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312 :底名無し沼さん (ワッチョイ bf0c-wbgk)[sage]:2018/02/01(木) 01:44:06.81 ID:HYIp01210 - 流鏑馬を奉納したことに始まると言われ、室町エムゾネ時代の初期には
すでに神事が行われていたとの記録が残っている。馬場に沿って両 側に御神木の桜が植えられている。・禊所湧玉池の上池と下池の境 部分が禊所とされ、池に下りるための石段が組まれている。・神幸 橋(湧玉橋)湧玉池南側の神田川へのエムゾネ流出口に石造りの橋が架 けられている。春秋の大祭にはこの橋を通って山宮御神幸が出発し たとされる。寛文10年(1671)の絵図では橋に屋根が葺
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222 :底名無し沼さん (ワッチョイ bf0c-cpcm)[sage]:2018/02/01(木) 01:48:54.36 ID:HYIp01210 - み上げた石組みがある。・吉田須走拝所跡須走口登山道を登り
きったところにあったとされる。拝所は初穂打場とも呼ばれ、 登山者たちが賽銭を噴火口の大内院に投げ入れる、そこに鎮座 する浅間大菩薩を拝むエムゾネ場所であった。また、御来光を拝む 場所でもあった。現在は、付近に鳥居がなく痕跡も残っていな いため、場所を特定することはできない。写真吉田須走拝所跡 の写真・須山拝所跡銀明水の裏手の火口を臨む位置にあったと される。大正2年(1913)エムゾネの登山スタンプが押された 写真では、銀明水裏手の火口の縁に立っている鳥居が確認でき る。現在その地点には、2つの目印の石が存在している。写真 須山拝所跡の写真・村山大宮拝所跡『隔掻録』は、大日堂の裏 手に建つ鳥居を「大宮拝所」としているエムゾネ。『富士山明細図 』は、このしろが池の裏手の鳥居を影拝所としている。このし ろが池から剣ヶ峰の登山道に沿って3体の大日如来があり、そ れぞれ延徳2年(1490)、天文12年(1543)、寛永 元年(1624)の銘があったとされる。昭和初エムゾネ期の絵葉 書にも、剣ヶ峰の手前の火口を臨む位置に鳥居が建っている。 写真村山・大宮拝所跡の写真・三島ヶ岳経塚昭和4年(192 9)、頂上の神官が銅仏の破片と一石経を採集して下山、それ を受けて昭和5年に三島岳のふもとを調査したところ、経エムゾネ 巻が詰まった経筒や木槨、土器片などの遺物が出土した。富士 山本宮浅間大社には、現在10巻分の経巻が残っており、うち 5巻は開かれていて内容を確認できる。経巻のスタイルや計測 値から平安時代後期までさかのぼる可能性が考えられる。写真 出土エムゾネ遺物の写真・外浜道・内浜道山頂を周回し八葉を巡る 「お鉢巡り」を行う道である。剣ヶ峰を下り西安河原の北側で 道が二手に分かれるが、峰の外を回り雷岩、割石を経て白山岳 に至る道が外浜道で、峰の内側を大内院に沿って回り金明
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305 :底名無し沼さん (ワッチョイ bf0c-YTXr)[sage]:2018/02/01(木) 01:49:26.28 ID:HYIp01210 - いる。・標柱鳥居脇に、「旧須山口登山道一合目(須山御胎内)
」と記された標柱が、富士山須山口登山道保存会によって設置さ れている。・祠須山御胎内から南東に続くU字状の溶岩地形脇に 、石造りの祠が設置さエムゾネれている。写真祠の写真A4須走口 登山道図登山道に要素が点在している平面図・古御岳神社冨士浅 間神社の境外末社で、5合目の登山道登り口にある。現在の社殿 は、昭和54年(1979)に建立され、間口九尺、奥行九尺の 規模である。その際、御エムゾネ室浅間神社を合祀した。神社の前 には鳥居がある。かつては3000坪の境内地を持ち、本殿、拝 殿、庁舎を備えていたという。写真古御岳神社の写真・迎久須志 之神社冨士浅間神社の境外末社で、9合目(3,570m付近) に建てられている。かつてエムゾネは向薬師、向ヒ薬師、手引薬師 と呼ばれ、石室の中に薬師如来が祀られ冨士浅間神社の神主が管 理していた。元禄16年(1703)−47−の文書「大宮司富 士信安等返答下書」に「前薬師之小屋」の記述があることから、 江戸時代初期以降にはすでにエムゾネ祀られていたものと考えられ る。道者はここで薬師に線香を手向けたという。廃仏毀釈によっ て仏像は山を降ろされ迎久須志神社と改められた。祭神は大己貴 命と少彦名命である。以前は登山道が建物の西側を通るルートで あったが、現在は建物の東側をエムゾネ通るようになっている。迎 久須志神社の直下には、「日ノ見御前」「日ノ御子」と呼ばれる 日の出を遥拝する場所があり、江戸時代には「日ノ御子石」とい う富士山型の石が置かれていた。富士講の講中が大きな平石の上 で朝日を拝したという。現在「日エムゾネノ御子石」はないが、祠 と鳥居が建てられている。写真迎久須志之神社の写真・鳥居登山 道の浅間大社東北奥宮(久須志神社)前(登山道終点)、9合目 、本8合目、本7合目、7合目、本5合目、古御嶽神社前に自然 木などにより構築された鳥居が設置エムゾネされている。・狛
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313 :底名無し沼さん (ワッチョイ bf0c-wbgk)[sage]:2018/02/01(木) 01:50:06.76 ID:HYIp01210 - ている。・輪橋(太鼓橋)本殿へと向かう参道に、鏡池を渡る輪橋
が架けられている。寛文10エムゾネ年の絵図には既に描かれているが 、大正4年(1915)に石造りに改められた。写真輪橋の写真図 輪橋の平面図絵図寛文10年の絵図・護摩堂跡(推定)平成20年 の発掘調査により、護摩堂跡と考えられる溶岩礫で構成された石垣 と建物跡が検出されエムゾネた。石垣は樵石積みで組まれ、平面形は正 方形となっている。また、石垣で正方形に囲繞された敷地内で建物 跡の礎石が確認された。桁行3間・梁間4間で、南側に入口を有し ていたと考えられる。発掘調査後に、江戸時代終わり頃の地誌でこ の建物跡をエムゾネ「本地堂」とする記載が確認されており、最終的に 護摩堂から本地堂へ造作し直された可能性がある。写真護摩堂の発 掘調査時の完掘写真(平面写真)図平面図・随身像慶長19年(1 614)2月に建立された。背銘には、左側の像は「甲州河内下山 住エムゾネ番匠石川清助作」、右−52−側の像は「大工山城國上原住 櫻井三蔵作」と記され、市指定有形文化財として保護されている。 写真随身像全体の写真・狛犬参道の石鳥居両側に、狛犬が建てられ ている。大正7年5月に奉献されたものである。・御神幸道エムゾネ首 標の碑明治以前に行われていた「山宮御神幸」における、御神幸道 の首標が、池畔に立てられている。造立年は元禄年(1691)未 年十一月とされ、「自当社山宮御神幸道五十丁証碑首也」と刻まれ ている。昭和59年(1984)に浅間大社境内のエムゾネ土中から発 見され、現在地に再建された。・三之宮本殿横西側に、淺間第三御 子神を祀る境内社「三之宮浅間神社」が建てられている。・七之宮 本殿横東側に、淺間第七御子神を祀る境内社「七之宮浅間神社」が 建てられている。・鉾立石楼門前の石段にエムゾネは、鉾立石が置かれ ている。明治の初めまで行われていた山宮御神幸の際、神の宿った 鉾を立てて休めた自然石である。・欄干橋(神路橋、神路枚橋)池 畔と川中島を結ぶ橋が2本架けられている。島の西側が神路橋
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223 :底名無し沼さん (ワッチョイ bf0c-cpcm)[sage]:2018/02/01(木) 01:55:35.03 ID:HYIp01210 - 至る道が内浜エムゾネ道である。沿道には信仰に関わる工作物や自
然物が数多く存在する。外浜道は近年崩落が著しく、現在は立 入禁止となっている。A2大宮・村山口登山道図登山道に要素 が点在している平面図・札打場村山浅間神社の北東約3.5q 、天照教社の西南西約エムゾネ1qの地点(標高約830m)に、 東西約7m、南北約10mの平場がある。南側に1本の大きな ケヤキの巨木があり、ここが札打場であった。札打とは、
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306 :底名無し沼さん (ワッチョイ bf0c-YTXr)[sage]:2018/02/01(木) 01:56:08.01 ID:HYIp01210 - 山道終点の鳥居前に狛犬2体が設置されている。この場所は「鳥
居御橋」(とりいおはし)と呼ばれていた。・石碑7合目付近の 登山道脇に富士講関連の石碑がある。以前はもっと標高の高い場 所にあったが、雪崩によって流されてエムゾネ別の場所に転がって いたものを山小屋関係者で運び、現在の場所に設置したという。 日付は「七月吉日」とあるのみで、上部が欠損している。A5吉 田口登山道図登山道に要素が点在している平面図・登山道吉田口 登山道は、北口本宮冨士浅間神社を起点エムゾネとし、富士山頂を 目指す道である。18世紀後半以降は、最も多くの道者が吉田口 登山道を目指している。しかも、古道としては唯一徒歩で麓から 頂上まで登れる重要な道である。顕著な普遍的価値を構成する要 素として、現存する吉田口登山道や沿道のエムゾネ宗教施設や山小 屋等信仰の拠点などがある。・旧登山道・馬返ここから急坂とな り馬が使えなくなることからこの名がついた。この一体は草山か ら木山への境でもあり、ここからが御山の聖地ということにもな る。富士山有料道路が開通する以前の馬返のエムゾネ周辺は、本格 的な登り勾配の坂道が始まる直前の平地であり、登拝者たちがい ったん休憩を取る場所として賑わった。登山期間には4軒の茶屋 が営業され、登拝者の便に供された。写真馬返周辺の写真・五合 目ここは木山と焼山の境界でもあるこの地は天エムゾネ地境(てん ちのさかい)とも言われる場所である。役場、中宮の社、小屋等 がおかれていた。ここの役場は、古くは中宮三社の神供料として 役銭を納めた場所である。後年は登山切手改め所となった。小屋 については、江戸後期には4軒があったが、すでエムゾネに武田信 玄の1566年の文書に「中宮之室」という名称があり、戦国時 代からこの地に小屋が設けられ−48−ていたことがわかる。最 盛期には18軒が所在したと伝えられている。写真五合目周辺の 写真・烏帽子岩七合五勺に烏帽子の形をした岩があエムゾネり
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314 :底名無し沼さん (ワッチョイ bf0c-wbgk)[sage]:2018/02/01(木) 01:56:49.74 ID:HYIp01210 - 側が神路枚橋であるが、寛文10エムゾネ年(1670)の絵図では西
側にのみ架けられている。写真橋全体の写真絵図寛文10年の絵図 B2山宮浅間神社図以下に示す要素が点在している平面図・溶岩流 地形山宮浅間神社の石鳥居から参道を経て参籠所に至るまでの区域 は北山溶岩流上に展開しエムゾネている。また、遥拝所が位置する小高 い丘陵は青沢溶岩流の先端部である。さらに、涸れ沢の西岸には、 天母山(二子山)溶岩流、万野風穴溶岩流で構成される丘陵地が展 開する。よって、山宮浅間神社周辺には、籠屋付近の北山溶岩流を 含め、4つの異エムゾネなる溶岩流地形が広がっていることになる。遥 拝所の基盤となっている青沢溶岩流は、約2,000年前の噴火に よって流出した比較的新しい溶岩流であるため、この部分は他の区 域と比べて植生の回復は遅れていたと考えられる。そのために、樹 木等にエムゾネ遮られることなく富士山の山頂まで見渡せていたため、 この場所で山を遥拝する行為が行われたと考えられる。写真溶岩流 地形の写真図溶岩流の拡散している模式図・社叢目通りの幹周が3 mを超える巨木4本を含むスギ林が、約9,780uの社叢を形エムソ ゙ネ成しており、富士宮市の保存樹林に指定されている。・籠屋(参 籠所)遥拝所へ登る手前の平坦な土地に籠屋が建てられている。籠 屋は、神の宿った御鉾が浅間大社と山宮浅間神社を往復する祭儀「 山宮御神幸」において、これに同行した大宮司以下の諸エムゾネ職が一 夜参籠した場所である。−53−・鉾立石籠屋をくぐり遥拝所へ続 く参道に、「山宮御神幸」で神の宿った鉾を休めるための「鉾立石 」が置かれている。石は火山弾であり、籠屋をくぐってすぐの位置 に1つ、石段の手前に1つの計2つが置かれてエムゾネいる。・石段( 参道)遥拝所が位置する丘陵へ登るための石段が組まれている。現 在あるものは戦中もしくは戦後に改築されたものと考えられる。・ 石塁遥拝所の周辺約45m四方が石塁により方形に区切られている 。青沢溶岩流の溶岩塊上に溶岩礫を積エムゾネみ上げて構築され、
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224 :底名無し沼さん (ワッチョイ bf0c-cpcm)[sage]:2018/02/01(木) 02:01:19.20 ID:HYIp01210 - の院号を記した札を打ちつけることである。村山で修験道が盛
んであった頃、山伏が峰入修行エムゾネに先立ち札打を行った。昭 和30年(1955)頃までは、木に打ちつけた札が見られた という写真札打場の写真・中宮八幡堂跡(1号建物跡)村山口 登山道跡と富士山スカイラインが交差する地点から南西方向に 約500mの地点に位置する。標高は約エムゾネ1,280mであ る。東側を走る沢から一段上がった平坦面に所在している。平 坦面は2段あり、上−45−段には小さな祠が建てられている 。また下段には、南東から北西方向に石列が伸びている。江戸 時代には馬返しと呼ばれ、駒立小屋があったとさエムゾネれる。ま た、ここからは女人は登山道を登ることを許されず、駒立小屋 は女人堂として使われた時期もあったと考えられる。下段平坦 面の南側には溝が東西方向に延び、西側の森林に突き当たって 痕跡をたどれなくなる。木馬道である可能性が指摘されるエムゾネ 。写真中宮八幡堂の写真・八大龍王中宮八幡堂跡より北東に約 100mの地点に「八大龍王」と刻まれた石碑と水神の祠が並 んで建てられている。水神祠には「文化十三年寅年六月日」、 八大龍王には「文化七年七月十七日」との銘が刻まれている。 駿河エムゾネ国大宮町神田の横関家の主人が、天保14年(184 3)から文久3年(1863)にかけて記録した『袖日記』に は、安政7年(1860)5月11日の条に「中宮八幡堂の井 戸を掘ったので山が荒れた」との記述がある。この「中宮八幡 堂の井戸」とエムゾネは、八大龍王前にある井戸跡を指すものと考 えられている。井戸跡は幅80p、深さ50pほどである。・ 5号建物跡4号建物跡から登山道跡を登りしばらくすると一面 の倒木帯となり、その中に5号建物跡がある。標高は約1,8 65mである。平成5エムゾネ年の富士宮市による調査では、平場 の北側の斜面の縁に3体の石像が発見されていたが、平成
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307 :底名無し沼さん (ワッチョイ bf0c-YTXr)[sage]:2018/02/01(木) 02:01:51.31 ID:HYIp01210 - れを烏帽子岩という。ここにて富士講中興の祖と称される食行身
禄が、1733年に31日間の断食修行を経て入定した。「甲斐 国志」にも「享保十八六月十三日富士行者身禄ガ入定ノ地ナリ小 屋アリ身禄ノ木像ヲ安置ス流レヲ汲者年々此に登拝スエムゾネ」と あり、江戸後期にはすでに身禄の聖地として信者が登拝していた ことがわかる。現在も富士講の聖地として重要な地である。写真 烏帽子岩の写真A6北口本宮冨士浅間神社図以下に示す要素
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315 :底名無し沼さん (ワッチョイ bf0c-wbgk)[sage]:2018/02/01(木) 02:02:31.08 ID:HYIp01210 - 的に遺物を含む土層上に構築されている。石塁下から祭祀に用いら
れたと思われる土師器が出土しているため、それらが用いられた1 2世紀から15世紀、もしくは後の時代に築造されたものと推定さ れる。写真石塁の写真図石塁エムゾネの平面図・断面図・玉垣遥拝所の 周囲にはコンクリート製の玉垣が設置されている。戦中もしくは戦 後に設けられたものと考えられる。また、遥拝所入口には鉄製の門 扉が取り付けられている。・遥拝所富士山を直接拝礼し、祭儀を行 うことを目的としてエムゾネ築造されたと推定される施設である。南北 約15.2m、東西約7.6mの長方形で、30〜40p程度の溶 岩を用いて石列等によって組まれている。富士山を拝む方向に祭壇 が位置し、祭壇に向かって左側に祭儀を行う際の大宮司席、公文・ 案主席、献エムゾネ饌所が、向かって右側に別当・供僧席が設けられて いる。写真遥拝所の写真図遥拝所の平面図・石鳥居境内地の南端に 、石鳥居が建てられている。昭和6年(1931)に建立されたも のである。・参道石鳥居から籠屋まで参道が続いている。B3村山 浅エムゾネ間神社図以下に示す要素が点在している平面図・元村山溶岩 流村山浅間神社は、新富士旧期溶岩の元村山溶岩流末端部付近にあ たる。見付の間は平地で、両見付から先は急傾斜地となっている。 村山地区は標高が高く、他の集落と急傾斜地で隔絶された一エムゾネ段 高い場所に位置する。・水源地(竜頭ヶ池)社叢東側に「竜頭ヶ池 」と呼ばれる湧水池があり、水垢離や生活用水として利用されてき た。またこの湧水を水源とする村山沢は南流して渓谷を刻み神社西 側から大沢川となる。これらの水源は、村山の集落エムゾネを成立させ た要因の一つである。・御神木(イチョウ、大スギ)[イチョウ] −54−昭和43年(1968)7月2日に県天然記念物に指定さ れた。目通り8m、根回り9.15m、樹高26m、枝張り東西1 9m南北14mで、樹勢よく乳状下垂気根エムゾネの発達も著しい。気 根が数多く垂下する。気根の先端に針を刺して祈願すると妊産
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225 :底名無し沼さん (ワッチョイ bf0c-cpcm)[sage]:2018/02/01(木) 02:07:26.98 ID:HYIp01210 - 年の静岡県埋蔵文化財調査研究所による調査では石像が4体見
つかっている。木が倒れた際に地面が掘り起こされ、地中にあ った石像が地上に現われたと考エムゾネえられる。うち1体の不動 明王像には、文化7年(1810)の銘がある。背面には「瀧 本前」と刻まれており、ここが「富士山表口南面路次社堂室有 来之次第絵図」でいう「瀧本・笹垢離」跡であると推測できる 。4体の石像には破壊された痕跡が確認エムゾネできる。廃仏毀釈 によるものと考えられる。なお、明治末の登山案内では5号建 物跡に該当する施設の記載がなくなっている。・8号建物跡7 号建物跡から北西に約220m(標高約2,170m)の位置 にある。中宮八幡堂跡より標高の高い位置に所在エムゾネする建物 跡の中で最も大規模なものである。2つの平場により構成され 、南西部の平場は東西約25m、南北約10mである。入口に 石段が残存しており、石段の東西には石垣が組まれている。ま た平場中央部よりやや西に護摩壇と思われる石組も残存しエムゾネ ている。もう一つの北東部の平場は北西から南東に傾斜する斜 面上に、長軸約15m、短軸約6mの三角形で、北西側斜面の 縁と南側斜面の縁に石組が確認できる。昭和時代の地図には「 一ノ木戸」として載っており、「富士山表口南面路次社堂室有 来之エムゾネ次第絵図」に描かれた「室大日堂・木戸堂・茶屋堂」 にあたると考えられる。室大日堂は大日如来と役行者像が祀ら れていたとの記述が『駿河国新風土記』にあり、また末代上人 が建てた往生寺があったところだともいわれている。写真8号 建物跡の写真エムゾネ・12号建物跡村山口登山道跡に残る遺構の うちで、一番標高の高い位置(約2,390m)にある。11 号建物跡から北に50mの地点に所在する。東西約8m、南北 約5mの方形の区画が石組によって作られている。東側には直 径約90pの丸い穴がエムゾネ二つある。(同様の穴は他の建
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308 :底名無し沼さん (ワッチョイ bf0c-YTXr)[sage]:2018/02/01(木) 02:07:58.11 ID:HYIp01210 - 在している平面図北口本宮冨士浅間神社は、富士講とのエムゾネつ
ながりが強く1730年代に富士講の指導者である村上光清の寄 進によって境内の建造物群の修復工事が行われ、現在にみる境内 の景観の礎が形成された。社殿の背後には登山門があり、この神 社を起点として富士山頂まで吉田口登山道が延びている。エムゾネ 富士講や吉田御師と密接な関係を持ちながら発展した神社である 。顕著な普遍的価値を構成する諸要素として、富士信仰の拠点で もある本殿などの建造物群や境内地、吉田口登山道の起点などが ある。・本殿本殿は、1615年、都留郡の領主鳥居土佐守エムゾ ネ成次によって建立された。桁行一間・梁間二間の規模で、入母 屋造の建物を身舎としてその前面に唐破風造の向拝一間をつけた 形式をとり、独自な本殿形式が採用されている。各部に漆塗り、 極彩色をほどこし、彫刻・金具を配して豪華絢爛な装飾を展開エム ゾネし、桃山式建築の装飾的技法の多様性を示すとともに、すぐ れた意匠をみせる顕著な建物である。写真本殿の写真図本殿の図 ・東宮本殿東宮本殿は、1223年北条義時の創建とも伝えられ るが、現社殿は1561年武田信玄が浅間本社として造営したも エムゾネのである。本殿は身舎梁間一間、桁行一間で正面に一間の 向拝をつける一間社流造の形式である。東宮本殿は、本社本殿は もとより西宮本殿に比較してやや小規模であるが、構造形式や蟇 股に挿入した彫刻などに室町時代の手法を示しており、三殿中最 もエムゾネ古い建物である。写真東宮本殿の写真図東宮本殿の図・ 西宮本殿西宮本殿は、1594年谷村城主浅野左右衛門佐氏重に より東宮に替わる本殿として建立されたが、1615年、鳥居成 次の本殿建立により現在地に移され西宮となった。本殿の形式は 東宮エムゾネと同じ一間社流造であるが、両側面と背面は二間で一 間の向拝をつける。西宮本殿は、桃山時代の装飾的要素を多分に 取り入れていて、やがて豪華な本社本殿建築へと発展する過
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316 :底名無し沼さん (ワッチョイ bf0c-wbgk)[sage]:2018/02/01(木) 02:08:39.05 ID:HYIp01210 - 乳の出がよくなると伝えられ、女性の信仰を集めていた。また以前
はウロの中に大日如来が祀られていたといわれ、現在でも祭祀でし め縄を張る。[大スギ]昭和31エムゾネ年5月24日に県天然記念物 に指定された。村山浅間神社の御神木と称される巨木である。境内 の多くのスギの中で最大のもので目通り9.9m、枝張り東西17 .5m、南北31m、樹高47mもある。中心部には高さ8mに及 ぶ空洞がある。案内板でエムゾネは約1,000年の樹齢とされる
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226 :底名無し沼さん (ワッチョイ bf0c-cpcm)[sage]:2018/02/01(木) 02:12:36.84 ID:HYIp01210 - でも見られ、)便所跡と考えられる。−46−・鳥居登山道跡
の8合目上に、自然木により構築された鳥居が設置されている 。「昭和五十二年七月吉日」と刻まれており、個人が設置した ものである。A3須山口登山道エムゾネ図登山道に要素が点在して いる平面図・須山御胎内(溶岩洞穴)旧須山口登山道1合目( 標高1,440m付近)にある全長10m余の溶岩洞穴である 。洞穴の直径は約1mで南東側と北西側に入口があり、内部を 通り抜けることができる。登山者は、こエムゾネの洞穴を通って登 山するのがならわしであった。かつて洞穴の延長は数10mあ ったが、関東大震災により天井部分が崩落し、現在の長さにな った。崩落した部分は、長さ約30mのU字型の溝状の溶岩地 形として須山御胎内の南東側に残っている。このエムゾネ付近の溶 岩は須山胎内溶岩と呼ばれている。年代測定では1030〜1 230年という結果が出ており、永保3年(1083)の噴火 時に噴出した可能性がある。平成21年に実施した測量調査で は、須山胎内溶岩は須山口登山道脇の標高1,485m付エムゾネ 近から認められており、須山口登山道がこの溶岩流に沿って形 成されていることが判明した。写真須山御胎内の写真・石像須 山御胎内の洞穴内部に、「木花咲耶姫」の石像が安置されてい る。地元在住の彫刻家、杉山拓氏の作品。須山口登山道復興後 の平エムゾネ成12年に作られたものである。・石燈篭須山御胎内 の南東側入口の両脇に、石燈篭が設置されている。・鳥居須山 御胎内の南東側入口前に高さ3m前後の木製の鳥居が建てられ ている。・標柱鳥居脇に、「旧須山口登山道一合目(須山御胎 内)」と記さエムゾネれた標柱が、富士山須山口登山道保存会によ って設置されている。・祠須山御胎内から南東に続くU字状の 溶岩地形脇に、石造りの祠が設置されている。写真祠の写真A 4須走口登山道図登山道に要素が点在している平面図・古
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309 :底名無し沼さん (ワッチョイ bf0c-YTXr)[sage]:2018/02/01(木) 02:13:11.95 ID:HYIp01210 - 、両者並べて鑑賞できる貴重な建物である。−49−写真西宮本
殿の写エムゾネ真図西宮本殿の図・大塚山社誌では、日本武尊が富 士山を遙拝した地であり、ここを浅間明神の創建にかかわる場所 と位置づけている。さらに、788年には新たに浅間明神を建て 、この大塚山には、大塚社として日本武尊を分祀したと伝えられ る。現在エムゾネこの地は、流山状の小高い丘をなしており、日本 武尊を祀る祠が建てられている。写真大塚山の写真図大塚山の図 ・御鞍石吉田火祭(鎮火祭)の際の御輿行在所。吉田火祭の本日 にこの御鞍石上に御輿が安置され、神事が行われる。ここで読ま れる祝詞のエムゾネ一節から、この地が諏訪明神旧鎮座地とされる 。写真御鞍石の写真図御鞍石の図A7西湖図以下に示す要素が点 在している平面図富士山周辺の湖を巡って修行する内八海巡りが 多くの富士講徒によって行われたが、いつの時代も変わらず巡拝 の対象としてエムゾネ数えられている。また、景勝の地でもあり、 多くの芸術作品とゆかりが深い。顕著な普遍的価値を構成する諸 要素として、自然地形(湖水)などがある。写真西湖の写真A8 精進湖図以下に示す要素が点在している平面図富士山周辺の湖を 巡って修行するエムゾネ内八海巡りが多くの富士講徒によって行わ れたが、いつの時代も変わらず巡拝の対象として数えられている 。また、景勝の地でもあり、多くの芸術作品とゆかりが深い。顕 著な普遍的価値を構成する諸要素として、自然地形(湖水)など がある。写真精進エムゾネ湖の写真A9本栖湖図以下に示す要素が 点在している平面図富士山周辺の湖を巡って修行する内八海巡り が多くの富士講徒によって行われたが、いつの時代も変わらず巡 拝の対象として数えられている。また、景勝の地でもあり、多く の芸術作品とゆかりエムゾネが深い。顕著な普遍的価値を構成する 諸要素として、自然地形(湖水)や中ノ倉峠からの展望などがあ る。写真本栖湖の写真A信仰に関わる周辺のものB1富士山
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- 【栗城史多似の】栗木ハンター(ワイエディ)47【ダメ工作員】
317 :底名無し沼さん (ワッチョイ bf0c-wbgk)[sage]:2018/02/01(木) 02:13:51.84 ID:HYIp01210 - 実際にはおよそ400〜600年と推定される。・社叢境内には胸
高直径0.7m以上のスギが39本ある。アカガシ3本、スダジイ 1本などの大樹も見られるが、裏山の大半は戦後植樹されたヒノキ やスギである。エムゾネ富士宮市の保存樹林に指定されている。・浅間 神社社殿村山浅間神社社殿は、神仏分離令によって境内社富士浅間 七社を相殿として造られ、中座に木花開耶姫命、左座に大山祗命、 彦火々出見命、瓊々杵命、右座に大日霊貴(天照大神)・伊弉諾尊 ・伊弉エムゾネ冉尊を祀っている。現在の社殿は大正2年(1913) に改築されたものだが、幣殿と拝殿は老朽化したため、その後さら に鉄筋コンクリート一部木造に建替えられている。写真社殿の写真 図社殿の図面・大日堂(興法寺)鎌倉時代の文保年間(1317エムソ ゙ネ〜1318)に、末代上人の流れをくむ頼尊が村山に興法寺を開 いたと伝えられている。その興法寺の建物として現存する唯一の堂 で、富士山の本尊である大日如来を主尊とする。現在の建物は、部 材の状況や絵様彫刻の特徴などから江戸時代末期の建造エムゾネと考え られるが、外壁は波鉄板板張りに変えられている。桁行5間・梁間 7間、入母屋造、鉄板葺きで、南面に出入り口を開き、前面と両側 面に幅一間の回り縁を巡らしている。写真社殿の写真図社殿の図面 ・水垢離場山伏修行者及び修験者が、富士登拝エムゾネの道者が垢離を とって身を浄めた場所で、間口約6.5m、奥行き約4mの長方形 で、深さ約0.6mに掘り込み、底に石を敷きつめ周囲は石積みと なっている。造成年代は不明。水垢離場へは社叢裏手の沢に湧く龍 頭池湧水を引き、上の段から樋で落とエムゾネし垢離を取るようにして ある。水の落ち口には山伏修行のときの主尊とされる不動明王の石 像が安置されている。写真水垢離場の写真・護摩壇大日堂東側にあ り、正面には不動明王の石像が祀られている。護摩壇は、四囲を石 で囲んだ一辺5.3mの丸いエムゾネ石組となっている。丸い石組の前 に置かれた葛石には、「干時安政四年九月」と刻まれ、安政4
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227 :底名無し沼さん (ワッチョイ bf0c-cpcm)[sage]:2018/02/01(木) 02:19:12.32 ID:HYIp01210 - 神社冨士浅間神社の境エムゾネ外末社で、5合目の登山道登り口に
ある。現在の社殿は、昭和54年(1979)に建立され、間 口九尺、奥行九尺の規模である。その際、御室浅間神社を合祀 した。神社の前には鳥居がある。かつては3000坪の境内地 を持ち、本殿、拝殿、庁舎を備エムゾネえていたという。写真古御 岳神社の写真・迎久須志之神社冨士浅間神社の境外末社で、9 合目(3,570m付近)に建てられている。かつては向
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310 :底名無し沼さん (ワッチョイ bf0c-YTXr)[sage]:2018/02/01(木) 02:19:46.36 ID:HYIp01210 - 浅間大社図以下に示す要素が点在している平面図・神立山本殿の
北側にある丘陵地一帯エムゾネは神立山と称される。神立山及び富 士山本宮浅間大社の基盤を構成する地形は、新富士火山旧期溶岩 流に分類される富士宮溶岩流と、溶岩流直上に広がる扇状地堆積 物の層で−50−構成され、溶岩流の末端部にあたる。そのため 指定地内の一部では溶岩エムゾネ礫が露出し、縄状溶岩も散見され る。また、当該地区は風致地区・保安林にも指定され、渋沢堀沿 いの散策路以外は立ち入りが禁止されている。寛文10年(16 70)の浅間大社境内絵図では神立山に信仰関連の様々な建築物 が描かれ、発掘調査で石畳エムゾネや護摩堂跡が確認されている。 写真神立山の写真・湧玉池(上池、下池)本殿東側の「湧玉池」 は、国指定特別天然記念物となっている。湧玉池は、富士山に降 った雨や雪が地下水となり、被圧によって富士宮溶岩流の溶岩層 間を流れ、溶岩流末端で湧出エムゾネして池になったものである。 禊所付近を境に上池と下池に分かれ、以前は上池のみを湧玉池、 下池から下流を御手洗川と呼んだ。登山者や道者が湧玉池の水で 心身を清めた後山中へ向かうという、富士山信仰と関連の深い池 であった。現在も富士山山開きエムゾネの7月1日には、湧玉池で 禊神事が行われる。写真湧玉池の写真図詳細平面図・社叢神立山 表層部は約3万8千uにわたってスダジイ、ケヤキ等の樹木が生 育しており、富士宮市保存樹林に指定されている。また、野鳥の 生息に適した環境でもあり、「野エムゾネ鳥の森」碑が建てられて いる。・社殿(本殿・拝殿・幣殿・透塀・楼門)浅間大社は、社 伝によれば大同元年(806)に造営されたという。かつての駿 河国の一宮で、現在は全国1300余の浅間神社の総本社として 崇められている。現在の社殿は、慶エムゾネ長9〜11年(160 4〜06)に徳川家康が造営したものである。写真社殿全体の写 真図社殿平面図[本殿]本殿は国指定重要文化財である。「
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318 :底名無し沼さん (ワッチョイ bf0c-wbgk)[sage]:2018/02/01(木) 02:20:26.29 ID:HYIp01210 - 1857)造立と考えられる。周囲の正方形の石組みと中央の丸い
石組みは石材に違いが見られ、造成時期が異なっているものと思わ れる。写真護摩壇のエムゾネ写真・氏神社(高嶺総鎮守社)−55−護 摩壇裏手の一段高くなったところに末代上人を祀る大棟梁権現社が あったとされる。しかし、神仏分離令により廃され、代わりに村山 浅間神社社殿と大日堂の間から裏山に登ったところに大棟梁権現社 を遷し「富エムゾネ士大神社(祭神大己貴命)」として祀られた。現在 は「高根総鎮守」と呼ばれ、元村山集落の氏神社となっている。「 明治十八年五月十七日奉再建冨士大神社」と記された棟札が残され ている。現在の社殿は、平成15年に再建された。・石鳥居村山浅 間エムゾネ神社へと登る石段の途中に、石鳥居が建てられている。昭和 28年(1953)に建立されたものである。・氏神社鳥居氏神社 (高嶺総鎮守社)へと登る参道の入口に、鳥居が建てられている。 平成15年の再建に合わせて建てられたものである。・手水エムゾネ舎 (手水鉢)村山浅間神社へと続く参道入口の左側に、手水舎が設置 されている。明治16年(1883)に設置されたものである。・ 石段(参道)段の入り口が、村山浅間神社へ続くものと、大日堂へ 続くものの2本が平行して造られている。・狛犬昭エムゾネ和5年に奉 納された狛犬2体が、参道脇に設置されている。B4須山浅間神社 図以下に示す要素が点在している平面図・社叢樹齢500年を超え るスギの巨木が22本あり、中には樹高37m、目通りの太さが7 mを超えるものも見られる。社叢全体が市エムゾネ指定天然記念物とし て保護されている。・社殿大禰宜・渡邊対馬守安吉の社伝旧記によ れば、天元4年(961)に駿河国司・平兼盛が社殿を修理したと の記録がある。その後の記録として社殿の存在が確認できるのは、 大永4年(1524)と記されたエムゾネ修築時の棟札による。現在の 社殿は、文政6年(1823)に再建されたとされている。写真社 殿の写真図社殿の図面・神輿殿須山浅間神社の例大祭で使用さ
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228 :底名無し沼さん (ワッチョイ bf0c-cpcm)[sage]:2018/02/01(木) 02:24:52.22 ID:HYIp01210 - 、向ヒ薬師、手引薬師と呼ばれ、石室の中に薬師如来が祀られ
冨士浅間神社の神主が管理していた。元エムゾネ禄16年(170 3)−47−の文書「大宮司富士信安等返答下書」に「前薬師 之小屋」の記述があることから、江戸時代初期以降にはすでに 祀られていたものと考えられる。道者はここで薬師に線香を手 向けたという。廃仏毀釈によって仏像は山を降ろエムゾネされ迎久 須志神社と改められた。祭神は大己貴命と少彦名命である。以 前は登山道が建物の西側を通るルートであったが、現在は建物 の東側を通るようになっている。迎久須志神社の直下には、「 日ノ見御前」「日ノ御子」と呼ばれる日の出を遥拝する場エムゾネ 所があり、江戸時代には「日ノ御子石」という富士山型の石が 置かれていた。富士講の講中が大きな平石の上で朝日を拝した という。現在「日ノ御子石」はないが、祠と鳥居が建てられて いる。写真迎久須志之神社の写真・鳥居登山道の浅間大社東北 奥宮エムゾネ(久須志神社)前(登山道終点)、9合目、本8合目 、本7合目、7合目、本5合目、古御嶽神社前に自然木などに より構築された鳥居が設置されている。・狛犬登山道終点の鳥 居前に狛犬2体が設置されている。この場所は「鳥居御橋」( とりいおはしエムゾネ)と呼ばれていた。・石碑7合目付近の登山 道脇に富士講関連の石碑がある。以前はもっと標高の高い場所 にあったが、雪崩によって流されて別の場所に転がっていたも のを山小屋関係者で運び、現在の場所に設置したという。日付 は「七月吉日」とあるエムゾネのみで、上部が欠損している。A5 吉田口登山道図登山道に要素が点在している平面図・登山道吉 田口登山道は、北口本宮冨士浅間神社を起点とし、富士山頂を 目指す道である。18世紀後半以降は、最も多くの道者が吉田 口登山道を目指している。しかエムゾネも、古道としては唯一徒歩 で麓から頂上まで登れる重要な道である。顕著な普遍的価
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311 :底名無し沼さん (ワッチョイ bf0c-YTXr)[sage]:2018/02/01(木) 02:25:27.13 ID:HYIp01210 - 造」と称する棟高45尺の二重の楼閣造構造で他に例を見ない。
1階下層は桁行5間・梁間4間の寄棟エムゾネ造、2階上層は桁行 3間・梁間2間の三間社流造で共に桧皮葺である。明治40年( 1907)5月27日古社寺保存法により特別保護建造物に指定 され、以後、国指定重要文化財として保護されている。写真本殿 全体の写真(幣殿・拝殿含む)図本殿平エムゾネ面図(幣殿・拝殿 含む)[幣殿]本殿と拝殿をつなぐ部分で、桁行3間・梁間
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319 :底名無し沼さん (ワッチョイ bf0c-wbgk)[sage]:2018/02/01(木) 02:26:04.95 ID:HYIp01210 - 神輿を納めた神輿殿が、境内地西側に建てられている。・狛犬境内
には、社殿前と石段手前エムゾネの参道脇に計二対の狛犬が設置されて いる。社殿前の一対は平成12年に、参道脇の一対は平成13年に 奉納されたものである。・灯籠参道の両脇に灯籠が建てられている 。登り口のものは平成13年に、階段を登ったところにあるものは 、それぞれ寛保エムゾネ2年(1742)、文政6年に奉納されたもの である。・手水舎石段に至る参道の脇と、社務所西側の2箇所に、 手水舎が建てられている。社務所そばには、文政7−56−年と刻 まれた水盤も置かれている。・参道鳥居から10mほどは石畳が敷 かれ、エムゾネその後社殿の位置する高台へ登るためにコンクリート製 の階段が続いている。・鳥居参道入口には、朱塗りのコンクリート 製の鳥居が建てられている。昭和41年(1966)に奉納された ものである。・石碑鳥居の東側に、郷社として奉幣を受けていたエムソ ゙ネことを示す碑が建てられている。・古宮神社八坂大神、八幡大神 、愛鷹大神、子安大神、疱瘡守護神を祀る境内社である。覆屋の中 にあり、旧本殿と推測される建物である。B5冨士浅間神社図以下 に示す要素が点在している平面図・社叢(浅間の杜)社エムゾネ殿周囲 と、参道の南側に社叢が広がっている。特に参道南側の部分を浅間 の杜と呼び、静岡県や小山町の天然記念物である大樹が生育してい る。・ハルニレ昭和38年(1963)2月19日に静岡県の天然 記念物に指定された。根回り約6m、目通り4エムゾネm、樹高24. 50m、枝張東西28.10m、南北23.50m、樹齢約500 年。北日本の山地に多い落葉高木で、静岡県では極めて少なく当社 以外の小山町内では数本しか見当たらないが、境内には10本が生 育している。・エゾヤマザクラ昭和5エムゾネ8年5月1日に小山町の 天然記念物に指定された。樹齢約130年で、根回り2.08m、 目通り1.75m、樹高約10m、枝張東西13.8m、南北9. 5m。別名をオオヤマザクラと称するヤマザクラの北方型で、
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229 :底名無し沼さん (ワッチョイ bf0c-cpcm)[sage]:2018/02/01(木) 02:30:44.78 ID:HYIp01210 - 構成する要素として、現存する吉田口登山道や沿道の宗教施設
や山小屋等信仰の拠点などがある。・旧登山道・馬返ここから 急坂となり馬が使えなくなることからこエムゾネの名がついた。こ の一体は草山から木山への境でもあり、ここからが御山の聖地 ということにもなる。富士山有料道路が開通する以前の馬返の 周辺は、本格的な登り勾配の坂道が始まる直前の平地であり、 登拝者たちがいったん休憩を取る場所として賑わエムゾネった。登 山期間には4軒の茶屋が営業され、登拝者の便に供された。写 真馬返周辺の写真・五合目ここは木山と焼山の境界でもあるこ の地は天地境(てんちのさかい)とも言われる場所である。役 場、中宮の社、小屋等がおかれていた。ここの役場は、古エムゾネ くは中宮三社の神供料として役銭を納めた場所である。後年は 登山切手改め所となった。小屋については、江戸後期には4軒 があったが、すでに武田信玄の1566年の文書に「中宮之室 」という名称があり、戦国時代からこの地に小屋が設けられ− 48エムゾネ−ていたことがわかる。最盛期には18軒が所在した と伝えられている。写真五合目周辺の写真・烏帽子岩七合五勺 に烏帽子の形をした岩があり、これを烏帽子岩という。ここに て富士講中興の祖と称される食行身禄が、1733年に31日 間の断食修行エムゾネを経て入定した。「甲斐国志」にも「享保十 八六月十三日富士行者身禄ガ入定ノ地ナリ小屋アリ身禄ノ木像 ヲ安置ス流レヲ汲者年々此に登拝ス」とあり、江戸後期にはす でに身禄の聖地として信者が登拝していたことがわかる。現在 も富士講の聖地としてエムゾネ重要な地である。写真烏帽子岩の写 真A6北口本宮冨士浅間神社図以下に示す要素が点在している 平面図北口本宮冨士浅間神社は、富士講とのつながりが強く1 730年代に富士講の指導者である村上光清の寄進によって境 内の建造物群の修復工事が行わエムゾネれ、現在にみる境内の
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312 :底名無し沼さん (ワッチョイ bf0c-YTXr)[sage]:2018/02/01(木) 02:31:19.73 ID:HYIp01210 - の両下造、屋根は檜皮葺、寛文年間の古絵図には幣殿は描かれて
いないが、現在幣殿として使われている部分に「作合三間四間ひ はだぶき」と書き込まれており、本殿の全エムゾネ景がよく見える ように描かれたと推測される。県指定文化財として保護されてい る。[拝殿]桁行5間・梁間3間で、床は幣殿より2段高くなっ ている。正面が入母屋造、背面が切妻造で、屋根は檜皮葺、正面 に1間の向拝が付いている。三方に縁を巡らエムゾネせ、背面は幣 殿に接続している。県指定文化財として保護されている。[透塀 ]本殿周囲を囲む1棟と、その外側、本殿横に並ぶ三之宮及び七 之宮を含めたより広い範囲を囲む1棟−51−の計2棟で、総延 長は36間に及ぶ。県指定文化財として保護さエムゾネれている。 [楼門]三間一戸、重層入母屋造で、屋根は檜皮葺、正面・左右 脇に扉がついている。楼門の左右には随身像が安置してある。静 岡県指定文化財として保護されている。写真楼門全体の写真図楼 門平面図・廻廊楼門から東西に伸びる回廊は、昭エムゾネ和9年( 1934)に付加されたものである。・手水舎楼門の南西側に、 参拝者が参拝前に身を清めるために手や口をすすぐ、手水舎があ る。・灯籠大小それぞれの灯籠が境内各所に設置されている。・ 石鳥居本殿へ続く参道に石造りの鳥居が建てられてエムゾネいる。 昭和33年3月に寄進されたものである。・東鳥居・西鳥居桜の 馬場の東端と西端にそれぞれ朱塗りの鳥居が建てられている。・ 桜の馬場浅間大社流鏑馬式が執り行われる馬場が約200mに渡 って東西に伸びている。源頼朝が富士の裾野で巻狩をエムゾネ行っ た際、流鏑馬を奉納したことに始まると言われ、室町時代の初期 にはすでに神事が行われていたとの記録が残っている。馬場に沿 って両側に御神木の桜が植えられている。・禊所湧玉池の上池と 下池の境部分が禊所とされ、池に下りるための石段が組エムゾネま れている。・神幸橋(湧玉橋)湧玉池南側の神田川への流出
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320 :底名無し沼さん (ワッチョイ bf0c-wbgk)[sage]:2018/02/01(木) 02:32:00.74 ID:HYIp01210 - 県が南限である。県内ではまエムゾネれな樹種である。・根上がりモミ
平成3年5月1日に小山町の天然記念物に指定された。樹齢約30 0年で、根回り4.61m、目通り3.07m、樹高27m。この 根上り群は約150年生のモミの根本にブナ、イヌシデの種子が生 え、宝永噴火の火山エムゾネ灰土が、降雨により流亡しながらモミが成 長したため、根が爪を立てた状態で生育し、根上がりになったと考 えられる。縁結びの木とも呼ばれている。・社殿平成18年8
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230 :底名無し沼さん (ワッチョイ bf0c-cpcm)[sage]:2018/02/01(木) 02:36:33.93 ID:HYIp01210 - の礎が形成された。社殿の背後には登山門があり、この神社を
起点として富士山頂まで吉田口登山道が延びている。富士講や 吉田御師と密接な関係を持ちながら発展した神社である。顕著 な普遍的価値を構成する諸要素として、エムゾネ富士信仰の拠点で もある本殿などの建造物群や境内地、吉田口登山道の起点など がある。・本殿本殿は、1615年、都留郡の領主鳥居土佐守 成次によって建立された。桁行一間・梁間二間の規模で、入母 屋造の建物を身舎としてその前面に唐破風造の向エムゾネ拝一間を つけた形式をとり、独自な本殿形式が採用されている。各部に 漆塗り、極彩色をほどこし、彫刻・金具を配して豪華絢爛な装 飾を展開し、桃山式建築の装飾的技法の多様性を示すとともに 、すぐれた意匠をみせる顕著な建物である。写真本殿の写エムゾネ 真図本殿の図・東宮本殿東宮本殿は、1223年北条義時の創 建とも伝えられるが、現社殿は1561年武田信玄が浅間本社 として造営したものである。本殿は身舎梁間一間、桁行一間で 正面に一間の向拝をつける一間社流造の形式である。東宮本殿 は、エムゾネ本社本殿はもとより西宮本殿に比較してやや小規模で あるが、構造形式や蟇股に挿入した彫刻などに室町時代の手法 を示しており、三殿中最も古い建物である。写真東宮本殿の写 真図東宮本殿の図・西宮本殿西宮本殿は、1594年谷村城主 浅野左右衛門エムゾネ佐氏重により東宮に替わる本殿として建立さ れたが、1615年、鳥居成次の本殿建立により現在地に移さ れ西宮となった。本殿の形式は東宮と同じ一間社流造であるが 、両側面と背面は二間で一間の向拝をつける。西宮本殿は、桃 山時代の装飾的要素をエムゾネ多分に取り入れていて、やがて豪華 な本社本殿建築へと発展する過程を、両者並べて鑑賞できる貴 重な建物である。−49−写真西宮本殿の写真図西宮本殿の図 ・大塚山社誌では、日本武尊が富士山を遙拝した地であり
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313 :底名無し沼さん (ワッチョイ bf0c-YTXr)[sage]:2018/02/01(木) 02:37:07.97 ID:HYIp01210 - 石造りの橋が架けられている。春秋の大祭にはこの橋を通って山
宮御神幸が出発したとされる。寛文10年(1671)の絵図で は橋に屋根が葺かれている。・輪橋(太鼓橋)本殿へと向エムゾネ かう参道に、鏡池を渡る輪橋が架けられている。寛文10年の絵 図には既に描かれているが、大正4年(1915)に石造りに改 められた。写真輪橋の写真図輪橋の平面図絵図寛文10年の絵図 ・護摩堂跡(推定)平成20年の発掘調査により、護摩堂跡エムゾ ネと考えられる溶岩礫で構成された石垣と建物跡が検出された。 石垣は樵石積みで組まれ、平面形は正方形となっている。また、 石垣で正方形に囲繞された敷地内で建物跡の礎石が確認された。 桁行3間・梁間4間で、南側に入口を有していたと考えられるエム ゾネ。発掘調査後に、江戸時代終わり頃の地誌でこの建物跡を「 本地堂」とする記載が確認されており、最終的に護摩堂から本地 堂へ造作し直された可能性がある。写真護摩堂の発掘調査時の完 掘写真(平面写真)図平面図・随身像慶長19年(1614)2 エムゾネ月に建立された。背銘には、左側の像は「甲州河内下山住 番匠石川清助作」、右−52−側の像は「大工山城國上原住櫻井 三蔵作」と記され、市指定有形文化財として保護されている。写 真随身像全体の写真・狛犬参道の石鳥居両側に、狛犬が建てられ てエムゾネいる。大正7年5月に奉献されたものである。・御神幸 道首標の碑明治以前に行われていた「山宮御神幸」における、御 神幸道の首標が、池畔に立てられている。造立年は元禄年(16 91)未年十一月とされ、「自当社山宮御神幸道五十丁証碑首也 」とエムゾネ刻まれている。昭和59年(1984)に浅間大社境 内の土中から発見され、現在地に再建された。・三之宮本殿横西 側に、淺間第三御子神を祀る境内社「三之宮浅間神社」が建てら れている。・七之宮本殿横東側に、淺間第七御子神を祀る境内社 「七之エムゾネ宮浅間神社」が建てられている。・鉾立石楼門
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321 :底名無し沼さん (ワッチョイ bf0c-wbgk)[sage]:2018/02/01(木) 02:37:49.92 ID:HYIp01210 - 4日に小山町の文化財(建造物)に指定された。宝永噴火により大
きな損害をエムゾネ受けたが、享保3年(1718)に再建された。そ の後蟻害や老朽化により改修したものの、部材は享保年間(171 6〜36)のものが今なお使用されている。社殿は本殿・幣殿・拝 殿が連結した権現造である。拝殿は入母屋造で千鳥破風を据え、本 殿エムゾネは享保年間の遺構を残した流造りとなっている。−57−構 造は、拝殿が桁行5間・梁間2間の入母屋造で、向拝1間、正面千 鳥破風付。幣殿が桁行3間・梁間2間の両下造。本殿が三間社流造 、向拝1間、屋根は全て銅板葺きとなっている。写真社殿のエムゾネ写 真図社殿の図面・楼門二階建ての随神門で、上層の周囲に高欄付き の縁を巡らしている。北の櫛岩窓神、南の豊岩窓神が随神として配 神されている。宝永噴火により社殿とともに大破しており、現在の ものは明和4年(1767)随神が寄贈された当時エムゾネに再建され たものと考えられる。楼門の構造は、三間一戸楼門、茅葺型入母屋 造、銅板葺き。軒廻りは二軒繁垂木に組物は出組で、腰組も二手先 としている。・参道大鳥居参道入口には、花崗岩の石鳥居が建てら れている。春日造で、額束には「不二山」エムゾネと刻まれている。明 治33年(1900)に奉納された。・裏参道鳥居西側駐車場から 本殿へ至る裏参道の入口に石鳥居が建てられている。・富士塚狛犬 楼門前参道の両側に、富士塚が築かれ、その上に狛犬が置かれてい る。・富士講講碑群明治より昭和エムゾネにかけて、各地の富士講より 寄進された記念碑が多く残されている。多くは、数多く富士登山が 成就されたことを感謝し、先達や講名を高く掲げ信仰の証としたも ので、境内地の西側部分裏参道周辺に、多くの碑塔が建てられてい る。写真富士講講碑群のエムゾネ写真図富士講講碑群の配置図B6河口 浅間神社図以下に示す要素が点在している平面図河口浅間神社は、 864〜866年に北麓で起こった噴火を契機に、北麓でも浅間神 社が建てられることになったが、その神社である可能性が高い
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- 【栗城史多似の】栗木ハンター(ワイエディ)53【ダメ工作員】
231 :底名無し沼さん (ワッチョイ bf0c-cpcm)[sage]:2018/02/01(木) 02:43:05.35 ID:HYIp01210 - こを浅間明神の創建にかかわるエムゾネ場所と位置づけている。さ
らに、788年には新たに浅間明神を建て、この大塚山には、 大塚社として日本武尊を分祀したと伝えられる。現在この地は 、流山状の小高い丘をなしており、日本武尊を祀る祠が建てら れている。写真大塚山の写真図大塚山のエムゾネ図・御鞍石吉田火 祭(鎮火祭)の際の御輿行在所。吉田火祭の本日にこの御鞍石 上に御輿が安置され、神事が行われる。ここで読まれる祝
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314 :底名無し沼さん (ワッチョイ bf0c-YTXr)[sage]:2018/02/01(木) 02:43:38.17 ID:HYIp01210 - 石段には、鉾立石が置かれている。明治の初めまで行われていた
山宮御神幸の際、神の宿った鉾を立てて休めた自然石である。・ 欄干橋(神路橋、神路枚橋)池畔と川中島を結ぶ橋が2本架けら れているエムゾネ。島の西側が神路橋、東側が神路枚橋であるが、 寛文10年(1670)の絵図では西側にのみ架けられている。 写真橋全体の写真絵図寛文10年の絵図B2山宮浅間神社図以下 に示す要素が点在している平面図・溶岩流地形山宮浅間神社の石 鳥居から参エムゾネ道を経て参籠所に至るまでの区域は北山溶岩流 上に展開している。また、遥拝所が位置する小高い丘陵は青沢溶 岩流の先端部である。さらに、涸れ沢の西岸には、天母山(二子 山)溶岩流、万野風穴溶岩流で構成される丘陵地が展開する。よ って、山宮浅エムゾネ間神社周辺には、籠屋付近の北山溶岩流を含 め、4つの異なる溶岩流地形が広がっていることになる。遥拝所 の基盤となっている青沢溶岩流は、約2,000年前の噴火によ って流出した比較的新しい溶岩流であるため、この部分は他の区 域と比べて植生エムゾネの回復は遅れていたと考えられる。そのた めに、樹木等に遮られることなく富士山の山頂まで見渡せていた ため、この場所で山を遥拝する行為が行われたと考えられる。写 真溶岩流地形の写真図溶岩流の拡散している模式図・社叢目通り の幹周が3mを超エムゾネえる巨木4本を含むスギ林が、約9,7 80uの社叢を形成しており、富士宮市の保存樹林に指定されて いる。・籠屋(参籠所)遥拝所へ登る手前の平坦な土地に籠屋が 建てられている。籠屋は、神の宿った御鉾が浅間大社と山宮浅間 神社を往復する祭儀エムゾネ「山宮御神幸」において、これに同行 した大宮司以下の諸職が一夜参籠した場所である。−53−・鉾 立石籠屋をくぐり遥拝所へ続く参道に、「山宮御神幸」で神の宿 った鉾を休めるための「鉾立石」が置かれている。石は火山弾で あり、籠屋をくぐってエムゾネすぐの位置に1つ、石段の手前
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322 :底名無し沼さん (ワッチョイ bf0c-wbgk)[sage]:2018/02/01(木) 02:44:17.03 ID:HYIp01210 - 在も富士山と密エムゾネ接に結びついた宗教行事を行っており、歴史的
背景と相俟って、富士山信仰を語る上で欠かすことのできない資産 である。顕著な普遍的価値を構成する諸要素として、富士信仰の拠 点でもある本殿などの建造物群や境内地などがある。・社殿、鳥居 河口浅エムゾネ間神社創建は、平安時代の865年に遡る可能性がある 。建立目的は富士山の噴火を鎮めるためであり、当時の富士山及び 噴火ということに対する当時の考え方を理解することができる。鳥 居は1697年に谷村藩主秋本喬知の再建。銅製の扁額に記されエムソ ゙ネた「三国第一山」の書は輪王寺宮公弁親王の筆とされる。写真社 殿の写真図社殿の図面B7冨士御室浅間神社図以下に示す要素が点 在している平面図−58−冨士御室浅間神社は、8世紀初めに吉田 口登山道二合目に祭場をしつらえたのが最初とされ、富エムゾネ士山中 に祀られた最初の神社であるとする文献もある。二合目本宮(もと みや)へは冬季の参拝に苦渋するため、958年、河口湖畔に現在 の里宮が建立されたという。現在は二合目にあった社殿も里宮の広 い境内に敷地内に移設されている。修行や登拝エムゾネといった様々な 富士信仰の拠点として位置づけられる二合目の本宮と、土地の産土 神としての里宮が一体となって機能してきた。顕著な普遍的価値を 構成する諸要素としては、信仰拠点である二合目や本殿などがある 。・吉田口二合目吉田口登山道二合目エムゾネに御室浅間名字(本宮) が鎮座した。御室浅間神社は木花開耶姫を祭神とし、創立年代は詳 らかでないが、社殿には和銅元年(708)に祭場をしつらえたの が最初とされる。冨士山中最初の社という。なお、平安末期には浅 間神の信仰に修験道が習合しエムゾネて、富士山が霊験所の一として広 く知られていた。冨士修験の信仰拠点は南口の村山であるが、北口 の二合目、御室の地にも山内の信仰拠点として行者堂が設置されて いた。・本殿本殿は、1612年に当時の甲斐国都留郡領主であっ た鳥居土佐守成次にエムゾネよって桃山時代建築様式の神社建物に
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232 :底名無し沼さん (ワッチョイ bf0c-cpcm)[sage]:2018/02/01(木) 02:48:30.30 ID:HYIp01210 - 一節から、この地が諏訪明神旧鎮座地とされる。写真御鞍石の
写真図御鞍石の図A7西湖図以下に示す要素が点エムゾネ在してい る平面図富士山周辺の湖を巡って修行する内八海巡りが多くの 富士講徒によって行われたが、いつの時代も変わらず巡拝の対 象として数えられている。また、景勝の地でもあり、多くの芸 術作品とゆかりが深い。顕著な普遍的価値を構成する諸要エムゾネ 素として、自然地形(湖水)などがある。写真西湖の写真A8 精進湖図以下に示す要素が点在している平面図富士山周辺の湖 を巡って修行する内八海巡りが多くの富士講徒によって行われ たが、いつの時代も変わらず巡拝の対象として数えられている 。まエムゾネた、景勝の地でもあり、多くの芸術作品とゆかりが深 い。顕著な普遍的価値を構成する諸要素として、自然地形(湖 水)などがある。写真精進湖の写真A9本栖湖図以下に示す要 素が点在している平面図富士山周辺の湖を巡って修行する内八 海巡りが多くエムゾネの富士講徒によって行われたが、いつの時代 も変わらず巡拝の対象として数えられている。また、景勝の地 でもあり、多くの芸術作品とゆかりが深い。顕著な普遍的価値 を構成する諸要素として、自然地形(湖水)や中ノ倉峠からの 展望などがある。写真エムゾネ本栖湖の写真A信仰に関わる周辺の ものB1富士山本宮浅間大社図以下に示す要素が点在している 平面図・神立山本殿の北側にある丘陵地一帯は神立山と称され る。神立山及び富士山本宮浅間大社の基盤を構成する地形は、 新富士火山旧期溶岩流に分類さエムゾネれる富士宮溶岩流と、溶岩 流直上に広がる扇状地堆積物の層で−50−構成され、溶岩流 の末端部にあたる。そのため指定地内の一部では溶岩礫が露出 し、縄状溶岩も散見される。また、当該地区は風致地区・保安 林にも指定され、渋沢堀沿いの散策路以エムゾネ外は立ち入りが禁 止されている。寛文10年(1670)の浅間大社境内絵
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315 :底名無し沼さん (ワッチョイ bf0c-YTXr)[sage]:2018/02/01(木) 02:49:03.15 ID:HYIp01210 - つの計2つが置かれている。・石段(参道)遥拝所が位置する丘
陵へ登るための石段が組まれている。現在あるものは戦中もしく は戦後に改築されたものと考えられる。・石塁遥拝所の周辺約4 5m四方が石塁により方エムゾネ形に区切られている。青沢溶岩流 の溶岩塊上に溶岩礫を積み上げて構築され、部分的に遺物を含む 土層上に構築されている。石塁下から祭祀に用いられたと思われ る土師器が出土しているため、それらが用いられた12世紀
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323 :底名無し沼さん (ワッチョイ bf0c-wbgk)[sage]:2018/02/01(木) 02:49:42.44 ID:HYIp01210 - されたことが棟札から明らかにされている。大規模な入母屋造りの
一間社で棟の高さは9.3m、屋根は檜皮葺形の銅板葺である。蟇 股や軒唐破風妻などにも彫刻を飾るなど、桃山建築様式の特色が見 られる。内エムゾネ部の色彩も当初のものを良く残しており、建築年代 の確実なこの時期の遺構としては大変貴重な建造物である。写真本 殿の写真図本殿の図面B8御師住宅図御師住宅の位置図御師住宅は 、富士講徒の案内をし、宿泊の世話や祈祷を行った御師の住宅兼宿 坊エムゾネである。御師屋敷の多くは短冊状をなし、表通りに面して引 き込み路を設け、敷地を流れる水路の奥に建物がある。顕著な普遍 的価値を構成する諸要素として、最古の部類に入る旧外川家住宅な どがある。・旧外川家主屋、離座敷、中門主屋は妻入り形式エムゾネの 典型的な御師住宅であり、棟札から1768年に建設されたもので あることが判明している。また、主屋は「平面座敷型」をとってお り、近世になって御師住宅の様式が確立される以前の御師住宅とし て最古の部類の建築物である。離座敷は、富士講がエムゾネ盛んになる ととともに主屋だけでは収容人数に限りがあるなどの理由から主屋 の東側に増設されたとみられる。ただし、御神殿が上段・下段の続 きの手前に配置され、上吉田の一般的な御師住宅に比して独自の構 成を有している。写真主屋等の写真図旧外エムゾネ川家住宅現状平面図 等・小佐野家主屋、蔵主屋は一部二階、切妻造、妻入の居室及び座 敷部の前面北寄りに台所部を背面南寄りに神殿部を付設した形式に なる。居室及び座敷部は間口11.8m、奥行き15.5m、正面 南寄りに式台、背面北寄りに庇、エムゾネ北側面には下屋を設ける。蔵 は主屋台所の前方に建つ。土蔵造りであるが、東西に庇を付けた切 妻造、板張りの覆屋をかけてい−59−る。この住宅は、部分的な 改変や増設がみられるほか保存がよく、富士講御師の住宅としての 形態を、屋敷地も含めてエムゾネそのまま残している。全国でも比較的 少ない社家の一遺例として重要である。写真主屋外観写真図小
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233 :底名無し沼さん (ワッチョイ bf0c-cpcm)[sage]:2018/02/01(木) 02:54:22.75 ID:HYIp01210 - は神立山に信仰関連の様々な建築物が描かれ、発掘調査で石畳
や護摩堂跡が確認されている。写真神立山の写真・湧玉池(上 池、下池)本殿東側の「湧玉池」は、国指定特別エムゾネ天然記念 物となっている。湧玉池は、富士山に降った雨や雪が地下水と なり、被圧によって富士宮溶岩流の溶岩層間を流れ、溶岩流末 端で湧出して池になったものである。禊所付近を境に上池と下 池に分かれ、以前は上池のみを湧玉池、下池から下流を御エムゾネ 手洗川と呼んだ。登山者や道者が湧玉池の水で心身を清めた後 山中へ向かうという、富士山信仰と関連の深い池であった。現 在も富士山山開きの7月1日には、湧玉池で禊神事が行われる 。写真湧玉池の写真図詳細平面図・社叢神立山表層部は約3万 8千エムゾネuにわたってスダジイ、ケヤキ等の樹木が生育してお り、富士宮市保存樹林に指定されている。また、野鳥の生息に 適した環境でもあり、「野鳥の森」碑が建てられている。・社 殿(本殿・拝殿・幣殿・透塀・楼門)浅間大社は、社伝によれ ば大同元年(エムゾネ806)に造営されたという。かつての駿河 国の一宮で、現在は全国1300余の浅間神社の総本社として 崇められている。現在の社殿は、慶長9〜11年(1604〜 06)に徳川家康が造営したものである。写真社殿全体の写真 図社殿平面図[本殿]エムゾネ本殿は国指定重要文化財である。「 浅間造」と称する棟高45尺の二重の楼閣造構造で他に例を見 ない。1階下層は桁行5間・梁間4間の寄棟造、2階上層は桁 行3間・梁間2間の三間社流造で共に桧皮葺である。明治40 年(1907)5月27日古社エムゾネ寺保存法により特別保護建 造物に指定され、以後、国指定重要文化財として保護されてい る。写真本殿全体の写真(幣殿・拝殿含む)図本殿平面図(幣 殿・拝殿含む)[幣殿]本殿と拝殿をつなぐ部分で、桁行3間 ・梁間3間の両下造、屋根は檜皮葺、寛エムゾネ文年間の古絵
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316 :底名無し沼さん (ワッチョイ bf0c-YTXr)[sage]:2018/02/01(木) 02:54:57.68 ID:HYIp01210 - 15世紀、もしくは後の時エムゾネ代に築造されたものと推定され
る。写真石塁の写真図石塁の平面図・断面図・玉垣遥拝所の周囲 にはコンクリート製の玉垣が設置されている。戦中もしくは戦後 に設けられたものと考えられる。また、遥拝所入口には鉄製の門 扉が取り付けられている。・エムゾネ遥拝所富士山を直接拝礼し、 祭儀を行うことを目的として築造されたと推定される施設である 。南北約15.2m、東西約7.6mの長方形で、30〜40p 程度の溶岩を用いて石列等によって組まれている。富士山を拝む 方向に祭壇が位置し、祭壇に向エムゾネかって左側に祭儀を行う際 の大宮司席、公文・案主席、献饌所が、向かって右側に別当・供 僧席が設けられている。写真遥拝所の写真図遥拝所の平面図・石 鳥居境内地の南端に、石鳥居が建てられている。昭和6年(19 31)に建立されたものである。エムゾネ・参道石鳥居から籠屋ま で参道が続いている。B3村山浅間神社図以下に示す要素が点在 している平面図・元村山溶岩流村山浅間神社は、新富士旧期溶岩 の元村山溶岩流末端部付近にあたる。見付の間は平地で、両見付 から先は急傾斜地となっている。村エムゾネ山地区は標高が高く、 他の集落と急傾斜地で隔絶された一段高い場所に位置する。・水 源地(竜頭ヶ池)社叢東側に「竜頭ヶ池」と呼ばれる湧水池があ り、水垢離や生活用水として利用されてきた。またこの湧水を水 源とする村山沢は南流して渓谷を刻みエムゾネ神社西側から大沢川 となる。これらの水源は、村山の集落を成立させた要因の一つで ある。・御神木(イチョウ、大スギ)[イチョウ]−54−昭和 43年(1968)7月2日に県天然記念物に指定された。目通 り8m、根回り9.15m、樹高26mエムゾネ、枝張り東西19 m南北14mで、樹勢よく乳状下垂気根の発達も著しい。気根が 数多く垂下する。気根の先端に針を刺して祈願すると妊産婦の乳 の出がよくなると伝えられ、女性の信仰を集めていた。また
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324 :底名無し沼さん (ワッチョイ bf0c-wbgk)[sage]:2018/02/01(木) 02:55:36.68 ID:HYIp01210 - 家住宅現状平面図B9山中湖図以下に示す要素が点在している平面
図富士山周辺の湖を巡って修行する内八海巡りが多くの富士講徒に よって行われたエムゾネが、いつの時代も変わらず巡拝の対象として数 えられている。また、景勝の地でもあり、多くの芸術作品とゆかり が深い。顕著な普遍的価値を構成する諸要素として、自然地形(湖 水)などがある。写真山中湖の写真B10河口湖図以下に示す要素 が点在エムゾネしている平面図富士山周辺の湖を巡って修行する内
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234 :底名無し沼さん (ワッチョイ bf0c-cpcm)[sage]:2018/02/01(木) 03:00:08.14 ID:HYIp01210 - は幣殿は描かれていないが、現在幣殿として使われている部分
に「作合三間四間ひはだぶき」と書き込まれており、本殿の全 景がよく見えるように描かれたと推測される。県指定文化財と して保護されている。[拝殿]桁行5間・梁間3エムゾネ間で、床 は幣殿より2段高くなっている。正面が入母屋造、背面が切妻 造で、屋根は檜皮葺、正面に1間の向拝が付いている。三方に 縁を巡らせ、背面は幣殿に接続している。県指定文化財として 保護されている。[透塀]本殿周囲を囲む1棟と、その外エムゾネ 側、本殿横に並ぶ三之宮及び七之宮を含めたより広い範囲を囲 む1棟−51−の計2棟で、総延長は36間に及ぶ。県指定文 化財として保護されている。[楼門]三間一戸、重層入母屋造 で、屋根は檜皮葺、正面・左右脇に扉がついている。楼門の左 右にエムゾネは随身像が安置してある。静岡県指定文化財として保 護されている。写真楼門全体の写真図楼門平面図・廻廊楼門か ら東西に伸びる回廊は、昭和9年(1934)に付加されたも のである。・手水舎楼門の南西側に、参拝者が参拝前に身を清 めるために手エムゾネや口をすすぐ、手水舎がある。・灯籠大小そ れぞれの灯籠が境内各所に設置されている。・石鳥居本殿へ続 く参道に石造りの鳥居が建てられている。昭和33年3月に寄 進されたものである。・東鳥居・西鳥居桜の馬場の東端と西端 にそれぞれ朱塗りの鳥エムゾネ居が建てられている。・桜の馬場浅 間大社流鏑馬式が執り行われる馬場が約200mに渡って東西 に伸びている。源頼朝が富士の裾野で巻狩を行った際、流鏑馬 を奉納したことに始まると言われ、室町時代の初期にはすでに 神事が行われていたとの記録がエムゾネ残っている。馬場に沿って 両側に御神木の桜が植えられている。・禊所湧玉池の上池と下 池の境部分が禊所とされ、池に下りるための石段が組まれてい る。・神幸橋(湧玉橋)湧玉池南側の神田川への流出口に
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317 :底名無し沼さん (ワッチョイ bf0c-YTXr)[sage]:2018/02/01(木) 03:00:42.01 ID:HYIp01210 - はウロの中に大日如来が祀られていたといエムゾネわれ、現在でも
祭祀でしめ縄を張る。[大スギ]昭和31年5月24日に県天然 記念物に指定された。村山浅間神社の御神木と称される巨木であ る。境内の多くのスギの中で最大のもので目通り9.9m、枝張 り東西17.5m、南北31m、樹高47mエムゾネもある。中心 部には高さ8mに及ぶ空洞がある。案内板では約1,000年の 樹齢とされるが、実際にはおよそ400〜600年と推定される 。・社叢境内には胸高直径0.7m以上のスギが39本ある。ア カガシ3本、スダジイ1本などの大樹も見られエムゾネるが、裏山 の大半は戦後植樹されたヒノキやスギである。富士宮市の保存樹 林に指定されている。・浅間神社社殿村山浅間神社社殿は、神仏 分離令によって境内社富士浅間七社を相殿として造られ、中座に 木花開耶姫命、左座に大山祗命、彦火々出見命、エムゾネ瓊々杵命 、右座に大日霊貴(天照大神)・伊弉諾尊・伊弉冉尊を祀ってい る。現在の社殿は大正2年(1913)に改築されたものだが、 幣殿と拝殿は老朽化したため、その後さらに鉄筋コンクリート一 部木造に建替えられている。写真社殿の写真図社殿エムゾネの図面 ・大日堂(興法寺)鎌倉時代の文保年間(1317〜1318) に、末代上人の流れをくむ頼尊が村山に興法寺を開いたと伝えら れている。その興法寺の建物として現存する唯一の堂で、富士山 の本尊である大日如来を主尊とする。現在の建物は、エムゾネ部材 の状況や絵様彫刻の特徴などから江戸時代末期の建造と考えられ るが、外壁は波鉄板板張りに変えられている。桁行5間・梁間7 間、入母屋造、鉄板葺きで、南面に出入り口を開き、前面と両側 面に幅一間の回り縁を巡らしている。写真社殿の写真図エムゾネ社 殿の図面・水垢離場山伏修行者及び修験者が、富士登拝の道者が 垢離をとって身を浄めた場所で、間口約6.5m、奥行き約4m の長方形で、深さ約0.6mに掘り込み、底に石を敷きつめ
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- 【栗城史多似の】栗木ハンター(ワイエディ)47【ダメ工作員】
325 :底名無し沼さん (ワッチョイ bf0c-wbgk)[sage]:2018/02/01(木) 03:01:23.03 ID:HYIp01210 - 巡りが多くの富士講徒によって行われたが、いつの時代も変わらず
巡拝の対象として数えられている。また、景勝の地でもあり、多く の芸術作品とゆかりが深い。顕著な普遍的価値を構成する諸要素エムソ ゙ネとして、自然地形(湖水)などがある。写真河口湖の写真B11 忍野八海図以下に示す要素が点在している平面図忍野八海は、富士 山の伏流水による八つの湧水地で、それぞれに八大竜王を祀る冨士 信仰に関わる巡拝地(霊場)であった。顕著な普遍的価エムゾネ値を構 成する諸要素として、自然地形(湧水)がある。B12船津胎内樹 型図以下に示す要素が点在している平面図船津胎内樹型は、167 3年に富士講の指導者である村上光清により発見され、富士講の開 祖である長谷川角行が洞穴に祀った浅間明神がエムゾネ遷宮された溶岩 樹型である。顕著な普遍的価値を構成する諸要素には、宗教的な意 義付けがされている地形空間(溶岩樹型)などがある。・胎内樹型 船津胎内樹型は、承平噴火(937)で流出した剣丸尾第1溶岩流 の西縁に所在する。本穴自体も大小様エムゾネ々な樹型が複雑に交叉し て形作られている。本穴の側面では垂れ下がった溶岩が肋骨のよう に見え、そのうえ溶岩は鉄分のため赤色を帯び、あたかも内臓を摘 出したあとの胸控の如く見える。胎内の名称はこれに基づくもので あり、極めて貴重な形態と言エムゾネえる。・無戸室浅間神社・石造物 群1673年、富士講道者村上光清により現船津胎内樹型が発見さ れ、開祖が祀った焼入の地の浅間明神が遷宮された。浅間明神誕生 の地ともいわれ、無戸室(むつむろ)に火を放ち、無事に御子を出 産したという故事にエムゾネ倣い社号を無戸室浅間神社と名付けた。− 60−B13吉田胎内樹型図以下に示す要素が点在している平面図 吉田胎内樹型は、1892年に富士道者によって整備された「お胎 内」(溶岩樹型)である。顕著な普遍的価値を構成する諸要素には 、宗教的なエムゾネ意義付けがされている地形空間(溶岩樹型)などが ある。・胎内樹型吉田胎内樹型は、承平噴火(937)で流出
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235 :底名無し沼さん (ワッチョイ bf0c-cpcm)[sage]:2018/02/01(木) 03:06:45.47 ID:HYIp01210 - りの橋が架けられている。春秋の大祭にエムゾネはこの橋を通って
山宮御神幸が出発したとされる。寛文10年(1671)の絵 図では橋に屋根が葺かれている。・輪橋(太鼓橋)本殿へと向 かう参道に、鏡池を渡る輪橋が架けられている。寛文10年の 絵図には既に描かれているが、大正4年(191エムゾネ5)に石 造りに改められた。写真輪橋の写真図輪橋の平面図絵図寛文1 0年の絵図・護摩堂跡(推定)平成20年の発掘調査によ
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- 【栗城史多似の】栗木ハンター(ワイエディ)48【ダメ工作員】
318 :底名無し沼さん (ワッチョイ bf0c-YTXr)[sage]:2018/02/01(木) 03:07:19.45 ID:HYIp01210 - は石積みとなっている。造成年代は不明。水垢離場へは社エムゾネ
叢裏手の沢に湧く龍頭池湧水を引き、上の段から樋で落とし垢離 を取るようにしてある。水の落ち口には山伏修行のときの主尊と される不動明王の石像が安置されている。写真水垢離場の写真・ 護摩壇大日堂東側にあり、正面には不動明王の石像が祀られエムゾ ネている。護摩壇は、四囲を石で囲んだ一辺5.3mの丸い石組 となっている。丸い石組の前に置かれた葛石には、「干時安政四 年九月」と刻まれ、安政4年(1857)造立と考えられる。周 囲の正方形の石組みと中央の丸い石組みは石材に違いが見られエム ゾネ、造成時期が異なっているものと思われる。写真護摩壇の写 真・氏神社(高嶺総鎮守社)−55−護摩壇裏手の一段高くなっ たところに末代上人を祀る大棟梁権現社があったとされる。しか し、神仏分離令により廃され、代わりに村山浅間神社社殿と大日 エムゾネ堂の間から裏山に登ったところに大棟梁権現社を遷し「富 士大神社(祭神大己貴命)」として祀られた。現在は「高根総鎮 守」と呼ばれ、元村山集落の氏神社となっている。「明治十八年 五月十七日奉再建冨士大神社」と記された棟札が残されている。 現エムゾネ在の社殿は、平成15年に再建された。・石鳥居村山浅 間神社へと登る石段の途中に、石鳥居が建てられている。昭和2 8年(1953)に建立されたものである。・氏神社鳥居氏神社 (高嶺総鎮守社)へと登る参道の入口に、鳥居が建てられている 。平エムゾネ成15年の再建に合わせて建てられたものである。・ 手水舎(手水鉢)村山浅間神社へと続く参道入口の左側に、手水 舎が設置されている。明治16年(1883)に設置されたもの である。・石段(参道)段の入り口が、村山浅間神社へ続くもの と、大エムゾネ日堂へ続くものの2本が平行して造られている。・ 狛犬昭和5年に奉納された狛犬2体が、参道脇に設置されている 。B4須山浅間神社図以下に示す要素が点在している平面図
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- 【栗城史多似の】栗木ハンター(ワイエディ)47【ダメ工作員】
326 :底名無し沼さん (ワッチョイ bf0c-wbgk)[sage]:2018/02/01(木) 03:07:58.30 ID:HYIp01210 - 剣丸尾第1溶岩流の東縁に所在する。本穴の側面では垂れ下がった
溶岩が肋骨のように見え、母の胎内に似ているため、浅間大菩薩( 木エムゾネ花開耶姫)出世の御胎内として信仰の対象となった。・洞内 の石祠、石造物群吉田胎内の本穴の奥には、石祠があって富士講に とっての富士山の祭神である木花開耶姫が祀られている。樹型内に 入ると横穴の正面には、食行身禄を祀る石祠がある。B14エムゾネ人 穴富士講遺跡(人穴浅間神社)図以下に示す要素が点在している平 面図・犬涼み溶岩流人穴付近は、新富士火山旧期溶岩(約11,0 00年前から約5,000年前)に属する犬涼み溶岩流の末端部近 くに位置している。犬涼み溶岩流は、標高1,20エムゾネ6mの犬涼 み山から噴出し、西方に約5q、標高差にして約700mの扇状地 をつくる溶岩流である。写真溶岩流の写真図溶岩流の詳細図・溶岩 洞穴人穴溶岩洞穴は、天正年間に富士講の開祖、長谷川角行が千日 の行を行ったとされる洞穴である。犬涼みエムゾネ溶岩流の中に存在す る19箇所の溶岩洞穴のうち、西端部の最も低い位置にあり、溶岩 が流れ下るとき溶岩表面が冷やされて固化した後、内部の溶けた溶 岩が抜けて空洞ができたものである。洞穴の南西の端が進入口とな り、洞穴中央部でくの字型に曲がエムゾネっている。入口から約30m の屈曲部手前中央には、直径約5mの溶岩柱がある。全体として幅 広く、奥に入ると広々として平坦な空間となっている。最奥部まで は約80mで、そのまま閉塞していると考えられる。写真溶岩洞穴 の写真図洞穴の図面・社エムゾネ叢(周辺の植生)人穴集落では主に製 炭と農業を中心とした生活が営まれたため、薪炭材のコナラ・クヌ ギ等を中心に育林していた。しかし、昭和30年代に薪炭の消費が 減少し、境内地とその周辺は建材としてのヒノキ・スギに改植され た。御神木に相エムゾネ当する大樹等は存在しない。・碑塔群人穴浅間 神社の境内地には、富士講信者が建立した232基の碑塔が存在す る。そのうち碑塔に建立年が刻まれたもの89基についてみる
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236 :底名無し沼さん (ワッチョイ bf0c-cpcm)[sage]:2018/02/01(木) 03:11:56.08 ID:HYIp01210 - 護摩堂跡と考えられる溶岩礫で構成された石垣と建物跡が検出
された。石垣は樵石積みで組まれ、平面形は正方形となっエムゾネ ている。また、石垣で正方形に囲繞された敷地内で建物跡の礎 石が確認された。桁行3間・梁間4間で、南側に入口を有して いたと考えられる。発掘調査後に、江戸時代終わり頃の地誌で この建物跡を「本地堂」とする記載が確認されており、最終的 に護エムゾネ摩堂から本地堂へ造作し直された可能性がある。写真 護摩堂の発掘調査時の完掘写真(平面写真)図平面図・随身像 慶長19年(1614)2月に建立された。背銘には、左側の 像は「甲州河内下山住番匠石川清助作」、右−52−側の像は 「大工山城國エムゾネ上原住櫻井三蔵作」と記され、市指定有形文 化財として保護されている。写真随身像全体の写真・狛犬参道 の石鳥居両側に、狛犬が建てられている。大正7年5月に奉献 されたものである。・御神幸道首標の碑明治以前に行われてい た「山宮御神幸」におエムゾネける、御神幸道の首標が、池畔に立 てられている。造立年は元禄年(1691)未年十一月とされ 、「自当社山宮御神幸道五十丁証碑首也」と刻まれている。昭 和59年(1984)に浅間大社境内の土中から発見され、現 在地に再建された。・三之宮本エムゾネ殿横西側に、淺間第三御子 神を祀る境内社「三之宮浅間神社」が建てられている。・七之 宮本殿横東側に、淺間第七御子神を祀る境内社「七之宮浅間神 社」が建てられている。・鉾立石楼門前の石段には、鉾立石が 置かれている。明治の初めまで行われてエムゾネいた山宮御神幸の 際、神の宿った鉾を立てて休めた自然石である。・欄干橋(神 路橋、神路枚橋)池畔と川中島を結ぶ橋が2本架けられている 。島の西側が神路橋、東側が神路枚橋であるが、寛文10年( 1670)の絵図では西側にのみ架けられているエムゾネ。写真橋 全体の写真絵図寛文10年の絵図B2山宮浅間神社図以下
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319 :底名無し沼さん (ワッチョイ bf0c-YTXr)[sage]:2018/02/01(木) 03:12:30.16 ID:HYIp01210 - 叢樹齢500年を超えるスギの巨木が22本あり、中には樹高3
7m、目エムゾネ通りの太さが7mを超えるものも見られる。社叢 全体が市指定天然記念物として保護されている。・社殿大禰宜・ 渡邊対馬守安吉の社伝旧記によれば、天元4年(961)に駿河 国司・平兼盛が社殿を修理したとの記録がある。その後の記録と して社殿のエムゾネ存在が確認できるのは、大永4年(1524) と記された修築時の棟札による。現在の社殿は、文政6年(
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327 :底名無し沼さん (ワッチョイ bf0c-wbgk)[sage]:2018/02/01(木) 03:13:09.09 ID:HYIp01210 - 一番古い碑塔は寛文4年(1664)建立のものである。建立目的
によっエムゾネて大きく分類すると、個人の戒名や行名を記した墓碑・ 供養碑である「墓碑供養碑」、修行による大願成就を祈願する「祈 願奉納碑」、個人の富士登拝や講の人穴参拝を記念する「顕彰記念 碑」の3種とそれ以外に整理される。「墓碑供養碑」が最も多いエムソ ゙ネ。−61−写真碑塔群の写真図碑塔群の配置図・参道洞穴入口や 浅間神社社殿のある平場へ至る参道が、境内地内を南から北へ伸び ている。現在はコンクリートで覆われている。・建物跡大小2つの 建物跡が人穴洞穴直上の平場で検出されている。西側にエムゾネ規模の 大きな1棟と、その東側にやや小規模の1棟があり、大規模なもの の方がより古い遺構とみられる。また建物跡の周辺には石積みが施 されている。・参道跡建物跡へ向かう参道跡が、建物跡南側の平場 から斜面を下り、井戸跡の所在する平地まで約エムゾネ34m続いてい る。溶岩角礫や露出している溶岩を利用して21段の石段が構築さ れている。・道跡2本の道跡と思われる石列が参道跡の上り口、石 垣の西側に位置する。建物跡と洞穴や碑塔群などを結ぶ機能を有し ていたと考えられる。・炭焼窯跡指定エムゾネ地の北側を通る林道に沿 って、5箇所の炭焼窯跡が検出されている。昭和初期まで使用され ていたものであるが、富士講に関わる遺構は検出されていない。・ 井戸跡参道跡の南側に位置する。内部が溶岩角礫や土砂によって埋 没し、涸れ井戸となっているエムゾネ。B15白糸ノ滝図以下に示す要 素が点在している平面図・古富士泥流堆積物山体が崩壊した際に崩 れた土砂が堆積した地層であり、古富士火山の一部を形成するもの である。この地層は、塊状礫岩と平行層理を持つ砂岩が不規則に互 層しているものであエムゾネる。写真写真・白糸溶岩流新富士火山の土 台となっている溶岩流のひとつであり、白糸ノ滝付近0.3平方キ ロメートル程度にある。白糸溶岩流は4枚の溶岩流層からなると考 えられており、白糸ノ滝では2枚の溶岩流層が確認できる。溶
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- 【栗城史多似の】栗木ハンター(ワイエディ)53【ダメ工作員】
237 :底名無し沼さん (ワッチョイ bf0c-cpcm)[sage]:2018/02/01(木) 03:17:46.62 ID:HYIp01210 - す要素が点在している平面図・溶岩流地形山宮浅間神社の石鳥
居から参道を経て参籠所に至るまでの区域は北山溶岩流上に展 開している。また、遥拝所が位置する小高い丘陵は青沢溶エムゾネ 岩流の先端部である。さらに、涸れ沢の西岸には、天母山(二 子山)溶岩流、万野風穴溶岩流で構成される丘陵地が展開する 。よって、山宮浅間神社周辺には、籠屋付近の北山溶岩流を含 め、4つの異なる溶岩流地形が広がっていることになる。遥拝 所のエムゾネ基盤となっている青沢溶岩流は、約2,000年前の 噴火によって流出した比較的新しい溶岩流であるため、この部 分は他の区域と比べて植生の回復は遅れていたと考えられる。 そのために、樹木等に遮られることなく富士山の山頂まで見渡 せていたためエムゾネ、この場所で山を遥拝する行為が行われたと 考えられる。写真溶岩流地形の写真図溶岩流の拡散している模 式図・社叢目通りの幹周が3mを超える巨木4本を含むスギ林 が、約9,780uの社叢を形成しており、富士宮市の保存樹 林に指定されている。エムゾネ・籠屋(参籠所)遥拝所へ登る手前 の平坦な土地に籠屋が建てられている。籠屋は、神の宿った御 鉾が浅間大社と山宮浅間神社を往復する祭儀「山宮御神幸」に おいて、これに同行した大宮司以下の諸職が一夜参籠した場所 である。−53−・鉾立石籠屋エムゾネをくぐり遥拝所へ続く参道 に、「山宮御神幸」で神の宿った鉾を休めるための「鉾立石」 が置かれている。石は火山弾であり、籠屋をくぐってすぐの位 置に1つ、石段の手前に1つの計2つが置かれている。・石段 (参道)遥拝所が位置する丘陵へ登るたエムゾネめの石段が組まれ ている。現在あるものは戦中もしくは戦後に改築されたものと 考えられる。・石塁遥拝所の周辺約45m四方が石塁により方 形に区切られている。青沢溶岩流の溶岩塊上に溶岩礫を積み上 げて構築され、部分的に遺物を含む土層上に構築エムゾネされ
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320 :底名無し沼さん (ワッチョイ bf0c-YTXr)[sage]:2018/02/01(木) 03:18:21.54 ID:HYIp01210 - 23)に再建されたとされている。写真社殿の写真図社殿の図面
・神輿殿須山浅間神社の例大祭で使用される神輿を納めた神輿殿 が、境内地西エムゾネ側に建てられている。・狛犬境内には、社殿 前と石段手前の参道脇に計二対の狛犬が設置されている。社殿前 の一対は平成12年に、参道脇の一対は平成13年に奉納された ものである。・灯籠参道の両脇に灯籠が建てられている。登り口 のものは平成1エムゾネ3年に、階段を登ったところにあるものは 、それぞれ寛保2年(1742)、文政6年に奉納されたもので ある。・手水舎石段に至る参道の脇と、社務所西側の2箇所に、 手水舎が建てられている。社務所そばには、文政7−56−年と 刻まれた水盤も置エムゾネかれている。・参道鳥居から10mほど は石畳が敷かれ、その後社殿の位置する高台へ登るためにコンク リート製の階段が続いている。・鳥居参道入口には、朱塗りのコ ンクリート製の鳥居が建てられている。昭和41年(1966) に奉納されたものでエムゾネある。・石碑鳥居の東側に、郷社とし て奉幣を受けていたことを示す碑が建てられている。・古宮神社 八坂大神、八幡大神、愛鷹大神、子安大神、疱瘡守護神を祀る境 内社である。覆屋の中にあり、旧本殿と推測される建物である。 B5冨士浅間神社図以エムゾネ下に示す要素が点在している平面図 ・社叢(浅間の杜)社殿周囲と、参道の南側に社叢が広がってい る。特に参道南側の部分を浅間の杜と呼び、静岡県や小山町の天 然記念物である大樹が生育している。・ハルニレ昭和38年(1 963)2月19日に静エムゾネ岡県の天然記念物に指定された。 根回り約6m、目通り4m、樹高24.50m、枝張東西28. 10m、南北23.50m、樹齢約500年。北日本の山地に多 い落葉高木で、静岡県では極めて少なく当社以外の小山町内では 数本しか見当たらないが、エムゾネ境内には10本が生育している 。・エゾヤマザクラ昭和58年5月1日に小山町の天然記念
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- 【栗城史多似の】栗木ハンター(ワイエディ)47【ダメ工作員】
328 :底名無し沼さん (ワッチョイ bf0c-wbgk)[sage]:2018/02/01(木) 03:18:59.86 ID:HYIp01210 - 層の境目にエムゾネはマグマの急冷時に形成された粉砕部(クリンカー
)が発達している。また、溶岩流内部には、マグマが冷え固まった 際の収縮により形成された縦方向の割れ目(柱状節理)が存在する 。白糸ノ滝は、地質の特徴上、次のようなメカニズムで崩落を繰り 返エムゾネしていると考えられている。白糸の滝は、最近10年間の平 均で日量約15.6万トンの湧水量が見積もられており、この多量 の水の落下は、白糸溶岩流に比して軟弱な古富士泥流堆積物を
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- 【栗城史多似の】栗木ハンター(ワイエディ)53【ダメ工作員】
238 :底名無し沼さん (ワッチョイ bf0c-cpcm)[sage]:2018/02/01(木) 03:23:34.94 ID:HYIp01210 - る。石塁下から祭祀に用いられたと思われる土師器が出土して
いるため、それらが用いられた12世紀から15世紀、もしく は後の時代に築造されたものと推定される。写真石塁の写真図 石塁の平面図・断面図・玉垣遥拝所の周囲にはコンクリーエムゾネ ト製の玉垣が設置されている。戦中もしくは戦後に設けられた ものと考えられる。また、遥拝所入口には鉄製の門扉が取り付 けられている。・遥拝所富士山を直接拝礼し、祭儀を行うこと を目的として築造されたと推定される施設である。南北約15 .2エムゾネm、東西約7.6mの長方形で、30〜40p程度の 溶岩を用いて石列等によって組まれている。富士山を拝む方向 に祭壇が位置し、祭壇に向かって左側に祭儀を行う際の大宮司 席、公文・案主席、献饌所が、向かって右側に別当・供僧席が 設けられていエムゾネる。写真遥拝所の写真図遥拝所の平面図・石 鳥居境内地の南端に、石鳥居が建てられている。昭和6年(1 931)に建立されたものである。・参道石鳥居から籠屋まで 参道が続いている。B3村山浅間神社図以下に示す要素が点在 している平面図・元村エムゾネ山溶岩流村山浅間神社は、新富士旧 期溶岩の元村山溶岩流末端部付近にあたる。見付の間は平地で 、両見付から先は急傾斜地となっている。村山地区は標高が高 く、他の集落と急傾斜地で隔絶された一段高い場所に位置する 。・水源地(竜頭ヶ池)社叢東エムゾネ側に「竜頭ヶ池」と呼ばれ る湧水池があり、水垢離や生活用水として利用されてきた。ま たこの湧水を水源とする村山沢は南流して渓谷を刻み神社西側 から大沢川となる。これらの水源は、村山の集落を成立させた 要因の一つである。・御神木(イチョウエムゾネ、大スギ)[イチ ョウ]−54−昭和43年(1968)7月2日に県天然記念 物に指定された。目通り8m、根回り9.15m、樹高26m 、枝張り東西19m南北14mで、樹勢よく乳状下垂気根
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