角行が人穴での修行と合わせて水行を行った地 とされ、富士講を中心とした人々の巡礼・修行の場となったエムゾネ。 また、景勝地としても有名であり、和歌・絵画の題材にもなってい る。法的保護、修理・整備の経緯1936年に史蹟名勝天然紀念物 保存法の下に名勝及び天然紀念物に指定された。C.三保松原説明 三保松原は、万葉集以降和歌の題材となり、謡曲「エムゾネ羽衣」の舞 台となった。15〜16世紀以降富士山を描く際の典型的な構図に 含まれる景勝地として数多く描かれ、歌川広重等の作品をはじめ海 外にも広く知られている(又は海外に影響を与えた)芸術作品の視 点場、又は舞台となった場所のひとつであエムゾネる。法的保護、修理 ・整備の経緯1922年に史蹟名勝天然紀念物保存法の下に名勝に 指定された。18b)歴史と発展山容の形成富士山の原型は、40 〜10万年前、周辺の火山とともに活動をはじめ、先小御岳火山が 形成された。その後これを覆うよエムゾネうに標高約2500mの小御 岳火山が形成された。さらに約10万年前、そのふもとに古富士火 山が誕生し、爆発的噴火、火山礫・火山灰の噴出、山体崩壊を繰り 返し、小御岳火山をほぼ山体に納める形で3000mを超える火山 に成長した。約1万年前エムゾネには大量の溶岩を噴出する形で現在の 富士山(新富士火山)が成長を始め、古富士山を覆いつくし、約5 600〜3500年前に現在の規模となった。繰り返された溶岩の 流出によって何層にもわたる溶岩層が形成され、その先端部には山 体への降水を起エムゾネ源とする湧水が各溶岩層の隙間より湧出する形 で各所に形成された。富士山北麓においてはこれらの湧水や降水が 北側の山地との間の低地にたまり、湖や湿地が形成された。また、 溶岩層の中には数多くの風穴、溶岩樹型が形成された。山頂か浅久
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68 :底名無し沼さん (ワッチョイ 5e0c-bFqk [175.177.5.59])[sage]:2018/05/16(水) 00:07:47.46 ID:/40lUafa0 - 噴火はエムゾネ2200年前の噴火を最後に起こっていないが、歴史時
代になっても北西〜南東方向に連なる側火山からの噴火を続け、1 200年前から後には少なくとも800〜802年、864〜86 6年、937年、999年、1033年、1083年、1435エムソ ゙ネ〜1436年、1511年、1707年の九つの時期の噴火が確 認されている。神々しい山容と「鎮爆」このような噴火や溶岩の流 出を繰り返す富士山は恐ろしくかつ神秘的な山と考えられたために 、古くから遥拝の対象であったが、日本における古代国エムゾネ家の統 治システムがほぼ整った8世紀後半以降は、繰り返す噴火を鎮める ため、富士山そのものあるいは富士山に鎮座する神を浅間神として 祀るようにもなり、各地に遥拝所としての浅間神社が建立され、国 家の宗教政策の一端に位置づけられるようになエムゾネった。また、富 士山の神々しく秀麗な姿と周辺の自然環境が芸術の対象とされるよ うになり、日本最古の歌集である『万葉集』(8世紀半ば)や日本 最古の物語とされる『竹取物語』(9世紀後半)をはじめとして、 数多くの和歌・物語など文学の題材とエムゾネなったほか、現存最古と なる『聖徳太子絵伝』(11世紀制作)をはじめ、数多くの絵画作 品の題材として取り上げられるようになった(表参照)。特に12 世紀後半以降、日本の政治的中心が京都から鎌倉に移動し、この二 つの都市を結び富士山南麓をエムゾネ通る街道の交通量が増加したこと で、富士山の情報は多くの人に記録され、広く知られるようになっ た。修験道―日本古来の山岳信仰と外来宗教の習合―また、12世 紀頃より噴火活動が沈静化したことで富士山は日本古来の山岳信仰 と密教・道教(神仙エムゾネ思想)が習合した「修験道」の道場ともな り、修験者が山中に分け入り、霊力を獲得するために修行する山へ と変化していった。当時一般的であった神仏習合思想(本地垂迹説 )により、山頂部は仏の世界(又は仏が神の形となって現れる場所 )として認エムゾネ識され、山頂部に至ることが重要な意味を持つ井天
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69 :底名無し沼さん (ワッチョイ 5e0c-bFqk [175.177.5.59])[sage]:2018/05/16(水) 00:08:07.36 ID:/40lUafa0 - になった。この結果15〜16世紀には登拝する山として一般に広
く知られ、修験者に引率された武家・庶民等による信仰登山が盛ん になった。登山口の設置はいずれも室町時代のことで、14世紀か らエムゾネ15世紀後半に開かれたとされている。このころには参詣の 道者のための宿坊もでき始め、大勢の登山者が登るための設備が整 い始めた。登拝の大衆化―富士講―17世紀前半、約150年にわ たる日本国内での戦乱状態が終了し、江戸幕府の下で治安がエムゾ喩循
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70 :底名無し沼さん (ワッチョイ 5e0c-bFqk [175.177.5.59])[sage]:2018/05/16(水) 00:08:25.99 ID:/40lUafa0 - 定し経19済的な発展もあってより多くの人が富士山を目指すよう
になった。このような中で18世紀後半、16世紀に富士山体や周 辺の風穴などで修行し、宗教的覚醒を得た長谷川角行から始まった とされる富士信仰が江戸(現在の東京)を中心に「エムゾネ富士講」と 呼ばれる信仰集団を形成して大いに盛んになり、より多くの人々が 登拝するようになった。富士講や他の登拝者(合わせて「道者」と いう。)は原則として固定的・継続的関係を持った「御師(宿坊を 経営する神職)」の家や宿坊に宿泊し、祈エムゾネ祷や宗教的指導を受 け、湧水で水垢離をとり、浅間神社に参拝した後、頂上を目指した 。登山道には茶屋や山小屋が建てられ、多くの登拝者の活動を支え る施設が体系的に整備されたのもこの頃である。また、富士講にお いては長谷川角行ら指導者の言動エムゾネにならって周辺の風穴や湖沼 ・滝なども修行の地とされ、ここにおいて富士山と周辺の宗教施設 ・霊地・巡礼地は庶民の信仰の場として定着し、山の結界が開放さ れる二ヶ月間に年平均1万〜2万人の人々が信仰を目的とした登山 を行うようになった。芸エムゾネ術作品の多様化とジャポニスム芸術面 においても、とりわけ江戸時代(17〜19世紀半ば)には、文学 、絵画、工芸、庭園等のモチーフとして多岐にわたって取り上げら れ、三保松原と富士山を描いた絵画など多様な表現が追究されるよ うになった。(エムゾネ表参照)特に、葛飾北斎の「冨嶽三十六景」に 代表される浮世絵の数々は、西洋の画家たちに文化的衝撃を与えた 。19世紀後半には「ジャポニスム」という芸術上の画期的な転機 を惹き起こし、印象派の作品に影響を与えるとともに、その富士山 を含んエムゾネだ構図は海外において日本のイメージの一つとされてき たのである。日本を訪れた外国人が富士山からインスピレーション を得て記述した紀行文の中でも、富士山のアイコン的側面を綴った ものが多い。近世以前も富士山は日本一有名な山であったが、1エムソ ゙ネ9世紀後半の開国によって日本が近代国家としての体制を整採並
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71 :底名無し沼さん (ワッチョイ 5e0c-bFqk [175.177.5.59])[sage]:2018/05/16(水) 00:08:45.69 ID:/40lUafa0 - につれて、日本を代表する山から日本を象徴する山へと変貌した。
廃仏毀釈と登山の利便性向上19世紀半ばより、明治政府を中心に 行われた日本の近代化・西欧化政策は富士山にも影響をエムゾネ与えた 。政府が神仏分離や修験道禁止の方針を打ち出したことや、これを 契機に発生した廃仏毀釈の運動により、仏教的施設は神道系の施設 に再編されたが、1872年の(信仰の山における)女人禁制解禁 の影響もあり富士山への登拝は継続ないし拡大エムゾネした。19世紀 末以降の鉄道・自動車道の開通も、登山者の利便性を格段に向上さ せた。南麓へは1889年に東海道線が開通し、北麓へは1900 年前後に馬車鉄道と中央線が開通したことによって、東京からの登 山がさらに活発になった。自動車道とエムゾネしては、1929年に北 口本宮冨士浅間神社から馬返(標高1450m)まで自動車専用道 路が開削され、1937年には大型バスによる輸送も始まった。第 二次大戦以降、日本の価値観や経済状況の変化により、富士山への 登山は信仰を中心としたものエムゾネから、富士山への憧れを主な動機 とするものに変化した。また、1964年に中腹までの自動車道と して、北麓の富士山スバルラインが、1970年に南麓の富士山ス カイラインが開通し、これ以降、中腹(標高2300〜2400m )を起点とした登山エムゾネが主流になった。この結果富士山への登山 者は急増し、年平均20万〜30万人に達するに至った(2007 年からはさらに増加し年間35万〜43万人)。これらの登山者の 行動様式の中には富士山への信仰の核心が受け継がれており、加え て、現代的エムゾネな富士山信仰の形態として、静岡県の柿田川のよう に、新たに富士山との関わりが明らかになったことが、環境保護活 動の活性化につながった例などがある。最近の保全の歴史20富士 山体は文化財としては、1924年に史蹟名勝天然紀念物保存法に よエムゾネり、山麓の幅広い地域が名勝に仮指定された。これとほぼ同 じ範囲は、1936年に自然公園法により国立公園の一部とし貧言
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72 :底名無し沼さん (ワッチョイ 5e0c-bFqk [175.177.5.59])[sage]:2018/05/16(水) 00:09:05.26 ID:/40lUafa0 - 定され、現在も保全の対象となっている。さらに、第二次世界大戦
後の1952年には、新たに文化財保護法によって、御中道エムゾネ以 下500mより上及び一部の登山道などが名勝として(同年、特別 名勝として)指定され、1966年には指定区域を拡大した。山梨 県は1978年(のち、1999年及び2006年に改定)、静岡 県は2006年に「特別名勝富士山」の保存管理計エムゾネ画を策定し 、適切な保存と活用を図っている。周辺の浅間神社や御師住宅の近 代以前の修理や保存の状況は2bで述べたところだが、それらを含 めた富士山に関わる記念工作物・建造物群・遺跡は、1907年以 降、古社寺保存法(1897年〜1929エムゾネ年)、(国宝保存法 (1929年〜1950年))、史蹟名勝天然紀念物保存法(19 19年〜1950年)、文化財保護法(1950年〜現在)により 、名勝、特別天然記念物又は天然記念物、重要文化財、史跡等とし て指定され、文化財ごとに保存管エムゾネ理計画が策定されており、そ れぞれの価値が最もよく表れる時代の状態が保たれるように細心の 注意が払われている。、また、周辺に位置する個々の文化財は、「 包括的保存管理計画」によって、富士山体も含めた統一的な保存・ 管理が行われている。2エムゾネ1表富士山の美術(1)日本古来の伝 統様式によるもの(国宝重要文化財)指定所在作品名形式時代(年 代)説明東京国立博物館聖徳太子絵伝屏風1069現在最古の富士 山。聖徳太子が馬で富士山を越える物語の状景。神奈川清浄光寺外 一遍聖絵絵巻1エムゾネ299一遍が全国遍歴の途中、富士川に入水す る往生者を見送る背後に富士山。兵庫・真光寺遊行上人縁起絵絵巻 1323他阿上人が全国遍歴の途中、甲斐の御坂峠を越えて河口に 進む背後に富士山。大阪・久保惣記念美術館伊勢物語絵巻絵巻14 世紀伊エムゾネ勢物語現存最古の絵巻。第九段物語の主人が富士山麓を 進む場面。東京国立博物館月次風俗図のうち小屏風15世紀十二月 風俗図の一場面。鎌倉初期に行われた富士山麓の巻狩を題材と忍盟
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73 :底名無し沼さん (ワッチョイ 5e0c-bFqk [175.177.5.59])[sage]:2018/05/16(水) 00:09:25.88 ID:/40lUafa0 - 。富士山本宮浅間大社富士参詣曼荼羅図掛軸16世紀霊山であるエムソ
゙ネ富士山に参拝する行者達の登山風景、山頂に三尊あり。狩野派の 祖元信筆。東京国立博物館武蔵野図屏風17世紀武蔵野の状景を装 飾的に描いた名所図屏風の一。ススキ野の奥に富士山がそびえる。 山梨県立博物館曽我物語図屏風17世紀鎌倉将軍源頼朝エムゾネが主催 した富士の巻狩最中に果された曽我兄弟による仇討ちを題材。富士 山の美術(2)室町時代水墨画によるもの指定所在作品名形式貞債
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74 :底名無し沼さん (ワッチョイ 5e0c-bFqk [175.177.5.59])[sage]:2018/05/16(水) 00:09:45.03 ID:/40lUafa0 - (年代)説明東京・根津美術館富岳図仲安真康筆掛軸15世紀現存
最古の水墨による富士山図。鎌倉建長寺の僧でエムゾネ、鎌倉画派の祖 とされる。東京国立博物館富岳図祥啓筆掛軸1490仲安真康の弟 子、建長寺の書記を勤めた禅僧万里集九や雪舟とも交友があった。 東京永青文庫富士清見寺図雪舟集掛軸15世紀世界的に著名な日本 を代表する水墨画家の作。水墨画によエムゾネる富士山の一典型作。静 岡県立美術館富士八景図式部輝忠筆掛軸1530東国を中心に活躍 した水墨画家。瀟湘八景にあやかって連作に挑んだ作品。個人(〜 )富士三保松原図是庵筆掛軸16世紀京都相国寺の僧で、画をよく した。下辺に三保松原、富士エムゾネ山の左手に日輪を描く。22富士 山の美術(3)江戸時代諸派の作家と富士山指定流派著名な作家名 所在代表作(年代)説明陶芸野々村仁清東京・鼻山美術館銹絵富士 山香炉(17世紀)世界的にも著名な京焼の第一人者。富士山の朝 昼晩の三つの景色をエムゾネ造型化する。狩野派狩野探幽静岡県立美術 館富士山図1670江戸狩野派の祖、第一人者。富士山連作の緒を 開いた。狩野派狩野山雪静岡県立美術館富士三保松原図屏風(17 世紀)山楽の養子として京狩野派を継ぐ。装飾性と抒情性に富む。 琳派尾形光エムゾネ琳奈良・大和文華館富岳図(扇面貼交手箱内)(1 8世紀)世界的に著名な代表的画家。工芸デザイナーとしても卓越 する。文人画派池大雅東京芸術大学富士十二景図(18世紀)日本 文人図(南画)の大成者、第一人者。富士・立山・白山を信仰登山 しエムゾネ、三岳道者と自称。その体験を描く。文人画派与謝蕪村富山 佐藤美術館松林富士図(18世紀)大雅と並ぶ日本文人画の第一人 者。俳人としても高名で、俳画を大成した名手。文人画派野呂介石 和歌山・田辺市立美術館(寄託)紅玉芙蓉峰図1821紀州エムゾネ藩 の役人で、大雅にも師事した。早春の明け方の朱に染まった富士、 赤富士の魁。文人画派谷文晁静岡県立美術館富士山図屏風1835 江戸文人画の大家。諸国諸山の風景を写実的に描いた写生派の畿添
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75 :底名無し沼さん (ワッチョイ 5e0c-bFqk [175.177.5.59])[sage]:2018/05/16(水) 00:10:04.76 ID:/40lUafa0 - け。円山派円山応挙兵庫・白鶴美術館富士三保松原エムゾネ図屏風17
84装飾性と写実性とを融合し、独自の画境を開いた、いかにも応 挙らしい作品。洋風画派小田野直武秋田県立近代美術館富岳図17 77秋田藩士。日本で最初に西洋画を学んだ、秋田蘭画の創始者。 江戸出府の折の作。洋風画派司馬江漢静岡エムゾネ県立美術館薩〜山富 士遠望図1804平賀源内らと蘭学を研鑚、後に小田野直武の影響 を受けて、洋風写生画の第一人者となる。南蘋派宋紫石東京国立博 物館日金山富岳展望図(18世紀)長崎に渡来した清人画家より写 生的花鳥画を学び、また平賀源内エムゾネらを通じて蘭学に通じた。禅 画白隠慧鶴大分・自性寺富士見大名行列図日本臨済禅を確立した禅 僧。全国を遍歴、布教した。禅画の大成者としても著名。浮世絵派 葛飾北斎山梨県立博物館版画富岳三十六景1831世界的に著名な 浮世絵師。富岳三十六景エムゾネに見る象徴主義は欧米文芸に大きく影 響した。23浮世絵派歌川広重山梨県立博物館版画不二三十六景( 19世紀)北斎とともに世界的に著名な浮世絵師。東海道五十三次 など風景画に新境地を開き、印象派に与えた影響は大きい。浮世絵 派歌川貞秀神戸エムゾネ市立博物館三国第一山之図1849幕末の浮世 絵師。自ら富士山に登り、その感動を本図や富士絶頂之図など多く の作品を残した。富士山の美術(4)近現代作家と富士山文化勲章 指定ジャンル著名な作家名所在代表作(年代)説明油画(洋画)高 橋由一エムゾネ金刀比羅宮宝物語館牧の原望岳図1878明治維新以降 、最初に油彩技法を習得した先覚者の作品。明治初期の貴重作。〃 五姓田義松東京都現代美術館清水の富士1881父芳柳と共に早く 油彩技法に目覚めた開拓者の一人。明治初期の貴重作。〃和田英エムソ ゙ネ作鹿児島歴史資料センター富士(河口湖)1926日本近代洋画 を技法的に確立した先駆者の一人。写生の確かさを見よ。〃梅原龍 三郎岡山・大原美術館朝陽1945ルノアールに学び、日本洋画に 存在感ある独特の装飾技法を樹立した。その金字塔ともエムゾネ言卒塗
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76 :底名無し沼さん (ワッチョイ 5e0c-bFqk [175.177.5.59])[sage]:2018/05/16(水) 00:10:23.39 ID:/40lUafa0 - き作。〃田崎広助長野・田崎美術館箱根朱富士1975日本独特の
平面的装飾に新しい一頁を開いた田崎ならではの自然景観。〃林武 箱根彫刻の森美術館赤富士1967主として第二次大戦以後洋画壇 をリードした。豪快な技法で富士連作に挑んだエムゾネ。膠画(日本画 )富岡鉄斎兵庫・清荒神清澄寺富士山及び山頂全図屏風1898最 後の文人画家とも言われる思想家。自ら富士山に登り、その神聖性 をダイナミックに表現した。〃横山大観東京国立近代美術館或る日 の太平洋1952フェノロサ、岡倉天エムゾネ心と共に日本画壇を復興 した巨匠。日本の象徴と意識して多くのテーマに富士山が描かれた 。〃下村観山秋田県立近代美術館三保富士図屏風1919横山大観 とともに明治日本画壇を背負った作家が伝統的テーマに新風を吹き 込む。〃川端龍子東京・大田エムゾネ区立龍子記念館怒る富士1944 強烈な個性で大作に挑んだ激情の画家。激しい気象現象を示す富士 に挑戦した作品。〃松岡映丘宮内庁三の丸尚蔵館富岳茶園1928 昭和天皇即位記念の作品。伝統的日本画に透明感のある新しい表現 技法を示す。〃徳岡エムゾネ神泉京都国立近代美術館富士1965福田 平八郎と共に昭和の日本画壇に独自の新風を吹き込んだ。茫漠たる モノトーンの中に立する富士。24〃横山操東京・五島美術館朱富 士1966第二次大戦後の日本画壇をリードした新星。多くの富士 を描いたがエムゾネ、赤富士と電光の対比の妙。〃小松均京都市立美術 館白富士1982第二次大戦後の日本画壇に詩的な大画面で新境地 を開いた。郷土山形や大自然に魅せられて。〃片岡球子神奈川県立 近代美術館面構葛飾北斎数年前に没したが、最も現代日本画界をリ ーエムゾネドした女流画家。本図は女史のライフワーク面構シリーズの 一つ。写真鹿島清兵衛宮内庁三の丸尚蔵館富士1894アマチュア ながら当時の技術を駆使した大版写真を御成婚25年記念に皇室に 託した。〃岡田紅陽山梨・岡田紅陽写真美術館忍野赤富士1エムゾネ8 94文字通り富士山の写真家。富士山のあらゆる表情を写真に奴酪
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77 :底名無し沼さん (ワッチョイ 5e0c-bFqk [175.177.5.59])[sage]:2018/05/16(水) 00:10:42.91 ID:/40lUafa0 - 、広めた。木版画萩原英雄山梨県立美術館三十六富士1926本県
出身の日本を代表する木版画家。新しい視点からの富士山シリーズ 。富士山の文学歴史書「六りっ国史こくし」(奈良エムゾネ−平安)菅 野すがのの真ま道みちら「続日本しょくにほん紀ぎ」(平安)藤原 通憲ふじわらのみちのり「本朝ほんちょう世紀せいき」(平安)伝 皇こう円えん「扶桑ふそう略記りゃっき」(平安)※作者未詳「吾 妻鏡あづまかがみ」(鎌倉)斎藤月岑さいエムゾネとうげっしん「兄阪
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78 :底名無し沼さん (ワッチョイ 5e0c-bFqk [175.177.5.59])[sage]:2018/05/16(水) 00:11:03.44 ID:/40lUafa0 - ぶこう年表ねんぴょう」(江戸)風土記元明天皇げんめいてんのう
詔「常陸ひたち国のくに風土記」(奈良)談話集景戒きょうかい「 日本にほん霊異記りょういき」(平安)※作者未詳「今昔こんじゃ く物語集ものがたりしゅう」(平エムゾネ安)和歌集大伴家持おおとも のやかもち「万葉集まんようしゅう」(奈良)紀淑望きのよしもち ・紀貫之きのつらゆき「古今和歌集こきんわかしゅう」(平安)村 上むらかみ天皇てんのう「後撰和ごせんわ歌集かしゅう」(平安) 後鳥羽ごとば上皇じょうエムゾネこう「新古今和歌集しんこきんわかし ゅう」(鎌倉)後鳥羽院ごとばいん「最勝さいしょう四天王院して んのういん障子しょうじ和歌わか」(鎌倉)藤原長清「夫木和歌抄 ふぼくわかしょう」(鎌倉)藤原ふじわらの為ため明あきら「新拾 遺和しんしゅうエムゾネいわ歌集かしゅう」(室町)25記録・紀行文 都良香みやこのよしか(平安)「富士山記ふじさんき」※作者不詳 (鎌倉)「海道記かいどうき」※作者不詳(鎌倉)「東関紀行とう かんきこう」飛鳥井あすかい雅世まさよ(室町)「富士紀行ふじき こう」エムゾネ堯孝ぎょうこう(室町)「覧らん富士記ふじき」堯恵ぎ ょうえ(室町)「北国紀行ほっこくきこう」※作者不詳(室町)「 富士御覧日記ふじごらんにっき」道興どうこう(室町)「廻国かい こく雑記ざっき」宗牧そうぼく(室町)「東国とうごく紀行きこエムソ ゙ネう」紹巴じょうは(室町)「富士見ふじみ道記みちのき」小堀遠 州こぼりえんしゅう(江戸)「東海道紀行とうかいどうきこう」浅 井了意あさいりょうい(江戸)「東海道名所記とうかいどうめいし ょき」岩佐いわさ又兵衛またべえ(江戸)「迴国道の記エムゾネ」松尾 まつお芭蕉ばしょう(江戸)「野ざらし紀行」香川景樹かがわかげ き(江戸)「中空の日記」古川古松こしょう軒けん(江戸)「東遊 とうゆう雑記ざっき」藤とう惺せい梅ばい(江戸)「東海紀行」日 記文学菅原孝標女すがわらのたかすえのむすめエムゾネ(平安)「更級 さらしな日記」阿仏尼あぶつに(鎌倉)「十六夜日記いざよい挟誌
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79 :底名無し沼さん (ワッチョイ 5e0c-bFqk [175.177.5.59])[sage]:2018/05/16(水) 00:11:22.92 ID:/40lUafa0 - き」「うたたね」後ご深ふか草院くさいんの二条にじょう(鎌倉)
「とはずがたり」賀茂真淵かものまぶち(江戸)「岡部日記おかべ にっき」永井ながい荷風かふう(江戸エムゾネ−昭和)「大窪だより」 伝説・物語※作者不詳「竹取たけとり物語ものがたり」(平安)※ 作者不詳「伊勢いせ物語ものがたり」(平安)紫式部むらさきしき ぶ「源氏げんじ物語ものがたり(若紫わかむらさき)」(平安)藤 原兼輔ふじわらのかねすけ「エムゾネ聖徳太子伝暦しょうとくたいしで んりゃく」(平安)※作者不詳(平安)「平中へいちゅう物語もの がたり」「平家へいけ物語ものがたり」(鎌倉)※未詳「曽我そが の物語ものがたり」(鎌倉)※作者不詳「源平げんぺい盛衰記せい すいき」(鎌倉)※エムゾネ未詳「承久記じょうきゅうき」(鎌倉)浅 井あさい了りょう意い「東海道名所記」(江戸)能(謡曲)伝世阿 弥ぜあみ原作(室町)「富士山ふじさん」※未詳(室町)「羽衣は ごろも」御伽草紙「富士の人穴ひとあな草紙ぞうし」(江戸)仮名 草紙※作者エムゾネ不詳(江戸)「竹斎ちくさい」滑稽本十返舎一九じ っぺんしゃいっく(江戸)「東海道中膝栗毛とうかいどうちゅうひ ざくりげ」仮名垣魯文かなかきろぶん(江戸−明治)「滑稽富士詣 こっけいふじもうで」26浄瑠璃近松門ちかまつもん左ざ衛門えも んエムゾネ(江戸)「聖徳太子絵伝記」竹田たけだ出雲いずも・三好松 洛みよししょうらく・並木千柳なみきせんりゅう(江戸)「仮名か な手本でほん忠臣蔵ちゅうしんぐら」童謡巌谷いわや小波さざなみ (明治−大正)「富士山ふじさん」(「ふじの山」)海野うエムゾネん の厚あつし(明治−昭和)「背せいくらべ」随想・随筆新井あらい 白石はくせき(江戸)「折おりたく柴しばの記」田山たやま花袋か たい(明治−昭和)「富士を望む」小島烏水こじまうすい(明治− 昭和)「すたれ行く富士の古道」、「不二山ふじさエムゾネん」永井な がい荷風かふう(明治−昭和)「日和ひより下駄げた」太宰だざい 治おさむ(明治−昭和)「富嶽百景ふがくひゃっけい」大町桂強酪
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80 :底名無し沼さん (ワッチョイ 5e0c-bFqk [175.177.5.59])[sage]:2018/05/16(水) 00:11:41.20 ID:/40lUafa0 - おまちけいげつ(明治−大正)「富士の大観」中村星湖なかむらせ
いこ(明治−昭和)「少年行しょうねんこエムゾネう」北村きたむら透 谷とうこく(明治)「富嶽ふがくの詩し神しんを思おもふ」深田ふ かだ久弥きゅうや(明治−昭和)「日本にほん百名山ひゃくめいざ ん」小説落合直文おちあいなおぶみ(江戸−明治)「たかねの雪ゆ き」夏目漱石なつめそうせき(明エムゾネ治−大正)「三四郎さんしろ う」「虞美人草ぐびじんそう」泉鏡花(明治−昭和)「婦おんな系 図けいず」「春しゅん昼ちゅう」「春しゅん昼ちゅう後刻ごこく」 徳富とくとみ蘆花ろか(明治−昭和)「冨士ふじ」「自然しぜんと 人生じんせい」(随筆)エムゾネ永井ながい荷風かふう(明治−昭和) 「新帰朝者日記」橋本英吉はしもとえいきち(明治−昭和)「富士 山頂ふじさんちょう」井伏鱒二いぶせますじ(明治−平成)「岳麓 点描がくろくてんびょう」武田泰淳たけだたいじゅん(大正−昭和 )「富士ふじ」エムゾネ武田百合子たけだゆりこ(大正−昭和)「富士 日記ふじにっき」新田にった次郎じろう(大正−昭和)「強力伝ご うりきでん」「怒いかる富ふ士じ」「芙蓉ふようの人ひと」「富士 ふじに死しす」「着氷ちゃくひょう」「冬山ふゆやまの掟おきて」 「富士エムゾネふじ山頂さんちょう」川端康成かわばたやすなり(明治 −昭和)「東海道とうかいどう」白井喬二しらいきょうじ(明治− 昭和)「富士ふじに立たつ影かげ」国枝くにえだ史郎しろう(明治 −昭和)「神州纐纈城しんしゅうこうけつじょう」松本まつもとエムソ ゙ネ清せい張ちょう(明治−昭和)「波なみの塔とう」芹沢光せりざ わこう治じ良ろう(明治−平成)「我が入道にゅうどう」「人間に んげんの運命うんめい」幸田文こうだあや(明治−平成)「崩くず れ」27詩歌伝柿本かきのもとの人麻呂ひとまろ(飛鳥エムゾネ−奈良 )「柿本集」山部赤人やまべのあかひと(奈良)「万葉集まんよう しゅう」高橋たかはしの虫むし麻呂まろ(奈良)「高橋虫麻呂たか はしのむしまろ歌集」藤原ふじわらの清きよ正ただ(平安)「穏削
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81 :底名無し沼さん (ワッチョイ 5e0c-bFqk [175.177.5.59])[sage]:2018/05/16(水) 00:11:59.70 ID:/40lUafa0 - よ正ただ集」在原業平ありわらのなりひら(平エムゾネ安)「業平集」
藤原ふじわらの公きん任とう(平安)「公きん任とう集」藤原ふじ わらの定家さだいえ(平安−鎌倉)「内裏名所百首」「名号みょう ごう七字十題和歌」飛鳥あすか井い雅まさ経つね(平安−鎌倉)「 明日香あすか井い和歌集」藤原ふじわエムゾネらの俊とし成なり(平安 −鎌倉)「(藤原兼ふじわらのかね実ざね)右う大臣家だいじんけ 百首ひゃくしゅ」「五社百首」「丹後守為忠朝臣家百首」慈じ霜尼
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82 :底名無し沼さん (ワッチョイ 5e0c-bFqk [175.177.5.59])[sage]:2018/05/16(水) 00:12:36.72 ID:/40lUafa0 - 明治−昭和)「旗」「変身」渡辺エムゾネわたなべ水すい巴は(明治−
昭和)「富士」加藤楸邨かとうしゅうそん(明治−平成)「寒雷」 「慟哭」「都塵抄」「雪後の天」293.登録の価値証明a)評価 基準への適合性証明1)条約上の遺産種別「富士山」は、世界遺産 条約第1条及び『世界遺エムゾネ産条約履行のための作業指針』(以下 、『作業指針』という。)第45項に規定にする「記念工作物」、 「建造物群」及び「遺跡」に該当する。2)評価基準への適合性証 明以下に示す理由に基づき、「富士山」には、世界遺産一覧表への 記載のための評エムゾネ価基準のうち(B)、(C)、(E)が適用で きる。評価基準(B)現存するか消滅しているかにかかわらず、あ る文化的伝統又は文明の存在を伝承する物証として無二の存在(少 なくとも希有な存在)である。評価基準(B)の適用富士山では神 聖なるエムゾネ気持ちを喚起する自然環境を背景とし、山頂への参詣な どの特徴を持った山に対する宗教的な儀礼・活動が成立し、18〜 19世紀にかけて大規模な大衆による宗教的登山の代表的存在とな った。山体とその周辺の地域には、体系化された儀礼・活動の場エムソ ゙ネとなった神社、登山道、及びその沿道に分布する関連遺跡群、霊 地・巡礼地となった風穴・湧水地・湖沼などが残されている。そこ での儀礼や活動を通じて、人々の生活の中に富士山に対する信仰の 核心が継承されている。また、今日でも富士山は日本をエムゾネ代表し 象徴する最高峰として老若男女を問わず憧れ親しむ「名山」である 。したがって、富士山は山頂への参詣という形態を中心とし、時代 を超えて今日まで継承された山に対する固有の文化的伝統を顕著に 表わす物証として稀有な存在である。・日本にエムゾネおける山に対す る固有の文化的伝統を顕著に表わす物証富士山の山頂部一帯は、山 に対する日本の宗教観とその秀麗な姿、及び10世紀頃まで盛んで あった火山活動などに基づき神仏の世界、あるいは他界(死後世界 )とされてきた。このため富士山ではエムゾネ富士山の神(※1)疑打
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83 :底名無し沼さん (ワッチョイ 5e0c-bFqk [175.177.5.59])[sage]:2018/05/16(水) 00:12:55.98 ID:/40lUafa0 - った山麓の浅間神社における遥拝活動とともに、以下の絵図(類似
の登山案内図が数多く作成された)に示されたように、雲上の神仏 の世界へ一定の儀礼に従って参詣する「登拝」を中心に、富士山体 ・周辺にある富士山の火山活エムゾネ動によって生成され神聖な意味を 持つとされた風穴・溶岩樹型・湖沼・滝・湧水地などを巡礼し、修 行することで治病・除災などの超自然的力を獲得し、罪や穢れを消 して生まれ変わる(擬死再生)と考える「富士山禅定」(※2)と 呼ばれる行為(儀礼エムゾネ・活動)が成立し、18〜19世紀にかけ て富士山は体系化された登拝のための宗教施設も含め、大規模な大 衆による宗教的登山を代表する存在となっていた。このような自然 への畏敬という日本の宗教観の根本を基盤とし、神仙思想(道教) や仏教(特エムゾネに密教)なとど融合した日本独特の山岳信仰を代表 する遥拝及び登拝・登山の様式は今日でも命脈を保ち、特に夏季を 中心に訪れる外国人を含む多くの登山客とともに富士登山の特徴を 成している。また、信仰の核心部分は各地の浅間神社に対する信仰 やエムゾネ今日も続く宗教的な儀礼・活動によって受け継がれ、富士山 は日本を代表する神聖な山として知られている。(※1)この神は 、1868年の神仏分離令まで神仏習合の影響を受け仏の化身と考 えられていた。また、この神は一つの神に限定されず、信仰エムゾネの 種類や時代ごとに異なる性格と名称を持ついくつかの神または仏が 信仰されていた。(※2)「禅定」とは本来は心を静めて一つの対 象に集中する宗教的瞑想・状態、あるいはその結果仏と一体化する ことを示す言葉であり、その後、主に修験道においエムゾネて富士山な どの霊山に登って修行することも意味するようになった。写真「絹 本著色冨士曼荼羅図」(部分:16世紀ごろ)30「絹本著色冨士 曼荼羅図」(16世紀ごろ)評価基準(C)歴史上の重要な段階を 物語る建築物、その集合体、科学技術の集エムゾネ合体、あるいは景観 を代表する顕著な見本である。評価基準(C)の適用富士山で刻錬
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84 :底名無し沼さん (ワッチョイ 5e0c-bFqk [175.177.5.59])[sage]:2018/05/16(水) 00:13:14.70 ID:/40lUafa0 - 富士山信仰の形成の中で神社等の建築群・登山道・宗教施設を経て
山頂に参詣する体系化された宗教的儀礼・活動が15〜16世紀に かけて発達し、18〜19世紀にエムゾネかけて完成された。この過程 において、日本における山に対する固有の文化的伝統や富士山によ り生み出された芸術活動を背景として、富士山の宗教施設、そこで の儀礼・活動は富士山の自然環境と一体となって宗教的な意味を持 つ景観として認知され、エムゾネこれが宗教的絵画等で表現される特概
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85 :底名無し沼さん (ワッチョイ 5e0c-bFqk [175.177.5.59])[sage]:2018/05/16(水) 00:13:35.37 ID:/40lUafa0 - により、多くの人々に富士山が神聖な山であるとの認識がより強固
に定着し、日本写真上図拡大部分宗教施設水垢離場における山と人 間の良好な関係の形成に影響を与えた。したがって、富士山への信 仰の形成過程をエムゾネ通じて定着した富士山の景観認識は近代工業社 会以前の段階における山と人間との精神的関係を表す景観の顕著な 見本である。・山と人間との精神的な関係を表す景観の顕著な見本 富士山では噴火が沈静化した12世紀ごろから山頂への宗教的登山 が開始エムゾネされ、15〜16世紀には「富士山禅定」と呼ばれた登 拝様式が整い、大衆にも拡大した。この過程で富士山は、矮小な存 在である人間が山麓の草原地帯(「草山」、「カヤ原」などと呼ば れた)にある神社・水垢離場で身を清め、森林地帯(「木山」、エムソ ゙ネ「深山」などと呼ばれた)の山中の宗教施設等を順に経ながら、 砂礫地帯(「焼山」、「ハゲ山」などと呼ばれた)の神仏の世界あ るいは他界に至るイメージで認知されるようになり、同時期に絵画 や文学作品において典型的な富士山像が成立したことをエムゾネ背景に 、「絹本著色冨士曼荼羅図」を代表例とする信仰上の景観認識が成 立した。17世紀以降はこれらの典型的な認識を基に、さらに多様 な信仰上の認識(※3)が模索され、「富士講」と呼ばれる富士山 信仰集団の隆盛や交流人口の拡大などにより、エムゾネ18世紀後半か ら19世紀にかけてほとんどの日本人に富士山の神聖な山としての 景観認識が定着した(※4)。この認識は近代工業社会の自然に対 する考え方が一般化する以前の山と人間との良好な精神的関係を示 すものであった。、31(※3)富士エムゾネ山は神仙思想における不 老不死の象徴である「蓬莱山」や仏教における世界の中心である「 須弥山」に見立てられた。また、主に18世紀後半より富士山の信 仰上の景観認識を立体化した「富士塚」が東京を中心に建設され、 女性を含め山頂への登拝がでエムゾネきない人にとっての代参施設とな った。(※4)登拝者には登山口の浅間神社や御師の発行する軸肝
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86 :底名無し沼さん (ワッチョイ 5e0c-bFqk [175.177.5.59])[sage]:2018/05/16(水) 00:13:54.97 ID:/40lUafa0 - 山の信仰上の景観認識を描いた宗教画が配布されるとともに、縁起
の良いものとして富士山やその図像を拝したり、眺めることが行わ れた。右「富士山のエムゾネゾーニング」左「三尊九尊図」評価基準( E)顕著な普遍的意義を有する出来事(行事)、生きた伝統、思想 、信仰、芸術的作品、あるいは文学的作品と直接または実質的関連 がある(この基準は他の基準とあわせて用いられることが望ましい )。評価基エムゾネ準(E)の適用富士山と周辺の特徴的な自然が醸成 する優秀な景観美や火山としての活動は、日本人の山に対する信仰 の形成の一翼を担い、今日まで継承されている山頂への遥拝と参詣 を中心とした文化的伝統は、アジア地域に顕著である山を神聖視す るエムゾネ文化と深い関りを有している。写真写真焼山(ハゲ山)木山 (深山)草山(カヤ原)32また、これらの富士山の特色は古くか ら様々な芸術活動の母胎ともなり、「万葉集」や「竹取物語」をは じめとする日本固有の和歌、俳句、物語文学やこれらを主題エムゾネと する絵画などの対象として日本人に良く知られていた。特に富士山 を題材にした「浮世絵」などは海外にも広く知られ、近現代の西洋 芸術に様々な影響を与えてきた。したがって、富士山は、顕著な普 遍的意義を持つ生きた伝統、芸術的作品・文学的作エムゾネ品と直接的 ・実質的に関連がある景観である。・顕著な普遍的意義を持つ生き た伝統との直接的・実質的関連アジア地域、特に東アジア地域では 特異な形態を持った山岳の空間を神聖視し、仏教(特に密教)や道 教(神仙思想)、儒教と結びついて修行のエムゾネ場や宗教施設を設置 する場とした。これらの伝統は6世紀〜8世紀を中心に日本に伝え られ、日本固有の山岳信仰や神道と結びつき修験道などの信仰を生 んだ。現在の富士山においてはこれらの信仰の核心部分が登拝など の形態や儀式に伝えられている。エムゾネまた、富士山のみならず日本 各地の山岳やアジア地域の山岳においても形態は異なるとはいえ山 を神聖視することをその根本に据えた文化的伝統が数多く行わ塑依
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87 :底名無し沼さん (ワッチョイ 5e0c-bFqk [175.177.5.59])[sage]:2018/05/16(水) 00:14:13.56 ID:/40lUafa0 - いる。したがって、富士山は顕著な普遍的価値を持つ生きた伝統と
直接的・実質的に関連がエムゾネある景観である。・顕著な普遍的意義 を持つ芸術作品との直接的・実質的関連独立峰である富士山の周囲 には湖や海と組み合わされた富士山の優れた景観を望む展望地があ り、今日に至るまで多くの芸術作品を創造する場となった。これら の富士山を題材エムゾネにした芸術作品のうち、最も海外に影響を与え た作品は葛飾北斎の浮世絵「冨嶽三十六景」である。19世紀前半 に作成されたこの一連の作品は、日本の開国に伴い西洋に輸出され 、他の浮世絵とともにその構図や表現方法がジャポニスムと呼ばれ た西洋エムゾネにおける日本芸術の流行を生み、モネ、ゴッホといった 印象派の画家に大きな影響を与え、アールヌーボーが発生する一因 となった。そのほか、富士山と三保松原を舞台に富士山に関わる伝 説をモチーフとした能(謡曲)「羽衣」は文学におけるモダニズエムソ ゙ネムに影響を与えた作品である。また、19世紀後半から20世紀 初頭にかけて、日本が万国博覧会などで意図的に出品した富士山を 題材にした絵画・工芸作品や、富士山を意匠に用いた日本の輸出品 は、富士山を描いた浮世絵や日本を訪れた外国人が富士エムゾネ山から インスピレーションを得て記述した紀行文の文学的表現などととも に多くの世界の人々に他の世界の著名な山と明確に区別される富士 山の景観イメージを広めることに貢献した。文学では海外に良く知 られた「万葉集」以来、数多くの和歌や俳句なエムゾネどによってその 崇高さや美しさが称えられ、近代以降も海外にも知られた文学者( ※夏目漱石「三四郎」・太宰治「富岳百景」など)によるものをは じめ富士山を舞台とした作品が生み出された。写真写真左「神奈川 沖浪裏」右「凱風快晴」葛飾北斎「冨エムゾネ嶽三十六景」より(18 31〜36年)33写真ゴッホ「タンギー爺さん」b)顕著な普遍 的価値の証明a)において証明した評価基準への適合性の証明の結 果として、「富士山」は以下に記す観点から顕著な普遍的価値酸致
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88 :底名無し沼さん (ワッチョイ 5e0c-bFqk [175.177.5.59])[sage]:2018/05/16(水) 00:14:32.96 ID:/40lUafa0 - つ。顕著な普遍的価値の言明エムゾネ富士山は、日本を代表し象徴する
日本最高峰(標高3776m)の秀麗な独立した火山として世界的 に著名であり、その自然的美しさと崇高さを基盤として日本人の自 然に対する信仰の在り方や、海外に影響を与えた葛飾北斎や歌川広 重などによる顕著なエムゾネ普遍的価値を持つ「浮世絵」などの日本独 特の芸術文化を育んだ「名山」である。富士山は、山岳に対する信 仰の在り方や芸術活動などを通じ、時代を超えて一国の文化の邦酔
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89 :底名無し沼さん (ワッチョイ 5e0c-bFqk [175.177.5.59])[sage]:2018/05/16(水) 00:14:52.51 ID:/40lUafa0 - と極めて深い関連性を示し、生きた文化的伝統の物証であるのみな
らず、人間エムゾネと自然との良好で継続的な関係を示す景観の傑出し た類型として、世界的にも類例を見ない顕著な普遍的価値を持つ山 である。富士山の山体とその周辺の地域には、宗教的な儀礼・活動 の場となった神社、登山道と関連遺跡群、霊地・巡礼地となった風 穴エムゾネ・湧水地・湖沼などが残され、そこでの儀礼や活動を通じて 、人々の生活の中に富士山に対する信仰の核心が継承されている。 また、富士山信仰の中で山体・樹叢・湖沼などの自然環境を基盤と し、体系化された神社等の建築群・登山道・宗教施設を経てエムゾネ山 頂に参詣する宗教的な儀礼・活動が成立した。これが発展し、18 〜19世紀にかけて富士山は大規模な大衆による宗教的登山及びそ の体系の典型的存在となり、この体系の核心は現代の登山に継承さ れている。現在でも、富士山は日本を代表し象徴すエムゾネる最高峰と して老若男女を問わず憧れ親しむ「名山」である。加えて、富士山 と周辺の特徴的な自然が醸成する美しさと崇高さは、信仰上の景観 として捉えられただけでなく、古くから様々な芸術活動の母胎とな り、「万葉集」をはじめとする日本固有のエムゾネ和歌や俳句、絵画な どの対象として日本人に良く知られていた。特に富士山を題材にし た「浮世絵」などは海外にも広く知られ、近現代の西洋芸術に様々 な影響を与えてきたものである。さらに、これらの芸術と富士山や その景観美を紹介した外国人の著エムゾネ作を通じて、富士山が一つの 国の文化を代表する「名山」であることは国際的に認知されるに至 っている。34写真写真本栖湖からの富士山三保松原からの富士山 c)比較検討による証明1)比較軸の特定富士山の顕著な普遍的価 値を表す要素を特定し、エムゾネ他の同種の遺産がそれらの要素に該当 するか否かを検討することによって比較を行う。富士山の顕著な普 遍的価値は、以下の3つの要素に整理できる。(1)山に対する固 有の文化的伝統を顕著に表わす物証として稀有な存在:富士山準拐
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90 :底名無し沼さん (ワッチョイ 5e0c-bFqk [175.177.5.59])[sage]:2018/05/16(水) 00:15:12.87 ID:/40lUafa0 - 山頂への参詣なエムゾネどの特徴を持った山に対する宗教的な儀礼・活
動が成立し、山体とその周辺の地域には、神社、登山道、霊地・巡 礼地となった風穴・湧水地・湖沼などが残されている。そこでの儀 礼や活動を通じて、人々の生活の中に富士山に対する信仰の核心が 継承さエムゾネれている。(2)景観の顕著な見本:富士山体とその周 辺の景観は、類いまれな美しさ、神聖な空間として認知され、日本 における自然美の典型として、多くの人々に世界の山の中でも最も 著目なアイコンとして共有されている。(3)顕著な普遍的意義エムソ ゙ネを持つ芸術的作品との関連性:富士山の優れた景観美は、近現代 の西洋美術に影響を与えた芸術的作品などに「関連する景観」であ る。信仰の山については、2001年9月に和歌山県で開催された 国際会議「アジア・太平洋地域における信仰の山の文化エムゾネ的景観 に関する専門家会議」(以下、「信仰の山会議」という)において 、信仰の山の認定及び保護に関する様々なテーマと問題が討議され た。ここで、信仰の山の遺産としての価値は、有形的価値、無形的 価値の形態をとって現れるとされた。また、信エムゾネ仰の山の自然的 特性についても評価が可能とされた。信仰の山会議で示された指標 を参考に、富士山の顕著な普遍的価値を表す要素を勘案して、自然 的要素としては、「形状・標高」(独立峰かどうか、富士山と同程 度の標高か)、「岩盤や岩(洞窟を含エムゾネむ)・水域」「火山」( 火山であることに由来する特徴的な風穴・湧水地・湖沼などがある か)、有形的価値としては、「洞窟」「歴史的な巡礼路又は参詣道 」「神社」「寺院」「眺望・展望地」がそれぞれ存在するかどうか 、無形的価値としては、「継エムゾネ続性」(崇拝儀礼などが今も行わ れているか)、「存在」(山自体が信仰の対象か)、「慣習」(登 拝、遙拝を行っているか)、「アイデンティティ」(山自体が国、 民族の象徴となっているか)、「知名度」(富士山と同程度(山頂 までの登山者が30エムゾネ万人、山麓が4,000万人)の訪問弧誤
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91 :底名無し沼さん (ワッチョイ 5e0c-bFqk [175.177.5.59])[sage]:2018/05/16(水) 00:15:33.60 ID:/40lUafa0 - あるか)、といった観点から、評価することとする。同様に、顕著
な普遍的意義を持つ芸術的作品との関連性については、山の景観美 が芸術作品を産み出す母胎となったかどうか、またそれらの作品群 が海外にもエムゾネ広く知られ、世界史に大きな影響を35与えたかど うか、といった観点から、評価することとする。2)海外同種資産 の特定同種資産の特定にあたっては、評価基準に関するものとして は、@「信仰の山会議」で信仰の山と紹介されている山岳、評価基 準エムゾネに関するものとしては、A世界遺産リストの概要で芸術への 明確な関連性が示されている山岳、B海外の専門家による研究書等 で芸術の山として紹介されている山岳等を抽出した。また、両方の 基準に関するものとしては、Cイコモスによる研究書「Fiエムゾネl lingtheGaps」の類型別分析・テーマ別分析、D文化的 景観に関する研究書の分析を行った。具体的には、Bでは、の三つ の文献を対象として資産を抽出した。Cでは、「文学・芸術への関 連性、演劇」、「聖なる山」、「アジア・太平洋地エムゾネ域の土着信 仰」に関する山岳等を抽出した。Dでは、ユネスコ世界遺産センタ ーから刊行されたPeterJ.Fowler氏による研究書の中 で、山が特徴として挙げられている資産のうち、「美的資質」、「 集団のアイデンティティ」、「信仰、聖地エムゾネ、神聖性」の特徴を 持つ資産を抽出した。以上より、富士山の比較対象とする海外の同 種資産は表1の34件となる。その中では富士山との共通性のある ものに、共通性の大きいものにがしてある。信仰面では、上記の無 形的側面での共通性があるもの、エムゾネ芸術面では山自体が絵画の題 材とされ、画派等を生むなど、美術史への影響力があるものを共通 性が大きいとしている。が付された比較対象について、1)で示し た比較軸である信仰の物証(自然的特性、有形的側面、無形的側面 )、芸術作品との関連性エムゾネにより、同種資産を整理すると表2、 表3のとおりになる。36表1:比較対象とした海外の山岳等扇孝
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92 :底名無し沼さん (ワッチョイ 5e0c-bFqk [175.177.5.59])[sage]:2018/05/16(水) 00:15:53.98 ID:/40lUafa0 - 4件)番号山名資産名評価基準国名信仰芸術1ウルル、カタ・ジュ
タウルル−カタ・ジュタ国立公園オーストラリア2サバラン山サバ ラン−イラン3エムゾネスライマン−トースライマン−トー聖山キルギ ス4プーカオ山チャンパサック県の文化的景観にあるワット・プー と関連古代遺産群ラオス5ボグドハン山、ブルカン・カルドゥン山 、オトゴン・テンゲル山モンゴルの聖なる山:ボグドハン山、ブル カン・エムゾネカルドゥン山、オトゴン・テンゲル山−モンゴル6杯埋
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93 :底名無し沼さん (ワッチョイ 5e0c-bFqk [175.177.5.59])[sage]:2018/05/16(水) 00:16:13.19 ID:/40lUafa0 - ラヤ山脈サガルマータ国立公園(F)ネパール7ルアペフ山、ナウ
ルホエ山、トンガリロ山トンガリロ国立公園ニュージーランド8泰 山泰山中国9黄山黄山中国10武当山武当山の古代建築物群中国エムソ ゙ネ11廬山廬山国立公園中国12峨眉山峨眉山と楽山大仏中国13 武夷山武夷山中国14青城山青城山と都江堰水利(灌漑)施設中国 15三清山三清山国立公園中国16五台山五台山中国17華山、衡 山、恒山、崇山泰山の登録拡大として四つの聖山−中国エムゾネ18雁 蕩山雁蕩山−中国19南山慶州歴史地区韓国20漢拏山済州火山島 と溶岩洞窟群韓国アジア・太平洋地域21アダムスピークピーク野 生保護区、ホートンプレインズ国立公園、ナックレス山脈−スリラ ンカ22アパラチア山脈グレート・スモーキーエムゾネ山脈国立公園ア メリカ23キラウェア山ハワイ火山国立公園アメリカ24ロッキー 山脈カナディアン・ロッキー山脈自然公園群、恐竜州立自然公園、 ウォータートン・グレーシャー国際平和自然公園、イエローストー ン国立公園カナダ・アメリカ25シナエムゾネイ山聖カトリーナ修道院 エジプト26サント・ヴィクトワール山サント・ヴィクトワール山 とセザンヌに関連する土地−フランス27ペルデュ山ピレネー山脈 −ペルデュ山スペイン及びフランス28アトス山アトスギリシャ2 9オリンポス山オリンポス山エムゾネ周辺−ギリシャ30ドロミテ山塊 ドロミテイタリア31ケニア山ケニア山国立公園/自然林ケニア3 2ワスカラン山ワスカラン国立公園ペルー33スイス・アルプス( ユングフラウ−アレッチュ峰、ビチホルン峰ほか)スイス・アルプ スユングフラウ−アエムゾネレッチュスイスアジア・太平洋地域以外3 4キリマンジャロ山キリマンジャロ国立公園タンザニア37表2: 信仰関連の山岳等番信仰の物証号山名自然的要素、有形的側面無形 的側面1ウルルカタ・ジュタ・ウルルは単一の岩石・アボリジニに とって、ウエムゾネルル−カタ・ジュタの岩は伝統的な信仰の中で不可 欠なものである。・山自体が信仰の対象であり、遙拝といった扶応
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